2.
セント・マリッサ浮遊島の湖は貴重な艇港だった。
サウスウィンドウと名づけられたこの湖には一度に百五十の艇を浮かべさせ、さらに三十人乗りの大型旅客艇を飛び立たせるだけの大きさがある。
そんな艇港に青い飛行艇が着水した。
派手に白い波を立てて湖面を切り裂き、艇でいっぱいの桟橋へとゆっくり進んでくる。
青と白の機体に尾翼の可動部分が黄色に塗られていて、上翼のすぐ下に推進式プロペラエンジン。機首にはサラマンドラの舌と顎を加工して作った一二・七ミリ機関砲が二丁、放熱装置とともに取り付けられていた。
それは典型的な賞金稼ぎの戦闘艇だった。
桟橋につくと、操縦席から少年が一人降りてきた。
焦げ茶の髪、目はペリドット、着ているものはチョコレート色のツー・ピース飛行服とブーツ、長すぎる袖を折り返し、黒い手袋をつけている。飛行士が愛用するベージュのケープ以外はずぶ濡れだった。
イリヤムは助手席から降りようとする少女に手を貸した。
「気をつけろ。その足場、かなり揺れるぞ」
少女が降りると、イリヤムはその姿を頭のてっぺんから爪先までじろじろと眺めた。
「これで町を歩いたら目立つよなあ――仕方ないか」
イリヤムはケープを脱いで、少女に着せた。まだ奇異な感じはするが、さっきよりはマシだ。
港の管理局にいる顔見知りの管制官がイリヤムの姿を見かけると、おやおやと眉を上げた。
「よお、色男。そっちのお嬢さんは誰だね?」
「おれが知りたいくらいだよ」
管制官の頭にクエスチョン・マークが咲き乱れたが、それを放っておいて、町に通じる並木道を歩く。
白い花をつけた樹が町の表通りまで続いている。若い葡萄の匂いがする。左右には葡萄畑が広がり、小高い丘には村であろうか、朱の瓦を葺いた白い民家のかたまりが見える。
「あれはなんですか?」
「あれは葡萄。そのまま食べてもうまいし、絞ってジュースにしてもうまい。大人たちはこれでワインをつくる」
「では、あれは?」
生垣に囲まれた民家の庭からポールが立ち、てっぺんから赤い袋状のペナントがだらりと下がっていた。
「あれは風向きと風速を知らせるための風速計だ。今はだらしなくぶら下がっているが、風が強くなると、真横にピンと張るんだ」
町に着くころには服も乾いた。
ピッケルタウンは小さな町だった。カフェがあり、レストランがあり、町役場のある広場には魔道士ギルド会館と機工士ギルド会館が仲良く肩を並べて建っている。横道へ行けば、飛行艇乗り向きの居酒屋が数軒、素材加工請負の工房が二軒ある。
そして、町で一番の面積を占有しているのが、ピッケルタウン騎士団の建物。町の治安維持を担い、困っているものに援けの手を差し伸べる。
「そういうわけで差し伸べてもらえ」
イリヤムは少女を騎士団の建物の門前に立たせた。
「そのケープはやるよ。じゃあな」
イリヤムはそう言って、通りを歩いたが、ちらりちらりと振り返った。少女は門前に立っている。
まあ、大丈夫だろう。
イリヤムは心のなかで自分にそう言い、自分の用事を済ませることにした。
騎士団本部から歩いて十数分、街並みがやや乱雑になってくるあたりに賞金稼ぎギルド会館の建物があった。会館といっても間口十メートルもない石造りの壁にドアと窓、そして賞金首の貼り紙が糊でベタベタになってへばりついている見栄えのよくない建物だ。隣はラードをたっぷり塗った大鍋でソーセージやハムの切れ端を焼く大衆肉屋、もう一方は曲がり角になっていて、行商人が通俗本と風刺画を売っていた。
ガラスに雨が伝い落ちた跡が残っている会館のドアを開けてなかに入る。受付の男が一人、ギルド付き魔法使いの若者が一人いるだけの狭い部屋。魔法使いは魔法書を開いたまま居眠りをしていて、受付カウンターには隣の肉屋から買ったのであろう骨付き肉の骨だけが乗っかった皿がそのままにされていた。
「賞金稼ぎギルド会館へようこそ」受付の男が気乗りしない声で言った。「賞金首の登録ですか? それとも賞金の受け取りですか?」
「受け取りだよ、ほら」
そう言って、イリヤムは操縦席に絶えずつけてある記録クリスタルを渡した。
「ふーん。誰をやった?」受付の男はクリスタルを陽光にかざしながらたずねた。
「一〇八号空路に出るトロルの兄弟」
「サミュエル!」
受付の男が若い魔法使いを呼ぶと、魔法使いはガタンと慌しく椅子を鳴らした。
「この野郎。お前、また居眠りしてやがったな?」
「え、いえ、やだなあ。居眠りなんかしてませんよ。マッキンタイヤーさん」
「ふん、まあいい。この記録クリスタルの画を再生しろ」
魔法使いはクリスタルを受け取ると、再生用魔方陣を描いた板の上にクリスタルをはめ込んだ。そして、水晶玉を取り出す。すっかり毛羽立ってあちこちが剥げているビロードの上に置かれたその水晶玉をきちんと正しい位置に置き、光の術式の呪文を唱え、記録クリスタルを輝かせる。その光がちょうど当たるように水晶玉の位置を調整する。
すると、水晶玉のなかで紫色の光が二つ見えた。記憶クリスタルのなかに写る光の形と色は撃墜した魔物や賞金首ごとに異なり、それを判別するには魔法使いとしてのそれなりの資質と熟練がいる。ジュエリス王国ではだいぶ前から記憶クリスタルの判別を国家資格として定めていた。
「確かに」魔法使いが言った。「二機とも撃墜してますよ」
受付の男は『賞金支払い命令書』を机の引き出しから取り出すと、現在の年号と時刻を書き、額面に十ルクと書き記した。ルク金貨十枚分。これを銀行に持ち込めば、二ヶ月は何もせずに暮らせる額の金貨が手に入る。
記録クリスタルと賞金支払い命令書をポケットにねじ込むと、イリヤムは早速、町に舞い戻り、銀行に支払い命令書を持ち込んだ。
「お支払い方法はどうしますか?」
行員がたずねたので、
「八ルクを金貨、残りはシル紙幣でくれ」
と、答えた。
銀行を出ると、顔が自然と笑んでくる。財布に金貨がぎっしりつまっているのは実に気分のいいことだ。十四のころから賞金稼ぎの世界に身を投じているが、操縦桿一本、自分の腕次第でがんがん稼ぐことのできる今の稼業を彼はとても気に入っていた。
いつもなら、飛行艇工房によって何か掘り出しものはないかとひやかしたり、あるいは料理屋に行き、フライド・ガーリックをかけた分厚いステーキにかぶりつく。
だが、今日は一つ気になることがあって、ウィンドウ・ショッピングや料理屋に行く気分になれない。
あの少女のことだ。
きちんと騎士団に事情を説明できただろうか? まさか、まだあの門の前にぽつんと立ってやしないだろうな?
案の定、ぽつんと立っていた。
「騎士団の連中に事情を説明したか?」
イリヤムが少女にたずねると、少女はこくんとうなずいた。
「騎士団もわからないそうです」
と言って、またつぶやいた
「わたし、行かなくちゃ……」
まいったな。イリヤムは頭を掻いた。
この浮世離れした少女はこのまま放っておくと、世界が終わるその日までここに突っ立っていそうだった。
ついこないだ読んだ本に書いてあったことを思い出した。ある男が誰かの命を助けたら、その男は助けた命に責任を持たなければいけないという話だ。
今、自分がはまっているのはまさにその状況だ。イリヤムは少女を助けた。イリヤムは助けた少女のために責任を持たなければいけないということになる。
そこまでする義理がおれにあるかな?
待てよ?
――こんなとき父さんならどうするかな?
「……よし!」
イリヤムは少女の手を引いて歩き出した。そして、古着屋に行くと、青い飛行士用のセーターとチャコールグレーのズボン、ゲートルと靴、それにベージュの飛行士ケープを買い、少女を着替えさせた。あのぴったりとした服は少女の正体を調べるための唯一の手がかりなので包装紙に包み、持ち運ばせることにした。
「あの」少女がたずねる。「これからどこに?」
「メシだ、メシ」イリヤムが答えた。「腹が減っては戦はできぬ――いや、まあ、戦は終わってメシを食うわけなんだけど、まあ、いいや。そっちも腹が減っただろ?」
「ええと」
言いよどんでいるそばから少女のお腹がきゅううと鳴った。
「ほら、腹は正直だ」
イリヤムはニッと笑った。