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月の光を纏う者  作者: 猫崎 歩
終章
77/79

第76話 未来を紡ぐそれぞれの道

 エアニスはゆっくりと腰の剣を引き抜く。

 しかしその切っ先は相手に向けられる事なく、エアニスの足元で戸惑うように揺らいでいた。

「別に・・・久しぶりって程でも無いけどな・・・」

 エアニスは少年に、この世界から追放された筈のイビスに、笑いながら答えた。

 視線をずらし、イビスの後ろにいる少女を見る。見間違う筈も無い。エアニス達を散々振り回してくれた魔族、アイビスだ。

 本当なら今すぐにでも斬りかかるべき相手だが、エアニスは動く事が出来なかった。

 それは、イビスが"少年"の姿をしていたからだ。アイビスも、イビスと同じ年頃の"少女"の姿をしている。

 エアニスの知るイビスはエアニスよりやや年上、アイビスはチャイムと同じ年頃の姿をしていた。しかし今は二人とも精々14、5歳といった容姿だ。

 それでもその顔立ちは、エアニスの知るイビスとアイビスがそのまま若くなったものだ。特長的な青みがかった銀髪も、そのままである。

 その容姿が、エアニスを戸惑わせた。

 しかし、エアニスは思い出す。容姿など魔族にとってはどうにでもなる物だと。事実、バイアルス山の戦いでは、アイビスはその姿を街娘に変えて遭難者を装い、レオニール軍を騙し、利用した。イビスに至っては巨大な黒竜に姿を変えたではないか。

 戸惑いを振り払い、地に向けていた切っ先を二人の魔族へと向ける。エアニスの剣、”オブスキュア”には既にヘヴンガレッドの力は無く、以前から使っていた金で買える最も高価な魔導石も、戦いの中で失ってしまった。剣の柄には魔導石を嵌め込む為の穴がぽっかりと空いている。おそらく魔導的な干渉力も、刀身の強度も、今のオブスキュアには無いだろう。ヘタに剣を交えると折れてしまう恐れすらある。魔法剣は、魔力が込められていなければ、ただの古いなまくら刀である。

 ジワリと、手のひらに汗が滲む。

 今のエアニスには魔族に対抗出来る術が無いのだ。

(ハッタリで斬りかかって、一旦森に身を隠すか)

 心を決めると同時に、エアニスは懐に隠していた短銃を抜き放つ。

「待って!! あんたとやり合う気は無いわよ!!」

 慌ててアイビスが叫ぶも、エアニスはその声に被せるように銃声を鳴らす。魔族の彼等にとって何の魔力も込められていない銃弾など全く脅威ではない。それでも、僅かながら物質に依存してこの世界に体を具現させている以上、小石をぶつける程度の牽制にはなるだろうと思った気休めの行動だった。

 しかし、銃を向けられた二人は予想以上に慌て、真横へ転がるように身をかわす。エアニスは銃を投げ捨て剣を構えると、片膝を突くイビスに向かい駆け出す。あくまでも目的は彼の後ろに広がる森の中に飛び込む事だ。

 エアニスに気付いたイビスは腰に下げていた剣、彼が普段使っていた無骨な大剣ではなく、細身のサーベルを抜き放った。

 サーベルの刀身をエアニスはオブスキュアで弾く。強度を失っているオブスキュアに負担が掛からぬよう、刀身の根元で突き飛ばすように刃をぶつけた。

 すると、イビスはあっさりとエアニスの一撃に押されて、バランスを崩す。

「!?」

 思わずエアニスの森へ向かう足が止まる。そして、相手の隙を見逃せない性が反射的にイビスへの追撃を繰り出した。

 背中から仰向けに倒れたイビスの胸元へ、オブスキュアを突き下ろす。

「やめてえっ!!」

 エアニスとイビスの間に、アイビスが割り込んだ。アイビスはエアニスの剣を掴んでその軌道を捻じ曲げようとする。そして、勢い余ってエアニスの体にぶつかった。

 アイビスのあまりに短絡的かつ稚拙な行動にエアニスは驚き、判断を鈍らせる。そしてアイビスの体に押される形で、もつれるように草原の上へと転がった。

 慌てて彼女の体を押しのけて、エアニスは二人から距離を取る。

「・・・アイビス!」

 倒れていたイビスは剣を手放し、うずくまるアイビスに駆け寄る。

 エアニスの剣を掴んだ拍子にだろう。アイビスの手の平は深々と裂けて、血が滴っていた。イビスは息を呑み、自分の荷物から布を取り出すと、アイビスの傷を押さえて止血を始める。

 その様子を、エアニスは呆然と見ていた。アイビスの血が付いたオブスキュアの切っ先は、再び地面を向く。

「おい・・・何の芝居だ?」

「・・・芝居じゃない。今の俺達には、もう魔族の力など残ってはいない」

 イビスがエアニスを睨みつけながら言った。あのイビスにしては、随分と感情的な視線だった。

「イビス、大丈夫よ・・・ちょっと切っただけだから」

「だが・・・」

 アイビスは自分で手の平の傷口に布を巻き付け、きつく縛った。

「あいかわらずせっかちね・・・まずは人の話を聞こうって気にはならないのかしら?」

「・・・どういう事だ?

 何で、お前達がここに居る? 向こうの世界に・・・レッドエデンに行ったんじゃないのか?」

 アイビスは立ち上がり、ふんと鼻を鳴らす。いつもの高慢な態度に見えたが、その目には深く沈んだ感情の色が見て取れた。

 そして、話すと長いわよ、と前置きしてから、自分達の身に起きた事を語りだした。



「確かに、あたし達は、あの星空の世界からレッドエデンに落とされたわ。そして、250年ぶりに仲間達と再会した。

 でも、そこに居たのは・・・かつて私達の仲間だった魔族の、なれの果てだった。

 あの世界はね、私達魔族の記憶や人格を崩壊させて、まっさらな"存在"に作り変えるための世界なのよ」

「・・・?」

 エアニスには出だしからアイビスの言葉が理解出来なかった。

「あんた達人間が信じてる天国や地獄のようなものよ。死んでこの世界を去り、アッチの世界に行って、そしてまたこの世界に生まれ変わる・・・。

 あたし達魔族には、基本的に死という概念が無い。力を奪われ滅ぼされても、この世界から消える事も無い、消える事も出来ない、永遠の存在・・・。

 だからあの魔導師は、石の力を使って私達魔族の為の死後の世界を作ったのよ」

「世界を、作る・・・?」

「あの魔導師がそれを意識して世界を創造したのか、それとも"石"が勝手にそんな世界の仕組みを作り上げたのか、どっちかは分からないわ。

 でも、あの魔導師の口ぶりからすると、後者なのかもしれないわね」

 確かに、ティアドラがレッドエデンの事を語る時の口ぶりには、そのようなニュアンスは含まれていなかった。単に魔族を追いやる為の、こことは違う世界という認識でいたように感じられる。

「ともあれ、私達がレッドエデンに辿り着いてからそう時間も経たないうちに、レッドエデンは消えて無くなったわ。・・・石の力が失われたせいね。

 で、住む世界を失った私達はどうなったと思う?」

 そんな事、分かるはずも無い。そもそもアイビスの話は、出だしの段階でエアニスの理解を超えている。世界を作るだの生まれ変わりだのと語られた所で、何の知識を元に合いの手を入れればよいのか。

「さぁな・・・」

 面白みの無いエアニスの返事に、アイビスは肩を竦めながら答える。

「生まれ変わったのよ、人間にね」


「レッドエデンに居ると、魔族としての力や人格は、少しづつ分解される。いずれ魔族だった存在はひとつの魂へと形を変えて、それはこの世界に別の命として転生する。それが、レッドエデンの仕組みなの」

 アイビスはエアニスが大人しく聞きの姿勢を取っている事を確認すると、言葉を続ける。

「あそこに居た存在は、レッドエデンの消滅と共に全てこの世界へと転生したわ。ひっょとしたら、人間じゃなくて犬猫やお花に生まれ変わった奴も居るのかもしれないわねぇ・・・」

 ご愁傷さまと言わんばかりの、皮肉めいた言い方。

「レッドエデンの魔族達は、まっさらな新しい存在になって、この世界に生まれ変わった。

 でも、あたし達は力や人格を分解される前に、レッドエデンから追い出されたの。だから、魔族だった時の記憶や力を失う事無く、この世界に転生する事が出来たのよ」

 アイビスは自分の手の平を見下ろしながら、

「まぁ、人間の体じゃ、存在の仕方が全く違う魔族の力は殆ど使えないから、力は失ったも同然なんだけどね」

 見下ろす手に巻かれた布には血が滲んでいた。それでも出血は止まったようだった。

「でも、生まれ変わったって・・・じゃあその体はどういう事だ?」

「体・・・? あぁ、私達の年齢の事ね?」

 アイビス達の体は14、5歳といった容姿だ。その体のまま、この世界に生れ落ちたとでもいうのか。だとしたら、既に彼らは普通の人間ではない。

 アイビスはどう説明しかものかと口元を捻じ曲げ空を仰ぐ。そんな彼女の代わりに、イビスが説明を始めた。

「俺達が転生したのは、今から15年前の世界だ」

「・・・何だって?」

 アイビスの端的な言葉を飲み込めず、エアニスは眉を寄せる。

「この世界は転生後に生まれ落ちる時代が、自分が死んだ後の時代とは限らないようだ。

 俺達は今から15年前、何の変哲もない農村で、人間の女から双子の兄妹として生まれた。

 そして少しづつ自分が魔族だった頃の記憶を取り戻し、物心付く頃には明確に理解していたよ。自分は魔族の生まれ変わりで、過去の世界に転生した事をな」

 エアニスは言葉を失う。

「そんな事が・・・」

「興味深いだろう?

 この世界には生まれ変わりというものが確かに存在し、そしてそれは未来へと続く時間の流れに従っていない。これがどういう事か分かるか?」

「分かるかよ・・・」

 ろくに考えもせず即答するエアニス。イビスといいアイビスといい、分かったような物言いが気に入らない。

「我々にとってこの世界は無限に続いているという事だ。

 たとえ世界が滅ぶ未来があるとしても、転生する命は時間の流れに囚われる事無く様々な時代へと転生し、転生先の歴史を作り直す。その都度新たな歴史が作られ、様々な世界が生まれる。それこそ、無限と言ってもよい程の、だ」

 エアニスはイビスの言葉を心の中で反芻し、理解する。

「そいつは・・・嫌な話だな。

 俺達は、この世界の初めから終りの間をグルグル回っているってのか?」

 この世界を観測する者が、生まれ変わる事の出来る人間達であるとすれば、その視点から見ると世界に終りは無いという事になる。観測者自身が終りと始まりの間を何度も何度も繰り返し生きて、死ぬのだから。


 パンパンと、アイビスが手を叩きながら二人の間へと割り込んできた。

「はいはい。世界の仕組みの話なんてどうでもいいわよ。

 とにかく、私達は魔族だった頃の記憶を持ったまま、15年前の世界に生まれ変わって、今まで普通の人間として生きて来た・・・理解出来る?」

 アイビスがイライラとした様子でイビスの話を遮った。エアニスも興味のある話だったが、彼女にとってはどうでもよい事のようだ。

「途方も無い話だが・・・分かった事にしておくよ。

 で、ただの人間に生まれ変わったお前達が、ココに何をしに来た?」

 エアニスの返事に、話を促した彼女自身が言い辛そうに言葉を詰まらせる。そしてまた、続きをイビスが話し出す。

「別に、何もするつもりはない」

「あ?」

「ただ、あの戦いの結末を、この目で見届けに来ただけだ。

 そして、お前達に詫びに来た」

「詫びる、だと?」

 その言葉に、エアニスは自分の耳を疑った。

「20年間続いたあの大戦・・・無論、直接的な原因は人間達による国家同士の諍いだが、我々魔族が戦乱の世になるよう扇動していた事は間違い無い。

 俺やアイビスも人間の社会へと紛れ込み、沢山の人間を踊らせ、操り、殺し会いをさせた」

 イビスの話に、エアニスは驚かない。イビス達が世界中に根を張る犯罪組織に肩入れをしていたように、かつてベクタという大国にも一人の魔族が入り込んでいたのをエアニスは知っている。彼らはきっと、人の姿で様々な所に潜んでいるのだろう。そして人々を操り、自分達が動きやすい戦乱の世の中を作り出した。

「つまり、生まれ変わる前の自分達が引き起こした戦争で、人間に生まれ変わった今の俺達は散々苦しめられた訳だ」

 イビスは自嘲めいた笑みを浮かべて、そう言った。

「・・・はっ」

 エアニスもつられるように笑う。滑稽な話だった。

「ははッ、可笑しいだろう?

 随分と身勝手だという事は分かっているが、人間の身になって良く分かった。魔族がこれまでして来た事がな。人間の命の価値など、全く分かっていなかった。だが、今なら理解出来る」

「・・・そう思うなら、これからは世の為人の為、清く正しい真人間として生きて、死ぬまで前世の罪を償え」

「そのつもりだ」

 真面目な顔で彼は答える。冗談かと思ったが、彼の目は本気だった。エアニスは毒気を抜かれる。

「もっとも、人の身の一生を費やしても、償い切れる物でもないがな」

 イビスの言葉にエアニスは大きく溜息を吐いて、頭を掻く。剣を握っていた左手に力が入りっ放しだった事に気づき、馬鹿らしくなって剣を鞘に収めた。

 イビスとアイビスが安堵の息を吐いたのが分かった。平静を装ってはいたものの、力を失った彼等はエアニスを恐れていた。

「それと、もう一つ」

 イビスが何かを言いかけたその時、

「エアニス!!」

 エアニスの背後からチャイムの声が響いた。振り向くと、そこにはチャイムとレイチェル、そしてトキが居た。


 一番最初にエアニスが撃った小銃の音を聞き付けて彼を探しに来たのだ。チャイムはエアニスの小銃とライフルの発砲音を聞き慣れている為、すぐにエアニスが何処かで戦っているのだと分かった。エアニスにとっても、イビス達に銃を撃ったのは、攻撃や牽制の為というより、チャイム達に自分の状況を知らせる為の行動だった。

『!!』

 三人はエアニスの対峙する相手を認め、硬直する。そして、エアニスと同様戸惑いながら身を構える。

「やめろ、手を出すな」

 エアニスはチャイム達を遮るように腕を伸ばして言った。

「でも、こいつらは・・・!

 どういう事よ!!?」

 混乱の様相を見せるチャイム。トキも同じ様子である。どう説明したものかと、エアニスは頭を悩ませた。

「・・・ふん、丁度いい。あんたに土産だ」

 イビスは荷物から大きめの布袋を取り出すと、レイチェルの足元に放り投げた。レイチェルは驚いて後ずさり、袋は彼女の目の前にドサリと落ちた。その拍子に袋の口が緩み、中から歪な形をした白い塊が転がり出た。

「・・・何だこいつは?」

 やや遠巻きにそれを覗き込んだエアニスは訝しげに呟く。それは形も大きさもバラバラな、白い石だった。何処かで、見たような気がした。

「ヘヴンガレッドだ」

「!?・・・何だって?」

 エアニス達の知っているヘヴンガレッドは、赤黒く輝く、宝石の原石のような歪な石だった。しかし目の前にあるそれは、形こそ似ているものの、まるで石灰で出来たような真っ白な石だ。

「警戒する必要は無い。もうそいつには魔力を増幅する力も、人の願いを叶える力も無い」

「何でお前達が持ってる・・・これは封印された筈だろう?」

「知らないわよ。ただ、あたし達はあの時、ヘヴンガレッドと一緒にレッドエデンに放り込まれたわ。だから、あたし達は目の前に転がっていたそれを、何と無く持って行く事にした。もう用無しだったけど、あたし達にとっても因縁深いモノだからね。ホント、何となく、よ。

 そしていつの間にかレッドエデンが消えて、あたし達は気付けば人間の姿に。

 持ってたヘヴンガレッドも、どういう訳か初めからそこにあったかのように、あたし達が生まれた家に転がってたのよ」

 アイビスがいい加減な説明を付け加える。エアニスにはどういう理屈かさっぱり分からない。

「俺達がそうだったように、この石もレッドエデンの消滅とともに、この世界に現れた。たまたま向こうの世界で持っていた俺達の近くに・・・な。

 この世界の法則に従った結果じゃないのか?

 どういう法則かは知らないが、"そういうモノ"らしい」

 イビスもアイビスと同じ様に確信を持っていないのだろう。彼の言葉も曖昧なものだった。そして、彼はレイチェルを見ながら言う。

「ヘヴンガレッドは力は失っているが、石に蓄えられた"記憶"や"知識"は、まだ健在だ」

 事も無げに言われたその言葉が、エアニスの頭に引っ掛かる。

「・・・!!」

 そして、何かに気付いたかのようにエアニスは驚いた様子で面を上げた。

「悪いが盗み聞きさせてもらった。

 その女は、記憶を失っているのだろう?」

 エアニスは舌打ちをする。イビスたちの視線は感じていたが、話を聞かれる程まで接近を許したつもりは無かったからだ。

 エアニス達はレイチェルの方へと振り向く。

 するとレイチェルは、警戒する様子も無く袋の中から"石"の一つを取り出し、その手で握っていた。

 形を見れば分かる。それは、レイチェルが肌身離さず持っていた最後のヘヴンガレッド。

「・・・あ、ああ・・・!!」

 レイチェルの様子がおかしかった。とても怖い出来事を思い出してしまったかのように、肩を震わせていた。瞬間的に意識が途絶え、その場にガクリと膝を突く。今にも倒れてしまいそうな彼女を、トキが慌てて支えた。

「と、トキさん・・・?」

「レイチェルさん! 大丈夫ですか!?」

 レイチェルはトキの顔を見上げる。そして彼から視線を外し、暫くの間真上に広がる空を不規則に揺れる瞳で見つめていた。彼女の乱れていた呼吸が、少しづつ静かになる。

「わ、私、なんでこんな・・こんな大事な事を、忘れて・・・!」

「・・・!?」

 彼女の言葉に、エアニス達は息を呑んだ。

 レイチェルの怯えた顔は、次第に歓喜の色に変わってゆく。

「は、はははっ、そっか、私、助かったんですよね・・・

 思い出しました・・・トキさん、チャイムに、エアニスさん・・・!!」

『・・・!』

 エアニスはレイチェルの元へと駆け寄る。涙を浮かべる彼女の目は、はっきりとエアニスを見ていた。あの知らない人を見るような瞳の色は、もう無い。

 チャイムがレイチェルにぶつかるようにして抱きついた。

「お帰り!! レイチェル!!!」


「は、ははっ・・・」

 泣き笑いをしながら抱き合うチャイムとレイチェルを見ながら、エアニスは乾いた笑みを浮かべる。レイチェルを支えていたトキも、そのままレイチェルの体を抱き締めていた。いつもならチャイムにセクハラと言われて殴られている所だろうが、今だけは見逃されているようだ。三人は恥も外聞もなく涙を流し、ただただ純粋に喜んでいた。

 エアニスの足は震えていた。嬉しくて足が震える事など今まで経験した事が無かった。

「石を持っていた間の記憶と現在の記憶が混濁して、暫くは混乱があるだろうが、暫くすれば自分の身に何があったのか理解出来る筈だ。

 石を使っていたお前なら分かるな?」

 その様子を見ていたイビスが無表情で言った。エアニスは彼に振り向き、

「ありがとう。礼を言わせてくれ」

「・・・お前達に礼を言われる資格など俺達には無いさ。

 だが、気をつけろよ。"石"の力は失われたとは言え、それに蓄えられた知識は危険な物も沢山ある。

 エルカカの民であるその女が責任をもって管理するんだな」

「・・・いいのかよ。お前達なら"石"の知識を利用すれば、魔族だった頃みたいに好き放題出来るんじゃねぇのか?」

 エアニスの疑問に、イビスは笑いながら答える。

「もう用済みだ。何年も前に、必要な知識は全て書き写させて貰った」

 エアニスの眉が跳ねた。

 "石"の記憶は、使い手が"石"と繋がっている間しか引き出す事はできず、それを手放すと自分の中にあった"石"の記憶は綺麗に消え去ってしまう。どんな些細な記憶でさえ、"石"の記憶が使い手の記憶に残る事は無い。

 だが、その記憶を何らかの形ある物として残し、それを知識として再び吸収する事によって、"石"の記憶は本当の意味で自分の物に出来るのだ。だからイビスは"石"の記憶があるうちに、それを紙に記録してしまったのだ。"石"の記憶を、自分の知識とする為に。

「・・・その知識で何をするつもりだ?」

 一度納めた剣に、エアニスは再び手を掛ける。

「人間達の害になるような事はしないさ。

 信用出来ないというのなら、今ここで俺達を拷問にでもかけて写本の在り処を吐かせ、本を焼きに行けばいい。俺達には抵抗する力も止める力も無いぞ?」

 エアニスの心に迷いが生まれる。この二人が"石"の記憶を持つという事に危機感を感じるのは、魔族であった頃の二人を知るエアニスにとって当然の危惧だった。

 しかし、もし人間に対して悪意を抱いているならば、馬鹿正直にそんな事をエアニスに告げる筈は無い。

 エアニスの葛藤に構う事無く、イビスはエアニス達に背を向ける。

「俺達の用はこれで全てだ。もう行かせて貰う」

 エアニスの沈黙を容認と受け取ったのか。イビスは荷物を手にし、その場を去ろうとする。

「ま、待て!」

 エアニスは思わず二人を呼び止める。

「母には半年以内には帰ると言ってあるんだ。既に予定が押していてな、すぐにでも帰路に就かなくては約束の日までに帰れない。母を心配はさせたくはない」

 イビスはとても信じ難い、まるで普通の人間のような言葉を吐いた。エアニスは呆気に取られる。

 アイビスが、二人の間に割り込む。

「今の私達は、多分あんたが思ってる以上に、普通の人間なのよ。

 お父さんは戦争で死んじゃったけど、私達は母さんとおじいちゃん、小さな妹って家族が居るの。3ヶ月後には畑のお仕事があるから、それまでには帰らないといけない・・・。家族にも村の友達にも心配掛けたくないのよ」

 アイビスは真面目な顔で、そう話した。エアニスは立ち眩みを起こしそうになる。馬鹿けている。しかしエアニスにはそれを笑い飛ばす事は出来なかった。

「・・・良い家族に恵まれたみてーだな」

「まぁ、ね」

 100%信用した訳ではないが、彼らがわざわざリスクを犯してまでエアニス達の前に現れた理由も分からない。

 何より、エアニスは彼らが嘘を吐いているとは思えなかったのだ。

 肩の力を抜き、諦めにも似た溜息を吐く。

「分かったよ、行っちまえ・・・。またな」

「・・・もう、お前達の前に姿を見せるつもりは無いさ」

 そう言い残して、イビスは背を向けた。

「ありがとう。それと、ごめんなさい」

 アイビスは、最後の最後までらしくない言葉を吐く。

「止めろ、気持ち悪い」

「・・・いひひひっ」

 ようやく、アイビスらしい、ひどく意地の悪い笑みを見せる。

 こうして、魔族だった二人の少年と少女は、エアニス達の前から姿を消した。

 イビスの言った通り、それ以後エアニスは彼等の姿を見る事は無かった。



 ◆  ◆  ◆



 エアニスは木漏れ日の差し込む森の中を歩いていた。

 足元は石畳で舗装されて、その脇には幾つもの墓標が並んでいた。つまり墓地にいる訳だが、周りに生い茂る木々の密度から墓地と呼ぶよりは森と呼んだ方が、この場所を表す言葉としては近かった。半年近くも手入れがされていない為、地面から伸びる雑草が背の低い墓石を覆い隠し始めていた。これがなければ、まだ"森"ではなく"墓地"と呼ぶ事が出来たのかもしれない。

 エアニスの探していた墓標はすぐに見つかった。

 他の墓標と比べてひときわ大きく、そして古い。大きく名前と生まれた年、没年が刻まれている。没年は今から250年も昔の年号だ。

 エルカカの民の始祖、エレクトラ=アラスティアの墓標。

 ここはエルカカの村の墓地。エアニスは今、レイチェルの故郷、エルカカに居た。



 エアニス達は、飛空艇を使いファウストの街を後にした。

 イビスとアイビスとの邂逅の数日後、バイアルス山で保護された遭難者達の迎えにレオニール本国から船が来たのだ。ファウストからレオニールまでは相当の距離があり、車や鉄道を使っても何十日もかかる。その事や遭難者達の人数を考えれば、決して大袈裟な事では無かった。

 そしてエアニス達も、彼等の恩人として、レオニールに招かれたのだ。

 だが王宮に招かれたエアニス達は早々にレオニールを後にし、エルカカの村へ向かった。

 チャイムやトキは先を急ぐ理由も無いのだからもてなしを受けようとぼやいていたが、レオニールでは"月の光を纏う者"の悪名は高く、エアニスが長居する事を拒んだのだ。結局、その事情を聞いたチャイム達はエアニスを引っ張って逃げるように街を去った。

 レオニールの首都から、エルカカの村までは車で10日とかからずに着く事が出来た。

 もし彼等の飛空艇を使わず、バイアルスからエアニスの車でエルカカに向かっていたら2ヶ月以上はかかっていただろう。レオニール兵を助けたのは偶然の成行きであったが、お陰で予定を大幅に繰り上げる事が出来た。



「いいざまだなぁ・・・ティアドラ」

 エアニスは墓標に絡みつく蔓草を引き剥がしながら笑った。ティアドラの墓標は特に自然の侵食が激しく、汚れていた。

 エアニスは、エレクトラの事をティアドラと呼ぶ。彼が知っているのは、あくまで自分と歳の変わらないのに、やけに尊大な古臭い言葉使いをする、あの達観しきった金髪巨乳女である。エレクトラなどという知り合いは、エアニスには居ない。そういう認識だった。

 墓標を覆う落ち葉と土を足で適当に退けてから、エアニスは墓石の正面に座る。何の手土産も無い事に気付き、とりあえずエアニスは煙草に火を着けて墓標の上に転がした。自分も口に咥えて、火を着ける。

「・・・ずーっと言いたかった事があるんだけどよ・・・」

 紫煙を吐いてエアニスは恨みがましく言う。

「今回の戦いは、全部お前のヘマの尻拭いじゃねーかっ」

 思い切りエアニスはティアドラの墓石を蹴りつける。

「いや、そもそもあの戦争だってヘヴンガレッドなんてモノがあるから起きたんだ。シャノン達エルカカの人間も、250年間ずーっとお前の尻拭いしてきたんだろ?

 あぁぁ、とんでもなく迷惑な話だ・・・250年前にオマエがどんなヘマをしたか知らんが、しっかりと魔族どもを向こうの世界に押し込んで、用済みのヘヴンガレッドも封印出来てさえいれば、こんな事にはならなかったんだろ?

 レイチェルもこんな苦労しなくて良かった。

 シャノンも死なずに済んだなぁ・・・・。

 それに、俺の連れのゲイルと、そしてレナもだ・・・。

 死んで詫びても済まねーぞ」

 もう死んでるけどよ。と付け加えて、墓標にもたれかかる。

「でも、まぁ。この戦乱が無ければ、俺はゲイルにもレナにも出逢う事は無かった訳だ。

 そしてトキやチャイム、レイチェルやお前とも、な」

 エアニスは笑う。

「それについては感謝してるよ。不幸の上に成り立った幸福を肯定する気は無いが・・・今、俺はあいつらと一緒に居て楽しいし、レナやトキ、チャイムやレイチェルと出会って、俺は良い方向に変われたと思う。感謝しきれない程に、感謝してるつもりだ。

 ・・・あぁ、ゲイルは別だ。あいつからは悪い影響しか受けてねぇ気がするし・・・。ま、"エアニス=ブルーゲイル"の名を譲ってくれた事には感謝してるけどな。それがなければ大戦後の穏やかな生活は無かった訳だし・・・」

 エアニスはふと思い出し、雑草だらけの墓地を見回す。

「そうそう、ゲイルの奴もエルカカの墓に入れて貰ってる筈なんだが、何処に居るか知らないか?

 ・・・まぁいいか。いずれココも綺麗に掃除される筈だし、今度来た時にでも探すよ」

 エアニスは立ち上がり、短くなった煙草を足元に落としブーツで踏んで火を消した。ティアドラの墓標に転がした煙草も全て灰になっている事を確認すると、墓標に預けていた背を離し、彼女と向かい合う。

「・・・とまぁ、そんな事を思った訳だ。

 くたばって口も利けなくなったお前にだからこそ話せる事だ。少しは気が晴れたぜ」

 付き合わせて悪かったな、とエアニスは笑った。

「そろそろ戻るよ。あまり長い間サボってるとチャイムやトキがうるせぇからなぁ・・・」

 エアニスは少しだけ名残惜しそうにティアドラの墓標を見つめ、そして踵を返して歩き出す。

「じゃあな」



 エアニスがエルカカの村を見て抱いた印象は、大戦中にいくつも見てきた、戦火に焼かれて打ち捨てられた廃村と同じものだった。

 違う所と言えば、所々で2年半前に訪れた在りし日の面影が垣間見えてしまい、陰鬱な気分にさせられる所か。

 エルカカの村に着いてから暫くの間、レイチェルはよく泣いた。

 村にルゴワールの刺客が押し寄せたあの日から、彼女は村の住人全ての意思を引き継ぎ、ここまで戦い続けて来たのだ。気丈に振舞い続けてきた彼女だったが、旅を終えてタガが外れたのだろう。今まで堪えていたものを全て吐き出すかのように、レイチェルは泣いた。

 村には未だに結界の効力が残っていた。村を囲む森の中で侵入者をで迷わせ、寄せ付けない結界。レイチェルが居なければ、エアニス達も村の中に入る事は出来なかっただろう。

 その為、村は襲撃された時のまま、誰にも荒らされること無くそのまま残っていたのだ。

 エアニス達はレイチェルと話し合い、村の瓦礫を全て片付ける事にした。

 村人達の遺体もそのままだった。ルゴワールが遺体だけでも回収していないかと期待していたが、今回の彼等の仕事は雑だった。

 レイチェルの負担になるだろうから出来るだけやらずに済ませたかった事だが、レイチェル当人はその現状をエアニスから聞かされ、安堵していた。自分の手で、村の人達を埋葬できるのならば、それに越した事は無い。ルゴワールの刺客達に回収され、ぞんざいに処理されてしまったかもしれない事を考えれば、それすらも彼女にとっては救いだった。

 そして、エアニス達は見つけた遺体の数だけ墓穴を掘り、レイチェルが出来る限りその墓標に名を刻んで、埋葬した。

 レイチェルの父、シャノンの遺体も見つける事が出来た。

 父親の埋葬を終えて、レイチェルは「よかった」と、寂しそうに笑った。

 エアニスはレイチェルの強さに感嘆する。彼女はエアニスやトキのように、死体を見慣れて何も感じなくなってしまった人間ではない。

 そんな人間が、一度にこれだけの人の死に向き合う事は、並大抵の事ではないだろう。それも、殆どが彼女の知る顔なのだ。

 レイチェルはそれに正面から向き合い、全てを受け止めたのだ。

 エアニスには、それは何処となく、いつかのレナの姿と重なって見えた。

「・・・なぁ、レイチェル」

「はい?」

「困った事があったらいつでも呼べよ。

 いつでも助けに来てやるからな」

「!?・・・は、はぁ、ありがとう・・・ございます・・・」

 あまりに想いが真っ直ぐな人間を見ているのは、怖い。だがその行いは正しく、潔癖なまでに美しい。エアニスは、それはとても尊いものだと感じ、そんなレナに剣を捧げた。

 レイチェルは、それに近い気質を持っているように感じる。

 だからエアニスは、今更ながら彼女にそんな言葉を掛けた。そのいい加減な言葉をレイチェルはどう受け取ったかは知らないが、それはエアニスにとって誓いとも言える言葉だった。

 もちろんエアニスは、トキやチャイム、仲間のために剣を振るえる人間だ。だが自分の剣を捧げても良いと思えた相手は、未だかつてレナしか居ない。

 そして今日、レイチェルがそのふたり目となったのだ。



「エアニス! いつまで休憩してんのよもう!!」

「うるせーな。もう一通り片付いてるんだからいいだろうが」

 村に戻るなりチャイムに小言を言われた。

 エアニスの言う通り、村の瓦礫は大方片付いている。殆どの建物が焼けていたので、建物の解体はそれほど大変ではなかった。村一つ分の瓦礫処理など本来ならば大勢の人を雇って取り掛かる規模の大仕事だが、エアニス達は4人だけで、それをこなした。

 レイチェルが魔導で瓦礫を埋める為の穴を掘り、トキとチャイムが車を使い瓦礫を運び、エアニスは焼けずに残った建物を剣一本で斬り崩していった。遺体の埋葬と合わせ、全てを終えるのに20日近く掛かり、昨日、その全ての作業を終えた。

 あくまで片付けが終わっただけで、これからエルカカをどうして行くかといった事等は全て棚上げされたままである。

 それでも、とりあえずの区切りとして、今日は4人で打ち上げパーティーをする事になっている。

 チャイムは村でただ一つの建物の前で小さな瓦礫拾いをしていた。これは村の建物の殆どが焼け落ちていた中、唯一僅かな損傷のみで焼け残った建物だ。村の片付け作業の拠点として、エアニス達はこの建物を修復し、この20日間の宿としてきたのだ。

 特に言う必要も無いので黙っていたが、この建物は二年半前、エアニスがエルカカの村を訪れた際、レナやゲイルと共に数日間を過ごした屋敷でもあった。

 建物は半壊していたが、エアニスとゲイルが使っていた部屋も、レナが使っていた部屋も、レナとゲイルがエアニスの誕生日を祝ってくれた食堂も、当時の姿のまま残っていた。

 それを見たエアニスは流石に郷愁を誘われた。彼女がいつも座っていたロッキングチェアに手を当てて、あの数日間の暮らしを思い出す。

 屋敷の事をチャイム達に話さなかったのは、あの思い出を自分だけの大切な物としておきたかったのかもしれない。


「はい、瓦礫拾い。後は頼んだわよ。あたしはウチでパーティーの準備してるから」

「はいよっと・・・

 あぁ・・・。朝早く起きて労働して、決まった時間にメシ食って寝る生活も、そろそろ終わりか・・・意外と悪くなかったな。健康になった気がする。

 ミルフィストに居た頃は一日中寝て過ごしてたからな・・・」

「アンタこの機に職に就いたら?」

「そうだな・・・俺、絶対社会で働けないと思ってたけど少し自信付いたわ」

 そんな事をぼやきながら、エアニスはのたのたとチャイムに渡された瓦礫を入れる籠を背負った。

 なんだかエアニスが丸くなってしまったように見えた。でも、この機に彼の牙を引っこ抜いてやる事も、一つの優しさなのかもしれない。それで平和な生活を送る事が出来るのであれば。チャイムはそんな事を考えた。

「あ、あたしと一緒にエベネゼルに来るなら、仕事紹介してあげてもいいわよ・・・」

「・・・・・・」

 思わずそんな事を口走る。

「・・・ ・・・っ ・・・っ!」

 驚くエアニスに見つめられ、彼女の顔はみるみる赤くなってゆく。

「あぁ、まぁ考えとくよ」

「う、うん。うん!」

 かくかくと頷いて、チャイムは逃げるように家のドアの向こうへと消えていった。

 もっとも。

 大戦中にエベネゼルの王宮を襲った事のあるエアニスにとって、エベネゼルはこの世界で一番近づいてはいけない国である。この先、チャイムと一緒にエベネゼルへ行く事は無いだろう。

 チャイムだってそんな事くらいは分かっている筈なので、今のはその場の思いつきか冗談の類だろう。

 エアニスはそう思う事にした。



 日が沈む少し前に、一番近い街へ食料の調達へ行っていたトキとレイチェルが帰って来た。ここにはまともな調理道具が無い為、いつも出来合いの料理ばかりだ。それらを全て温め直し、エアニス達が囲むテーブルにはそれなりに豪勢な料理が並んだ。

「かんぱあぁぁーーい!!!」

 チャイムが立ち上がり、グラスを天高く突き出した。

「乾杯」とレイチェルが小さくグラスを傾け、「お疲れ様でした」とトキがいつもの調子で笑い、エアニスは無言でグラスを傾けた。チャイムは一気にグラスの中身を煽ると腕を振り上げて、

「暗いわよッ!!」

 エアニスの頭を思い切り叩く。パァン!と景気の良い音が響いた。トキとチャイムが目を剥く。

「ってぇ!! 何で叩くんだよ!!」

「エアニスがこのパーティーやろうって言い出したんじゃない!!

 あんたが盛り上げなくてどーすんのよ!!」

「!!?」

 チャイムの叫びにエアニスは戸惑い、トキとチャイムを見る。チャイムはキョトンと目を瞬かせ、トキは首を傾げた。

「いやいやいやいや!!

 お前がやろうって言い出した事じゃねぇか!!

 何で俺が言い出した事になってんだよ!!?」

「・・・勢いであんたの頭を叩いた言い訳が思いつかなかったから。

 適当な事を言ってみました」

 パァン!!と、エアニスはチャイムの頭を叩き返した。

 トキが肩を揺らして笑う。

「まぁ、そうですよね。

 正直、何かを祝うという気分にはなれないかもしれませんね」

 溜息混じりに言う。その隣で、レイチェルも寂しそうに笑った。そんな彼らを見て、チャイムは静かにグラスを置く。

「・・・そうかもね・・・ごめん」

 チャイムはしおらしく謝った。皆を楽しませようと無理に明るく振舞ったのだろう。エアニスは浮かしていた腰を椅子に下ろす。

「全てがそれなりに上手く行ったが・・・シャノン達が生き返ってでもくれないと、ハッピーエンドとは言えねーよな・・・」

 4人の間に沈黙が落ちた。彼等の旅の結末は、ひどく物悲しいものとなりそうだった。

 エアニスは空になったグラスに自分で酒を注ぐ。エアニスに酒を嗜む習慣は無いが、別に嫌いという訳ではない。ただエルフの体はアルコールへの耐性がそれほど強くない為、普段は控えているのだ。だが、今日のような特別の日は違った。

「終わった事は終わった事だ。これからの事を考えよう」

 エアニスの言葉に、レイチェルは反射的に目を伏せてしまった。

 これからの事。それぞれの、これから。

 別れの時が来たのだ。



「僕は大学がありますのでミルフィストへ戻りますよ。

 エルバークの街に行ってノキアさんの具合を診てからになりますけどね」

 料理の鶏肉に手を付けながら、トキが言う。その声には何の感慨もない。いつものように、芝居がかった丁寧な言葉遣いだ。

「・・・そいやお前大学生だったな。すっかり忘れてたよ」

「大丈夫なの? もう3ヶ月以上サボってるんでしょ?」

「あはは、単位の数には余裕がありますから大丈夫ですよ」

 ヘラヘラと笑って答えた。

「すみませんでした、私のせいで・・・」

「とんでもない。大学で勉強するより、ずっと有意義な時間を過ごす事ができました。この事は一生忘れません。お礼を言うのは僕の方ですよ」

 トキはレイチェルへ右手を差し出した。レイチェルはその手を取って、硬く握る。

「それで、レイチェルさんはどうされるんですか?」



「私は・・・エルカカを、再興します」

「・・・本気かよ?」

 エアニスはレイチェルに前々からその意思がある事を知っていたが、聞き返さずにはいられなかった。

 ヘヴンガレッドが失われた今、最早エルカカの隠れ里にその存在意義は無い。村は人目に付かない場所にあるため生活の便も悪く、新たな移住者も望めないだろう。

「エルカカの人達は"石"を探す為に、世界中に散っています。私が知るだけでも、何人かの人達がエルカカの村に帰ってきていません。きっと、今も"石"を探して、旅をしているんだと思います。

 その人達はいずれ村に、エルカカに帰って来ます。

 だから私は、帰ってくる皆全員に"お帰り"を言うまで、この村で待とうと思います。

 そしていずれ、皆でこの村を・・・」

「・・・そうですか」

 不意に、トキはレイチェルの胸元に目が行った。そこには、彼女が出会った時から身につけていた、黒い石の嵌めこまれたタリスマン。その中には最後の一つのヘヴンガレッドが閉じ込められていたが、今はその成れの果てが収められている。

「少々、不便な体になってしまいましたね・・・」

 レイチェルがエアニス達と旅をしていた間の記憶は、レイチェルの中から失われてしまった。だがそれは、あの双子の兄妹のお陰で戻って来た。

 しかしその記憶は、レイチェルがヘヴンガレッドを身に付けていないと、彼女の記憶の一部とはならなかった。レイチェルがヘヴンガレッドを手放すと、たちまち彼女はエアニス達と過ごした2ヶ月間の実体験を忘れてしまうのだ。石を手放したとしても、その二ヶ月間に何があったのかという事は、知識の上では身についている。だがそれは、実体験とは違う、単に人から聞いた話でしかない。

 レイチェルは胸元に手を当てると、首を振った。

「別に、この旅の間ずっと身に付けていたものですし、何も気にしていませんよ」

「でも、お風呂の時とかは外してしまうんでしょう?」

 チャイムが「セクハラ!」と叫んでトキの後頭部を叩く。エアニスが笑った。

「いいえ、どんな時も、肌身離さず持っていますよ。

 私にとってこの2ヶ月間は一瞬たりとも忘れたくない、大切な思い出ですから」

「・・・参りましたね」

 セクハラ発言をそのように返されてはトキの立つ瀬が無い。トキはいつもの作り笑いではなく、そう言って貰えた事が本当に嬉しくて、照れるように笑った。

 レイチェルは自分の右手を見る。その手はまだ、握手の形でトキに握り締められたままだった。レイチェルはそれを両の手で包んで、

「トキさんも、時々遊びに来てくださいね」

「ミルフィストからエルカカまで歩いたら1ヶ月近くかかりますよ。車を使っても往復20日弱・・・ですか。まぁ、次の春休みにでも遊びに行きますよ」

「あ・・はは・・・ちょっと無理がありますね・・・」

 エルカカとミルフィストの位置関係を思い出し、レイチェルは残念そうに言った。

「全然無理なんかじゃ無いですよ。僕はレイチェルさんの事が好きですからね。

 暇さえあれば喜んで遊びに行かせて貰いますよ」

「はい!」

 レイチェルは嬉しそうに笑い、そして名残惜しそうに二人はその手を離した。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 何かトキが凄い事を言ったような気がしたが、トキとレイチェルはその言葉を気に留める事も無くスルーしたうえ、何ともすっきりと話を纏めてしまった為、エアニスとチャイムは突っ込むタイミングを逃してしまった。



「俺はミルフィストには戻らない」

 咳払いを一つ挟み、エアニスは話を戻した。

「戻らないんですか? 何か用事でも?」

「宛ても目的も無いが、このまま旅を続ける。暫くこの辺りの土地を離れるよ」

「あぁ、そういう事ですか・・・」

 ふたりのやり取りに、レイチェルが小首を傾げる。

「今回の件では僕達は少々目立ち過ぎましたからね。少なくとも、ルゴワールには僕やエアニスの正体は伝わってしまった・・・暫くほとぼりを冷ますつもりですね?」

 エアニスの端的な言葉をトキが分かりやすく言い変えた。

「そういう事だ。トキ、お前は本当にミルフィストに戻っても大丈夫なのか?

 暫くの間は一所に留まるのは危険だろう?」

「ルゴワールは面子やプライドの為に得にもならない報復を考えるような馬鹿な組織じゃありませんからね。大丈夫でしょう」

 楽観とも取れる言葉だが、違った。トキはもし報復に遭ったとしても、それを受けて立つつもりでいるようだ。その意図に気づき、エアニスは短く口笛を吹く。

「余裕だねぇ・・・まぁ、とにかく俺はそういう事だ。もう少しだけ、ブラブラするさ」

 そこで一度言葉を切ると、エアニスは黙り込んでしまった。不自然なタイミングで訪れた沈黙にトキは「おや?」と首を傾げエアニスを見ると、彼は薄く笑っているような、でも何処か寂しそうな、不思議な表情を浮かべていた。

 彼は長い前髪をかき上げながら言う。

「トキ」

「はい?」

「・・・もう1年半以上前か。

 セトの街で出会ってからこれまで、色々ありがとうな」

 照れくさそうに、エアニスは笑いながら言った。トキの方は暫く呆気にとられたような顔を見せると、すぐにエアニスと同じような、寂しさを堪えた微笑を浮かべる。

「礼を言うのは・・・僕の方ですよ。あなたにどれだけ救われたことか・・・」

 思えばエアニスと出会って一年半以上、ずっと彼と行動を共にしてきたのだ。今生の別れなどという事ではないが、やはり別の道を歩む事になるというのは、胸が詰まる。感情がこみ上げて来るのを感じた。

「お互い様さ。

 まぁ、暫くしたら一度はミルフィストに帰るからよ。留守を頼むわ」

「えぇ、お待ちしてます」

 二人はいつも通り、気楽そうでいい加減な口ぶりで別れの挨拶を切り上げた。



 そして、エアニスとトキ、レイチェルは、未だ黙ったままのチャイムの方を見た。

「あたしは・・・もっとみんなと旅がしたいな・・・」

「はぁ?」

「・・・チャイムさん?」

 俯きながら言ったチャイムの声は、うわずっていた。表情は見えなかったが髪から覗いた耳は真っ赤に染まっており、彼女が泣いている事はすぐに分かった。

「レイチェルもさ、もっと、沢山世界を見て回りたいって言ってたじゃん!

 トキも大学で勉強するより、旅をしてれば貴重な文献や凄い発見が出来るかもしれないじゃない!!」

 まるで子供が屁理屈を捏ねて自分の望みを通そうとしているような口ぶりだった。

「・・・おい、チャイム、」

 声を掛けたエアニスの袖を、チャイムはすがるように掴んだ。

 エアニスに向けられたその顔は、やはり涙に濡れてぐしゃぐしゃになっていた。

「エアニスはいいんだよね、このまま旅を続けるのならあたしと・・・」

「・・・チャイム。俺は、一人で行く」

「え・・・」

 唯一の望みを失い、チャイムは呆然とする。そんなチャイムにエアニスは目を伏せて、首を振る。

「俺やトキと一緒にいるのは、危険過ぎる。確かに俺達はこの旅でお前達の力になってやる事は出来たかもしれないが、それと同じ位・・・いや、それ以上に自分自身のしがらみにお前達を巻き込んでしまった」

 事実。この旅の間に遭ったトラブルの半分はエアニスやトキが引き寄せてしまったといっても過言ではない。ついでに、エアニスとチャイムのトラブル体質が、全く関係ないトラブルを運んで来た事も一度や二度ではなかった。

「お前達にこれ以上迷惑を掛けたくないし、危険な目にも遭わせたくない。

 だから、少しの間だけお別れだ」

 エアニスは涙で濡れたチャイムの目をまっすぐ見て、説得する。

「大丈夫よ・・・私もレイチェルも、自分の身は守れるわ」

 レイチェルまでも引き合いに出すチャイムに、エアニスは困ったように肩を竦める。

「・・・レイチェルだって、エルカカに帰ってくる仲間を迎えるって仕事があるんだ」

「でも、エアニス言ったじゃない!!

 俺と一緒に行くかって!!」

「っ!」


 別に、忘れていた訳ではない。

 ファウストに到着する前日。あの廃屋で野宿をした時に、エアニスとチャイムは二人きりで、少しだけ"これから"の話をした。その時にエアニスは自分がどうしたいのか、嘘偽り無くチャイムへ伝えていた。

「・・・あぁ、言ったな」

「トキだって、レイチェルの村の復興を手伝うって言ったんでしょ!?」

 チャイムはエアニスだけでなく、トキにも噛み付く。トキの意思を知らなかったのか、レイチェルは驚いて彼を見た。トキは一瞬呆けたような顔を見せて、エアニスを睨む。

「エアニスが喋ったんですか? 全く、余計な事を」

「悪い・・・」

 二人は溜息を吐いて、椅子へ沈み込んだ。

 エアニスは両手で顔を覆い、頭をがりがりと掻くと、

「あぁ、もう!!」

 やけくそ気味の声を上げてて、椅子から立ち上がった。

「俺も、お前と一緒に旅を続けたいさ!

 だからあの時、一緒に行こうって言ったよ!」

「・・・っ!」

 そうハッキリと言われ、チャイムは驚き固まってしまう。

 その不器用ながらも真っ直ぐな言葉に、トキの口角がニマリと吊りあがり、レイチェルは口元に手を当て頬を赤らめた。

 最近仲の良すぎるエアニスとチャイム。遂にその心の内を明かす時が来たのか! と期待し、傍観者としての立ち居地を取るためトキとレイチェルは素早く二人から一歩、身を引く。これ以上話の引き合いに出されるのは御免だという思いもあったが。

 注目される中、エアニスは声のトーンを落とし、チャイムに言い聞かせるように話す。

「でもな、それはやっぱり危険過ぎる。俺の言葉が浅はかだった。

 俺は多分、暫く色々な奴に命を狙われる。もちろん、殺られるつもりなんてカケラもねぇが、守れるのは自分の身だけだ。俺のトラブルに巻き込まれる誰かにまで、手が回る保証は無い」

「それは・・・この旅を始める時にも聞いたわ。

 でも、あたしは無事じゃない!! エアニス達が守ってくれたから!!」

「運が良かっただけだ。これから先は、どうなるか分からない。

 俺だってお前ともっと一緒に居たいさ。

 これからも、色んな所に行って、バカな話して、下らない事で喧嘩して、笑いあいたい。

 だから、その為に、少しだけ時間を置こう。

 俺達が一緒に居られるように、もう少しだけ待って欲しい」

「エ、・・・エアニス」

「・・・泣くなよ」

 エアニスはチャイムの顔を覗き込むようにして屈むと、彼女の涙で濡れた頬と目元を自分の袖で無造作に拭った。

 チャイムはその手を払い除けるとエアニスから顔を背け、両手で遮るように壁を作る。

「やだ! ちょっと・・・

 面と向かって言われるとその、は、はずかしぃ、から・・・」

 エアニスは恥ずかしがるチャイムの両腕を掴むと、彼女の顔を正面から見つめる。

「約束だ」

 そう呟き、チャイムに顔を、唇を寄せた。


 終わった世界のように静まり返る室内。

 トキとレイチェルは、その時何が起こったのか理解するのに幾ばかの思考が必要だった。

 もうその場の流れは完全にエアニスとチャイムは唇を重ね、もどかしかった二人の関係は遂にハッピーエンド。トキ達はどんな冷やかしの言葉かけるか、あるいは素直に祝福の言葉をかけるか考え始めていた。

 それがまさか、エアニスがチャイムに顔面パンチされて床に伸びてしまうという結末になろうとは誰が予測出来ただろうか。

 エアニスは椅子ごと床に引っくり返り、頭を打ったのかピクリとも動かなかった。チャイムは部屋の真ん中で拳を震わせ青ざめる。殺すつもりはなかったのにやっちゃった非業の犯人の顔である。

 事情を聞けば誰もが納得してしまう、やむにやまれぬ理由があったのではないかと考えてしまいたくなる犯行。だがしかし、チャイムには何の理由も無かった。敢えて言えば、エアニスを殴り倒したのは単に"恥ずかしかったから"という至極単純で乙女的な理由だった。

 トキは無表情でチャイムを見つめ、いつも優しくフォローしてくれるレイチェルが、チャイムに非難の目を向けていた。

「チャイム・・・今のエアニスさんは、すごい勇気を出して、チャイムに胸の内を話してくれていたと思うの・・・それなのにこれはちょっと・・・」

「ひっょとして・・・チャイムさんは本当にエアニスの事が嫌いなんですか?」

「ち、違う! つ、ついカッとなって・・・」

「恥ずかしくてカァァァッとなって殺っちゃったんですか?」

「そ、そうそう! そんな感じ!!」

 わが意を得たりと言わんばかりに、チャイムは何度も頷いた。

 トキは気まずい空気を切り替えようと、勤めて明るい声で言う。

「まぁ、しかし・・・チャイムさんの満更でもない顔を見て、流石に今回はこのような流れは無いかと思いましたが・・・何でしょうね。正直、安心しました。お二人はやはり、こういうバイオレンスな関係であるべきですね!!」

 親指を立てて、二人を祝福した。チャイムは引き攣った顔で笑う事しか出来ない。

「それで、」

 不意に、トキがかしこまった声で言った。

「エアニスの想いは伝わりましたか?」

 いきなり真面目な眼差しで問い掛けられた。チャイムは言葉を詰まらせて床に伸びたエアニスを横目でチラリと盗み見る。

「うん、まぁ。しょうがないから、待ってあげる」

 そう笑って、チャイムは納得したのだった。肝心のエアニスが失神したままなので今ひとつ締まらない結末だったが、彼等らしいといえばらしかった。

 そうして、4人はそれぞれの道を歩みだす。



 ささやかな打ち上げパーティも終わり、全員が寝静まった真夜中。

 エアニスが一人で玄関から外に出てきた。いつもの旅装束の上から冬用のマントを羽織っている。腰にはいつものように剣が吊り下げられ、肩には一抱えほどの鞄が掛けられていた。まるでこのまま旅に出てしまうかのような姿だった。

 エアニスは正面に停められた愛車の前で立ち止まる。ミルフィストに移り住んですぐに手に入れた古い自動車。自分の手で走れるように修理して、今回の旅ではとても長い距離を一緒に走ってきた相棒だ。愛着はあるが、これは今の自分よりトキとレイチェルに必要なものだろう。エアニスはボンネットをひと撫ですると、

「今までありがとうな」

 そう呟いて、そっと手を離した。最後にエアニスはチャイム達が眠っている屋敷を見上げると、様々な未練を振り切りるかのように背を向けて、歩き出す。


「ふぅん、大事にしてるんだね」

 車の陰から聞こえた声に、エアニスは飛び上がりながら振り返る。

「ちょっと意外かな。エアニスがそんなにもこの子に愛着持ってたなんて」

「チャイム・・・」

 車の陰には寝間着姿のチャイムがしゃがみ込んでいた。一体いつの間に気付かれ、しかも先回りされていたのだろう。チャイムとレイチェルは隣の部屋で眠っていた筈だ。彼女達の様子をはっきりと確認する事はしていないが、だとしてもエアニス程の使い手ならば先回りされた気配に気付くべきだった。もっとも、チャイムが上手に気配を隠せるようになってきたからという理由もあるが。

 彼女は眉を吊り上げてエアニスを見上げる。

「何も言わずに行っちゃうつもりだったのね?」

 最も見つかりたくなかった相手に見つかり、エアニスはばつが悪そうに頭を掻く。そして観念したように、正直に白状する。

「面と向かっての別れは苦手なんだ。

 これでも、寂しがり屋でな。決心が、鈍る・・・」

 らしくもなく、頼りない顔を見せるエアニス。

 チャイムは腰に付いた草を払いながら立ち上がると、エアニスの正面に立つ。

 そして、エアニスの胸にそっと自分の額を押し当てた。


「いいじゃん・・・ひとりぼっちは寂しいよ?

 一緒に行こうよ・・・」

 チャイムの囁きに、エアニスは「うぐ」と呻き、彼女の両肩を掴んでその体を引き離す。

「駄目だ・・・納得してくれたじゃねぇか。暫くは一緒には居られない」

「・・・ちぇ。やっぱ駄目かぁー・・・」

 両手を首の後ろで組み、残念そうに笑う。その笑顔からぽろりと涙がこぼれ、チャイムは慌ててそれを拭った。

「えへへ・・・待ってるからね。いつまでも」

 チャイムは照れ隠しのように拳を突き出し、

「そんなに待たせやしねーよ」

 エアニスも、彼女の拳に自分の拳をぶつける。そしてそのまま、チャイムの拳をそっと握った。チャイムも手の平を広げると、エアニスの手に指を絡ませる。

 互いの温もりを確かめ合う二人を月明かりが照らす。チャイムは少し照れたような顔で、それでもエアニスの顔を、瞳を見つめていた。

「何だよ、さっきは思い切り殴ってくれたくせに」

「だって、トキやレイチェルの前であんな事しようとするんだもん・・・」

「じゃあ、ふたりきりの時はいいのか?」

「・・・ま、まぁ、ね」

「そうか、良かった。ホントに嫌われてんのかと思っちまった」

「そんなワケないじゃない。

 あたしは、エアニスの事大好きだから」

「・・・うん。俺も、だ」

 そうして二人は、ごく自然に唇を重ねた。


 唇を離し、互いの額をこつんとぶつけてから、二人は顔を離す。

「えへへ・・・何だかんだで初めての・・・だね」

「ん・・・何かと邪魔が入ったからな・・・」

「ね、続きはいつ?」

「やめろ、恥ずかしい事いうなっ」

「ふふっ、ごめん」

 そして繋いだ手を、絡んだ指が一本一本離れていくように、離した。

 エアニスが後ろへ一歩、下がる。

「行くよ。手紙はミルフィストに送る。たまにトキやレイチェルの所にも遊びに行ってくれ」

「うん」

「じゃあな」

「ばいばい。またね」

 エアニスはチャイムに背を向けて、振り返る事無く歩き出した。

 最後に、互いの気持ちをはっきりと確認出来たのだ。

 もう、彼女との距離が離れてしまっても不安はなかった。



 そしてエアニスは再び一人の道を歩みだす。

 一人の旅路などこれまで何年も経験してきた事だったが、エアニスはこれまでにない気持ちを抱いていた。

 帰る場所がある。

 待っていてくれる人が居る。

 今思えば、一人の時は何処か「いつ死んでも構わない」といった自棄の念を抱きながら旅をしていたような気がする。それはそれで、気の楽な旅路とも言えた。

 しかし、今はその気楽さが無かった。

 今回の件で、エアニスが大戦中から引きずり続けてきた心残りも全て無くなった。

 これまでにない程身軽になった筈なのに、いつの間にかこれまで以上に大きな荷物を抱え込んでしまった気がした。

 エアニスは舌打ちをする。

「面倒臭いなぁ・・・」

 結局増えてしまった荷物の重みを心地よく感じながら、エアニスは笑った。



 真っ黒な夜空に、明るい月が浮かんでいる。

 月明りを照り返しキラキラと輝く草原を、エアニスは琥珀の髪を揺らしながら歩く。

 エアニスの中で、ようやくあの戦争が終わったような気がした。

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