27.
王国座標八九・一四〇、王都ライトのあるエメラルディア島から北へ二時間ほど飛んだ高度三九〇メートルの位置にアーセナル島が浮いている。
王立軍事技術研究所はその島の人工湖の岸辺にあった。真上から見ると六角形に見える古い城塞を流用したこの研究所にはいくつかの棟からなり、実験室や薬品倉庫、軍事用の最新演算機関が並ぶ計算室、そして試作段階にある様々な兵器が保存されていた。
灰色の双発戦闘艇が南東の方向からアーセナル島へ近づく。島の防空部隊が機関銃と対空砲の照準を灰色の戦闘艇に合わせる。
防空部隊の指揮官は遠くの機影で戦闘艇の種類を見分けることができた。
「あれは〈ファーヴニル〉だな」
防衛指揮官は戦闘艇に対して、無線で合言葉を送信した。十秒以内に返答がないか、誤った答えを返信した場合は問答無用で撃ち落とすことになっている。合言葉送信から六秒後、正しい答えが返ってくると、防空部隊は戦闘配置を解いて、南南東の方向から時速百二十キロで人工湖に着水せよと送信した。
戦闘艇が着水すると、研究所から伸びている錬鉄製の桟橋に艇をつけた。係員がもやい綱を投げて、艇を固定しているあいだ、操縦席から飛行士が降りた。
飛行帽とマフラーを取り去ると、肩の長さで切った銀の髪と少女の顔があらわになる。端整な顔立ちだが、表情は冷たい。その騎士士官用飛行服には黒い翼の襟章が縫いつけられていて、ベルトには剣を吊り下げるための金具が二つついている。艇の操縦席のすぐ後ろにある格納スペースを開き、そこから二本のレイピアを取り出して、ベルトにつけた。
桟橋の作業員には目もくれず、研究所のほうへ歩いていく。
研究所のエントランス・ホールは吹き抜けになっていて、剣を手にした天使の像が中央に立っている。研究棟につながるアーチの前では防衛部隊の士官がライフルを肩に担った二人の兵士とともに人の出入りを管理していた。
銀髪の少女はそちらのほうへ歩いていくと、士官に敬礼した。
「王立黒翼騎士団特務飛行士ハンザ・フォン・ブランデンブルク」
「軍事技術研究所防衛部隊第二分隊副官アドルフ・ナサニエル少尉です。身分証はお持ちですか?」
ハンザと名乗った飛行士は胸ポケットから革製の身分証入れを取り出し、相手に渡した。
「確かに確認いたしました。それでは武器の類をここに預けていただきます」
少女の顔が少しこわばった。士官は黙って、テーブルを指す。そこにはリヴォルヴァーを入れたホルスターや自動拳銃、空軍大佐の儀礼用短剣が置いてあった。
「すまないが、騎士として剣を手放すことは禁じられている」
「しかし、規則ですので――」
「いや、いいんだ。その人は私が特別に呼んだんだから」
研究棟の奥からフロックコートに銀の時計鎖を下げた学者風の男が現れて言った。
「少尉。こちらの方については武器を預からなくともいい。私が責任を持つよ」
少尉は黙って一歩後ろに下がり、ハンザのために道を開けた。
「主任研究部長のゴットフリート・ワールシュタットだ。フォン・ブランデンブルク女史だね?」
「はい」
「待っていたよ。さあ、こちらへ」
博士はハンザを案内するように重厚な石造りの廊下を先へ歩いた。
「きみの活躍は聞いているよ。むろん、外に出るはずのない情報だが、まあ、私にはいくつかのアクセスが許されていてね。来期の建艦政策にまつわる我が国の技術仕様書が流出した際はあとちょっとのところできみが流出を防いだときいた。仕様書が流出すれば、艦隊の武装も弱点も何もかもが明るみに出てしまっていただろう。きみはジュエリス王国の恩人だよ」
「任務を遂行しただけです」ハンザはそっけなく言う。
「きみの任務と国家に対する献身ぶりについてはきみの上官からきいた。きみなら私が抱えている問題を解決してくれると信じているよ」
「閣下のご期待に添えるよう務めます」
「さあ、ここが私の研究室だ」
研究室は奥行きの深い部屋でアーチ状の梁と中世に彫られた騎士や僧侶の姿が残る石の柱がずっと連なっていた。そうした旧時代の造りの部屋に光を放つ丸い電極や真空管のなかのフィラメント、実験用の蓄電瓶、十七の計器が取りつけられた鉱石検波装置が配置されている。
「研究員たちは今はいない。席を外してもらっている。それだけ重要な話をするということだ」
博士が足を止めた。そこには黒板があり、かなりラフな演算機関の設計図面が書き殴ってある。博士が言った。
「素人は作戦を語り、玄人は補給を語る」
「誰の格言ですか?」
「誰のものかは知らないが、真実を突いている。戦いの歴史を紐解けば、いかに多くの英雄たちの偉大な遠征が物資の欠乏のために潰えていったかを見出せるはずだ。必要な場所に必要なものが届かず、必要ではない場所に必要ではないものが届き、使われることなく腐り朽ちていく。戦争で必ず起きるつまらない間違いだが、このつまらない間違いに戦争の勝敗が左右されることもあるのだ。世界中の国家は軍備を増強するにあたって、精鋭戦闘機部隊や新兵器を作ることに目をやるが、補給はいつも二の次にされる。だがね、フォン・ブランデンブルグ女史。私は思うのだよ。もし次に世界戦争が起こるとすれば、勝者は一切の無駄なく、製造し、配給し、消費したものであろう」
博士は黒板に描かれた演算機関の図面をコツコツノックするように叩きながら、かぶりをふった。
「空軍省の試算では、もし現在、軍が総動員をかけ作戦を遂行するために必要な物資を滞りなく補給しなければならないとすれば、最低でも業務用計算機の扱いに慣れた一万人の事務員と三百の蒸気演算機関、百七十の魔法演算機関が必要とされる。エーテル、焼夷弾、戦闘飛行艇、空中戦艦、歩兵用携帯口糧。限られた資源をいつ、どれを製造するために工場に供給し、出来上がった物資を、どのタイミングでどこの前線へ輸送するか。その答えをはじき出すのにこれだけの人と機械が必要なのだ。さらに前線で戦う数十万の兵士たちに軍需物資を供給するための計算は膨大なものとなり、もうじき我々の手に負えなくなるという悲観的な意見も出ている」
博士はハンザのほうを振り向き、
「だが、逆を言えば、この膨大な計算を完璧にこなすことができれば、その国は大きな軍事的アドバンテージを得ることになる。そこで問題なのだが、もし、ある一つの技術革新がそうした煩雑な生産と補給の全てを最高の効率で運営することに成功したら?」
「精鋭戦闘機部隊や新兵器にも匹敵する利点となります」
「そのとおり。麦の一粒、銃弾の一発、無駄に作られたり、使われたり、あるいは死蔵されたりしないための計算管理をたった一台の演算機関でスムーズに行えれば、我が国は未来永劫、どの国にも負けることはない」
「しかし、演算機関では限界があると先ほど――」
博士はうなずきながら、さらに奥につながる扉に三つの鍵を差し込んで、扉を開けた。そこはさほど広くはないが暗い部屋で何かの駆動音が低く鳴り響いている。
「確かに限界がある」博士が言った。「ただし、それは機械学的、あるいは魔法学的アプローチで解決法を探した場合の話だ。だが、私はこれまでとは違う方法、つまり――」
博士は壁に取り付けられたスイッチを弾いた。青白いエーテル灯がつく。
「生物学的アプローチで解決を試みた。正確に言えば、魔法生物学的アプローチだ」
部屋の真ん中には培養液を入れた円柱型のガラス水槽があり、その液体の中には人の脳が一つ浮かんでいた。
「これは魔法細胞から培養して分裂を促し、ここまで育てた、おそらく世界で唯一の有機演算機関、――いや、人工知能と言っていい。私の脳みそくんは十万の計算事務員と一万の演算機関が一ヶ月がかりで為す計算をたったの三秒で行うことができる。もし、将来、ジュエリス王国が総力戦に直面すれば、我々はこの〈リヴァイアサン〉の指示に従って、生産と補給を行う。敵が計算用紙の書き間違いや演算機関の歯車の故障で手間取っているあいだに、〈リヴァイアサン〉に従って編成を終えた我が軍は決して途切れることのない補給をあてにして、ろくに準備も整っていない敵軍を破砕することができる」
ハンザはその人工知能を見た。全てを統べる蛇の王の名を冠した頭脳には四つの電極が差し込まれていた。その線の先はガラス槽上部の点火プラグに似た部品に直結している。
「この技術革新の重要性が分かったところで、本題に入るわけだが」博士はポケットから白黒の写真を出した。「どこの国家や組織に属しているのかは分からないが――」
ハンザは写真を手に取った。写真には宿屋らしい建物の窓が写っていて、部屋のなかには長椅子に横になっている少年と、その少年のそばで少年の額に布巾を乗せようとしている少女の姿が写っていた。
「その少女が〈リヴァイアサン〉の秘密を奪取するために送られたことだけははっきりしている。始末してもらいたい。手段は選ばなくていい」




