21.
一時間後、ステラ・マリスは汽艇に引かれて、格納庫から出て、太陽の光を跳ね返す湖面に浮んでいた。
操縦席にはステラが乗っている。その首に巻いた通信装置は湖岸通りに置かれた言霊結晶式通信装置につながっていて、エンジンを始動させるまでの説明ができるようになっていた。
耳につけた受信装置が鳴り出した。
〈よーし、お嬢さん。これからステラ・マリスを飛ばすわけだが、こちらからアドバイスできるのはエンジンの始動方法だけだ。エンジンをかけるのは難しくない。最高級の点火装置と結晶発電機がついてるから、クランクをまわしてエンジンに燃料を噛ませて、混合気を最濃にして、スイッチを入れれば、プロペラはまわり出す。一二〇〇回転まであっという間だ。リッツォ大尉は一〇〇〇回転で離水していたらしいが、お嬢さんは一五〇〇回転で離水できれば御の字ってところだ。で、エンジンの用意はできたかな?〉
「はい」
〈じゃあ、スイッチを入れろ。幸運を祈る〉
少しガサゴソと音がしてから、聞きなれた声が鼓膜を振るわせた。
〈ステラ。聞こえるか?〉
イリヤムの声だった。
「はい。聞こえます」
〈おれからのアドバイスだ。艇が走り始めたら、操縦桿が狂ったように動き出す。まずはそれを両手でしっかり固定して艇を安定して走らせることだけに集中しろ。そして、艇をきちんと御せたら、まず尾翼を上げて、そして次に機首だ。操縦桿は相当敏感に作られてるから、少し位置を間違えただけで艇は横に曲がったり、不必要に前のめりになる。でも、カーター親爺の艇を操ったときのことを思い出すんだ。操縦桿越しに感じる水と艇の摩擦を捉えて、最高のタイミングで桿を後ろに倒せばきっと飛べる。ステラならできる〉
「がんばります」
〈じゃあな。幸運を祈る〉
通信が終わると、ステラはスイッチを弾いた。
すぐに轟音が降ってきて、他の音を締め出した。
エンジンの回転数はどんどん上がり、艇は勢いを得て、湖面を滑り始める。
間もなく、水は左右に跳ね上がり、ステラ・マリスは水の上を時速八十キロで走った。エンジンの振動と翼に当たる風のせいで操縦桿とラダー・ペダルがひとりでに動き出す。
これまでステラ・マリスに挑戦し失敗してきた飛行艇乗りたちはこの操縦桿を征服してやろうと力を込めて、握り締め、艇のコントロールをモノにしようとしてきた。
だが、それをステラは操縦桿を優しく握り、ペダルに足をそっと突っ張らせる。
すると、風、水、摩擦、エンジンの振動といった艇にかかる全ての力が操縦桿とペダルを通じて、ステラに流れ込み、それが自然と手足に還流して、操縦桿とペダルはあるべき位置に最小限の力で難なく固定された。
すると、ステラ・マリスの動きが安定する。
湖岸ではイリヤムたちが、まさか、と思って、湖を走る艇に目が釘付けにされていた。
エンジンは一二〇〇回転。予定では一五〇〇回転で離水のつもりだった。
だが、顔にぶつかる風や左右へ跳ね飛ぶ泡まじりの水、回転するプロペラやエンジンは今すぐ飛べと言っていた。
操縦桿を後ろに倒す。
水を裂く音と振動が消えた。ステラ・マリスは見えない巨人の手につまみ上げられたように簡単に水から離れて、機首を斜め上へ向けて、どんどん上昇していく。
受信装置がガリガリと鳴り出した。
〈すげえ!〉
イリヤムの声だった。
〈すげえぞ、ステラ! ステラ・マリスが飛んだ! 飛んだんだ! いったいどうやって離水したんだ?〉
「わかりません。ただ自然に操縦しようとしただけなんですけれど」
〈生まれついての才能があるのかもな! ステラ、インメルマン・ターンはできるか?〉
「インメルマン・ターン?」
〈時速一六〇キロで操縦桿を引いて、上昇するんだ。艇が上がりきって機首が空を向いてスピードが落ちたところでエンジンを切って、左ペダルを一秒間目いっぱい踏み込みながら、引いた操縦桿を左へ引きつけろ。それで艇が半周して来た道を戻って、水平になりかけたところでエンジン・スイッチをオンにして、操縦桿をニュートラルに戻すんだ。わかるか?〉
「こうですか?」
ステラは言われたとおりにやった。真っ青な空を真っ直ぐ見据えたと思ったら、すぐに急旋回して輝く雲と広大な湖が左の翼でぐるりと動く。そして、ステラ・マリスは滑車の上を転がる鉄の玉のように滑らかに水平飛行に戻っていった。
〈バッチリだ!〉
受信装置からイリヤムの声がする。
〈ステラは記憶を失う前はきっとエース・パイロットだったに違いないぜ〉
「これで一緒に賞金を稼げますか?」
〈できる、できる! おれたち、いいコンビになれるぞ!〉
イリヤムの上気した声が耳をくすぐる。
高度三〇〇メートルの空のなかで風と陽光に祝福されながら、ステラはくすぐったそうに微笑んだ。




