第75話 私の知らない優しい人達
時は遡り、約3ヶ月前。
何処にでもあるような、ある農村での出来事。
「そっか、今日なのね」
少女は壁に掛けられたカレンダーを見上げて言った。
「何がだ?」
机に向かい分厚い本を読んでいた少年は、文字を追う視線を休ませず少女の呟きに反応する。
少年と少女は、さほど広くも無い部屋に二人で居た。部屋には二段ベッドと机が二つ。そして大きな本棚。両親から二人の兄妹に与えられた子供部屋である。ただ、本段から溢れ床に積み上げられた分厚く古めかしい大量の本は、子供部屋の雰囲気には似つかわしくなかった。
少女は少年の向かう机に腰かけながら言う。
「エルカカの村が焼き払われる日よ」
少年の文字を追う視線が止まった。少年は面を上げると、床に積み上げられていた本の山に読んでいた本を放り投げた。何と無く窓の外を見る。月明りに照らされた草原から晩夏の虫達の声が聞こえた。
「そうか・・・今日か。
今日、この日から始まるんだな」
「さぁ、どうだかね。何が"始まり"だったのか、今となっては分からないけどさ」
「・・・そうだな。まぁ、今の俺達にとってはどうでもいい事だ」
少年は椅子の背に身を預け、そのまま窓の外を眺めていた。読書に戻ろうとする様子は無い。その物腰は、少年の容姿に見合わずひどく大人びて見えた。
少女には、少年が何を思っているのか手に取るように分かった。
少年がそれを口にしないだろうという事も分かる。ずっと一緒にいるのだから、これくらいの気持ちは通じるのだ。
だから、少女は少年の思いを代弁する。
「ねぇ、行ってみない? バイアルスへ」
少年は顔を曇らせる。少女がそう言い出す事を予想していたからだ。だが、それが少年の事を思っての言葉だという事までは気付けなかった。少年は昔から鈍感なのだ。
「"あの日"、あの後、どうなったのか。知りたくない?」
「・・・危険だ。やめておけ」
「そうかもしれないけど、でも、私は知りたいわ。
それに、"あの日"の事を客観的に見届ける事で、気持ちに区切りが出来ると思うの」
少年の思いは、少女の思いと、そして少女の予想と同じだった。
彼は目元に手を当てて考える。言い訳を、考える。
「・・・オーランドとアルザニアでしか手に入らない魔導鉱石がある。バイアルスに行くなら、その調達も出来るか・・・」
少女はにこりと笑う。まるで事のついでだとでも言わんばかりの少年が可愛く思えたのだ。
「列車と船を使っても、3ヶ月近くかかる。山越えも必要だ」
「3ヶ月弱・・・それじゃ、すぐに出発すれば、ギリギリ間に合うって事よね?」
「ああ。だが、今の俺達にとっては大変な旅路になるぞ? 大丈夫か?」
「当然! 今更何言ってんのよ!?
あたしたちは、この世界をずーっと旅してきたんじゃない!!」
「ふん・・・そうだったな」
少女の宣言に少年は笑って、一瞬だけ昔に思いを馳せる。自分達にとっては失われた過去。しかし、それはこれから始まる事でもあった。
「行こう、バイアルスへ」
少年は立ち上がり、少女は頷く。
ここでも、一つの冒険が始まろうとしていた。
◆ ◆ ◆
日が昇り始めて間もない頃、エアニスは玄関のドアを空けて外へ出る。
屋敷の中も寒いが、一層冷えた朝の空気が玄関の中へと流れ込む。ティアドラの屋敷の前には芝生の生えた小さな庭がある。通りと屋敷の境界には背の高く手入れの行き届いた植え込みがあり、道行く通行人からの視界を遮っていた。
不意に、芝生に散らばる落ち葉が気になった。
玄関の隅にホウキとチリトリを見つけたので、エアニスは何と無く庭の掃除を始める。
間借りさせて貰っているのだから、この位の事はしておきたいと思ったのだ。
通りに面した門の前で、自転車だろうか、キイッ、と短いブレーキ音が聞こえた。
「おはようございまーす」
帽子を被った男が挨拶と共に顔を出した。手には小さな牛乳缶が下げられている。
帽子の男はエアニスの姿を認め、訝しげな表情を浮かべた。恐らく、エアニスも同じような顔をしていただろう。
「・・・あぁ、牛乳屋か? そこに置いといてくれ」
「は、はぁ・・」
帽子の男は掃除を続けるエアニスの横を通り過ぎ、玄関先に牛乳缶を置いた。
「あの、ティアドラさんはどうかされたんですか?」
「・・・ああ、」
この男はティアドラと知り合いなのだろうか。そいえば、昨日もその前も、玄関の前には牛乳缶が置かれていた。特に気にしていなかったが、毎朝この牛乳屋の男が届けに来ていたのだろう。
「ティアドラさんは用事があって数日留守にするよ。
俺達は旅行でこの街に来てて、留守番としてこの家を間借りさせてもらってるんだ」
「あぁ、そうでしたか」
エアニスの出任せに、帽子の男は安堵の表情を見せた。
「ファウストは良い街でしょう? 楽しんでいって下さいね」
「えぇ、どうも」
帽子の男は表通りに止めた自転車で、牛乳缶の積まれた重そうな台車を引きゴトゴト音を立てながら走り去った。
それを見送ったエアニスは小さく息をつく。
「妙な噂が立つ前に、この街を出た方がいいな・・・」
街に戻ってから既に3日が経過していた。
あの後、エアニス達は遭難していたレオニール軍の兵士達と一緒に2日掛りて山を降りた。戦争の終結を知らず山に篭り続けていた兵隊達が見つかったというニュースは、この最果ての街を騒がすには十分な出来事だった。レオニールの兵士達はファウストの街の役人達に保護され、治療や療養の場を提供して貰っている。レオニールはファウストの属している国にとっては敵国にあたるが、直接戦火を交えるような関係でも無かったため、戦争の終わった今、彼らを敵視するような者達は居なかった。
その騒動に紛れるようにして、エアニス達はティアドラの屋敷へと戻った。
そして、何をするでもなく、今に至る。
まだ無理は出来ないが、チャイムのお陰で体の傷は大方治った。
しかし、心の傷は当分治りそうに無い。
「うわっ、寒っっ!!
なにドア開けっぱなしにしてんのよ!」
寝巻き姿のチャイムが自分の両肩を抱きながら玄関から庭を覗き込む。
「空気の入れ替えだよ。っつーかお前、どれだけ着込んでるんだよ・・・」
「アンタは何で雪が降る中タンクトップと半パンなのよ」
「雪?」
気付けば、細かく雪が舞っていた。さっきまで降っていなかった筈だが、エアニスがぼんやりと考え事をしているうちに降ってきたようだ。自分の気の緩みに、呆れた。
「・・・暖炉に火、入れるか」
エアニスは暖炉の火が落ち着いたのを確認すると、側に置かれた椅子へと腰を下ろす。
「ねえ・・・髪」
「ん?」
チャイムに声を掛けられて、エアニスは振り向いた。
「髪はもう染めないの?」
「・・・ああ、」
自分の肩口に流れる銀の髪をすくい、面倒そうに答える。
琥珀色だったエアニスの髪は、あの戦いで"石"の力を使った途端、銀色へと変ってしまった。
いや、エアニスの髪は元々銀色なので、変ってしまったと言うよりは元に戻ったと言うべきか。
髪の色は単に薬品で髪の色を染めているだけでなく、ちょっとした魔導を使い、伸びてくる髪にも色が付くようになっていた。少なからず体内に魔導式を取り込む方法を取っていた為、"石"がその術を異物として認識したのだろう。髪染めの術式が消し飛んでしまったのだ。
「いいや、染めるよ。もう必要な薬品や、色の配合は済んでるんだけど、面倒臭くてやってないだけだ」
「ふぅん。じゃあさ、あたしがやってあげよっか?」
椅子に腰掛けるエアニスは、背後から突然チャイムに髪を触られる。
ビクッと飛び上がるエアニス。他人に頭を触られる事などあまり無かったからだ。
「うわぁ。エアニスの髪ってホント綺麗だよねー・・・羨ましいわ」
「あ、あぁ、」
「銀の髪も綺麗だけど、あたしはやっぱ、あの髪色のエアニスの方が見てて落ち着くかな?」
「・・・そっか。ありがとな」
はにかみながら笑いかけるチャイムに、チャイムは照れ臭そうに言った。
エアニスはそのまま暖炉の前の椅子に腰掛け、チャイムに髪染を頼んだ。
魔導を使うといっても、その手順は普通の毛染めと大して変わらない。琥珀色をしたクリームを、エアニスの長くて多い髪へ、ひと房づつ馴染ませてゆく。
「うわー・・・安請け合いしたけどコレ超面倒だわ・・・やっぱ止めていい?」
「こんな中途半端な状態でか? ふざけんなよお前・・・」
「冗談よ」
そう言いながらも、ハケと櫛を使い丁寧に作業を進める。
「そいや今日のゴハン当番って誰だっけ?」
「お前だろ?」
「うわっ、ホントに!?
ますます毛染めの手伝いなんて買って出るんじゃなかったなぁ・・・」
「いいよ、礼に今日は俺が代わってやる」
「ホント? いいの? それはそうと、最近エアニス料理の腕上げてきたわよね?」
「この旅の間、野宿が多くて食材も現地調達だっただろう? イヤでも料理は上手くなるさ。バリエーションや味付けの幅もかなり広がったぜ。
余った携帯食料や腐る寸前の食材があるから、それで豪華な朝飯でも作るか?」
「・・・んー・・・ど、どうかなソレは・・・」
「嫌なら手っ取り早く、パンピザと牛乳だ」
「あ、あたしパンピザ大好き! それでいいや!」
「いいのかよ」
そんな、他愛ない会話。
暖炉の火がエアニスの体を温めているように、エアニスの心も、チャイムと言葉を交わしているだけで、暖かくなってくる。いつまでも続いていてほしい、安らかな時間だった。
柄にも無い事を考えていると、不意にチャイムがこう言った。
「そいえば、レイチェルってまだ起きてないのかな?」
その名に、エアニスは喉を詰まらせる。
そして、極力普段と同じ声色を意識して、答える。
「・・・さあな、今日はまだ、見てない」
戸惑うように、目を伏せた。
◆
レイチェルは生きていた。
あの星空の世界から帰って来たエアニス達は、気付いたらあの洞窟の入り口で気を失い倒れていたのだ。
一番最初に目を覚ましたエアニスは、その隣にレイチェルの体が横たわっているのに気付いた。
彼女の血の気を失った肌に触れると、予想通り、冷たかった。
見ると、彼女の右の脇腹はいつの間にか真っ赤な血で染まっていた。
エアニスは彼女があの日、村から逃げ出す時に脇腹を撃たれたと話していた事を思い出した。今まで石の力で"無かった事"にされていた彼女の傷。それが石の力を失った事で、再び彼女の体に現れたのだ。
青白い顔で目を瞑るレイチェルを見る。乾いた唇が、一層生気の無さを感じさせた。
「・・・はっ、ぐ・・う、ぅぅぉ・・・」
思わず喉の奥から嗚咽が漏れる。人間の死に慣れているエアニスだが、親しい人間の死というものには慣れていなかった。これまでの人生で、エアニスと親しい人間関係を気づいた者は数える程しかしない。心の整理など、できそうにない。
喉の奥からせりあがる感情の塊を唾を共に飲み込み、エアニスは硬い雪の大地をこぶしで殴りつける。傷だらけのこぶしが、また擦り切れた。
◆
「ん・・っ」
小さな呻き声が聞こえた。
最初は気のせいだと思った。レイチェルの声が聞こえたのは。しかし、俯いていたエアニスが面を上げるとレイチェルの体は僅かに身じろぎするように、動いた。
「レイチェル・・・?」
エアニスは身を乗り出し、レイチェルの頬を軽く叩くと、
「こほっ! っうぁ・・ ぁ・・ !」
僅かに血を吐き、身をよじらせた。
エアニスは驚き、後ろに転ぶように尻餅をつく。
「はっ、ははっ・・・!」
引き攣った笑みを浮かべるエアニス。レイチェルの傷は内臓を抉り、血を吐く程に深い、命に関わる傷だ。笑っているような状況では無い。
だが、レイチェルは生きていたのだ。
「チャイム、起きろ!!」
エアニスはレイチェルの体を飛び越え、その向こう側で気を失っているチャイムを乱暴に叩き起こした。
それからレイチェルの傷の治療は半日も続いた。
弾丸が抜けた時に出来た大きな傷と、それに伴う内臓の損傷。大量の出血。
治療の魔導で傷を塞ぐ事は容易だったが、魔導では内臓の損傷を正しく治す事は難しい。だから、魔導による治療と、内臓や血管を縫合する直接的な外科手術を同時に行った。 トキやチャイムにとっても内臓に直接手を付ける類の治療は専門外だったが、レオニール軍の遭難者に軍医が居たため、魔導では治療しにくい内臓の傷も塞ぐ事が出来た。
本来なら輸血が必要な程の出血だったが、レイチェルの"血"の特異性を考え、輸血はしなかった。魔導師にとって血のバランスが崩れるという事は自分の魔力の性質が変わってしまう事を意味するからだ。しかも、レイチェルはあの大魔導師エレクトラの直系の子孫である。エルカカの民しか使えない空間や時間制御の術が使えなくなってしまう可能性さえある。それはきっと、レイチェルにとってアイデンティティの喪失とも言えるだろう。
当然、それが命よりも大事な事かと言われれば決してそうではない。しかし、可能な限りエアニス達はそれをしたくなかった。そして、その必要が迫られる前に、レイチェルの容態は安定したのだった。
しかし意識がすぐに戻る事はなく、エアニスとトキが交互にレイチェルの体を背負いながら、バイアルスの山を降りた。結局レイチェルの意識が戻ったのはほんの2日前、ファウストの街に戻ってからだった。
チャイムと、そしてレイチェル自身の推測によると、3ヶ月前あの日、"石"はレイチェルの願いを叶え、命を落としかねない彼女の右脇腹の傷を”無かった事”にしたのだという。
傷を"治した"のでも、命を"蘇らせた"でもない。そういったレイチェルの体を軸とした願いが叶えられていればこのような事にはならなかっただろうが、"石"は人間が干渉する事の出来ない、"事実"を捻じ曲げるという形で、レイチェルの願いを叶えた。だから、石の力の喪失が、このような形でレイチェルに襲い掛かったのだ。
しかし、でも、それでも。レイチェルは助かった。
全てが、丸く収まった。彼女は理不尽な運命に連れ去られる事無く、エアニス達の元へと帰ってきた。
誰もが、そう思った。
◆
「よっし、終りっと」
チャイムはテーブルに広げた紙にハケと櫛を置いた。そして、その横にある手帳を開く。
「ふぅん、この魔導式を動かせば、エアニスの髪に薬が定着するのね?」
「できるか?」
「当然。っていうか、すこしでも魔導をかじった事のある人なら誰でも出来るレベルよ」
そう豪語して、チャイムは手帳の式を組み込んだ呪文を唱え始め、
「・・・これでミスったら、エアニスの頭が漫画みたいなアフロになったりするのかな?」
「・・・おい。おいやめろよ! ふざけるなよ!!
手帳に書いてない事は絶対にするなっ!!!」
「冗談よ」
何処かワクワクしたような表情を見せながら、チャイムは右手の指をパチンと鳴らす。
ぽんっ、
と、軽い破裂音が鳴り、アニスの頭からホワワ~ンと煙が立ち昇った。
チャイムの口元がムズムズ動く。
「・・・なかなかシュールな魔導ね。気に入ったわ」
もう一回指を鳴らそうとしたチャイムを、エアニスは全力で止めた。
エアニスはチャイムの右腕を捻り上げながら、髪の染まり具合を確認する。以前と全く変わりない色味で、ムラもない。壁に掛けられた鏡をのぞいて前髪をかき上げてみる。銀の髪は根元まで、なめらかな琥珀色へと変わっていた。
「よし、大丈夫そうだ。ありがとなチャイム」
笑顔で礼を言うエアニスに、チャイムは全力でタップしながら、
「腕抜けちゃう!! 腕抜けちゃう!! ミシミシ言ってるって!!!」
半泣きで抗議していた。エアニスが手を離すと、チャイムは流れるような動きでエアニスの真下に潜り込み、その顎を狙ってパンチを繰り出し反撃に出る。それをエアニスは「こいつの動きも見違えてきたなぁ」などと思いながら適当にあしらう。普段どおりの二人のやりとりだった。
こつ、と床を鳴らす音が聞こえた。
取っ組み合ったエアニス達が音のした方を見ると、そこには普段着に身を包んだレイチェルが立っていた。
レイチェルは右手で杖をついていた。右脇腹の傷の影響で、右足の動きが鈍くなってしまったのだ。これも少し時間をかけて治療すれば治る筈だ。
レイチェルは、掴みあうエアニスとチャイムを見て固まっていた。口元をキュッと結んでから、勇気をふり絞るかのように言う。
「あ、あの、喧嘩はよくないです!」
「・・・・」
「・・・・」
レイチェルの的外れな言葉に、エアニスとチャイムはキョトンとする。そして、すぐに彼女が何を思ったのか理解した。
「あ、あぁ、違う違う。喧嘩じゃないよ」
「そ、そうそう! あたしたちって、いつもこんな感じじゃん!?」
笑いながら言う二人に、レイチェルはハッと驚いた様子で、
「あ、そう、だったんですか。すみません、余計な事を・・・」
「う、うん」
三人の間に気まずい沈黙が落ちる。
不自然で、ぎこちない会話。
レイチェルは俯き、視線を泳がせる。そして、チラチラとエアニスの顔を見ていた。
「あ、あぁ、この髪の色か?
今チャイムに染めて貰ったんだ。俺、普段はこの色に染めてるんだよ。
目立つだろ? 銀髪って」
「そう、だったんですか。・・・その髪の色も、綺麗ですね」
レイチェルは、にこりと笑う。その表情を見て、エアニスの浮かべていた笑みが、寂しさに沈んだ。小さく、息を吐く。
「まだ思い出せないのか?
俺達の事・・・」
ティアドラの屋敷でようやく意識を取り戻したレイチェルと喜び抱き合ったのも束の間、エアニス達は愕然とした。
レイチェルは記憶を失っていたのだ。
全て、ではない。エルカカの村がルゴワールの軍隊に襲われ、それから逃れたあの日。 それ以降の記憶が彼女から全て失われていた。
つまり、その直後にチャイムに助けられた事も、ミルフィストの街でエアニスやトキと出会った事も、自分の使命をまっとうした事も、全て忘れてしまっていた。
これも、石の力が失われた為だろう。
石はレイチェルの願いを叶え、彼女の右脇腹の傷を”無かった事”にした。それと同じだ。その願いの上に成り立っていたレイチェルのこの3ヶ月間は、彼女の記憶の中から"無かった事"になってしまったのだ。
「ごめんなさい・・・まだあの日以降の事は、思い出せないんです」
「そうか・・・」
「また、旅の話を聞かせてください。何か、思い出す切っ掛けになるかもしれませんし」
「あぁ、うん。そうだな。昨日の続きから、また話させてくれ」
そう言って、エアニスは笑った。
だが、それも恐らく無駄だろう。
エアニスはそう思っている。
まだ言葉にはしていないものの、エアニスは自分の経験からそのように感じ始めていた。そのような認識を持ちながら旅の思い出話をするという事は、まるでレイチェルの為ではなく自分自身を慰める為の行為にさえ思えた。
エアニスはパンにチーズとベーコン、薄く切ったトマトとピーマンを載せてオーブンへと放り込む。それだけでは寂しいので簡単な野菜のスープを作り、今朝届けられた牛乳と共にテーブルへ並べた。その間にオーブンの中のパンピザは焼きあがり、エアニスの朝食は完成する。
そいえば、レイチェルはトマトもピーマンも牛乳も嫌いだったな、とココに至ってようやく思い出したエアニスは、テーブルに座る彼女の顔色を伺う。しかしレイチェルは嫌な顔をせずに大人しくエアニスがテーブルに着くのを待っていた。
記憶を失ったと言っても、その辺りの事まで忘れてしまった訳ではない。恐らく朝食を作ってくれたエアニスに気を遣っているのだろう。偏食の多いレイチェルは、普段なら自分の嫌いな食べ物が出てくると、いつも言葉にはしないものの困った顔を隠そうとせず、でも少しづづエアニスの料理を食べるのだ。我慢しながら、残す事無く。そのような些細なレイチェルの素顔まで、今の彼女は隠してしまっている。エアニスは、それが寂しかった。
「トキはまだ起きてこないか?」
「起きてこないって言うより、また地下の書庫に篭ってるんじゃない?」
「・・・だろうな。呼んでくる、先食ってろ」
エアニスは妙に似合うエプロンを外して、ティアドラの寝室へと向かう。
エアニス達も帰って来てから知ったのだが、この屋敷の下には地下室があった。恐らくこの家の敷地よりやや広いくらいの地下室が、それも5フロアも存在していた。そこにあったのは大量の本や魔導書、あらゆる媒体で記された古文書など、計り知れないほどの価値がある蔵書だった。
トキはレイチェルの記憶喪失が判明したその日にこの地下室を見つけ、以来そこに取り憑かれたかのように本を読み漁っている。
もちろん、レイチェルの記憶を取り戻す方法を探す為だ。
初日はエアニスやチャイムも手伝ったが、解決の糸口も無いその問題は一日二日で解決出来るような物では無いという事が分かっただけで、資料探しは中断した。二人に関しては長期戦の構えである。急いだところで仕方ない問題だ。それよりも、傷付いた心と体を癒す方が先だろう。
しかし、トキは資料の調査を止めなかった。少しの時間も無駄にしたくないとでも言うように、トキはずっと資料を読み漁り続けている。
エアニスはティアドラの寝室へ這入ると、四角く切り取られた床の穴へと身を滑らせる。縦穴に立て掛けられた梯子を降りて、地下の大きな空間へと降り立つ。
床に着いたブーツの音が反響する。床も壁も天井も味気ないコンクリートで固められている。魔導師が作った建造物にしては、近代的な匂いがした。その空間に等間隔で背の高い本棚が整然と並んでいる。天井に明りとなるような器具が貼りついているが、電気やガスを使った機械式の明りではなく魔導式の明りだった。色々と弄ってみたが、結局明りを点ける方法が分からなかったので、結局この地下室での明りはカンテラを使っている。
トキの姿は他のフロアを探すまでも無くすぐに見つかった。一階の入り口から一番奥、さらに下のフロアに繋がる石階段の手前で、トキは本が大量に積み上げられた机に向き合い、ノートに何かを書き込んでいた。
エアニスの足音はフロア中に反響しているのに、こちらに気付いた様子も見せない。エアニスは溜息を吐いた。
「おい、トキ。もう朝だぞ?」
エアニスの短い言葉が、コンクリートで囲まれた室内でわんわんと反響する。ここはあまり会話をするのに向いていない空間のようだ。ティアドラ一人の為の書庫なのだからその必要は無いのかもしれないが。
トキはペンを動かす右手を止めると、初めてエアニスに気付いたといった様子で、顔を見上げた。
「あぁ、そうですか。駄目ですねこの部屋は。時間感覚が完全に狂ってしまいますよ」
「寝たのか?」
「いえ、暫くは覚えるべき地の知識が沢山ありますからね」
エアニスはトキのノートを覗き込むと、そこには魔導式がびっしりと書き込まれていた。
「お前・・・魔導師にでもなる気か?」
「まさか。僕には素質も魔力がありませんからね。ですが、僕でも魔導を理解する事は可能です。ノキアさんの薬を作った時にも、科学の知識と組み合わせる事が出来ました。まだまだ分からない事だらけですが、僕に出来る事もありますよ」
そう言うと、トキは再びペンを握り、ノートに魔導式を書き写し始める。この書庫を見つけてから、トキはずっとこの調子だった。睡眠も、食事もまともにとっていない筈だ。
そんなトキに、エアニスは伝えておかなければならない事があった。気が進まないが、黙っているのも良くはない。唇を湿らせ、エアニスは口を開いた。
「レイチェルの記憶は、戻らないかもしれない・・・」
おもむろに、エアニスは話を切り出した。
しかし、その声が聞こえていないかのように、トキのペンの動きは止まらない。
「・・・何故ですか?」
「俺も、石の力に触れた事があるから何となく分かるんだ」
エアニスは、チャイムやレイチェルの推測と、己の経験談を元に、自分の考えを話し始める。
「"石"と繋がると、アタマの中に膨大な記憶が流れ込んでくる。今までの石の記憶の全て、かつての石の持ち主の記憶の全てが、だ。その間は、その知識を全て自分のものに出来る」
トキは見向きもしない。エアニスは構わず話を続ける。
「だが、ひとたび"石"の力を切り離すと、アタマの中に押し込まれていた"石"の記憶は綺麗さっぱり消えちまう。"石"と繋がっている間は当たり前のように使えていた知識が、全く思い出せなくなるんだ。
どんな些細な記憶も、"石"から得た記憶は絶対に俺の中に定着する事は無かった」
「・・・」
「多分、今のレイチェルも石の力を手放した俺と同じだ。
レイチェルがチャイムと出会い、俺たちと出会い、使命をまっとうした記憶は『石の記憶』であって、『レイチェルの記憶』ではないんだ。
レイチェルは記憶を失ったんじゃない。俺達と一緒に旅をしたレイチェルは、"石"がレイチェルという人間を元に作り出された仮初の存在でしかなかったんだ。
だから、今のレイチェルは、俺達と一緒に居た記憶を失った訳じゃない。初めから、持っていないんだよ。持っていない物を失う事は出来ないし、呼び戻す事も出来ない。厳密な意味で言うならば、レイチェルは記憶喪失じゃないんだよ」
そこでエアニスの話は終わる。書庫の中にはトキがペンを走らせる音だけが暫く続いた。
気のせいだろうか、トキは耳元でチリッと何かが焼けるような音を聞いた。思わず、言葉が口を突く。
「だから? レイチェルさんの記憶は諦めろと?」
「記憶を失っちまったが、レイチェルは生きて帰ってきた。
あの状況からの結末としては、十分じゃないか?」
その言葉に、トキの苛立ちは許容を超えた。
トキは椅子から立ち上がると、エアニスの胸倉を掴み、その体を壁に叩き付けた。
「何故そう割り切った事が言えるんですか!?
何故この理不尽を受け入れているんですか!!?」
それはまるで、記憶が無くても生きてさえいればそれでいいと言っているように聞こえた。
この3ヶ月間のレイチェルの努力など、あっても無くてもよいと言われたような気がした。
確かにレイチェルにとって辛い事は沢山あった筈だ。だからといって、それは忘れてしまって良いというものでは、決して無い。
記憶自体失い、そう思う事すらも出来なくなってしまったレイチェルの代わりに、トキ達がそれを理解しなければいけない筈だ。
それを、エアニスは理解していない。
トキにはそう感じられた。
「今の彼女にとっては、自分の知らないうちに背負っていた使命が全うされてしまったようなものなんですよ?
知らない誰かに、自分の役目を奪われてしまった事と同じです。
生まれた時から決まっていた自分の使命を必死で果たそうとしてきた結末がそんなものだなんて、どんな気分だと思いますか?」
言葉遣いこそいつも通りだったが、エアニスを掴むトキの腕は怒りに震えていた。エアニスに向ける怒りとしては、それはやや過剰なものだった。行き場の無い怒り、というものだ。エアニスは抵抗する素振りも見せず、トキの射抜くような視線を受け止めながら応える。
「そりゃあ、やるせないだろうな。
だがな、それはあいつのこれからの人生に、必要なものか?
あいつの戦いは、もう終わったんだ。何処かの街で普通の女の子として暮らせるんだ。
この三ヶ月間の出来事は、これからの生活には邪魔だ。むしろ忘れちまったままの方がいい」
「ッ、それはエアニスが決める事じゃあ・・・!」
「あいつは、俺やお前のしがらみに巻き込まれ過ぎてる。この先、俺達に何かあったら、あいつの性格上きっと首を突っ込んで来るだろうよ」
そう言ってから、チャイムと一緒にな、と思い出したかのように付け加えた。
トキは言葉に詰まる。エアニスの懸念が納得出来るものだったのだ。
そのような考え方も、あるのかもしれない。レイチェルの事を思うのであれば。
怯んだトキの心の内に、エアニスは容赦なく切り込む。
「お前、レイチェルの為だとか言いながら結局は自分自身の為じゃねぇか。
レイチェルに、自分を忘れて欲しくないだけじゃねぇのか?」
「・・・っ!」
エアニスの言葉はトキの想いの本質を突いた。
トキはエアニスの胸倉を離すと、力なく椅子にもたれかかる。
くしゃりと髪を掴み、机に広げられた古文書とノートに視線を落とす。全く光の見えない調べ事に、正直トキの心も折れかけていた。
「エアニスにとって、人の生き死にとは何ですか?」
トキはエアニスにそう問いかけた。エアニスには問いかけの意図が読めない。
「心臓が動いていれば生きているんですか?
心臓が動いていて、脳が死んでいたらどうですか?」
「さあ。どうだろうな・・・」
「僕にとっての人の生き死にはですね、エアニス。
非常に独善的でエゴい考え方であると自覚した上で言わせて貰うと、相手の中に僕がいるかどうか、なんです」
エアニスは黙ってトキの言葉を聞く。
「僕の事を知らない人間なんてどうでもいいんですよ。僕の事を知らず、僕と関わりの無い人間は、僕にとって居ない事と同じなんです」
確かに大多数の人間は、相手の存在の認識を、どちらかと言えば肉体などといった物理的な物ではなく、魂や記憶といった物に対して行っている。その理屈を突き詰めれば、トキのその考え方も理解出来る。
「だから今のレイチェルさんは、僕にとっては死んでしまっているんですよ。
僕を知るレイチェルさんは、僕が知るレイチェルさんは、もう居ない。
エアニスのように、生きていればそれでいいなんて考えは出来ません」
「・・・」
「だから、僕は僕の為に、レイチェルさんの記憶を取り戻します。
放っておいてください」
そう言って、トキは再び机に向かい、ペンを取った。
エアニスは大きく溜息を吐き首を振った。何を言っても無駄なようだ。
「・・・好きにしろよ。気が済むまでそうしてればいい。
だが縛られ過ぎるなよ。レイチェルも・・・お前が知っているレイチェルも、それを望んでいるとは思えないからな」
そう言い捨てて、エアニスはトキの元を離れた。
エアニスが地下室から出ようとすると、出口にはチャイムとレイチェルが立っていた。二人はエアニスと目が合うと、気まずそうに視線を逸らす。
「聞いてたのか?」
「・・・ごめん、声かけるタイミング逃しちゃって」
「いいさ別に。レイチェルも、あまり気にするなよ」
「・・・あ・・、 ・・・」
レイチェルはエアニスに何かを言おうとして、口ごもり、そして視線を床へと落とした。
今の自分の言葉は、エアニス達にとって何の意味も無いのだと思ってしまったのだ。いくら自分の事で気を病まないで欲しいと言っても、どれだけ気丈に振舞っても、今のレイチェルは、エアニス達の知るレイチェルで無い以上、それは何も知らない他人の戯言でしかないのかもしれない。
そう、思ってしまったのだ。
何となくレイチェルの考えている事が分かってしまったエアニスは、俯く彼女の髪をポンポンと叩く。
「・・・俺が言った事も、何の確証も無いただの推測だ。やっぱり、何かの拍子に記憶が戻るかもしれないしな。
・・・たとえ戻らないとしても、俺達はお前の事を、よく知ってる。いい奴だって事もな。だから、とことん付き合ってやるぜ」
「・・・」
励ますつもりで言った言葉に、レイチェルは困ったように顔を曇らせた。エアニスはハッとして、その手を離す。
「・・・そんな言葉、今のお前には重荷にしかならねぇか・・・すまん」
ただでさえ相手の気持ちになって物を考えるのが苦手なエアニスに、今のレイチェルの気持ちなど容易に理解出来る筈も無い。気を遣わせてしまったと思ったレイチェルはぶんぶんと頭を振り、
「いえ、エアニスさん達には親切にして貰って・・・本当に、感謝しています」
「・・・」
レイチェルが他人行儀な口ぶりで話す度、エアニスの心はズキリと痛む。元々彼女の言葉遣いは丁寧で他人行儀な所はあったが、やはり、何処かが違う。
互いの言葉が、全てすれ違っている感じ。何をしても、何を言っても互いが傷付き、ままならない。
記憶を失ってしまったのなら、思い出せばいい、それが出来なくても、何があったのか教えてやればいい。そんな風に思っていたエアニスだったが、事はそんな単純な物では無いのだと少しずつ理解してきた。
どうして、こうなってしまったのか。
◆
その後、エアニスは散歩に行くと言って、逃げるようにティアドラの屋敷を出た。
ファウストの街外れは緑の多い丘になっている。バイアルスの山に登る前、チャイムと一緒に街中に灯る祭りの明かりを見た所から更に高い場所。周りには舗装された歩道も民家も無く緑が広がっていた。そこからエアニスは街を見下ろす。
ぎるるる、と腹が鳴って、朝食を作るだけ作って食べずに出てきてしまった事に気づき頭を抱える。
「何やってんだよ・・・動揺してるのバレバレじゃねーか・・・」
恥ずかし紛れにゴンゴンと丘の縁をなぞる鉄柵に頭をぶつける。戦争中、戦場に出ている間は数日程度なら何も口にせずとも戦い続ける事は出来たというのに、緊張の糸が切れていると体は正確な時間に3食の食事を要求してくる。
力なく柵にもたれかかり、大きく溜息をついた。
「どうする・・・これから・・・」
エアニス達の旅は終わった。
レイチェルの目的は果たされ、エアニスが2年半前から抱え続けていた、"石"の存在に対する不安も、これで無くなった。あとは旅の始まる前の生活に、平穏で怠惰な生活に戻ればいいだけだ。
いや。しかし、レイチェルには戻るべき場所が無い。それについても考えなければならないと思いながら、まぁ旅が終わってから考えればいいやと後回していた。
今がその時なのだが、とてもそんな事を考えられる状態ではなかった。
「忘れられるってのは・・・結構辛いもんだな・・・」
もちろん、レイチェルが命を取り留め自分達の元へ戻ってきてくれた事は、それこそ涙が出るほど嬉しかった。が、それと同じ位の喪失感をエアニスは感じていた。
邂逅と別れが同時に訪れたような、そんな気持ち。
そこに在るのに、そこに居ない感じ。
そんな事を考えて、エアニスは舌打ちをする。
「そんな考え方こそ、レイチェルの事を考えていないエゴの表れじゃねぇか・・・」
自己嫌悪を感じながら、エアニスは鉄柵に寄りかかる。
エアニスは一度大きく息を吸い込むと、空を見上げて伸びをする。懐から煙草を取り出し、口に咥えて火を点ける。空気の薄いバイアルスの山に登るという事もあり、ここ数日控えていたので一層煙草が美味く感じられた。
胸の奥に溜まった煮え切らない思いを、重い煙と共に吐き出す。
そして、弛みきった思考を切り替える。
「隠れてないで出て来いよ。今、気分が悪いから存分に相手してやるぜ」
鉄柵を背にし、森の奥に向けて言い放った。
ずっと、視線を感じていた。
山を降りて、ファウストの街に戻ってからだ。敵意とは違う、しかし好意に類する感情は欠片もない視線を、エアニスはずっと感じていた。気配を潜ませている様子もあったが、慣れていないのかいまひとつ隠し切れていなかった。恐らくトキも気付いているだろうが、そのような細事に構っている暇は無いのだろう。話題にも上らなかったし、エアニス自身取るに足りない問題だと思っていた。暫く放っておいて消えないようなら適当な時に燻り出さなければいけないなと思っていた程度だ。
苛立ちの捌け口にでもなって貰うか。そう思って試しに屋敷から離れてみたら、視線はエアニスを追うように付いて来たのだ。
エアニスの呼び掛けに、森の奥から感じていた気配がざわりと蠢く。エアニスに気付かれ動揺しているのだろう。その反応だけで、相手の底が知れた。早くも興が冷めてしまったが、やるべき事はやらなければならない。どんな小物でも、邪魔者は排除しておくべきだ。
暫しの間の後、視線の主が、森の奥から姿を見せる。
白けた目でそれを見ていたエアニスの口から、まだ少ししか減っていない煙草がポロリと落ちた。
驚愕。戸惑い。そして絶望。そんな感情が入り混じった表情で、エアニスは森から表れた相手を見る。
それは、二人の少年と、少女。
少女は怯えながら敵を警戒する猫のようにエアニスを睨む。
対して少年は、落ち着いた様子で少女を守るように立っていた。
少年が口を開く。
「久しぶりだな・・・とでも言うべきか?」
「・・・・」
エアニスは言葉を返せない。
その声の主は、エアニスの良く知る顔だった。




