15.
香炉からうっとりするような煙が漂っている部屋では、その煙にまどろんだ楽士たちの共鳴箱の音色に合わせて、エキゾチックな服装の踊り子たちが曲刀を使った剣舞の練習に励んでいた。その剣の素早さたるや光のごとく、三分の一拍子遅れれば首が跳ぶ剣の乱舞は見るものをその場に捉えて放さない。剣は相手の首はもちろん、部屋中に置かれたクッションや天井の梁から垂れ下がったシルクにも触れることなく風と拍子、相手の影を斬り続ける。
吹き抜けを螺旋状に上がっていく坂道では機械仕掛けのエーテル二輪車を乗り回すキャリッジ・レーサーたちがけたたましい音を立て、竜巻にさらわれた洗濯板のようにぐるぐると上っている。彼らは横道に消えたかと思ったら、突然、上から降ってくることもある神出鬼没のつむじ風であった。こんな迷惑走行を大目に見てもらっているのは彼らが緊急時には伝令として住人に緊急事態の発生を知らせる役目を負っているからだった。そして、このとき二輪車に乗った少女は「警報! 警報!」と叫びながら、二人の目の前を飛びすぎていった。あまりにも速く通り過ぎたので、肝心の警報の中身が聞き取れなかったくらいだ。
「何が起きたのかな?」
振り返ると確かにあちこちでバタバタと慌しい動き、そして、気をつけろ!と声をかけあっている。通り過ぎる住人たちの言葉から、だんだん緊急事態の中身が分かってきた。
「鍛冶屋どもが地下から湧き出した!」
「食べ物を隠せ! みんな食われちまうぞ!」
「剣士と斬術士、それに槍使いは全員一階に集まれ! やつらを食い止めて、食べ物を隠す時間を少しでも稼ぐんだ!」
武装した冒険者たちが下り階段へ殺到するのを見て、クリスは、ははーん、なるほど、とうなずいた。
「腹を空かせた鍛冶屋たちがセント・エクスペリーじゅうの食べ物を食い尽くす気でいるらしい。でも、ボクには関係ないな。部屋に食べ物は置いてないし」
そのころ、一階では二つの食料庫が襲われ、住人の奮闘も空しく、肉、魚、果物、野菜、チーズやミルク、ラードや黒胡椒まで食い尽くされていた。
蓋が開いたままの伝声管から援軍を求める悲痛な声が聞こえてくる。
〈こちら、第三食料庫! やつらの攻撃を抑えきれない! 至急、援軍を求む! こちらは人数と武装で大きく不利! もうドアがもたない! 大至急、応援を――うわあっ!〉
その後、声が途絶え、伝声管からは雪崩れ込んだ鍛冶屋たちがハムのかたまりに歯を立てるガツガツムシャムシャという音が空しく流れてきた。
「うーん」
クリスは顎を親指と人差し指でつまんで少し考える仕草をした。
「どうかしましたか?」
「いや、ちょっと知り合いのところへ顔を出そうかと思ってね」
「知り合い?」
「セント・エクスペリーでは週に一度、絵入り新聞が発行されててね。まあ、そいつはその記者で編集者で発行人でおまけに片手間仕事で戯曲も書くから、ちょくちょく会うんだけどね。どうもダンジョン探検隊の連中は鍛冶屋を食い止めるのに失敗したようだから、そいつのことがちょっと心配になってきたんだよ」
イラストレイテッド・セント・エクスペリー・ニュースは四階にあった。そこに行くまでに急ごしらえのバリケードを四つ超えなければいけなかった。ソファーと机と逆さになった椅子がつくる壁の後ろで剣士や槍使い、斬術士、闇術士、それに魔法使いが身を潜めていた。
予備軍として三階に残っていた彼らは一階へ行ったきり帰ってこない仲間たちの仇を討つべく鍛冶屋たちの到来を待っていた。
「一つ目のバリケードは捨てていい」
指揮官らしき魔法使いの少年が仲間に作戦を説明していた。
「猟術士とおれが協力して、罠と結界をつくった。おれたちがバリケードを捨てて逃げたのを追撃しようとすれば、天井から砂袋が落ちてきて、結界があいつらの足を縛りつける。そうしたら、第二バリケードの連中と合同でやつらを追い返す。先に取らせてダメージを与え、後で取り返すんだ」
銃術士がラッパ銃にドングリの実を十個入れた袋を詰め込んでいた。闇術士は影縫い用の投げ針を指に挟み、ランタンの光の方向に視線を据えている。バリケードには、落城寸前の守備兵が最後の一兵まで戦いぬくことを定められたときのような悲壮感が漂っていた。
気が滅入る前に悲しみのバリケードから遠ざかり、目指す新聞社の部屋のノッカーを叩く。
「誰だ?」
閉じられたドアの向こうから声がした。
「ボクだ。クリスだよ」
ドアがわずかに開き、早く入れと手招きする。ステラはクリスと一緒に部屋のなかに滑り込んだ。
二人が部屋に入ると、イラストレイテッド・セント・エクスペリー・ニュースの主任記者にして編集長にして発行人であるサミュエル・ヴァン=デル=レイクがドアを閉じ、四つの錠を次々とかけていった。丸い眼鏡をかけた細面で、いかにも本の虫といった感じのする少年だったが、新聞記者ならば誰でも目に宿す光――一度喰らいついたら徹底的にネタを追う狩人の光がこの痩せた少年の目に強く宿っていた。
「外の様子はどうだい?」
サミュエルがたずねると、クリスは首を横にふって、
「一階の食料庫は全滅だ。そこに送り込まれた連中も帰ってこない」
「なんだって? ダンジョン探索パーティの精鋭が半分以上鎮圧に向かったんだぞ」
「でも、事実だ。全員やられて、鍛冶屋たちは二階、三階と上がってきている」
「まずいな」
サミュエルが頭を掻き、部屋のなかを行ったり来たりし始めた。彼の心配は部屋のなかにある蔵書だった。それは特別な紙を使っていて、仄かに果物の匂いがするのだった。サミュエルは鍛冶屋たちが匂いに釣られて本を食べてしまうかもしれないと心配していた。
サミュエルがうろつきまわって初めて、ステラはもう一人、この部屋に人がいたことに気がついた。
ショートカットの黒髪の少女が作業台に向かって、一心不乱に木版をガリガリと削っていた。青いリボンで絞った袖口から出ている手は華奢だったが、しっかり彫刻刀を握り、鍛冶屋たちが食料庫を襲う様子を削り、繰り抜き、浮き彫りにさせている。
少女がステラの視線に気づくと、少女はペコリとお辞儀した。
「エイミー・クラレンドンです。あなた、新入りさんですよね?」
「はい、ステラといいます」
「あなたも災難ですね」
エイミーは彫刻刀を置くと、こわばった手をほぐしながら苦笑いした。
「初日にとんでもない目にあって」
「こういうことはよく起こるんですか?」
「二、三ヶ月に一度ね。鍛冶屋たちが墓場のゾンビみたいに湧き出して、あらゆる食べ物を全部食べちゃうの」
そう言いながら、エイミーは作業に戻った。正確に言えば、作業しながらステラと話していた。
「あの。エイミーさんはこちらで何を?」
「わたしはこの新聞の主任版画家なのです」
エイミーは誇らしげに言った。言いながら、握られた彫刻刀は女鍛冶屋がローストする前のチキンに噛みつきチキンの脚を縛っている紐を食いちぎっている様子を削り出していった。
「なんと言ってもイラストレイテッドですからね。イラストが入ってなければウソです。わたしがこの新聞に掲載される記事の挿絵を彫らなかったら、イラストレイテッド・セント・エクスペリー・ニュースじゃなくて、ただのセント・エクスペリー・ニュースになってしまいます」
えへんと胸を張る。その横ではサミュエルが思案顔で、
「そして鍛冶屋たちがここに雪崩れ込んで、ぼくの資料が食い尽くされればニュースですらなくなる。ねえ、クリス。下はそんなにひどいのかい?」
「うん。何なら自分の目で確かめるかい?」
やれやれ、とサミュエルは首をふりつつ、銀色の鍵をポケットから取り出して、籐でできた長持ちの錠を外した。中から出てきたのは銃身を切りつめた二連式のショットガンだった。サミュエルは銃身を折って実包を込め始めた。
「ちょっとちょっと!」クリスが驚きの声を上げた。「そんなもの取り出してどうするつもり?」
「自衛のために使うんだよ、クリス」
「えーっと……確かに鍛冶屋たちは粗野で汗臭くて意地汚い食いしん坊だよ。でも、なんていうか――命まで取るのはかわいそうな気がするんだけど、どうだろう?」
「装填されてるのはコショウ弾だよ。当たっても死なないが、クシャミは止まらなくなるだろうな」
サミュエルは銃身を戻し、二つの撃鉄を上げた。
「なんだよ、クリス。ぼくがあいつらに実弾をぶち込むとでも思ってたのか? しないよ、そんなこと。じゃあ、行ってくる」
「行ってくるってどこへ?」
「決まってるだろ。最前線さ」
サミュエルはショットガンを負い革で背負い込み、取材用ノートと万年筆を手に外へ出た。彼はまわりを見回し安全を確認すると、廊下を走り、その姿は角を曲がって見えなくなった。
それを確認すると、エイミーがドアを閉めて、鍵を四つかけ、振り向きながら、
「じゃ、編集長もいなくなったところで――」
一仕事終えた職人のように手をパンパンと鳴らして言った。
「お茶にしませんか?」