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空のステラ  作者: 実茂 譲
5.伝説の飛行士
37/56

36.

 家賃が誰のもとに納められているのか?

 これはセント・エクスペリー荘に住むものならば、誰もが抱く謎の一つだった。

 家賃は常に代行業務を委託された銀行員が集めていた。療術士で聖職者の勉強もしているフェリシティ・セントクレアは家賃の値段が非常に低いことから、きっと大家は少年や少女の独立を支援する篤志家であり、こうした恩恵もまた神の御心によるものなのだと説いた。

 一方、セント・エクスペリーにそれぞれ別々に事務所を開いている二人の探偵――ミハイ・アリネスクとアリス・ロヴェットは家賃が異常に安すぎることに疑問を持ち、きっと二重帳簿が付けられてセント・エクスペリー荘は犯罪組織の資金洗浄に使われているに違いないと確信していた。そして、その悪事を暴き立てるのは、他ならぬこの自分なのだと二人それぞれが勝手に確信していた。

 賞金稼ぎを始めて三ヶ月。ステラ・マリスを買い受け、ステラは着々とサルベージ料を貯めていった。

それにたくさん友達もできた。クリスにヴィル、カプロニ、アレクはもちろん、週に一度は必ず『イラストレイテッド・セント・エクスペリー・ニュース』の編集室へ出かけていき、サミュエルやエイミーとお茶を飲んだ。

 自分の使命は分からないが、こんなふうに優しい世界を守るための使命だったらいいな、と思ったりしたが、そういうふうに考えると本当に使命がこの世界を守ることのような気がしてきた。

 だが、この世界に害を与えようとする悪意ある存在なんているのだろうか?

「平和ボケしてきたのでしょうか?」

 そんなふうに一人つぶやくことが多くなった。

 その日の夕方ごろ、ステラは自分の部屋にいた。つい三十分前までクリスが来ていて、トランプのイカサマ方法を教えてくれた。心に思い浮かべた二桁の数字を的中させるための計算など、クリスの教えるものは子どもっぽくひねたものが多かった。ステラは皮肉っぽいところがないので、こういうことの教えがいがあるとクリスは言い、イリヤムはおれの相棒に変なこと教えんな、と釘を刺していた。

 相棒。

 今のステラにはその言葉が嬉しくて仕方なかった。

 ステラはクリスから教わった片手だけでトランプを切る技を見せようと思って、イリヤムが帰るのを待っていた。

 さんざん催促して、イリヤムは必ず見ると約束し、部屋で待っていて欲しいと言ったので、ステラはイリヤムの部屋で一人用のトランプ遊びをして待つことにした。

 遊びに飽きると、トランプでピラミッドをつくり始めたが、ステラ・マリスの操縦桿を扱える器用な指先では一度の失敗もなくピラミッドが完成してしまったので、これにも飽きてしまった。

 図書館で借りた本を読み、時計を見ると、九時半を過ぎていた。

 遅すぎた。イリヤムは先日落とした魔物の賞金支払書を受け取りに賞金稼ぎギルドに行っただけなのに。

 ステラは外に出ると、廊下にある電話ボックスで交換に賞金稼ぎギルド会館へつないでもらった。

「イリヤム・ロメッツ? 今日ですか? ――ふむ、グリフォンの撃墜分の支払書なら発行してます。午後四時に」

「午後四時に?」

「はい」

「でも、イリヤムはまだ帰ってきていないんです」

「それは分かりませんねえ。こちらだって一日に百件以上の賞金確認をしているんですから。おまけに今日はあんなものが出てきて――」

「あんなもの?」

「イビル・ティアマットですよ、お嬢さん。まったくとんでもない賞金首が出てきやがってねえ――あ、馬鹿! 発電箱に触るんじゃない」

 ブツン。

 電話が切れた。

 イビル・ティアマット? 一体何のことだろう?

 それを知ろうと、またかけ直したが、ギルドにつないでもらってもブザーが鳴っているだけだった。交換手いわく、相手方の電話が故障しているようだ。

 嫌な予感がした。得体の知れない不安。

 今度は二人が艇をつないでいる王太子記念飛行場に電話をかけた。

「はい、こちら港湾事務所です」

「あの、確かめてもらいたいことがあるんです。そちらにイリヤム・ロメッツ名義でラグタイムという艇がつないであるんですが、そちらに停泊してますか?」

「少々お待ちください――ああ、確かに。ただ、午後五時に出発していて、まだ戻っていませんね」

「そう、ですか――ありがとうございます」

 イビル・ティアマット。

 不吉な響きに悪寒を覚えた。

 ステラは飛行士ケープを手に取ると、部屋から走り出た。

 鹿角通りに面した玄関から外に出て、ノースウィンドウ湖行きの市電に乗った。

 揺られながらステラは考えた。イリヤムは一人でイビル・ティアマットを墜としに行ったのではないか?

 ステラは首を振る。

 イリヤムは相棒を置いていったりしない。

 でも、イリヤムは一人で飛んでいる。

 どうして?

 そのとき、市電は劇場やレストランが並ぶ大通りを走っていた。遊び人風の二人組が市電に乗り込んだ。二人は酒の臭いをさせながら、しばらく劇場の踊り子だのレストランのワインだのと話をしていたが、突然片割れがこう言った。

「イビル・ティアマットが、ほら、また戻ってきた」

 ステラは思わず顔を上げた。よく見れば二人は軍服をひどく着崩した軍人だったのだ。そのうち一人は右腕がなく、空っぽの袖がぶらぶらしていた。

「一三〇号空路に出たって話だ」

「そう遠くはないな」

「貨物飛行機がやられたそうだ。命からがら逃げてはこられたが、その爪痕と来たら」

「しかし、十年ぶりだなあ」

「あのときは腕のいい飛行士が大勢やられた」

「おれだってやつには腕一本分の貸しがある。まあ、どうしようもないが」

「嵐みたいなもんだと思ってあきらめるしかないさ。あのときだって三週間くらいしたら、どこかに消えた」

 詳しくききたい。ステラの想いをよそに二人組はダンスホール前で市電を降りていった。

 十数分後、ステラはノースウィンドウ湖の王太子記念飛行場の回転ドアを押していた。

 建物はひっそりとしていて、誰もいない。エーテル灯のフィラメントが小さくジーと鳴っているのがきこえるほど静かだ。

 カウンターに一人いる中年の事務員はステラを見ると、あくびをかみ殺して首をふって、背後の黒板を指差した。

「全線運転中止だよ」

「イビル・ティアマットですか?」

「そのとおり。さっきまでは足止めを食らった客でいっぱいでしたがね。でも、しょうがないのは連中も分かってる。飛行艇が飛んでも、撃墜されたら目もあてられない。あてのある人間は寝床を求めてホテルに行ったし、宿屋を見つけられない連中はそこの待合室で寝転がってるってわけさ」

「賞金稼ぎの飛行艇が一機、飛んでいったはずなんですが」

「ああ、そういやいたな。褐色の肌の――青い飛行艇」

「その人は戻ってきましたか?」

 事務員は首をふった。

 ステラは不安に押されてうつむき肩を落とした。事務員は胸ポケットからパイプを取り出して、煙草を詰めた。

「お嬢さん、賞金稼ぎかい?」

 ステラはこくんとうなずいた。

「じゃあ、こいつを一応渡しておこう」

 事務員が煙草の染みのついた指でつまんだのは、賞金首の手配書だった。

「そいつがイビル・ティアマットさ」

 ひどくざらついた写真だった。白黒の写真には凸凹した雲の塊が目いっぱい映っていて、真ん中に小さな黒い影があった。

 それこそが魔竜イビル・ティアマットだった。

 写真はイビル・ティアマットを遠めに撮影したものだが、それでもこの魔物の禍々しさは伝わった。大きな翼。三つの首。開かれたあぎとから放たれた熱線が一度に三機の戦闘艇を焼き払っていた。

 賞金はルク金貨で千枚。政府がいかにこの魔竜を恐れているかが天文学的金額によく現れている。

 手配書を手にしたまま、ステラは桟橋へと出た。

 空にかかる満点の星。月の光で銀色に白む雲。

 空っぽの桟橋の突端で立ち、空を見上げた。

「もしかしたら、イリヤムは――」

 炎を曳きながら墜ちていくラグタイム。

 ステラは首をぶんぶんと振った。

「そんなことない。だって、イリヤムは相棒ですから」

 静かで美しい夜空に魔竜の兆しはない。

 だが、水平線の向こうでは小さな家を乗せた浮遊島がプロペラをまわして、何十何百と避難してきている。

 魔竜は確かにそこにいる。

 この広大な空のどこかに。

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