第72話 ドラゴン
暗闇の中、遠くで僅かに輝く光にトキは必死で手を伸ばしていた。
その光は少しづつ小さくなってゆく。光が遠ざかっているのではない。自分の体が暗い海の底へと沈み込んでゆくのだ。
何故自分が海の中を漂っているのか、何故水の中で呼吸ができるのかといった疑問すら感じず、トキは鉛のように重い手足を動かし、少しでも光に近づこうともがいた。
しかし海の底から闇と同じ色をした腕がずるずると伸びて、トキの体を闇の底へと引きずり込もうとする。
肩越しに闇の奥を覗き込む。
そこに沢山の人影を見たような気がした。何処かで見たような顔から、憎しみを募らせ忘れる事の出来なくなった顔。かつて毎日のように見ていた仲間の顔まで。
地獄。
あぁ、お前達、やっぱり地獄に堕ちたか。闇の底を見下ろして、トキは苦笑いする。
当然自分も死んだら地獄行きだろうとは思っていたが、地獄といえどそこにかつての仲間が居るのであれば、そう悪い場所でも無いのかも知れない。
トキは遠くに見えるかすかな光から目を逸らし、体に絡みつく黒い腕に引かれるまま闇の底へと沈んでいった。
走馬灯、というものだろうか。
トキの脳裏にはいつの間にか、これまでの思い出がコマの飛んだフィルムのようにパタパタと再生されていた。
人を殺す道具として生かされていた子供時代。アリシアと再会し、マスカレイド部隊として仲間の為に戦えるようになった少年時代。そしてツヴァイの裏切りにアリシアの死。 奇妙な縁が今も続く、エアニスとの出会い。彼と出会ってからの生活はなかなかに愉快だった。そして、チャイムとレイチェルとの出会い。こんな事を言ったらレイチェルに悪いが、彼女達と出会って始めた旅は、本当に毎日が充実していた。
アスラムへの船旅。オーランドシティでの束の間のバカンス。エルバークでの戦いは、トキの心を再び深く抉ったが、それで自分の過去を清算する事が出来た。
そして旅の終着点の山奥で
自分は魔族の剣に刺されて
レイチェルが、目の前でさらわれた。
トキの走馬灯は、魔族にさらわれるレイチェルの姿を映したまま止まる。
誰かが「これでいいのか」と訴えかけるように、その映像はトキの脳裏へジリジリと焼き付く。
トキの閉じかけていた瞼が開いた。
声を張り上げ、自分の体に絡みつく黒い腕を掴み、毟り取るように引き剥がす。
もう何年も声を発していないような錆付いた喉を、力の限り震わせた。
「これで、いい訳っ、ないだろうッ!!」
闇の奥へと沈み行きながらトキは暴れる。自分を捕まえようとする黒い腕を踏みつけながら、上へ上へと、光の差す方へ登る。
脳裏に焼きついた少女の顔を思い浮かべ、トキは彼女の名を叫んだ。
すると突然、襟首を誰かの腕に捕まれた。
闇の底から伸びる不気味な黒い腕ではない。
白くて細い、人間の腕。
『さっさと目を覚まさぬか!!』
「・・・え?」
それが何か理解する間もなく、トキはぐいんと胸倉を引き上げられた。
◆
「うわあぁぁぁぁぁッ!!」
トキは飛び上がる様に身を起こした。
こんなに腹の底から悲鳴を上げたのはどれだけ振りだろう。恥ずかしい。
息も絶え絶えに視線を周りに這わせると、目の前に馬乗りになってトキの襟首を掴むティアドラの顔があった。寝ている間に貞操を奪われてしまったのかと思いトキは青ざめる。
「な、何してるんですか・・・?」
「やれやれ、ようやく目が覚めたか。お主、せっかく傷を治してやったのに、心の方がが死にかけておったぞ?」
安堵の息を吐いて、トキの襟を離すティアドラ。
「き、傷・・・?」
思い出したようにトキは自分の胸元に手を当てる。ズキンと、体の芯に引き攣るような痛みが走り、身を起こしていたトキは再びマントの敷かれた雪の上へ倒れこむ。苦悶の声をあげた後、彼はいつもの笑みを浮かべる。
「ははっ。あぁ、そうか。僕は、死にかけていたんですね・・・
凄い、地獄も見たし走馬灯も見ました。本当にあるんですね死後の世界って・・・」
「傷の具合はどうじゃ?」
「喋るのも辛いくらい痛いですね・・・もう少し何とかなりませんか?」
「これ以上の治療は無理じゃ。時間が経ち魔導の治癒力に肉体がある程度追いつくまではな」
「・・・エアニス達は?」
「レイチェルを助けに向かった。まだそう時間は経っておらぬ」
「・・・じゃあ、こんな所で寝ている訳にはいきませんか・・・」
トキは懐から小さな金属製のケースを取り出す。
中を開けると、粒状の錠剤が幾つか入っていた。
「なんじゃそれは?」
「僕が兵隊やってた頃に支給されていた魔法のお薬です。痛覚を殺してそれ以外の感覚を過剰に鋭くする事ができます」
「お主、それは・・・」
「分かってます。僕だってあまり使いたいモノじゃないですよ。
実際、もう2年以上使った事ありませんし。
ですが、今はそんな事を言ってる場合じゃ無いでしょう?」
そう言うと、トキは錠剤を口に放り込み、奥歯で噛み砕く。暫く何かに耐えるように体を震わせ、やがて大きく息を吐いた。
「別にハイになったりするクスリじゃないですよ。
ま、翌日の倦怠感といったら半端ないですがね。
クスリを止められなくなる様な軟弱な神経をしている訳でも無いのでご安心下さい」
すくりと立ち上がるトキ。傷の痛みも大量に失った血も気に留める様子の無い、ごく普通の振る舞い。その普通さがあまりにも異常で、ティアドラは乾いた笑みを浮かべる。
「一番まともそうに見えたが・・・お主が一番イカレておるのかもしれんの・・・」
「心外ですね。仲間の為に身を削り、こんなにも頑張ってるというのに」
血で汚れた伊達眼鏡を拭きながら、トキは憮然として言い返す。
丁度森の奥から、ローウェンがスノーモービルに乗って戻って来た。
◆
エアニスの剣が、イビスの刀身を削りながら滑る。
イビスは剣を引くと後ろへ飛ぶ。エアニスは執拗にイビスの首元を狙って剣先を突き出すが、刃は彼のコートの襟を引っかけただけだった。
イビスはボロボロに削れた大剣の刀身を見下ろすと、軽く剣を振った。すると、まるで手品のように削れた刀身は元通りの鋭利な刃に戻る。
破れたコートの襟も、親指で少し擦っただけで元通りに直ってしまった。
彼ら魔族にとって、手にした武器も身に纏った衣服も自分の体の一部なのだ。
イビスは蔑むようにエアニスを見る。
「・・・剣に魂まで喰われるつもりか?」
「ギリギリの所まで"コイツ"に頼らないと、お前に届かないみたいだからな」
エアニスの持つ魔法剣、"オブスキュア"は、持ち主の魔力を喰らい、切れ味と魔導的側面への干渉力に変える。
剣が処理できる上限の魔力量いっぱいまで、エアニスは自分の魔力を注ぎ込んでいた。
これほど"オブスキュア"に依存する戦い方は大戦後期以来だった。とはいえ、当時のエアニスは"石"の力を使い、"オブスキュア"の力を極限まで増幅して戦っていた。あの頃の力に比べれば、今のエアニスの力は十分の一以下といったところか。
イビスはエアニスの間合いの僅かに外側から大剣の斬撃を繰り出す。エアニスは中段の突きを横に身を翻す事でかわしたが、突きはそのまま斜め上方に振り抜かれる。それを剣で押さえ込み、火花を散らしながら刃を滑らせイビスの懐へ潜り込む。
両手はイビスの大剣を押さえるのに塞がっているため、爪先に鉄板の入ったブーツをイビスのみぞおちに叩き込む。イビスの体に人間と同じ様に内臓が収まっているか疑問だったが、イビスの体の軸は大きくぶれて大剣からふっと力が抜ける。
大剣を押しのけたエアニスは剣を逆手に持ち替えて、イビスの喉を切り裂いた。
「・・っち!」
人間が相手ならばこれで勝負はついていただろう。
喉を切られたイビスは僅かに動きを止めただけで、再びエアニスに向けて剣を振りかざす。エアニスはもう一度、イビスの大剣をギリギリの所でかわして肉薄する。すれ違い様に、彼の右脇から延髄を結ぶよう背中を斬り付ける。
それでも、イビスは斃れない。
だが、エアニスはイビスと斬り結ぶうちに、勝機を見出していた。
人間離れした力やスピードに圧倒されていたが、何度も剣を交えるうちにそれにも慣れてきた。その上で気付いた事だが、イビスの剣技は思いのほか拙いものだった。
純粋な力のみで、今まで殆どの敵を圧倒してきたのだろう。それだけで相手を倒す事が出来るのであれば、剣技に巧妙さや狡猾さは必要ない。
つまり、イビスのパワーとスピードさえいなすことが出来れば、彼の強さのアイデンティティは瓦解する。
事実、イビスの剣は一度たりともエアニスの体に触れていないのだ。
だが問題が無い訳ではない。
エアニスも、イビスに対する決定打が放てずにいるのだ。
これまで幾度となくエアニスの剣はイビスの体を斬り裂いている。人間ならば即死するような斬撃も見舞ってきた。しかし、その全てに手ごたえが無い。まるで幽霊と切り結んでいる気分だ。
(アレをやってみるか・・・)
イビスの切っ先を紙一重でかわしながら、エアニスは剣を握る手に力を込める。
横薙ぎの斬撃が繰り出されると、エアニスは無理を承知でイビスの懐に飛び込んだ。身のこなしだけでイビスが剣を握る腕の外側、彼の背後に近い場所まで踏み込む。踏み込みの際、エアニスは防御行動をとらず、イビスに自分の肩口を斬らせた。それをチャンスと見取ったのか、イビスは背後に回られても守りに入らず執拗にエアニスへ刃を繰り出す。
エアニスの口元に笑みが浮かぶ。
「素人が!」
エアニスの剣がイビスの右脇腹から左胸に抜けた。体の軸を串刺しにされて必然的にイビスの剣はエアニスに届かなくなる。イビスがエアニスの喉元を貫こうと、届かない剣を逆手に持ち替えた次の瞬間。
イビスの体の中に、エアニスの魔力が叩き込まれた。
「・・・!!」
今まで何度斬り付けられても変わらなかったイビスの顔に、苦悶の表情が浮かぶ。
エアニスが魔法剣"オブスキュア"を介し、自分の魔力をイビスの体内に叩き込んだのだ。例えるならば型の違う血液を一気に自分の体内に押し込まれたようなものだ。イビスはエアニスに叩き込まれたのと同じ分量だけの力が、体の中で焼き尽くされるのを感じた。
「・・・はぁっ、!」
エアニスの額にドッと汗が浮かぶ。彼はエルフの血を引くにも関わらず、魔力を操る才能が無い。だからエアニスにとって魔導を使った攻撃といえば、こうして魔法剣を介し、ありったけの魔力を相手に叩き込む事しか出来ないのだ。
以前アイビスが召還した"デーモン"と呼ばれる化物を、これと同じ方法で倒した事がある。しかし、イビスはまだ立っている。
ガチャリ、とエアニスの剣が振るえた。イビスが自分の胸から生えるエアニスの切っ先を掴んだのだ。エアニスは舌打ちをする。
「しつこいぜ、さっさとくたばれ!!」
もう一度、残っているありったけの魔力でイビスの体を焼いた。つづけて2度、3度と、エアニスは力任せに魔力を叩き込む。捕まれた剣から力が抜けるのを感じると、一気に剣を引き抜きイビスから距離を取った。
足を小刻みに震わせ、激しく息を乱すエアニス。
イビスはおぼつかない足取りで背後のエアニスに向き直ったが、剣にもたれかかるようにして、膝をついた。
ざざざ、とノイズが走るように姿が黒ずみ、乱れた。空間転移の術を受けて傷付いたアイビスと同じ様に。
輪郭のはっきりしない自分の手を見下ろして、イビスは眉間にしわを寄せる。
「・・・効いてる、効いてるよエアニス!!」
戦いを見ていたチャイムが歓喜の声を上げた。アイビスに捕らえられているレイチェルも、口元に笑みが浮かんでいる。
エアニスは再びイビスに向かい剣を向ける。急激な脱力感が体に残っているが、魔力を使い果たした訳ではない。肩口の傷も無視できる程度のものだ。これを何度か繰り返してやれば、イビスを倒せるかもしれない。
イビスはゆらり、と立ち上がるとおもむろに剣を手放した。剣は地面に転がるよりも早く、墨のように空中で溶けて消える。
「剣ではお前に勝てそうないな」
事も無げに言うイビスにエアニスは戸惑い、軽い緊張を覚える。
「何もそいつの得意技に付き合ってやる事なんてないでしょ、さっさと片付けちゃいなさいよ」
「・・・!?」
アイビスも、緊張感の無い声でそんな事を言う。イビスの事をまるで心配していない様子に、エアニス達の感じた不安はどんどん大きくなる。
「はっ、剣以外に何かエモノがあるのかよ・・・?」
「何でもあるさ。我々魔族は只の存在であり、概念でしかない。
存在する形や力には、囚われない」
そう言うと、イビスは剣を持っていた右手で自分の顔を覆った。
「そうだな、お前のような奴には・・・この姿がいいか」
ゆっくりと、イビスの姿が黒い霧へと変わってゆく。虚空へ溶け出したイビスの体はどんどん膨らみ、渦巻く霧は黒い砂嵐のようにザラザラと音を立て始める。
「な、・・!?」
砂嵐は大きく間合いを取っていたエアニスの目前にまで迫る。砂嵐に飲まれぬようエアニスは後ろへ跳び、チャイムの手を引いて駆け出した。
「な、何よあれ!?何が起こってんの!?」
「俺が知るか!!」
イビスが巻き起こした現象が何か分からず、二人はとにかく黒い砂嵐から逃げる。
不意に、頭上に影が落ちた。
エアニスが見上げると、二人の真上に巨大な手が、鋭い爪の生えた獣の手のような手が見えた。
「や、べぇ!!」
エアニスはチャイムを抱きとめると真横に飛んだ。
それまで立っていた場所に爆発的な衝撃が炸裂し、二人はその風圧に押されて白い地面を転がった。
「クッソ! 何だ、今のは!!」
うつ伏せに倒れたエアニスは辺りを覆う黒い砂煙を振り払い、チャイムの姿を探す。
チャイムはエアニスのすぐ横で、尻餅をつくように座り込んでいた。視線は空を見上げた角度で固まっている。瞬きを忘れ、恐怖に固まった表情で。
それに気付いたエアニスは、彼女の視線の先に目を向ける。
そこには、まるで御伽噺に出てくるような、巨大な黒い竜がいた。
「は、・・・」
現実離れも甚だしい光景に、エアニスは言葉を失う。
黒竜の大きさは、三階建ての建物にも匹敵するだろうか。艶の無い大きな鱗で身を覆い、その巨体を四本の足で支えている。
そして、七つの頭。
体躯の芯が通る場所に一際大きな頭があり、その左右にやや小さな頭が三つづつ、並んでいる。神話に出てくるヒドラと呼ばれるものに似ていた。
ゴァァァ、と、中央の首の顎から、白い蒸気と紅い炎が漏れ出す。
「おい、まさか、!」
エアニスが腰を浮かすと同時に、黒竜の顎が目も眩むような炎を噴き出した。軍隊が使うような火炎放射器の比ではない。その火線を十本も束ねたような、まさに炎の海が迫り来る。
逃げられない。
その思いに囚われ、どうすればいいのか分からなくなったエアニスは足を動かす事が出来ない。
しかし、怒涛の勢いで迫る炎は見えない壁にぶつかり吹き散らされ、大量の水蒸気に変わる。
目の前の出来事についていけないエアニスの隣で、チャイムが呪文を口ずさみながら右手をかざしている。チャイムの構築した防御壁が二人の身を守ってくれたのだ。
「・・・すまねぇ・・・大丈夫か、チャイム」
自分より早く硬直から脱した彼女にエアニスは本気で感謝していたが、まだ思考が正しく回っていのか、気の利いた言葉は出てこなかった。
「うん、平気・・・。今の炎も、魔導的な現象じゃなくて、単なる物理的な炎だから、ちょっとした防壁で簡単に防げるわ。
レイチェル、平気!?」
チャイムはレイチェルに呼びかけると、視界を遮る水蒸気の向こうから、いつも通りの控えめな声で大丈夫だと返事が返ってきた。
チャイムは安堵の息を吐き、エアニスは呆然と、頭上の黒竜の顎を見上げる。
「どうするんだよ・・・これ・・・」
恐怖でも絶望でもない。あまりの出鱈目さに呆れ、戦意が吹き飛んでしまった。
ゴルル・・・、と、黒竜は低く喉を振るわせると、
『この姿も今までの人間の姿も、世界に具現している俺の存在量としては同じものだ』
やや聞き取りにくいものの、黒竜はイビスの声で喋った。
『この世界に対する魔力的な干渉力や、人の姿というこの世界で活動する上での有用性、 その他様々な力や存在価値を全て破棄し、物理的な力へ形を変えただけだ』
確かに今のイビスの姿は、今までの人間の姿と比べると、この世界の存在として価値あるものの多くを切り捨てているのかもしれない。その切り捨てた価値を全て、この暴力的で分かりやすい形へと作り直したというのか。
イビスの言葉の意味を、エアニスは漠然と理解する。
『だが、人間とばかり戦ってきたお前は、このような姿の相手と戦う事に慣れていないのではないか?』
「・・・・ッ!!」
当然である。様々な姿形の魔物が跋扈していたと伝えられる250年前ならいざ知らず、今の時代、竜と戦った事のある人間など多分居ない。エアニスだって、人外の敵と戦う事など滅多に無い。ましてや相手は三階建ての建物に匹敵するような巨体。どう立ち向かえばいいのか分からない。
エアニスの剣では、この巨大な竜の鱗を剥がす程度の役にしか立たないだろう。魔力的な干渉力を全て放棄したというのであれば、自分の魔力を相手の体内で炸裂されるという手も、効果があるか疑問だ。
エアニスはすぐに、自分ではイビスに勝てないと結論付ける。
(こいつは、レイチェル向きの相手だな・・・)
レイチェルの魔導は、エアニスの剣と違い広範囲の破壊を目的としたものが多い。今のイビスには、自分の剣よりもレイチェルの魔導が有効な筈だ。ならば、イビスより先にレイチェルの自由を奪っているアイビスを叩くべきだ。
「チャイム、なるべく遠くまで下がってろ!!」
「!? エアニスっ!!」
方策を定めたエアニスは黒竜の足元へ向かい駆け出す。体の真下に潜り込めば、黒竜もエアニスに手を出し辛い筈だ。
しかし、その目論見はあっさりと外れる。それほど俊敏とは呼べない動きで、黒竜は一歩、エアニスから遠ざかるように移動する。
それは、エアニスにはとても追いつく事の出来ないスピードで距離を取られた様に見えた。歩幅が違い過ぎるのだ。黒竜にとってゆっくり踏み出した一歩が、人間にとっては全力で走り抜けても稼ぐ事の出来ない距離なのだ。
『最後の敵が巨大なドラゴン・・・お前達人間好みのシナリオじゃないのか?』
「クソが、もう時代後れだッ!!」
イビスの軽口にエアニスは怒鳴り返す。
エアニスを押し潰すかのように、黒竜の前足が迫る。これも、ゆったりした動きに見えたが、いざ前足の爪が目前に迫ると、そのスピードは猛烈な勢いを伴っている事に気付く。
相手の体が巨大過ぎて、目測が全く当てにならない。それに気が付き、エアニスの焦りは加速する。
それでも前足の一撃を避けて、エアニスは反対側の前足へと斬りかかる。岩のような鱗を切り裂き、エアニスの剣はその下にある黒竜の肉を抉る。持ち上げられた前足とは逆の足の腱を断ち、黒竜の姿勢を崩そうという狙いだったが、一般的なロングソード並の長さしかない"オブスキュア"ではそこまで刃が届かない。剣を突き立てた前足が振り払われ、エアニスは空中に投げ出される。それでも剣を手放す事無く足から着地した。
姿勢を立て直す間もなく、竜の首の一つが、エアニスに向けて迫る。
エアニスを噛み砕こうと広げられた顎に、エアニスはポーチから取り出した手榴弾のピンを抜き、投げつける。
手榴弾は竜の口元で爆発し、何本かの牙を吹き飛ばした。鱗と肉片がバラバラと散らばり、竜の首は痛みに苦しむかのように咆哮する。硬い鱗に覆われた外皮と違い、口内は生物として普の強度しか持ち合わせていないようだ。
エアニスの口元が笑みの形に歪む。
イビスは魔力的な干渉力を全て捨て、物理的な存在へ姿を変えた、と言っていた。つまり、今のイビスには魔力の込もっていない剣も、銃弾も、爆弾も、全て有効だという事だ。
「こんな事になるなら、もっと沢山爆薬を持って来ればよかったな!」
手榴弾の爆炎は大量の煙を巻き上げ、エアニスの姿を隠している。その隙に黒竜の死角に潜り込み、レイチェルを開放するためにアイビスの姿を探す。
「っ!」
自分の正面、薄くなった煙越しに黒竜の首の一つと目が合った。警戒するようにゆっくりと近寄る首に向かいエアニスは剣を構え、ポーチの手榴弾に手を伸ばす。
そして、全くの予感すら感じる事も出来ず、
爆炎の向こう、自分の背後から飛び出してきた巨大な黒竜の顎に、エアニスの体は喰い付かれた。
いきなり体を突き飛ばされたのかと思った。しかし、すぐに自分の腰から胸までが巨大な竜の顎に噛み付かれ、そのままの勢いで体をさらわれてしまたった事を理解した。
ぐわん、と、エアニスは浮遊感に襲われる。
黒竜の首が捕らえた獲物を掲げるように、その首を高々と持ち上げたのだ。
「がっ・・・!」
巨大な顎に挟まれ骨の軋むような猛烈な圧迫感を感じるが、胴に深々と食い込む牙の痛みは、無い。あまりの非現実さに脳が対処しきれず、痛みまで処理ができていないのだろうか。
エアニスの判断ミスである。
目の前の首だけと向き合っていても、黒竜の首は7つもあるのだ。一つの首に見つかったのなら、他の首にもエアニスの位置が伝わっていたとしても不思議ではない。無意識のうちに、竜の首を別々の生き物として認識していた事がいけなかった。
まさに、イビスの狙い通りだった。人外の存在と戦う事に慣れていないエアニスの弱点を突いたのだ。
痛みは無いのに意識が朦朧とし始める。
エアニスの右手には手榴弾が握られたままだった。片手で器用に安全ピンを引き抜き、手を離す。手榴弾はそのまま黒竜の口内へと転がり落ちてゆく。
体のすぐ真下で手榴弾が炸裂する。爆音と、地鳴りのような黒竜の呻き声がエアニスの傷口から骨を伝い、脳髄を揺さぶる。爆発によりエアニスの体も無傷ではいられなかったが、体に喰い込む牙の力が緩んだ。追い討ちをかけるように、大きな牙の付け根に剣を突き立て竜の顎から体を引きずり出す。
不意に、人の頭ほどもある黒竜の瞳と、目が合った。エアニスには爬虫類の表情など読めないが、その瞳はエアニスを睨み続けているような見えた。
「・・・・くそっ」
諦めが、エアニスの闘争心に影を落とす。
手榴弾で顎をずたずたにされた竜の首は、力を振り絞るように身を震わせると、
エアニスの体を、一息に噛み砕いた。
ぼたぼたと、チャイムの周りに赤い雫が降り注ぐ。
チャイムの居る場所からは、エアニスの両腕と、垂れ下がる長い琥珀の髪だけが見えた。竜の顎の縁から、エアニスの腕の先から、エアニスの髪から、真っ赤な液体が溢れるように伝う。
ぱた、とチャイムの頬に生暖かい雫が落ちる。人の体温。エアニスの、体温。
チャイムはその場で膝を折ると、両手でくしゃりと自分の髪を掴む。
「・・・いや、」
震え、消え入りそうな声が漏れる。視界の端で、周りの地面がどんどんエアニスの血で染まってゆくのが見えた。
頭が、おかしくなりそうになる。
喉が張り裂けんばかりの声で、チャイムはエアニスの名を叫んだ。
レイチェルはその場に立ち上がり、ヘヴンガレッドが封印されている祭壇へと向き直る。
「あら? 仲間が死んでようやくその気になった?」
皮肉るようにアイビスが言う。
レイチェルは額に玉の汗を浮かべ、こくりと喉を鳴らすと祭壇へ手をかざした。
「分かったわ、あなた達の望み、叶えてあげるわよ!」
その宣言に、アイビスは僅かに驚きの表情を見せる。
レイチェルは乱暴に胸元の護符を毟り取ると、そこに埋め込まれた黒い石を、その細い右手で握り潰した。魔力に反応して砂のように砕けた石はバラバラと地に落ち、中から真っ赤な血の色にも似た"石"が姿を表す。
レイチェルが持つ7つ目のヘヴンガレッド。それが外気に触れた途端、周囲の空気にむせかえるような魔力が満ち溢れる。
それを使い、レイチェルは目の前にある残り6つの石が安置された祭壇、いや、この真っ白で何処までも続く空間全てに施された時間停止の術の解除を始める。
術式の解除法は父であるシャノンに教えられている。魔導師エレクトラの直系にあたる者にしか伝えられない、封印されたヘヴンガレッドを開放するための術式。
レイチェルは術式の最後の一節を唱え、右手で祭壇に触れた。
ビシリ、と黒竜の踏み締める白い地面に亀裂が走った。今までどれだけ暴れても微動だにせず、傷ひとつ付かなかった地面が、だ。
見た目は変わらないが、この何処までも続く真っ白で異様な空間に、少しだけ現実味を帯びた空気が流れ始めた。
変化に気付いたアイビスが周囲を見回す。
「この空間の時間が・・・流れ始めた?」
アイビスは祭壇へ視線を戻す。いつの間にか6つの"石"は互いが共鳴し合い、脈打つように光り輝いていた。まるで人間の心臓のようだった。
レイチェルは祭壇に祭られたヘヴンガレッドの一つを手に取った。
「ヘヴンガレッドは自分が存在する世界に干渉する力があります。私達が使う空間や時間を操る術も、この力を研究した結果、作り出されたものです。
一つならただの魔力増幅器でしかありませんが、同じ場所にヘヴンガレッドが2つ以上存在すると、それだけでヘヴンガレッドの力は共鳴し合い、世界に影響を与えます。
時間の流れを乱したり、空間に穴を開けたり、世界をの法則を乱したり・・・。もっとも、その変化の大半は、世界に内包される私達に認識できる物では無いと考えられています」
レイチェルの言葉に、アイビスは肩を揺らして笑う。
「あはっ! 認識出来ないならいいじゃない?
誰も気付く事無く、世界は250年前に戻る! 誰にとっても幸せで最高な結末じゃないの!!」
「ヘヴンガレッド自体の時間を止める事で世界への干渉を防いでいますが、見つけてきたヘヴンガレッドをこの神殿に封印する時は、どうしても神殿の封印を一度解除しなければなりません」
しかし、レイチェルはアイビスの言葉を無視するように、自分の説明を続ける。
まるで、手にした石へ語りかけるように。
「私達が知っている限りでは、約10分。それ以上ヘヴンガレッドを通常空間に晒し続けると、共鳴した力は世界に穴をあけて、この世界の隣の世界、レッドエデンと繋がってしまいます。
実際、250年前、私のご先祖様が魔族たちをレッドエデンに追放した時は、その現象を利用したのだと伝えられています。
もしこの世界とレッドエデンが繋がれば、250年前に追放した魔族達はこの世界に雪崩れ込んで来るでしょう」
まるで自分を相手にしていないレイチェルの不可解な独白に、気分を害したアイビスが掴みかかる。
「ちょっと、アンタ、何ひとりで・・・・!」
「照れくさいから敢えて今まで言葉にはしてきませんでしたが・・・
これは、私達の戦いは、掛け値なしに世界を守る戦いです。
だから、力を取り戻したとしてもいつもみたいに調子に乗らないで下さいよ、
エアニスさん!」
「っ!?」
レイチェルは、笑いながらその名を呼んだ。
アイビスはレイチェルの不可解な言動に説明出来ない猛烈な危機感を覚える。だが、遅かった。
レイチェルはアイビスの手を振り払うと、ヘヴンガレッドを掴んだ右手を大きく振りかぶり、そして思いきり投げた。
黒竜に噛み付かれ、レイチェル達の頭上でその身を晒されるエアニスに向かって。
「エアニスさんっ!!」
レイチェルは喉が裂けるほどの大声で、彼の名を呼ぶ。
「 レナさんの石です!!! 」
その声に、闇の底に沈みかけていたエアニスの意識が覚醒する。
暗く淀んだ視界の中、レイチェルが投げた赤い石が輝きながらゆっくりと行き過ぎようとしていた。
巨大な顎に噛み潰され、もう動かないと思っていた体は、メシメシ、ブチブチと音を立てながらもしぶとく動く。そして、すっかり感覚の無くなった右手が、レナのヘヴンガレッドを辛うじて掴み取る。
エアニスは体に食い込む黒竜の牙に、オブスキュアの柄に埋め込まれている魔導石をぶつけて叩き割った。魔法剣であるオブスキュアのエンジンとも呼べる物だが、魔導石は高額ではあるものの吊るし売りされている量産品だ。未練は無い。
そこに空いた穴に、レイチェルから受け取ったヘヴンガレッドを押し込む。
歪な形をしたレナのヘヴンガレッドは、ずるりと液体のように形を変えて、オブスキュアの柄へ綺麗にカットされたルビーに姿を変え納まった。
すぐさまヘヴンガレッドの力は、エアニスと繋がる。
ずぐん、 ずぐん、 ずぐん、
石は心臓が脈打つかの様に輝く。エアニスの中の消えかけていた魔力が、生命力が増幅され、体内で無限の循環を始める。
同時に、石に蓄積されてきた記憶がエアニスの脳内に怒涛の勢いで流れ込む。その莫大な情報量は、常人ならば耐え切れず脳と精神を壊しかねないものだ。しかしエアニスは、それを当然のように受け入れる。二年半前、初めてヘヴンガレッドと繋がった時に一度はその身に宿した記憶である。苦痛では無かった。
それに加え、エアニスの知らない記憶が新たに脳に刻み込まれる。戦争が終結した後、彼がヘヴンガレットをエルカカに返した後の、石の記憶だ。
そして、その記憶の中には、さっきのレイチェルの独り言も含まれていた。
レイチェルが石に向けて語り掛けていた話は、こうしてエアニスへと伝えられた。
「10分、だな?」
ざふっ!
突然、エアニスに噛み付いていた黒竜の上顎が、縦に割れた。鼻先から眉間までばっくりと裂けて、噴水のように血と贓物を撒き散らす。
鼻先だけでなく、竜頭の付け根からも血が吹き出した。ホースに開いた小さな穴のような傷口は時計回りにみるみると広がり、黒竜の首の一つを輪切りにしてしまう。
竜頭は首の先からゆっくりと離れ、地に落ちる。それはまるで果実を叩き付けたように砕け散り、真っ白な大地に赤く爆ぜた跡を残した。
その中心に、剣を携えた男の姿があった。
チャイムはゆっくりと立ち上がり、巻き上がる血霧の向こうに浮かぶ人影を見る。
「・・・エアニス?」
その姿を見て、自信なさげにその名を呼ぶ。
もちろん、それはエアニスの姿だ。しかし、長い琥珀の髪は、いつの間にか鈍く輝く銀髪へと色を変えていた。まるで印象が違っている為、チャイムが戸惑うのも無理は無かった。
元々エアニスの髪は銀髪だ。彼は戦争が終わってから、その目立つ容姿を世間に溶け込ませるため、魔導で髪の色を染めていると言っていた。それが体の中の異物として判断されたのか、ヘヴンガレッドの力で消失してしまったのだ。
身に纏ったローブは所々破れたままだが、竜の顎に噛み砕かれた筈の体は、傷ひとつ付いていない。服に染みていた血の汚れすら、消えていた。流れ出した血液は全てエアニスの体へと還っていったのだ。
ヘヴンガレッドから流れ出す力は、持ち主の体が傷ついてもたちどころに治してしまう。
このヘヴンガレッドの前の持ち主、レナ=アシュフォードの力が強く宿っているからだ。彼女は有能な魔法医で、石の力を使って幾人もの人命を救ってきた。その意思が、このヘヴンガレッドにも宿っているのだ。
エアニスは力の具合を確かめるように、左手のオブスキュアを見下ろす。
「もう二度とこの力を振るう事は無いと思っていたが・・・命には変えられねぇか・・・」
石の力をその身に宿すのは、1年半ぶりだった。石に魂を食われることも無く、あの時と同じように、エアニスはその力を従える。むしろ懐かしさすら覚え、心は落ち着いていた。
この力と繋がっている間は、"彼女"の存在を、感じる事ができるのだ。
エアニスは剣を捧げるように突き出し、独り言のように呟く。
「許されるのなら、もう一度だけ・・・お前の石の力を借してくれ、レナ」
そして、エアニスは真っ赤に染まる大地へ一歩、踏み出す。
血霧の中にも関わらず、銀糸の髪は一筋の汚れもなくフワリとなびいた。
かつて世界の全てを拒絶し、たった一人の勢力として大戦を戦い抜いた剣士。
"月の光を纏う者"は、再びこの世界へと降り立った。




