11.
イリヤムが住むセント・エクスペリー荘もまた地味ながらも暮らしに欠かせない庶民的なものの一つだった。
表の鹿角通りと裏の運河、それに二つの橋につながる通りに両側を挟まれた左右に長い大きな建物は少年少女向けに家賃の安い部屋を提供する。
それは大銀貨一枚でたらふくソーセージを食べさせてくれる肉屋や王都じゅうを歩き回って品物を買い集める古着屋のように、大望を抱いて王都にやってきた少年少女の安上がりな暮らしに欠かすことのできないものなのだ。
初めは十字路の一角に立てられた三階建ての建物に過ぎなかったセント・エクスペリー荘は家主の気まぐれで土地が買い足され、増築され、階を重ね、今のように左右に長い運河沿いの一区画全てを使った巨大な建物になっていた。
廊下は迷路のように錯綜し、あちこちに部屋が散らばり、大きな浴場や壁のでっぱりを押すと現れる秘密の部屋、それに中世の騎士の城にあるような吹き抜けの大部屋に階段や洗濯物を垂らした紐が交差したりしている。屋上には尖塔や薬草を植えたガラスの温室、気球の発着場まで作ってあった。
そこに三百人以上の少年少女が暮らしていた。法律事務所の見習いをしている少年が分厚い法律書を相手に代訴人資格の勉強をしている上では吹き抜けを囲う二階通路の欄干に踊り子の少女たちが絨毯をかけ布団たたきで遠慮なく叩いて、下の階にいる少年たちの頭に塵芥を落としていく。
飛行艇工房の製図工見習いとプロペラ工見習いとエンジン設計技師見習いはすごろくをしていて、架空の青い紙幣や赤い紙幣を手に握り、銀行や鉱山を買い占めて、相手の持つ紙幣を最後の一枚まで搾り取ろうと策をめぐらしている。彼らのあいだで紙幣がやりとりされるときは必ず「くそー」だの「チキショー」だの「覚えとけよ、このイカサマ野郎」だのといった素敵な言葉が一緒に付いてくる。
醜い争いというと芸術家の卵たちも負けていない。画家志望と詩人志望と文学家志望の少年たちは芸術というものに向かい合う際の『知的態度の違い』(これは彼らの言葉だ)から、常にお互いをけなしあい、罵りあい、嫌いぬく。
探偵志望の少年はこの険悪な三人がそのうち殺人事件を引き起こすのではないかと期待する。この少年は密室殺人だの連続殺人だのが起きたとき、推理小説で仕入れた膨大な量の殺しの手口をもとにして、警察もお手上げの事件を華麗に解決することを夢見ていた。彼はコック見習いの少年がオムレツに毒を入れたり、仕立て屋見習いの少年が「鏡の塔……」と謎の言葉を残して失踪したり、正体不明の怪盗からの不敵な挑戦状が自分宛に届いたりすることを夢想して暮らしている。
事件というと、新聞記者志望の少年と版画家志望の少女が週刊絵入り新聞『イラストレイテッド・セント・エクスペリー・ニュース』を発行している。内容はセント・エクスペリー荘におきた事件(喧嘩や靴泥棒、魔法使いたちが起こすちょっとした爆発事故)の版画入り記事、住民の声という名のエッセイ、今週の運勢、アルバイト求人情報、それに小説家志望の少女が寄稿する連続小説。それは水曜日の正午に五つの掲示板に貼りつけられる。
二人の新聞発行人が紙面を考える上の階にはバイオリン職人を目指している少年が住んでいた。ニスの匂いが染み込んだ部屋には、作り途中のバイオリンがいくつも部屋にぶらさがっていて、少年は出来上がったバイオリンの音を聞くために故郷の小唄を弾く。
音楽家志望の少年少女はたくさんいた。ラッパにフルート、チェロ、ギター、ピアノ、指揮者。彼らは月に一度、セント・エクスペリー荘のなかでも一番広い部屋を使って演奏会をする。落ち着きのない猿のような聴衆たちはじっと音楽に耳を傾ける趣味は持っていないらしく、印刷工見習いの少年たちが一枚一枚手で刷ったパンフレットを紙飛行機にして、演奏家目がけて飛ばしたり、小さな火晶石コンロにフライパンを乗せてハムステーキを焼き始めたりする。胡椒をふられた肉が焼ける香ばしい匂いや紙飛行機が飛び交うなかでオーケストラは表彰ものの忍耐を持って、プログラムを終える。
彼らの音楽は聴衆の心に何もなさなかったか? それは違った。なぜなら帰り道、肉を焼いていた連中でさえ、彼らが演奏した曲の最も盛り上がるところを無意識のうちに鼻歌で鳴らしていたからだ。
それとセント・エクスペリー荘にはかなり広い地下室がある。そこでは年中火が燃えていて、何十人という刀鍛冶見習いや鉄砲鍛冶見習い、モンスター素材加工師見習い、甲冑職人や杖職人の見習いが汗みどろになりながら鎚で熱く焼けた鉄を叩いたり、素材と相性のいい加工法を模索したりしている。
素材といえば、ダンジョン探索を目的とする駆け出し冒険者たちも大勢いた。剣士、魔法使い、銃術士(撃つだけでなく銃の改造や弾丸の製造、弾丸への魔力付加も行う)、薬草師、槍使い、弓使いの猟術士、地図職人(ダンジョン探索の命綱ともいうべき地図を製作する)、斬術士(斬るための術式に長ける魔法剣士)、闇術士(これは違法すれすれの暗殺術や潜入術、開錠術に長けたものたちのことで男も女も必ずと言っていいほど無口で顔を覆面で隠している)、療術士(これは負傷を癒し、毒を打ち消す魔法をかけられる千人に一人いるかいないかの貴重な魔法使いを指す)といったものたちが机に地図を広げて、次はどこのダンジョンを、どの階層まで潜るか相談していた。
彼らはまだ駆け出しなのでエメラルディア島やトパージア島の第六級ダンジョンか、がんばっても第四級ダンジョンしか探索できないが、いずれは経験を積んで、これまで誰も探索したことのないといわれる伝説のダンジョン『始原の島』を見つけて、その秘密を解き明かすことを夢見ていた。
屋根裏には仕事の性質上空を見なければいけない占星術士や天文学者の卵たちが住んでいた。空に向けた望遠鏡とミスリル銀の水盤を用いて未来を占ったり、星と星の距離を計算したり、宇宙の成り立ちに関する大胆な仮説をたたき出したりしているあいだ、彼らは屋根裏部屋から舞い上がり、遙か遠くの星の世界の住人になることができた。もっとも、その夢のような時間も空腹を知らせる腹の虫の一鳴きであっけなく終わり、彼らは屋根裏部屋に引き戻され、卵料理とカリカリに焼いたベーコンを食べに食堂に降りていく。
イリヤムはゴブリン空賊団の賞金を受け取るとステラを連れて、セント・エクスペリー荘にいくつもある入口の一つからなかに入った。
建物はお世辞にも整理されているとは言えない。虫に食われた紙束や果物会社の焼印を押された木箱などがごった返している。階段や廊下をよく分からないガラクタが塞いでいたり、魔法使いや数学者の卵たちが突然閃いた術式や計算式を壁に殴り書きにした跡が消えずに残っていたし、機械を学ぶ少年たちが壁に何に使うのかわからない歯車やパイプをつなげていた。廊下は迷路のようであり、階段や梯子が上ったり下がったり、田舎町の劇場ほどの大きさのある部屋があれば、ウサギ小屋のように狭い部屋もある。
途中、椅子や机がひっくり返り、床じゅうに紙切れや割れたガラスが散らばった部屋があったが、それはどこかのマヌケが興味本位に魔法書を開いて、本から竜巻を引き出してしまったせいで起きたのだった。
ステラはイリヤムの後ろをついていきながら、三十人以上の少年少女を見かけた。剣や銃を背負ったり、ギターを爪弾いたり、魔法の杖でカツカツと床を打ったり、計算用紙と帳簿を抱えていそいそと歩いていたり、ボールに入れた生卵二つを泡立つまでかき混ぜたり、結晶研磨用のヤスリを手に歪な原石をいろいろな角度から眺めたり。みな夢を持ち、その実現のために何をすべきかをきちんと心得ている未来の卵だった。
イリヤムはまず一度自分の部屋に行くことにした。彼の部屋は二階から三階へと上がる階段沿いにあった。部屋は二つに割れていて、半分が二階に、もう半分が三階にあり、その二つの部屋を横幅のある階段がつないでいた。
「とりあえずステラが住む新しい部屋を都合しよう。あ、そうだ」
イリヤムはステラにルク金貨十枚とシル紙幣で四千シル、合計二十ルクの現金を渡した。
「ゴブリンどもを墜とした賞金だ。半分はステラのものだからな。これで食費とか着るものとかいろいろ揃えてくれ」
「着るもの?」
「女の子がいつまでも飛行服を着てるわけにもいかないだろ? 安い店が近くにあるから、そこで好きな服を買えばいい。案内するよ。おれはちょっと出かけてくる」
「どこに行くんですか?」
「ここの管理をやってるやつがいるから、空き部屋でいいのがないかたずねてみるつもりだ」
「わたしならここの床でも平気ですけど?」
それを聞くとイリヤムはしどろもどろになりながら、
「だって、ほら、それ、年頃の女の子が、なんつーか、その、男の部屋に泊まるってのぁ、マズいだろ、いろいろ」
「マズいんですか?」
ステラはきょとんとした顔できいた。
「そうなんだよ、たぶん。ま、まあ、ゆっくり休んでてくれ。おれは出かけるから」
イリヤムがいそいそと行ってしまうとステラは一人になった。
イリヤムの部屋は(なぜか意外な気がするが)ものがきちんと整理されていた。
金庫の扉のようないかつい火箱を持つ鋳鉄製の石炭レンジはきちんと黒鉛で磨き上げられていて、鍋ややかんは新品同様にピカピカに光っていた。
書き物や調べ物をする机と食事をするためのテーブルはきちんと分けられていて、テーブルクロスを敷いた食事用テーブルには陶器の塩入れやペッパー・ミルの他に香水をふった青い造花を差した細いガラス壜も置いてあった。
亜鉛製の蛇口付き水タンクや小さな食器棚、飛行艇に関する本が何冊か置かれた壁付きの本置き場、壁にかかった大きな額縁にはエメラルディア島の空路が記載された地図が入っていた。
上階へ上がると、ベッドが一つ。
ナイトテーブルには雪花石膏のオイルランプと安全マッチ箱、近所にある洗濯工場の料金表が置いてある。
ベッドの反対側の壁には書き物机があって、赤い革装丁の鍵付き日記や結晶式通信機の教本、賞金首にまつわるスクラップ・ブック、それにしおりを挟んだ探偵小説がきちんと並べられていた。
窓は南側に開いたものが一つあるだけで上階にしかなかった。窓から見える王都は宝箱の中身を思いっきりぶちまけたようで、様々な色や動きが見るものを幻惑してくる。
ステラの記憶は失われている。だが、自分がこうした豊かな彩りのなかで暮らしていたことはないということだけは断言することができた。
なぜかはわからない。
だが、間違いなかった。