1.
まずヒビが入った。
そして、空が割れた。
信じられないが、事実だった――空がガラスのように割れたのだ。
割れ目から一機の飛行機が飛び出した。
流線型の飛び魚のような形でプロペラがない不思議な飛行機だったが、あいにく詳しく見るヒマはなかった。
飛行機は炎と黒煙の入り混じった不吉な尻尾を後ろに引きながらイリヤムの目の前十五メートル先の水面に派手な水柱を立てて、墜落したからだ。
舞い上がった水しぶきが落ちて海面を叩くまでのわずかな時間にイリヤムは奇跡的な素早さで、自分の複葉飛行艇〈ラグタイム〉のフロートから立ち上がり、操縦席に釣竿を放り込み、上着を脱ぎ捨てて大きく息を吸い込みながらナイフをくわえるという人間離れしたことをやりながら、フロートを蹴り、そろえた両手から滑り込むように海に飛び込んだ。
最初は細かい泡に視界を遮られた。泡が散ると、不思議な飛行機が火を吹きながら、銀色のイルカが海底目指して潜ろうとするようにどんどん沈んでいくのが見えた。
イリヤムは水を掻いて、なんとか沈みゆく飛行機の操縦席にしがみついた。風防が吹き飛んだ操縦席には少女が一人、操縦桿を手にし、プラチナブロンドの髪を海のなかでゆらしながら意識を失っていた。
イリヤムはナイフでベルトを切ると、少女を操縦席から引き剥がし、少女を抱いたまま、水面目指して水を蹴った。
海面に顔を出して、我慢していた息を思う存分吸って、自分の艇へ泳ぎつき、少女をフロートに乗せた。
自分もフロートによじ登ると、艇が右に傾いた。それは放っておいて、イリヤムは少女の口のそばに手を近づけた。
息をしていない。
「まいったな、こりゃ」
イリヤムは狭いフロートで器用に動き、少女の胸に両手を重ねた。そして、十回押して、顎を上げさせた状態で唇を覆うように口をつけて息を吹き込む。そして、また十回胸を押す。そして、息を吹き込んだ。
少女の体が突っ張って、弓なりに曲がった。イリヤムは水を吐き出しやすいように顔を横に向けてやった。思ったとおり、少女は激しく咳き込みながら、水を吐いた。
「げほっ、げほっ……はあ、はあ」
「大丈夫かい?」
少女がイリヤムに背を向ける形で半身を起こして、また咳き込んだ。苦しそうに息をしながら、肩越しにイリヤムを振り返った。
不思議な少女だ。肩に触れる長さで切った、抜けるような薄色のブロンドの髪にちょうどさっき永遠に沈みそうになった深い海のような蒼い瞳。体にぴったりとした飛行服は胴が白く、腕と脚は黒い。飛行機同様、見たことのない代物だった。少なくともジュエリス人ではなさそうだ。
「おれの言葉分かるか?」
イリヤムがたずねると、少女は首を縦に動かした。
「あなた……だれ?」
「おれか? おれはイリヤム。イリヤム・ロメッツってんだ。そっちは?」
「わたしは……あうっ」
少女は手でこめかみをおさえた。
「どうした?」
「わからない。わたしが誰なのか、どうしてここにいるのか」
すると、少女はハッとした。
「行かなきゃ」
「行かなきゃ、ってどこに?」
「わかりません」
「じゃあ、行きようがないな。あ、そうだ」
イリヤムは空を見上げた。雲と二、三の島を浮かべた青く抜けた空が広がっている。空にできた割れ目はきれいさっぱりなくなっていた。
「あの――」少女がイリヤムにたずねた。「どうかしましたか?」
「いや、信じないと思うけど、空が割れたんだ。きみはそこから飛行機に乗って、飛び出てきたんだよ」
「飛行機?」
少女はそう聞いて、左右を見回した。
「もうないよ。沈んじまった。あれ、何て名前の艇なんだ? これまで一度も見たことのない不思議な艇だった」
「ごめんなさい。わたしには何もわからないんです」
「まいったな。記憶が無くなったってことか?」
少女はうつむいたまま。
「なんて、呼べばいいかなあ」
少女のぴったりとした飛行服の右胸のところには『X―1544』とある。これは名前というよりも記号だ。
「どうしたもんかなあ」
イリヤムはほとほと参った調子で頭を掻いた。
「うーん。おれが思うに今、きみが着ているのはどこかの国か組織の制服だと思うんだ」
少女は目を上げて、イリヤムを見た。
「だから、ここから一番近いところにある浮遊島の町まで送るよ。あとは地元の騎士団なり警察なりに頼めばいい。たぶん、力になってくれるはずだよ。そうと決まれば、出発だ」
イリヤムは操縦席の前にある助手席のカバーを外した。
「ここに乗りな」
少女は言われたとおり、席に着いた。
「さてと」
イリヤムは飛行服の上着とケープを着て、操縦席に乗り込むと、ガラス製のゴーグルをつけた。
上の翼の下にある推進式エンジンについている燃料ポンプのレバーを動かして、エンジンのシリンダーにエーテル燃料を送り込む。
エンジンは冷えているが、始動装置はワイバーンの心臓に竜炎樹の実を点火装置として埋め込んだ代物。
かなり値が張ったが、どんなときでも一発でエンジンがかかる。買って正解だった。
計器類を指差し確認してから、始動装置のスイッチを押す。
装置が呻り出した。
燃料バルブと空気の取り入れバルブを開いて、エーテルと空気を混ぜる。普通の艇なら最濃だが、イリヤムの艇では絶妙な混合が要求される。ラグタイムのエンジンはグルメなのだ。
計器を見て必要な燃料と空気が注入されたと判断し点火スイッチを押す。
ボンっと一発。
イリヤムの頭上でエンジンが燃料を食って排気筒から黒煙を噴き出し、派手な音を立てながらプロペラをまわし始める。
「通話装置を首に巻け!」イリヤムはエンジンの轟音に負けないくらい大声で叫んだ。
少女が言われたとおり、通話装置を首に巻き、耳に受信機を取り付けると、イリヤムは、
〈あー、あー。聞こえるか?〉
〈はい、聞こえます〉
よし、とイリヤムは手を打つと、操縦桿を握って、
〈本日はロメッツ航空をご利用いただきありがとうございます。当機はジュエリス王国セント・マリッサ島サウスウィンドウ艇港へ向かいます。飲み物も食べ物も出ませんが、まあ、ゆっくりケツを落ち着けて目的地が見えるのを待っていておくんなさい――んっ、お前、安全ベルトはつけたか?〉
〈安全ベルト?〉
〈腰に巻きつけるもんだよ〉
〈これのことでしょうか?〉
〈こっちからじゃ見えないから分からないが、たぶんそれだ〉
カチャカチャという音。しばらくして、
〈つけました〉
〈よし、今度こそ出発!〉
艇は海面を切りながら前進する。
操縦桿を前に倒す。徐々にスピードが上がる。
フロートに切り裂かれた海面は跳ね上がってから、ビロードに似たきめ細かい滑らかな白い泡となって左右へ広がる。
エンジン回転数は毎分八〇〇回転。もっと上がる。艇が少しずつ、本当に少しずつだが水から離れていく。
尾翼は十分水面から離れた。今度は機首の番だ。
操縦桿を後ろにゆっくり引いていく。
機首が用心深いアナグマのように少し頭を上げる。
機体の底では海がかすっている。
エンジン回転数の針は毎分一五〇〇回転を指している。
あと少しだ。あと少しで――
操縦席の尻越しに伝わってきていた震動が一つ消えた。
いまだ!
操縦桿を後ろへいっぱいに引き、機首を青空に向ける。
離水した艇はぐんとスピードを上げて、斜め三十度の角度で上昇し続ける。
イリヤムはこの瞬間が好きだった。
艇が水の束縛から逃れて、空の生き物となる瞬間だ。
艇はどんどん上昇する。
高度計やエンジン回転数の計器類が次々と針を起こしていく。
高度を見る。一〇〇――一五〇――二〇〇――二五〇――三五〇――。
四〇〇メートルまで上がったところで機を水平に戻す。
南西から吹く風を方向舵のペダル越しに感じる。何もしなければ機はどんどん北へ流される。だから機体が横滑りしないようしっかり操縦桿を握り、方向舵を左足で踏み込み、目的地の針路から外れないように機を維持する。
視界は良好。
右手に雲、左手にガラス玉をばらまいたように輝く水平線。
そして、風防ガラスの向こうにはセント・マリッサ島へ繋がる王立空路三九号が――茫洋とした青い世界が広がっていた。