第73話 神の血を継ぐ者
エアニスの異質な存在感は、その場にいる全員が感じていた。
人の姿をしていながらも、それは彼の目の前に立ちはだかる巨大な黒竜よりも重く、分厚く、そして途方もなかった。全てを飲み込む暗く深い穴を覗き込んでしまったような気分。本能的に落ち着きを無くしてしまうような、得も知れぬ空気。
桁外れ。規格外。そのような問題ではない。在り方が、違うのだ。
今のエアニスは、この世の理から外れている。
そして、同じく理から外れた存在である黒竜、イビスは、その力の正体にすぐ気付いた。
『・・・貴様、自分が何をしているのか分かっているのか?』
黒竜の姿のイビスは、くぐもった声で苦々しく呟いた
エアニスは言葉も無く、「?」と首を傾げるのみだ。
『貴様は石を介し己の力を増幅するだけでなく、石そのものを自分の体の一部に組み込んでいる。人間に、それを受け入れるだけの器など無い。
・・・耐えられる筈が無い』
黒竜は、まるで自分に言い聞かせるように言った。
ヘヴンガレッドは通常、何らかのエネルギーを注ぎ込んだ後、それを増幅して取り出し、力を行使するものだ。
あくまで使用者にとっては"道具"にしか過ぎない筈の物を、エアニスは自分の内に取り込み、自分の存在そのものの増幅に使っているのだ。
膨れ上がったエアニスの存在は、この世界に様々な力へと姿を変えて化現する。身体能力であったり治癒能力、魔族への魔導的な干渉力としてだ。
イビスはエアニスが、かつて石の力を使っていたという事は知っていたが、まさかこのような使い方をしていたとは思いもしなかった。
「・・・お前の言う存在とか在り方とか・・・難しい事は分からないな。
でも、現に俺は石の力を使いこなしている。これ以上の証明は無いだろ?」
黒竜のまるで告発するかのような言葉も、エアニスにとっては何処吹く風。全く意に介した様子は無い。
黒竜は、イビスはらしくもなく口ごもる。そして、言葉を捻る事も無く素直に自分の疑問を口にした。
『貴様は本当に、この世界の人間なのか?
我々と同族、あるいは近しいものではないのか?』
一言一言、噛んで含めるように、そう問いかけた。
「人間だよ。ただ、純血のエルフの血が混じってるらしいけどな」
何気ないエアニスの答えに、竜は目を細める。
『・・・そういう事か』
イビスはエアニスがハーフエルフだという事は知っていたが、純血の血を継ぐ者だとは知らなかった。
やはり、エアニスは自分達魔族に近い存在だったのだ。
人間とエルフの違いは、一般的にその長い寿命と強大な魔力が比較対象として挙げられるが、無論それだけではない。その"存在"の大きさも、人間とは大きく違う。
この世界の伝承では、エルフとは太古の昔に神と交わった人間の末裔だと言い伝えられている。人間達の間では半ば眉唾もののおとぎ話として伝わっている事だが、それが事実である事をイビスは知っている。
イビス達は今でこそ魔族と呼ばれる存在だが、遥か昔には人間と共存し、神として崇められていた存在だ。そしてイビス自身、そう呼ばれていた頃に人間と交わった事がある。
神と人の間に生まれた、いわば神の子は、姿形や存在の在り方は人間に近いものだったが、存在の大きさは神に近いものであった。寿命や魔力の多さは、その存在の大きさがこの世界に現れた一つの形である。
そして神が魔族と呼ばれる存在に変わった時代。神よりも人に近い価値観を持つ彼等は、人間と共に魔族と対立した。
半分とはいえ神の力を持つ人間達は、魔族にとって大きな脅威であった。それ以降、魔族は自分達の脅威となりうる存在をこれ以上増やさないため、人と交わる事を禁じた。
そして幾千年もの月日が流れ、神の子達は普通の人間達と交わり、時の流れと共に次第に神の血は薄くなっていった。神の子の子孫は、人間と大差ない平凡な存在へと成り下がっていった。
しかし、この世界には太古から神の血を薄める事無く脈々と伝え続けている部族が居る。只の人間と混じる事無く、神の子同士で交わり続けている種族。純血の神の子。
今では、純血のエルフと呼ばれる存在。
エアニスの父親は、純血のエルフだった。
エアニスは、エルフが人と神の間に生まれた存在の末裔であるという伝承を信じてはいなかったが、ふと雪原でイビスと剣を交えながら聞いた話を思い出した。
魔族はかつて神として人間に崇められていた、という話。
・・・って事は、俺のご先祖様はコイツ等って事になるのか?
はっ、馬鹿馬鹿しい。
辿り着いた真実を、エアニスはあっさりと斬って捨てた。
間違いであればそれで良し。
たとえ真実であったとしても、それはどうでもいい事だったからだ。
「お喋りはもういいな?
こっちは時間が無いんだ。早めに終わらせよう」
大した感慨も持たず、エアニスは "オブスキュア"を構える。赤く薄い刀身に、赤黒い光が宿る。
その言葉に応えるように、イビスは自分達の子孫へと巨大な爪を向けた。
◆
エアニスが剣の間合いの遥か遠くで剣を振るう。振るった剣の軌跡はそのまま赤い風となって、エアニスに飛び掛る黒竜を迎え撃った。
大戦中、一夜にして数百、数千という数の兵隊を屠った力。空気の断層を生み出し、目の前にあるものを無差別に斬り刻む紅い風。
黒竜の頭が赤い風に突っ込む。分厚く硬い鱗を傷つけ、剥ぎ取り、その体躯を引き裂く。が、その傷は浅かった。
エアニスの攻撃を突破した黒竜は、そのままの勢いで巨大な爪をエアニスに向けて叩きつける。しかしエアニスは真上に飛び、黒竜の爪をやりすごした。
「へぇ、至近距離なら戦車だってバラすことが出きるのにな」
尋常じゃない跳躍力で宙を舞うエアニス。体を捻ると黒竜とは反対側に紅い風を解き放ち、その反動を利用して黒竜の鼻先に斬りかかる。
そのタイミングを見計らったかのように、黒竜の首の周りの鱗が逆立った。
鱗の一枚一枚が形を変え、先端の尖った細長いシルエットを作り出す。黒竜の頭の一つが、まるで針鼠のように姿を変えた。その鱗の剣の全てがエアニスに切っ先を向けたと思うと、一斉にエアニスに向けて撃ち出される。
さながら、剣の雨のように。
「・・・ッ!!」
エアニスは口元を強張らせる。さすがにこのような攻撃まで予想できなかった。
実体を持たない魔族は姿形に囚われない。何でもアリだと分かっていても、やはり自分で想像できる範囲は限られてしまう。
エアニスは再び紅い風を巻き起こし、剣の雨を吹き散らす。しかし、剣の何本かは勢いを殺せず、エアニスに向けて突き進む。それでも石の力で身体能力が増幅されているエアニスにとって、自分に向かって突き進む剣を直接オブスキュアで叩き落す事など造作も無かった。
しかし、同時に同じ事を別の竜頭から繰り出された時点で、エアニスの手は回らなくなってしまう。
いくら石の力を身に宿していても腕は二本、剣は一本しか無いのだ。
人の形をした者と竜の形をした者とでは、どうしても埋められない差があった。
剣の一本がエアニスの身体を貫いた。姿勢を崩したエアニスに次々と黒い剣が突き立ち、地に落ちた身体を縫いつけた。剣の雨は、そのままエアニスの身体に降り注ぎ、その姿は完全に剣の山で覆い隠される。
やがてそこには何百本もの剣を重ねて突き立てたような針山のオブジェが出来上がった。
離れた場所からそれを見ていたチャイムが息を呑み、身を震わせる。
しかしチャイムがエアニスの名を呼ぶより早く、そのオブジェは内側から真横に切断され砕け散る。その中心には剣を真横に振り抜いたエアニスが居た。あの剣の檻の中では身体は原型を留めないほどに切り刻まれていてもおかしくないのに、エアニスは何事も無かったかのようにその場に佇む。
『・・・化物め』
イビスが人の姿を形取っていたなら舌打ちの一つでもしていただろう。想像以上に、エアニスの再生力は凄まじかった。その糧となる存在の力は、最早魔族であり神でもあったイビスのそれに迫る。
「自分でも気持ちが悪いと思うよ。
こんな力に頼っていたら、身も心も人間じゃぁなくなる。
だから戦争が終わってスグに手放したんだ。いつまでも持っていい力じゃねぇ」
胸に手を当て、自嘲気味にエアニスが言う。
エアニスが石の力に頼っていたのはほんの1年ばかりの間だった。それでもエアニスは、石のせいで人の心の幾ばかを失ったと思っている。
「それと、人を化物呼ばわりするな。今のお前の姿なんて化物そのものじゃねぇか」
エアニスは若干乱れた襟元を正しながら言う。
「いくら化物じみていても、心が欠けていようとも、俺は人間だ」
◆
若干の膠着状態。
石の力を得ても、力技ではイビスには勝てない。レイチェルが人質に取られている事、更には10分というタイムリミットがある事を考えると、エアニスの劣勢は明らかだった。
エアニスは次の手を考えながら黒竜に向かい駆け出すと。
ドン、
と、どこからともなく低い衝突音が聞こえた。
「!?」
エアニスの前に、バラバラと石くれや金属片が落ちてきた。その場に立ち止まり、黒竜を警戒しながら空を仰ぐ。
空中に、自動車の車体のようなものが浮いていた。
奇妙な事に、車体の半分だけが虚空から生えているように宙に浮いているのだ。
「あれは、・・・ローウェンのスノーモービル?」
チャイムがそれの正体を言い当てた。スノーモービルは空中でキャタピラを空転させ、乱暴に虚空から石くれを撒き散らしている。
その場に居る全員が注視する中、引っかかっていたものが外れたかのようにスノーモービルの車体が虚空から飛び出した。
一瞬見えたのは、運転席に座るトキと、その身体に捕まるティアドラの姿。
エアニスはようやくこの奇妙な現象を理解する。自分達も、あのように虚空から姿を現して、この真っ白な世界へと現れたのだろう。
だが、あの二人の登場はいささか乱暴過ぎた。
二人はスノーモービルに乗ったまま洞窟の入り口に、この真っ白な世界の入り口へと突っ込んできたのだろう。
放物線を描くようにスノーモービルが煙を噴きながら落ちてくる。その先には、アイビスとレイチェルの姿があった。
「・・・っ!?」
アイビスがその場を離れるのは簡単だった。しかし、人質として価値のあるレイチェルをどうすればいいのか、一瞬の迷いが生まれた。
結局アイビスはその場から動かず、自分に向かい落ちてくるスノーモービルを手の平から生み出した魔導で破壊した。二人には爆発と一緒に幾つもの破片が降り注ぐが、アイビスとレイチェルの前には見えない壁があるように全ての破片が弾かれる。燃料が燃え広がり、辺りは真っ黒い煙に包まれた。
「っち、何考えてんのよ・・・!!」
安い挑発をされたような気分だった。アイビスは魔導で風を巻き起こし、辺りの黒煙を吹き散らす。
その先には、ヘヴンガレッドを捧げた台座の前に立つ、金髪の女の姿があった。
「悪いの。あのバカのせいでレイチェルに怪我をさせるところじゃったわ。守ってくれた事には礼を言わせて貰おう」
金髪の女、ティアドラはヘヴンガレッドの一つを手に取った。アイビスだけでなく、レイチェルも息を呑んだ。
ティアドラは何処から持ち出したのか、古びた大きな杖を持っていた。古木の枝が捻子くれて寄り集まって出来たような、無骨な杖だ。その先から、五本の枝が人の指のように伸びていた。
「これは"心咬みの枝"と呼ばれておってな、エアニスの持つ"オブスキュア"程ではないが、古の時代にお主ら魔族と戦う為に作られた武器・・・いや、今時に言えば、兵器じゃ」
無造作に、ティアドラは掴み取ったヘヴンガレッドの一つを杖の先端に添える。すると、杖の先から伸びていた五本の枝がヘヴンガレッドを握り締める様に絡み付く。
「"石"の力を使うのは随分と久しぶりじゃから、加減は出来ぬぞ!」
ティアドラが杖を振るう。杖を形作る木の枝がほつれ、それは爆発的に膨張し意思のある触手のようにアイビスへと襲い掛かる。
「な、何なのよアンタっ!!」
アイビスは触手に向かってレイチェルを突き飛ばす。しかし触手は一本一本意思を持っているかのようにレイチェルの体を避けて、全てアイビスに向かい突き進んだ。アイビスはその隙に組み上げた魔導を目の前に迫る木の枝に向かい解き放つ。レイチェルはそれに巻き込まれぬよう、咄嗟に結界の術を組み上げ、展開した。それと同時にアイビスの両手から火の海が生み出される。結界が間に合ったからいいものの、完全にレイチェルごと焼き尽くそうとした攻撃だった。
炎に飲まれた枝は動きを鈍らせ、みるみる炭へと変わる。アイビスは口元を笑みの形に歪ませた。
しかし、それはすぐに苦悶の表情へと変わる。
枝の一本がアイビスの腹を貫いたのだ。
ティアドラの放った枝の全てがアイビスの術によって焼き払われた。しかし、枝の数本は地面の中に潜り、アイビスの足元から地表に飛び出したのだ。
枝はそのままアイビスの体に絡みつき、地面へと縫いとめる。先の戦いで既に力を失っているアイビスに、それを振りほどく力は残っていなかった。そうでなくとも、ティアドラの操るそれは暴力的なまでの力を持っている。
「ふむ、思いのほか体や感覚は戦いというモノを覚えておるものじゃな」
枝を弄び、ティアドラはアイビスの元へ歩み寄る。
「ふざけんじゃ・・・ないわよ・・・・・心咬みの枝の魔導師って、そんなワケないでしょ・・・? アンタは・・・」
枝に四肢を封じられ地面に這うアイビス。ティアドラはその背中に、心咬みの枝を突き立てた。もはや弱々しいとすら言える短い悲鳴が上がった。
「なんじゃ、わしの事を知っておるのか。
ならば、もう少しだけ口をつぐんでおるがいい」
枝に手を掛けたまま、ティアドラは暴れる巨竜に目を向ける。
◆
『・・・アイビス!』
黒竜の姿をしたイビスは、ティアドラに囚われた同胞に意識を向ける。
その側頭部が、見えないハンマーに殴り飛ばされたように弾かれた。続いて巨体を支える4本の足に同じ衝撃が走る。たまらず黒竜はバランスを崩し、その巨体が膝を突く。
地響きと砂煙の舞い上がる中を、トキが飛び出す。その肩には巨大なライフルが担がれている。ローウェン達の装備から借り受けた対戦車用の長距離砲である。本来、人間が手に持って使う物ではない。それをトキが無理矢理ベルトやグリップを取り付けて持ち運びできるように改造したのだ。
トキは黒竜の身体の下に潜り込むと、真上にある竜頭の一つにライフル弾を撃ち込む。
巨大な弾丸は鱗の薄い下顎から竜頭の中へと入り込み、硬い頭蓋の中で滑り跳ね回る。
「へぇ、今なら普通の弾丸が効くんですねぇ!」
トキは割れた眼鏡と瞳を輝かせ巨大な銃口を振り上げる。遠距離からでも分厚い鋼を打ち抜く弾丸が何発も黒竜の腹へと撃ち込まれた。
痛みに苦しむかのように黒竜は咆哮を上げる。
「おおおおい!! マジかよ!?」
トキの予想外の活躍に加勢すべく、エアニスは口角を釣り上げながら地を蹴る。瀕死の状態だったトキが無事だったという事も嬉しいが、心配など無用とばかりに何とも派手な登場をしてくれた事に異様な高揚感を覚えた。負けてはいられない。
エアニスはトキの背後に迫っていた黒竜の爪を硬い鱗ごと叩き斬り、その背と自分の背を合わせる。
肩越しに視線を合わせ、二人は笑う。
「よう!! 身体は大丈夫なのかよ?」
「大丈夫ではないですね。でも、この大一番までは乗り切ってみせますよ!」
「はっ、頼りにしてるぜ!」
数を減じた竜頭のひとつがエアニス達に迫る。鱗を逆立てたと思ったら、二人に向けて剣の雨を降らせた。
しかし剣の雨はエアニス達の目の前で見えない壁に突き刺さるようにして動きを止めた。
チャイムの作り出した結界だ。
トキは目の前で動きを止めた幾千本もの剣に向けてライフルを放つ。その衝撃で銃身は大きく跳ね上がり、トキの体も大きく後ろへ弾かれる。放たれた銃弾は剣の隙間をすり抜けた。トキ達を護るチャイムの結界は一方通行だ。一方から迫るものに対しては結界としての効力を発揮するが、逆方向から迫る物に干渉する力は持たせていない。
結界と剣の雨をすり抜けた弾丸は、鱗の薄くなった竜頭をまた一つ正面から破壊する。本来は地面に固定して発射する砲塔とも呼べる巨大なそれを生身で振り回し、あまつさえ標的を正確に狙えるトキの腕は、もはや常軌を逸している。
エアニスは "オブスキュア"を振るって風を巻き起こし、目の前で静止する剣の雨を黒竜に向けて跳ね返した。黒竜とエアニス達の間で、黒い剣が不規則に舞い、互いの姿を隠す。しかし、エアニスからは黒竜の巨体は見失いようがない。
エアニスは次々と落ちて地に刺さる剣の雨の間を縫って走る。
「お お お おおおおおぉぉッ!!」
トキの乱入により崩れた均衡。戦いの終幕が加速する。
エアニスは黒竜の懐へと飛び込み、鱗の薄い腹部へと剣を突き立てる。そして、そのまま紅い風を呼び起こしながら剣を振り抜く。
耳をつんざく黒竜の号哭。
巨大な剣に斬り付けられたかの様に、黒竜の腹部は大きく裂けた。すると、傷口から贓物の代わりに黒くザラザラした砂嵐が噴き出した。エアニスは目元を守りながら後ろへ飛ぶ。頭上を見上げると、砂嵐の隙間から痛みにもがき苦しむように首を捻らせる黒竜が見えた。そしてその姿も、辺りに突き立った鱗の剣も、砂山が風に吹かれるかのように黒い砂嵐へと変わってゆく。
「やった・・・!」
その光景を見て、チャイムは声を漏らす。黒竜の、イビスの存在が消えてゆく。
エアニスとトキもその様子を見つめる。息を乱していたエアニスが、剣の切っ先を下ろした。
瞬間。
僅かに残った砂嵐が螺旋を描き、猛烈なスピードでエアニスの元へと飛び込んできた。
「!?」
再び剣を構え直そうとするが、それすらも間に合わない一瞬の出来事。螺旋を巻く砂嵐はエアニスのオブスキュアに当たり、それが強い力で後ろに引っ張られた。
「・・・ッ!」
エアニスは焦りの色を浮かべ、引かれる剣を軸に身体を半回転させて振り向く。
そこには黒い砂嵐は無く、再び人の姿へと戻ったイビスが、オブスキュアの切っ先を素手で掴んでいた。
黒竜の姿の間に負ったダメージが蓄積しているのか、後ろに撫で付けられていた銀髪は乱れ、表情にも余裕が無くなっている。
エアニスは掴まれたオブスキュアを引き抜こうとするが、万力にでも挟まれているかのように剣はびくともしない。刃を掴むイビスの手の平はまるで焼きごてを掴んでいるかのように、肉の焼けるような音と黒い霞を撒き散らしている。
手の平を焼かれながらも、イビスはオブスキュアをねじり伏せる。
オブスキュアの柄を握るエアニスにとっては関節を逆方向に曲げられるような形だった。
「・・・ぐっ!」
短いうめき声と共に、エアニスは自分の握る剣柄にあっさりとねじ伏せられてしまう。普段のエアニスならば、すぐに剣を捨てて、腰に差したもう一本の短剣で相手に斬りかかっていただろう。それが、今に限っては躊躇われた。
「剣を手放せば、ヘヴンガレッドとの繋がりが絶たれるからか?」
「・・・ちっ!」
「こんな単純な弱点を抱え、よくもあの戦争を戦い抜く事が出来たな」
イビスがオブスキュアを掴む手と逆の手に、黒い霧が集まる。そして現れる、もはや見慣れてしまったイビスの無骨な大剣。
硬直から脱したトキが至近距離からイビスの頭と、剣を持つ腕を撃った。しかし弾丸は強烈な射撃音でトキとエアニスの耳を打っただけで、イビスの身体を素通りした。
彼の身体は再び物質に頼らない存在へと変質しているのだ。魔導的な干渉力の無い剣や銃弾では傷付ける事は出来ない。
「下がってろ!!」
エアニスはトキに言いながらオブスキュアに力を送り、それを掴んだイビスの手を焼き続ける。剣を引き抜いて、その手の指を全て斬り落とすつもりでいるが、剣は全く動かない。
イビスは自分の大剣を振り上げた。
「この腕を切り落としたら、どうなるのかな?」
「てめぇ・・・!」
オブスキュアを握る腕を斬り落とされれば、ヘヴンガレッドからの力の供給は断たれ、エアニスは腕を無くしたただの人間になる。剣を捨ててイビスの間合いから逃れれば、エアニスは魔族に何も対抗する術を持たない、ただの人になる。
どの道を選んだとしても、その次の攻防がエアニスの死へと繋がるだろう。
イビスはようやく勝利を確信する。
今度は迷う素振りすら見せず、エアニスは剣を手放した。同時に跳び退がるエアニスへイビスは斬攻を放つが、紙一重の所でかわされる。
イビスは奪い取ったオブスキュアをエアニスとは逆方向の背後へと投げ捨てた。
「終りだ」
「・・・」
傲然と見下ろすイビスを、膝を着いたエアニスは睨み返す。
イビスは口元を歪め、丸腰のエアニスに向けて大剣を振り下ろす。
砂埃が舞った。
膝を突いていたエアニスが、爆発的な瞬発力でイビスの懐へ飛び込んできたのだ。
それは人間の動きではない。"石"の力を得ている時と同じ、化物じみた身体能力。
イビスは目を剥く。一度振り下ろした斬撃は止める事が出来なかった。
そして自分の左胸に、他者の"存在"が深く潜り込むのを感じた。
イビスは地面に食い込む大剣の切っ先を見て、自分の左胸を見た。
そこには、何も変哲も無い黒塗りのナイフが突き立っている。
エアニスが普段から腰の後ろに隠し持っているナイフだ。
本来ならばイビスを傷つける事の出来ない何の力も無い鋼の塊。
それが、魔族であるイビスの "存在"に深々と突き刺さっていた。
「な・・・・に・・、!?」
イビスにナイフを突きたてたエアニスは、笑いながらナイフを握る逆の手を見せる。
その手には紅く輝くヘヴンガレッドが握られていた。
イビスは目の前の相手に命を握られていると言うのにも関わらず、背後を振り向く。
そこには自分が奪い、投げ捨てたエアニスのオブスキュアが地面に突き立っている。しかし、その柄にはさっきまで収まっていた筈の赤黒い宝石が無い。
エアニスはオブスキュアを手放す瞬間、ヘヴンガレッドを取り外したのだ。
「オブスキュアが無いとヘヴンガレッドの力を引き出せないとでも思ったか?」
「・・・・っ!!」
エアニスはオブスキュアを手放しながらも "石"の力を失ってはいなかった。手にした"石"から直接力を引き出し、魔導的な干渉力を持たない只のナイフに力を宿らせていたのだ。そのナイフは今、オブスキュアと同じ様にイビスの存在を傷つける。
そして、この一撃は今までのものと決定的に違う所があった。
「驕ったな」
「・・・!?」
「たかが人間の俺に、驕り高ぶったな?」
「!・・・貴様っ・・・・!!」
ここぞとばかりに、エアニスはその言葉をイビスへ突き刺した。
人間よりもずっと高度な存在である魔族が、只の人間に存在を脅かされたという事実が、イビスのプライドを、自我を、価値を、この世界における存在を、揺るがした。
慢心からの左胸への一撃。
天上の神が大地を這いずる人間に矢で撃ち堕とされたようなものだ。
魔導的な干渉によるダメージよりも、その事実がイビスの存在を傷付けた。
魔族は人を遥かに凌駕する存在でなければならない。
それが魔族にとっても、人間にとっても、そして世界にとっても常識であり前提だった。
しかしその前提が覆されたり、世界から否定されたり、そして忘れられることがあれば、彼らはこの世界での存在価値を失う。
言い換えれば、彼らのプライドや自尊心を打ち砕いたり、また彼らに対する脅威、畏怖といった認識を周りの環境に改めさせる事が、魔族に対する最も有効な攻撃になるのだ。
「貴様・・・全て、知っていたな・・・?
石の使い方も、魔族がどのような存在であるのかも・・!!」
エアニスはナイフに力を込めたまま笑う。
「一年以上も"石"に命を預けて戦っていたんだ。欠点があればその備えをするのは当然だろう。
魔族と戦うのも、お前が初めてじゃない。
戦争の末期にお前らのお仲間と戦った事があってな、それから魔族がどういった存在なのか、色々調べた事がある」
「・・・・・っ!」
純血のエルフを親に持つエアニスにとって、その辺りの事を調べるのに苦労は無かった。今やその目的さえ忘れ去られつつあるが、元々純血のエルフは魔族に対抗する為にその血を絶やさずにいるのだ。純潔のエルフが集うエアニスの故郷には、多くの知識が書物や伝承として伝わっていた。
魔族としての強さを否定されたイビスは、その存在の力を今やエアニスのそれより小さなものへと変質させていた。力の殆どを失い片膝を突いたイビスは、苦悶の表情を浮かべナイフを握るエアニスの腕を掴む。
「世界の理に縛られた人間が・・・
刹那の刻しか生きられぬ、生に囚われた分際で・・・!
俺達を滅ぼせると思っているのか!」
イビスはこの期に及んでも、未だにエアニス達の存在を蔑視していた。
あるいは、そうとでも認識しないと自分の存在が消滅してしまうが故に口にした言葉だったのかもしれない。
それをエアニスは冷めた目で見下ろした。見苦しかったのだ。
「思い上がるなよ。
この世界に生きる者達は、お前らが思うほど
ちっぽけな存在じゃあない」
エアニスはイビスに突きたてたナイフをより深く潜りこませると、一息で真横に薙ぐ。
「 ・・・・ ・ ・ ・ 」
イビスの姿が黒い霞のように黒ずみ、その輪郭を虚空に滲ませる。何か言葉を口にしたようだが、壊れた通信機から聞こえるようなブツブツと途切れた雑音しか聞こえなかった。力を失い過ぎて、この世界に化現する事すら難しくなっているのだ。
辛うじて立てていた片膝も地に突く。
少しづつその目は光を失い、やがてゆっくりとエアニスの足元に崩れ落ちた。




