23.
東から日が昇ると、光が降りかかった。
湖、漁船、網にかかった銀色の鱒、漁師たちの頭に乗ったぺちゃんこの帽子。
城下町は真横から差し込む橙色の光のなかで静かに寝息を立てている。いくつかのパン屋はもう寝かせておいた生地を小さくちぎって窯に入れたらしく、傘をかぶせた煙出しから香ばしい煙を上らせていた。
野菜や鶏、卵を山ほど積んだ気球がコロコロ鳥に引っぱられて、カステルヴェルデの大広場にやってきて、ロープを使って、売り物を次々と下ろしていく。漁船が帰ってきて、水揚げが終わると市場は賑わいだし、主婦、屋敷の女中、居酒屋や旅籠の女将たちがその日一日使う食材を買い求める。
赤銅の雄鶏亭の女将もその一人で、夕食用の鱒を数尾買った。野菜や鶏は買わなかった。赤銅の雄鶏亭の裏手は菜園になっていて、お客の食事を賄えるだけの新鮮な野菜を提供できたし、肉だって鶏だけでなく、豚も二頭ほど飼っていたから、ソーセージやラードに困ることもない。果樹園はなかったが、郊外でリンゴ農家をしている従兄弟からいつも融通してもらっていたので果物にもさほど困らなかった。
赤銅の雄鶏亭の従業員である店主と女将、それに手伝いの娘たちは朝の六時に食事を済ませる。彼らの食べるベーコンや蜂蜜の匂いが眠っている客たちの目覚ましとなった。
イリヤムもビスケットにつけられた蜂蜜の匂いで目を覚ました。寝癖のついた髪を適当になでつけながら、寝間着を脱いで、白いシャツに袖を通し、腿がふっくらして膝から下を絞った飛行服のズボンを履いて、長靴に両足を突っ込んだ。
あくびしながら、窓を開けて、湖を見下ろすと、光が差してきたので思わず目をつむった。ゆっくりまぶたを開く。空は抜けたように青く、空をゆく雲は混じり気のない白。風見鶏は風が南から北へと吹いていることを教えてくれる。
視界がいいから、絶好のアッカルド狩り日和だな。イリヤムはそう思いながら、カーテンを引こうとした。
ところが、そのとき、飛行艇桟橋に見覚えのある飛行艇が二艘浮いているのを見つけてしまった。
銀の複葉飛行艇と赤い単葉飛行艇。
どちらにも銀翼騎士団の紋章である三枚の銀の羽根が胴体に描かれていた。
「げっ」
イリヤムは思わず、呻いた。その艇は非常に見慣れた代物だった。
ガリバルディとレッドバロネス。
ここまで来ると間違いない。
銀翼騎士団のやつらがここに来ている!
イリヤムは飛行服の上着を着て、ケープをつけると、ゴーグルを片手にステラの部屋のドアを叩き、寝ぼけ眼のステラに大急ぎで出発の準備をするように言った。その後、イリヤムはステラを引っぱるようにして、整鬚剤のセールスマンが見守るなか記録的な速さで朝食を平らげ、宿泊費を払って、外に出ると、丘を駆け上がった。途中、何度か心臓が破れてしまいそうになったが、どうにか丘を上りきり、城門の前に立った。
「銀翼騎士団のやつらが来なかったか?」
息を飲み込んだり、ぜえぜえと吐き出したりしながらイリヤムは門番にたずねた。門番は、ああ、やってきたぞ、といい、今、伯爵さまと面会中だ、とも言った。
「おい、大丈夫か? ひどい顔だぞ」
「別に。問題なんてないぞ。そうさ。ちっとも問題ない」
「召使いがあんたら二人を案内するから、そいつについていってくれ。伯爵さまがお会いになられる。ただし、その寝癖は直しておいてくれよ」
腰の曲がった燕尾服の老召使いに案内されながら、イリヤムとステラは城のなかの廊下を歩いた。青いビロードを敷きつめた廊下が足音を残らず食べてしまうものだから、廊下は耳鳴りがするほど静かだった。壁には歴代のカステルヴェルデ伯爵の肖像画が飾られていたが、あまりにも絵が巨大なので、絵に描かれた顔を見るには首をひどく曲げなければいけなかった。
「まずい。まずい」
イリヤムはぶつぶつ言っている。
「あの、どうかしたんですか?」
ステラの質問にイリヤムは振り返って、
「銀翼騎士団が来てる」
「銀翼騎士団?」
「ジュエリス王国の空の警察にして、賞金稼ぎ最大の敵だ。貴族の義務だか何だか知らんけど、こいつらはタダでモンスター退治や空賊退治を請け負う。しかも、やってきた艇がガリバルディとレッドバロネスときてる」
「有名な艇なんですか?」
「有名というか、まあ、個人的によく知ってるんだ。その持ち主たちのことは。レッドバロネスの持ち主は問題ない。問題なのは、ガリバルディのほうだ。クソ頑固で、クソ真面目で、小姑みてーに口うるさい野郎なんだよ」
「誰が小姑だって?」
凛とした男の声がして、イリヤムとステラは振り返った。
横の廊下から出てきたばかりらしい少年がいた。色の濃いブロンドに青い眼の美男子。背はイリヤムよりもやや高く、銀モールの肩章付きの青い制服に古風なクラヴァットを結んでいる。細身の剣を下げているところなどは、絵本の挿絵に出てくる王子さまのようだった。
「これはこれは、どこの誰かと思えば」
イリヤムは馬鹿にした声色で少年のほうへ三歩近づきながら言った。
「没落貴族のサヴォイ・A・マルケッティ侯爵さまじゃないですか。没落貴族サヴォイさまがカステルヴェルデに何のようで?」
サヴォイと呼ばれた少年はムッとした表情で答えた。
「銀翼の騎士の義務が命じるままに行動しているだけだ。飛行艇パイロットの全員が金次第で動くどこかの守銭奴のようなものの集まりだと思われるのもしゃくだからな」
「サヴォイ。お前、おれに恨みでもあんのか? 銀翼の騎士の義務だかゴムだか知らんけど、何もわざわざおれが目をつけた狩場を荒らすことねえだろが。一〇〇パーセント自己満足の正義の味方ごっこはどっか余所でやってくれよな」
「それこそ理不尽な言いがかりだ。金儲けがしたいのならば、そちらこそ余所に行けばいいだろう」
イリヤムとサヴォイはにらみ合う。すると、サヴォイの後ろからひょっこり女騎士が現れた。赤い髪にチェインメイルと騎士外套姿でやはり剣を下げていたが、表情にはサヴォイのような堅苦しさはない。その女騎士が、
「はい、そこまでっ」
と言って、手をパチンと打ち鳴らした。そして、二人のあいだに割り込むように入ってきて、
「銀翼の騎士たるもの剣は抜かぬことこそ誉れなれ。いちいち相手の言うことに目くじら立てないの。イリヤムだって生活がかかってるんだから」
サヴォイをそう諭すと、今度はイリヤムに、
「そっちもサヴォイを挑発するのはやめなさい。あたしたちは確かにここでアッカルド退治をするけど、賞金は取り下げられてないんだから」
「それ本当か、マリン」
マリンと呼ばれた女騎士はうなずいた。
「ほんとだよ。ちゃんと墜とした分のお金は払うし、ボーナスも生きてる」
「よしっ。なら、没落貴族の相手なんてしてる場合じゃないな」
「こちらだって、守銭奴の相手をしているほど暇ではないのだ。だいたい――」
サヴォイの言葉が途中で詰まった。口が半分開いたままになっている。そのサヴォイの口から、
「美しい……」
という言葉がため息まじりに漏れてきた。
「は?」
イリヤムとマリンは同時に声を出した。そして、サヴォイの視線の先にあるものを見る。
そこにはステラがいた。
「ちょっと、サヴォイ。どうしちゃったの?」
サヴォイはそれに答えず、ステラの前へとつかつか歩くと、ステラの手をとり、手の甲に口づけをした。
「お初にお目にかかります。サヴォイ・アルベルト・マルケッティと申します。もし、よろしければ、わたしにあなたの名を知る栄誉に浴することをお許しいただけませんか?」
ステラがとまどいながら、
「えっと、ステラです。でも、ステラというのは仮の――」
サヴォイは最後まで聞かずに、
「ステラ。ああ、空にかかる星のように美しいあなたにぴったりの名前だ」
横ではイリヤムが、オエッと喉を鳴らしていた。
「おい、キザ野郎」
サヴォイとステラのあいだに割って入る。
「おれの相棒に変なちょっかいかけんなよな」
「相棒? このイリヤムと!」
サヴォイは全く持って信じられないと言った様子で首を振り、
「あなたのように可憐な方が、この粗野で無教養で無礼千万な愚か者と一緒にいるなどとは到底信じられません」
「んだと、このやろっ!」
「きっと、卑劣な方法で脅されて、相棒にならざるを得ない状況に追い込まれたのでしょう。しかし、安心してください」
サヴォイは自分の右手を胸に当て、
「わたしが来たからには、イリヤムの好きにはさせません」
「あ、あの」
ステラがしどろもどろに言う。
「わたし、別に脅されたりしたわけではありません。それにイリヤムには助けてもらって感謝していますし――」
サヴォイはイリヤムのほうをキッと睨むと、
「イリヤム。貴様という男はどこまでも卑劣なやつだ。ステラ嬢に催眠術をかけたな!」
「付き合ってらんねえな、スカタン。まあ、妄想抱いてあれこれ勘違いするのはお前の勝手だけどな、あいにく、おれたちも暇じゃねえんだよ。早くアッカルド墜としに飛ばなくちゃならんのだし。じゃあな、マリンとその他一匹。縁があったら、また会おうぜ」
「待て、イリヤム! わたしは貴様に決闘を申し込む!」
あ? と振り向いたイリヤムの顔に投げられた白手袋がピシャリとぶつかった。
「アッカルドを一羽でも多く退治したほうが勝ちだ。もし、わたしが勝ったら、ステラ嬢を解放しろ」
アホくさい、とイリヤムは鼻で笑った。
「くっだらねえ。こっちはボンボンの遊びに付き合って飛んでるんじゃねえんだ。生活かかってんだよ。決闘ごっこは貴族同士でやれよ。おれは貴族じゃないもんね。じゃ、行こうぜ、ステラ」
背を向けたイリヤムにサヴォイが叫ぶ。
「臆したか、イリヤム。わたしに負けるのが怖いのだな」
イリヤムの動きがピタリと止まる。そして、振り返ると、
「誰が何に臆したって? 誰が何に負けるって?」
「理由をつけて決闘を避けるのは、貴様がわたしに負けるのを恐れているからだというのだ」
「別にお前の分かりやすい挑発に乗るつもりはねえけどな。でも、一応教えてやる。おれはお前に負ける気はしないし、実際に負けはしないし、そんな当たり前のこと、わざわざ決闘なんかしなくたって分かりきってる。だから、決闘なんざクソ食らえってんだ」
「ふん。臆病者らしく口だけは達者だな」
「ようし、上等だ。その賭け、乗ってやる。お前が負けたら、百ルク払え。もっとも没落貴族さまには払えないだろうけどな。まあ、そのときは膝を屈して赦しを請えば、チャラにしてやる」
「ふん、守銭奴らしい考え方だな。それにマルケッティ家はたかだか百ルクの支出で傾いたりしない」
それを聞いたマリンがサヴォイの袖を引っぱる。
「思いっきり傾くでしょ、百ルクなんて! それにあのステラって子も自分からイリヤムと一緒にいるようだしさ」
「離してくれ、マリン。騎士たるもの、不善を見かけた以上、これを糺さずにはいられない」
「もー、どうなっても知らないからね」
イリヤムはステラに、
「行くぞ、ステラ。すぐに伯爵に会って、報酬の件をがっちり約束させて、その後はアッカルド退治だ。ついでにまとめて、没落バカ貴族も片づけてやるぜ」
誰が没落バカ貴族だ! ステラとともに走り去っていくイリヤムの背中にサヴォイの言葉が投げつけられる。
二人の姿が見えなくなると、サヴォイは一人意気込んだ。
「必ずステラ嬢をあの守銭奴の魔の手から解放してみせる」
そのサヴォイにマリンがじとっとした視線を送る。
「サヴォイ。あんた、一目惚れしたね? だから、決闘なんて馬鹿なこと思いついたんでしょ?」
図星を突かれたサヴォイは分かりやすく動揺した。顔を赤くしながら、
「ち、違う。悪漢にたぶらかされた女性を助けるのは貴族の義務であり、騎士の務めであって、それ以外の考えなどあるわけが――」
「手の甲にキスかあ。あたし、あんたと組んで三年になるけど一度もしてもらったことないなー」
「う、それは……」
サヴォイがぎこちない動作でマリンの手を取ろうとしたので、マリンがアハハと笑いながら、手を引っ込めた。
「うそうそ。大丈夫。あたしとサヴォイはそういう仲じゃないからね。ま、やると決まった以上、仕方ないか。百ルクなんて払える額じゃないんだから、絶対負けないようにしないとね。桟橋に降りて、最後の整備点検を済ませちゃおうよ」
「ああ。そして、きっとステラ嬢をイリヤムの魔の手から解放してみせる!」




