14.
セント・エクスペリー荘には食堂がいくつかある。それぞれの食堂に調理場が付随していて、修行中のコックたちが香味野菜のブイヨンや鱒のムニエル、ポテト・グラタン、島の南でよく食べられている『おぼれ卵』という半熟玉子を浮かべたシチューを作っている。あいにく給仕と皿洗いがいないので、注文は自分で厨房まで伝えにいき、出来上がった料理は自分で持ち帰り、そして食器は自分で洗わなければいけない。食堂の壁の一つは皿洗い場になっていて、水道も引かれていた。
イリヤムはおぼれ卵とパン、それにグレープジュース、ステラはチキンパイを一切れにリンゴジュースを二杯を注文した。
「明日になったら、艇を貸す店に行こうぜ」
イリヤムが言った。スプーンが玉子を崩して、黄身がシチューと混じりあったところをすくって口に運ぶ。
「うん、うまい」
「艇はどんな艇を借りればいいんでしょう?」
「まあ、そうだな。スピード重視なら単葉、高度重視なら複葉、それに向こうはステラの腕前は知らないから、たぶん一番安い艇しか貸さないだろう。でも、一度賞金首をやっつけるのを記録クリスタルに記録させて見せつければ、いい艇を貸すようになるさ。そこは頑張り次第だ」
「がんばります」
食事を終えて、人で混み合う洗い場で海綿のスポンジを手に皿とコップを洗い、調理場に差し戻すと、二人は別々の道をとった。
「じゃあ、明日。九時にそっちの部屋にいくから待っててくれ」
「わかりました」
「そんじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
イリヤムが食堂を出て行くと、ステラは自分の部屋が近い別の出口から吹き抜け回廊に出た。
吹き抜けの底ではダンジョン探索パーティ対抗腕相撲大会の真っ最中らしく、応援、声援、罵声、狂喜乱舞の嬌声が焼け石を放り込んだスープのように激しく沸いていた。
ステラが上から覗いてみると、様々な色や形の帽子と兜をかぶった頭が万華鏡のように動き回っていて、その中心では二人の力自慢が手をがっしり握り合って、空いた手で机をつかみ、こめかみに青筋を立てながら、相手の腕をテーブルに倒してやろうとしていた。
挑戦者は男子だけとは限らず、女子も遠慮なく参加していた。
事実、ステラが見ていたその瞬間、ショートカットの金髪の少女剣士が相手の拳をテーブルに叩きつけていた。
「腕相撲大会の興味があるのかい?」
突然、話しかけられ、ステラは驚き、小さくぴょんと飛び上がった。
隣には黒髪の少年がいた。黒のベスト、白いシャツとウィングカラー、四分音符を模った銀の飾りピンを刺したクロス・タイ。背は高いほうではない。ステラよりも少し高いくらいなので、平均的な少年の身長としてはむしろ低いほうだろう。体つきもひどく細い。
だが、顔のつくりは端整で表情は凛々しい。美しいサファイアの眼は射抜くような強さがあったが、それでいて冷たさを感じさせない。
「どうだろう。ちょっと下に行って見てみないかい?」
少年はステラの手を取り、回廊階段へと連れて行く。
「ああ、紹介がまだだった。ボクはクリス。クリス・ホイッティングワース」
「ステラです。えっと、記憶喪失なので、本当の名前じゃありませんけど、思い出すまではステラってことになってます」
「ステラ。なるほど。キミの髪は星を、瞳は夜空を映している」
キザな台詞だったが、この少年が口にするとしっくりくる。ある種の人々しか使えない台詞は美を司る 神からの特別の恩顧をもらえたものにのみ許される、知られざる特権だった。
吹き抜けの底につくと、音のかたまりが二人にぶつかってきた。人でぎゅうぎゅう詰めの壁に向かって華奢なクリスは見かけによらず、強引に割り込んで道を作り、ステラを案内した。
「ごらんのとおりさ。パーティごとの力自慢たちが集まって、セント・エクスペリーで一番腕を無理やりねじ伏せるのがうまいやつを決めようとしている。それとあそこの黒板はオッズを書いてる。誰が勝つかの賭けをやってるんだ。胴元はレベッカ・チェンバレンっていう魔法使い。あの赤い三角帽子をかぶったブロンドの子だ。どれ、ちょっと挨拶してみよう」
黒板は魔法の力でふわふわと浮いていて、レベッカの指図で布巾とチョークが動き回って、オッズを消したり書いたりしていた。
「やあ、レベッカ」
クリスが挨拶すると、レベッカは黒板を見上げ、チョークを操作しながら返した。
「ハロー、クリス」
「景気はどうだい?」
「まあまあってとこ。賭ける? まだ締め切ってないけど」
「オッズは?」
「フランクリン・ウェザースの優勝が一対六、グイド・アルビエッリの優勝が一対五、本命はクラリッサ・バーンズで九対十」
「九対十?」
「ガチガチの本命よ」
「先月に続いて二連勝か」
「三連勝よ。もし勝てばね。で、賭ける?」
「やめとくよ。九対十のオッズで勝っても勝負の楽しさを感じられないからね」
「他のやつに賭ければいいじゃない」
「生憎お金をドブに捨てる趣味は持ってないんだ」
「あっそ。ねえ、ところであなたの後ろにいる子、だあれ?」
「彼女はステラ」
「ステラ・何?」
「ステラはステラさ」
レベッカは振り向いた。そして、ステラをじっと見てから、同情したように首を左右にふり、
「あなたの両親は生まれた子どもの名前に名字をくっつける手間も惜しんだのね」
「そうじゃないよ、レベッカ。名字がないのは彼女が記憶喪失だからなんだ」
「あら、偶然ね。わたしもなくしたい記憶がいくつかあるわ」
そう言って、手を差し出した。
「レベッカ・チェンバレン。一応、魔法使いよ」
ステラはその手を握って、
「ステラです。飛行艇の賞金稼ぎをすることになってます」
「ふうん。賞金稼ぎ。クリス、知ってた?」
「初めて聞いたよ。そうか、賞金稼ぎか」
テーブルでわああっと声が沸いた。レベッカはどっちが勝ったかたずねた。
「クラリッサ・バーンズだよ!」若いコックが叫んだ。「次勝てば三連覇だ!」
「この分じゃ――」レベッカは首をふりふり、ため息をつく。「次の大会のオッズは九九対一〇〇になっちゃう。こんなんじゃ誰も賭けなくなって商売上がったりよ」
「あはは、大変だ」
「せいぜい笑ってなさいよ。台詞が頭に入らなくなる呪いをかけてやるから」
「ごめん。謝る」
「素直でよろしい」
ステラがクリスのほうを向いて、たずねた。
「台詞?」
「うん。これでも役者でね。じゃ、レベッカ。ボクらはもう行くよ」
人だかりから離れながら、クリスはステラにたずねた。
「今日初めてここに来たのかい?」
「はい」
そうか、と言いながら、クリスはチョッキのポケットから懐中時計を出した。針の位置はまだ寝る時間には早すぎることを教えていた。
「じゃあ、ここを案内してあげるよ。最初は迷うかもしれないけれど、ここじゃ道に迷うことだって楽しいんだ。さあ、ほら」
吹き抜け回廊の地階に開いた階段を降りると、熱くこもった空気に体が浸かった。金属を叩く音が原始人の打楽器のように響いてくる。地下は赤く焼けた鍛冶屋たちの世界だった。木炭の束があちこちに積み重なっていて、炉のなかで炎がトロトロとゆっくり動き、ふいごを押すたびに生き返ったように輝き出す。数十のトンカチが奏でる火花と水蒸気のオーケストラは鳴り止むことなく、太陽のように輝く金属が金床と炉と水桶のあいだを行ったり来たりしていた。
「流れ星が見たいと思ったら、ここに来ることにしているんだ。ここで飛び散る火花は流れ星みたいにきれいでいて、流れ星よりもずっと元気がいい」
「でも、すごく暑いですね」
「それと汗臭いのが珠に瑕」
「何が珠に瑕だって?」
振り返ると、二人の後ろに大柄の少年が立っていた。諸肌脱ぎの体に汗を吹かせ、水の入った大瓶を手にしていた。
「やあ、ライアン」
「クリスじゃねえか。そっちの子は?」
「ステラです」ステラは軽くおじぎした。「はじめまして」
「新入りか?」
「はい」
「ボクがセント・エクスペリーを案内しようと思ってね」
「それで地下に来たのか? そりゃいい。地上はヘタレ。地下こそ本物の仕事場。本物の男の居場所ってもんよ」
「女がいるのを忘れないでよ」
そばにいた少女が付け加えた。髪を後ろでポニーテールにまとめ、褐色の肌をした腰から上には胸に布を巻いただけでの姿だった。
「わかったよ」ライアンが言った。「本物の女の居場所でもある」
「シエラ・レイエス。よろしくね、新入りさん。それと、あたしの自己紹介はこれ」
シエラは鋳鉄製の大きな蓋つき鍋を持ち上げた。
「あたしの最高傑作、野外用万能オーブン。煮て良し、蒸して良し、ローストして良し。かなり分厚いから殴っても良し。こいつが欲しくなったら、あたしに言ってね。最高に便利なやつを作ってあげるから」
「自慢の逸品ならおれだってあるぞ。この剣を見てみろ」
創作自慢には伝染性がある。部屋中にいる鍛冶屋の卵たちが自分で打った剣や槍の穂先、鉈、フライパンにもなる特許出願中のバトルアックスを手に押しかけて、二人の目の前で自慢合戦を始めた。
「行こう!」
クリスはステラの手を引っぱった。
「これじゃ暑苦しくてかなわないっ」
鍋釜刀剣を掲げて道を塞ごうとする駆け出し鍛冶屋たちをかわしながら、大部屋の奥にある階段へと飛び込む。
一段飛ばしでさっさと上ると、調理場に出た。
それはセント・エクスペリー荘にいくつもある調理場の一つで、都市部のアパートメントにある近代的な調理場というよりは中世の城の調理場に近い造りをしていた。石の壁。自在鉤に吊るされた鍋や調理用の煉瓦台、焼き肉器と肉汁用の受け皿、カボチャの種や玉ねぎの皮が散らばる床では猫がちんまり箱のようになって眠っている。その上には脚つきフライパンや鍋が紐で結んだニンニクと一緒にぶらさがっていた。
二人がやってきたときにはちょうど、コックの少年とコックの少女がそれぞれ湯気の立つコンソメ・スープを手にしてピーチクパーチクわめきあっているところだった。
少年のほうが二人に気づいて、
「おう、クリスか。ちょうどいいところにきた。どっちのコンソメがうまいか。お前、決めろ」
すると、少女のほうも負けておらず、
「わたしのコンソメのほうがおいしいに決まってるわよ。ねえ、クリス?」
クリスは口をへの字に曲げて、ややのけぞりながら、
「カンベンしてよ。ボクらは下の鍛冶屋の自慢大会から逃げてきたばかりなんだよ」
「それがなんだ」少年のほうが口を切った。「こいつのコンソメを見てみろ。何が入ってる? なんとポテトだよ! コンソメに茹でたハーブ・ポテト・ボールを入れるなんてのは邪道中の邪道だ。コンソメはスープだけで香りを楽しませて、食欲を湧かせ、これから来るメインディッシュへの序曲になるべきなんだよ。ポテト・ボールなんぞで腹を膨らませるなんて、こりゃコンソメの伝統を破ってる」
少女は、ちっちっち、と人差し指をふった。
「あったま固いわねえ。コンソメに必要なのは想像力。ただ茹でて灰汁と脂を取ればいいなんて、いまどき流行んないわよ。伝統は無工夫の口実にはならないもんね」
「ふざけろ、このポテト・ボール至上主義者め。この琥珀色を出すのにおれがどれだけ工夫を凝らしたと思ってやがる。まず、野菜を微妙な頃合に焦がして――」
「あー、あー、聞こえなーい。具なしスープ原理主義者の言い訳なんて聞きたくありませーん」
コンソメ・スープはすでに冷えて、ゼラチンが固まり始めていた。食べどきを逸したコンソメ・スープを手に、少年と少女は相手の人格攻撃を始め――この場合はそれぞれの好みの味覚、材料の選び方、食べ物を盛る際の美学と哲学を攻撃の対象とする――、戦局は泥沼化していった。そして、すでにスープはすっかり煮凝りのかたまりと化していた。
二人が言い合いに夢中になっているのを機会に捉えて、クリスはステラの手を引いて、そっと調理場の出口へ抜けた。夫婦喧嘩は犬も食わないが、コックの喧嘩も同様だ。
二人が調理場を後にしたと同時に自慢の作品を抱えた鍛冶屋たちが地下の部屋から間欠泉のように勢いよく飛び出してきた。
クリスとステラ――というより誰でもいいから、つかまえたやつに自分の作品自慢をするつもりだった鍛冶屋たちだったが、目の前にどっさり積まれた食べ物を見て、行動方針に若干の変更を加えた。突然、空腹が意識され、満腹になって寝転ぶ素晴らしさが彼らの思考を支配したのだ。腹をすかせた鍛冶屋たちは男も女もその場にあった食べ物を、調理されていようがされてなかろうが関係なくむしゃむしゃ食べ始めた。二人のコックが気づいたときには明日の料理に使う材料があらかた食い尽くされていた。
「あーっ、このバカども!」
「明日の分の材料まで食べちゃった!」
コックたちの悲鳴を後に残し、ステラとクリスは廊下を徒然なるままに歩いた。