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月の光を纏う者  作者: 猫崎 歩
終章
72/79

第71話 色無き狭間 淵の世界

 エアニス達の前から姿を消して空間を渡った二人の魔族は、再びあの場所へと舞い戻る。

 2日前、レオニール軍の遭難者と最初に遭遇した、山肌に石扉が埋め込まれていた場所。

 エルカカの民が集めた"石"を保管する、聖域への入り口へ。


「!?、ここって・・・」

 イビスに抱えられたままのレイチェルが意識を取り戻し、辺りを見回す。何かの術でもかけられているのか、手足が動かなくなっていた。首から上が辛うじて動くのみだ。

 その場所はレイチェルの父シャノンから聞かされていた、エルカカの民の聖地だった。

 この場から見える山の形に、辺りに生える樹木の種類。全てが聞いている話と一致している。何より、土で埋められ隠されていた筈の石扉。そこに刻まれた、エルカカに古くから伝わる紋章。

 いつか、お前も"石"を持って、あの地を訪れる事になるだろう。

 シャノンの言葉が頭の中で繰り返された。レイチェルは唇を噛む。まさか、このような形でこの地を訪れる事になろうとは思ってもみなかったからだ。

「扉を開けろ」

 イビスはそう言って、レイチェルを雪の上へと放り出す。イビスの体から離れた途端、動かなくなっていた手足が自由を取り戻した。

 それに気付くと、レイチェルはうつ伏せに倒れ込んだまま呪文の詠唱を始める。数秒で構築できる風の術。周りの雪を吹き飛ばして姿を隠し、この場から逃げ出すのだ。

 突然体が浮き上がり、目の前の景色が反転した。

 腹を下から蹴り上げられたのだ。

 意識を失う事は何とか堪えて、レイチェルは雪原の上に仰向けに転がる。胃の中のものが喉元までこみ上げ、息が出来ない。

「何するつもりよ」

 余裕を失った、冷徹な女の声。レイチェルを蹴りつけたのはアイビスだった。

 トキに打ち込まれた空間転移の術が効いているのか、顔色を失い、息を切らし肩を上下させている。時折乱れた映像のようにその姿をブレさせ、おぼつかない足取りでレイチェルへ近寄る。

「調子に、乗ってんじゃないわよ!!

 あんた、一人でっ、何か出来るってぇのよッ!?」

 ヒステリックに叫びながら、蹲るレイチェルを硬いブーツで何度も何度も蹴り付けた。 当然呪文の詠唱は中断され、レイチェルは靴底から頭を守るように蹲る。

 アイビスはレイチェルの束ねられた髪を掴み、無理矢理立ち上がらせて言い放った。

「人間ってみんなそうよね。無駄だって分かってるのに行動する・・・ほんとバカみたい、どうあがいたって、結果は変わらないのが分からないの!?」

 足に力も入らず、髪を引っ張られる事で無理矢理立たされている状態のレイチェルは、アイビスの顔を下から睨みつける。

 その瞳には恐怖の色の欠片も無い。

 それがアイビスの癪に障る。

「・・・開けなさい、扉を」

「イヤ、ですよ・・・殺されたって開けたりしませんから・・・」

「・・・あたし達があなたを殺せないってのは分かってるんでしょ?」

 そうでなければ、レイチェルをここまで連れて来る意味は無い。忌々しげに、アイビスはレイチェルを睨む。

 魔族の力を持ってしても、この扉は開けられないのだ。エルカカの民であるレイチェルにしか解除できない魔導が、この扉には仕掛けられている。

「逆を言えば、生きてさえいればアンタなんてどうなってもいいんだからね?」

 その言葉と共に、パチン、とレイチェルの右人差し指の先が跳ねた。

 見れば、指の爪が剥がれて垂直に起き上がっていた。途端に電撃のような痛みが全身を突き抜ける。

「あぐぅぅぅぅっ!!」

 思わずうめき声を上げて、レイチェルは指先を押さえる。爪は剥がれず皮一枚で繋がっている為、痛みがより伝わりやすくなっていた。

「爪を一枚づつ剥がそうか? ぜんぶ終わったら次は指の骨で、次は足の指ね。

 あ、虫歯とかってあるかしら? 良かったらそっちを先に治療してあげてもいいけど?」

 お医者さんごっこ好きなのよね、とアイビスは楽しそうに笑った。

 その嗜虐的な笑みに、レイチェルは恐怖を覚える。

 恐怖して、そして諦めた。

 これからの人生の色々を。いや、人生そのものを、諦めた。目の前の魔族は、本当に今口にした事を実行するだろう。全てを終わらせて、五体満足無事に帰れる事を願っていたが、やはりそれは無理なようだ。

 そこまで考えて、ふと思い出す。

(いや・・・どのみち私には、"この先"なんてものは無いんだっけ・・・)

 それに気づくと、気が楽になった。一瞬にして自分の事を割り切ってしまったレイチェルは、それがまるで他人事のように溜息を吐いて、醒めた目をアイビスへ向ける。

 痛みに耐えながら、はっきりと宣言するように言う。

「好きにすればいいわ。でも、無駄よ。

 私は何をされても、絶対に扉を開けないから」


 でも本当は、今すぐエアニス達が助けに来てくれる事を期待していた。

 いつかのように、絵に描いたヒーローみたいに。でも何処か粗暴で正義など感じさせない、かっこいいダークヒーローみたいに。エアニスさんの性格だと、今の状況を見たらキレちゃうんだろうなぁ、トキさんも、チャイムも、何だかんだで沸点低いし・・・私の為に怒ってくれるのは嬉しいけど、それ以上に申し分けない気がするかな。エアニスさんに、トキさんに、チャイムに頼りっぱなしで、私は何もできないのにな。

 そんな事を考える。

 だが、神殿の場所はさっきの戦いの場所からかなり離れている筈だ。助けは期待できない。

 だからレイチェルは、今の全てを自分ひとりで背負い込む。

「私達の一族が250年かけて守ってきたものを、私の身一つの都合で手放す訳にはいかないのよ」

 額に脂汗を浮かべ、いつの間にか目には涙が溜まっていたが、レイチェルは揺ぎ無い瞳でアイビスを睨み返す。

「あたしが背負ってるものは、あなたが思ってるより重い」

 怒りで吊りあがっていたアイビスの目がすっと細くなり、表情が消え失せた。

 アイビスが腕を振り上げた。レイチェルは思わず目を閉じ、身を竦める。

 だが、暫くしても何も起こる気配が無かった。

「無駄だ。そいつは喋らない」

 男の声にレイチェルは目を開けると、イビスがアイビスの振り上げた腕を掴んでいた。

「・・・そんな事無いわよ。指の先から寸刻みにしてやれば、どうせすぐに言いなりになるわ」

「時間があればな。だがそう時間も経たないうちに、奴等もここに来るだろう」

「じゃあどうやって扉の開け方を吐かせるのよ!?」

 イビスは捕まれていた腕を振り払う。

「簡単だ。お前のような人間は、自分の痛みよりも他人の痛みの方が辛いんだろう」

 そう言って、イビスはレイチェルの額へ、自分の右手を押し当てた。

「!?」

 冷たくも暖かくも無い、無機質な体温。レイチェルはビクリと身を震わせる。だが、触れられた事に驚いたのではない。

「見えるか?」

 イビスが問いかける。

 レイチェルには、目の前にあるイビスのコートの袖の他に、もう一つの風景が見えていた。二つの眼球で別々のものを見ているような感覚とも違う、レイチェルの目を通さずに頭の中で直接再生される映像。不思議な感覚だった。

 レイチェルはまるで鳥にでもなったかのように、空から雪に覆われた森を見下ろしていた。森の切れ目に、数人の人影が見える。徐々に視界はその人影へとズームしてゆくと、そこには胸から大量の血を流しているトキを必死に治療しているチャイムとティアドラが見えた。

「トキさん・・・!!」

 レイチェルも気を失う直前、トキがイビスの剣に胸を貫かれたのを見ている。レイチェルの脳裏に映ったトキの顔は血の気を失い、生気の欠片すら感じられなかった。

 トキの傷口を押さえながら、エアニスが何かを叫んでいる。しかしその映像には音声が伴っておらず、さながら無音劇のような虚しさを演出していた。

「奴の傷口には、まだ俺の存在の残滓が残っている」

「・・・!?」

「俺の力は、まだ奴の体と繋がっている。

 つまり、ここからでも、奴の息の根を止める事が出来るという訳だ」

「!、いや、やめて!!」

 イビスがレイチェルの額に当てた手とは逆の手を、捻り込むようにして握った。

 レイチェルの脳裏で、トキの傷口と血の跡がみるみる広がってゆく。びくん、と大きく仰け反ると、トキは口からも血を吐き出した。

「いやあぁぁぁっ!!」

 レイチェルは頭を抱え両目を覆う。しかし目を閉じていても、トキの傷口が見えない何かに抉られている様子が、レイチェルの頭へ直接流れ込む。

「もう一度だけ言う。この扉を開き、"石"が保管されている場所へ案内しろ」

「分かった・・・分かったから・・・お願い、やめて・・・!」

 レイチェルは力なく、その場にうなだれる。



 その出来事があった数分後。

「・・・何とかなりそうじゃな・・・」

 ティアドラはトキの傷口の治療に全神経を注ぎならが呟く。

「本当か!?」

「エアニス、もう血は止まったから・・・止血はもういいわ」

「あ、あぁ」

 ティアドラと同じようにトキの傷跡に手をかざして魔力を送り続けていたチャイムが言った。

 エアニスはそっとトキの傷口から布を離した。ベリベリと乾いた血の剥がれる感触が伝わる。トキの傷跡は完全には塞がってはいなかったが、胸の真っ赤な傷跡からはもう血が流れ出すようなことは無かった。

「肺と気管、心臓に近い太い血管はあらかた修復出来ている・・・まだまだ予断はできんが・・・治療さえ続けていれば悪化する事は無いじゃろう」

「・・・そうか」

 エアニスは長い長い、安堵の息を吐く。

 そして、もう一つの心配事を片付けるため、勢い良く立ち上がり気持ちを切り替える。

「よし、それじゃあ俺は先に行く。トキを頼むぞ」

「ま、待ってよ!」

 チャイムが慌てて引き止める。

「レイチェルを助けに行くの!?」

「それ以外に何がある」

「一人でなんて無茶よ! もう少しだけ待って・・・!」

「これでも時間を食いすぎている。それに、ここから神殿までまた距離があるんだろ?」

「神殿の場所はレイチェルとティアドラしか知らないじゃない!

 あたしもティアドラも、まだ治療で手が離せないわ!」

「・・・その場所なら、恐らく俺も知っている」

 部下の介抱をしていたローウェンが、その手を休めて言った。幻術に惑わされたエアニスとトキに傷付けられた彼の部下達も、チャイム達の治療のお蔭で大事に至る者は居なかった。

「あの二人と初めて会った時、彼らは岩肌に埋め込まれた石扉の前に居たと聞いている。その場所なら報告も受けているし、我々の装備の中には2台だけだがスノーモービルもある。10分もあれば、その場所まで案内出来るだろう」

「本当か・・・!?」

 エアニスの口元に笑みが浮かぶ。願ってもいない事だった。

 ティアドラは少し考えるように目を伏せてから、チャイムを見た。

「チャイムよ、エアニスと共に行ってくるがいい」

「え、でも!」

「なに、ここまで治療が済めばわし一人でも何とかなる。

 エアニスとそこの人間だけでは不安じゃからの。付いていってやれ」

「分かったわ・・・トキを、お願いします」

 チャイムは立ち上がり、ティアドラへ深々と頭を下げる。

 ローウェンはティアドラに自分の知っている場所が本当に神殿への入り口かどうか確かめる為、周りの地形やここからの方角を伝え、間違いないという事を確認した。

 少し離れた場所に停められていた2台のスノーモービルに、エアニスとチャイムはタンデムで跨り、案内役のローウェンを先頭に雪原を走り出した。



 三人が去った後には、ティアドラと気を失ったトキ、ローウェンの部下達が残された。

「とは言ったものの・・・あやつ等に本当にあの魔族が倒せるのかの・・・」

 治療を続けながら、ティアドラはひとりごごちる。

「まぁ、わしのような存在が、今の世界に干渉出来るのはせいぜいここまでじゃろうな・・・」

 ティアドラは、レイチェルやチャイムよりも、強大な魔力と技術を持っている。自分が戦えば、彼等の戦いの大きな手助けになるだろう。

 だが、ティアドラにはそれが出来ない"理由"があった。

「・・・この時代を救うのは、この時代に生きる者であるべきじゃ」

 そう呟いて、小雪の舞う青空を仰いだ。



 まばらに生える潅木の間を縫うように、2台のスノーモービルが雪原を駆け抜けた。

 ローウェン達が持っていたスノーモービルは完全な機械式で、耳障りなエンジン音と振動の代わりに魔導式のエンジンには無いピーキーなパワフルさを持っていた。様々な乗り物の運転方法を知っているエアニスも、スノーモービルに乗るのは初めてだったが、知識とカンだけで何とかなっている。感覚的にはオフロードバイクに近いが、車体の挙動は四輪車のそれに近かった。前を走るローウェンを見失わないよう、ぴったりと後をついて走る。

 雪を掻き毟るように急斜面を登り、落ちるようにして谷を下る。タンデムシートに座るチャイムは振り落とされないように、エアニスの背中とシートにがっちりと掴まる。


「ねぇ、エアニス」

「あんま喋るな、舌噛むぞ」

「勝てそう?」

「勝たなきゃ帰れないだろ。さっさとレイチェルを連れ戻して、ついでにあの遭難者達も連れて、街に戻ろうぜ」

 いつもの調子で応えるエアニスだったが、その言葉はチャイムの心に影を落とした。いつものエアニスならば自信たっぷりに、「当たり前だろ」とか、「お前が足を引っ張らなきゃな」などと言う気がする。なのに、今のエアニスの応えは、チャイムの質問をはぐらかしたような回答だった。

 エアニスにも、勝てるという明確な自信が無いのだろう。

 途端に心細くなったチャイムは、エアニスの体に回していた腕に、ぎゅっと力を込めて言う。

「・・・絶対死なないでね」

「・・・」

 今の一言だけで、自信の無さを見透かされてしまったエアニスは、ばつが悪そうに口元を歪める。

 会話に気を取られ集中力が途切れたせいか、スノーモービルが横滑りしてしまった。

 大きく降られたタンデムシートに乗っていたチャイムはスノーモービルから投げ出されそうになったが、エアニスが自分の体に回された彼女の腕を掴み事なきを得た。

「悪い」

 短く詫びるエアニス。捕まえたチャイムの手を握ったまま、

「死なねーよ。俺もお前もレイチェルもトキも。

 この2ヶ月間で、あれだけの戦いを切り抜けてきたんだ。

 魔族だろうが神様だろうが、俺達には敵わねぇ。

 全部終わらせて、みんなで帰るんだ」

 エアニスはチャイムの手を強く握り、誓うように言う。

「うん・・・そうだね」

 エアニスの背中に額を当てて、彼女は小さく頷いた。

「・・・着いたみたいだぞ」

 ぐん、とスピードが落ちて、スノーモービルは切り立った崖の麓で止まる。



「じゃあ俺は仲間達の所に戻る。男の怪我の治療が済んだら、あの女魔導師を連れて来ればいいんだな?」

 ローウェンはスノーモービルを転回させながら言った。

「まぁ、当人にその気があればな。無理に連れてくる事は無いさ」

「・・・分かった。悪いが一晩待っても戻ってこなかったら、我々は先に山を越えさせてもらうからな」

「ああ。すまなかったな、巻き込んでしまって」

「謝るなよ。我々こそ、奴等にいいように利用されてしまった・・・お互い様さ」

 ローウェンはエアニスに手を差し伸べる。

「死ぬなよ」

 エアニスはハイタッチでもするかのようにローウェンの手の平を叩いた。握手と呼べるようなものではなかったがエアニスは悪戯めいた笑顔を見せ、ローウェンも苦笑いを返す。

 来た道を引き返す為、彼はスノーモービルのスロットルを握る。急な斜面を駆け上り、その姿はあっという間に見えなくなってしまった。

 ローウェンを見送り、エアニスが振り返ると、そこにはぽっかりと口を開いた洞窟があった。

「扉・・・開いてるね」

 チャイムが呟いた。エアニスはその場にしゃがみ込み、踏み荒らされた地面の雪をざっと撫でた。薄く降り積もった雪の下には、点々と血が染み込んでいる。

「・・・レイチェル!?」

「どうかな。とにかく、急ぐか」

 二人は洞窟の中へと踏み入る。洞窟の通路は下向きに伸びていた。魔導式の灯りでも無いかと期待したが、洞窟内にそれらしい設備は見当たらなかった。人間の手が入った形跡は殆ど無く、ゴツゴツした壁や天井は天然の洞窟かと思わせる。少し進んだだけで辺りは真っ暗になってしまい、エアニスは腰のポーチに入れていたライトを取り出しスイッチを入れる。


 突然、目の前が真っ白になった。

 立ち眩みでも起こしたのかと思ったが、違う。実際目の前に、真っ白な空間が広がっているのだ。

  広大な雪原に放り出された訳でも無い。それにしては、何も無さ過ぎる。目の前に広がる異常を正しく認識する前に、ぐわん、と平衡感覚が逆転した。

「な・・・・・!?」

「な、何よこれ!!」

 エアニスが上を見上げると、真っ白な空間の中、チャイムが仰け反るような格好でフワリと浮かんでいた。まるで海の中を漂っているような感覚だ。

 あらためて周囲を見回すエアニス。しかし自分の周りにはチャイムの姿が見えるだけで、上下左右すべてが真っ白だった。何処が床で何処が壁なのかも分からない。それどころか、今自分は地面に立っているのか、それとも重力に引かれて落ちているのか、それすらも判断出来なかった。訳の分からない恐怖がエアニスの背筋を震わせた。

「普通の空間じゃない・・・魔導で作り出された世界か・・・それとも幻覚でも見せられてるのか・・・?」

「幻覚ってセンは無いと思うわよ・・・そんな干渉も予兆も無かったわ」

「おいチャイム」

 エアニスはやや硬い声で、頭上に漂うチャイムを呼ぶ。

「な、なに?」

「かぼちゃパンツがまる見えだ」

 チャイムは自分の真下に仰向けで漂うエアニスの頭を思い切り踏みつける。ガードの固いかぼちゃパンツだとしても制裁に容赦は無かった。

「いや、流石にかぼちゃは無いだろお前・・・もうちょっと何と言うか・・・」

「うるさいわね! 寒いのよ!!」

 場違いな言い合いを続ける二人の体は宙をクルクルと回る。エアニスは自分の体がチャイムと同じ向きになった時に彼女の手を捕まえた。

 無重力の中、二人の体は並ぶようにしてゆっくりと静止する。

「いや・・・無重力ってワケじゃないのか・・・?」

 僅かだが自分から見て下の方に重力を感じた。実際、ついさっきまでひっくり返っていたエアニスの長い髪は、重力に引かれてその肩口に掛かっている。

 二人はゆっくりと、下に落ちているのだ。

「エアニス!! あれ!!」

 チャイムが下を指差して叫ぶ。

 見ると、チャイムの指差す先には3人の人影が見えていた。

「レイチェルと、それにあの二人の魔族か・・・」

 遠目で見る限りレイチェルは無事のようで、エアニスは胸を撫で下ろす。

 向こうも、宙に浮かびゆっくりと落ちてくるエアニス達に気付いているのだろう。じっとこちらを見ていた。


 エアニスとチャイムは、魔族とレイチェルの居る場所へふわりと降り立った。二人の魔族からやや距離をとった位置だ。

 靴が地面に触れた途端、体にずしりと重みがかかった。ゆっくりと宙を落下している間は自分の体が羽毛のように軽かったのに、足が地面に触れた途端、普通の重力が体にのしかかってきたのだ。

 この真っ白で不思議な空間にも、当然かもしれないが一応地面があった。地面も周りの景色と同じく真っ白なので、足が地面を踏む感触を捉えていても地面と空の境界線が見えないせいで、まるで曇の中で浮いているかのような感覚に陥る。

 よく見ると、汚れ一つ無い真っ白い床にうすぼんやりと自分の影が落ちていた。それだけが唯一、地面の存在をエアニス達の視界に訴えかける物だった。

 目に映る物も少なければ空気の流れも無い。匂いも無ければ音が反響する物も無い。感じ取る事の出来る情報が極端に乏しいこの空間は、まるで自分の五感の幾つかを失ったかのような感覚に陥る。

 やりにくいな、とエアニスは思った。


 エアニスは乱れた髪を払いながら、二人の魔族とその足元に座り込むレイチェルを見た。レイチェルの頬には血が滲み、口元には青痣が出来ていたが、大きな怪我は無さそうだった。エアニスと目の合ったレイチェルは、申し訳なさそうに、でも自分は大丈夫だと言う様に、困ったような顔で笑った。

 それでも自分の手の届かない所で仲間を傷つけられたという事実がエアニスの頭から思考を奪い、覚めた怒りが体を支配する。御し難い衝動を抑え、平静を装いながら彼女に声を掛けた。

「よう、レイチェル。悪いな、遅くなって。大丈夫か?」

「はい・・・それより、トキさんは?」

「命に関わる傷は全て塞いだわ。今はティアドラが見てくれてる。もう心配は無い筈よ」

 チャイムの答えを聞いて、レイチェルは安心したように息を吐き、よかった、と呟いた。

「で、なんだこのイカレた場所は。こうしているだけでも気が狂いそうになるぞ」

 冗談めかして言ったが、実際エアニスはここに1週間もいれば頭をおかしく出来る自信があった。ただただ広いというだけで、これでは何も無い部屋に閉じ込められているのと変わりない。

「私の先祖にあたる、大魔導師エレクトラが空間制御の術で作り出した聖域だそうです・・・。

 私達の世界の外れにある、時間の流れから切り取られた空間・・・それ故、別の世界との境界線が何処よりも薄い場所・・・と言われています」

「ふぅん」

 エアニスは踵でガツガツと真っ白な地面を蹴る。艶の無い石灰岩のような質感で繋ぎ目が一切無い。そしてどういう理屈か、どれだけ靴底を押し付けても白い地面は汚れ一つ付かない。エアニスはもう一度、自分達が落ちてきた何も無い白い空を見上げた。

「驚いたな・・・空間制御に時間制御・・・俺達が上からゆっくり降りてこれたのは、気流じゃなくて重力の制御か?・・・お前のご先祖様は何でもアリだな」

 感心したというよりは呆れた様子で腕を組み、そのでたらめな空間を見回した。


「ちょっと・・・なに暢気に世間話なんてしてるのよ?

 アンタ達、自分の状況分かってんの!?」

 そのやり取りを見ていたアイビスが、痺れを切らして会話に割り込む。まるで自分達が見えていないようなエアニスの態度に腹が立ったのだ。

「うるせぇよ。黙ってろ負け犬が」

 エアニスのにべも無い罵倒にアイビスは顔を赤く染める。

「ッ!、馬鹿にっ・・・!!」

「カリカリするなよ、器の小ささがバレるぞ」

「うっさいわねこの男女っ!!」

「ンだとこの野郎オォォ!!」

 余裕すら見せていたエアニスが一瞬でキレた。

 危うく始まりかけた漫才を止めるため、チャイムはエアニスの膝裏に蹴りを入れて黙らせる。こほんと咳払いをして、彼女は二人の魔族を見据えた。

「それが・・・これまで集められてきたヘヴンガレッドなの?」

「?」

 チャイムの言葉に、エアニスは眉をひそめる。

 よく見ると、二人の魔族の後ろには胸の高さ位の祭壇があった。この真っ平らな空間に唯一存在する人工物。大きな岩から削り出されたような祭壇は精緻な細工が施されている。材質は白い地面のそれと同じ物だろう。艶の無い真っ白な色で、細工の凹凸が淡い影を落として見事な造形を控えめに主張している。周りの景色に溶け込んでしまい、エアニスはチャイムの言葉を聞くまでその存在に気付けなかったのだ。

 そして台座の上には無造作に、小石程度の大きさからこぶし大までの大きさの、不揃いな紅い6つの石が無造作に転がっていた。

 それにイビスが手を伸ばす、エアニスは驚き、反射的に剣の柄に手を掛けた。

 しかしイビスの手は、見えない壁に触っているような形で止まる。手を離し拳を作り、その見えない壁をノックするように小突いた。まるでパントマイムでも見ているようだった。

「この祭壇と石の周りの空間は時間が止められている」

 イビスは淡々と語る。

「この台座も、この地面も全てだ。時間が止められ、どのような手段を講じても傷ひとつ付ける事が出来ない。

 この女が空間制御の術で、空間凍結を解除しない限りはな」

「・・・へぇ」

 にやり、とエアニスが笑う。

「だからレイェルに解除の為の術を使わせるため、お前等はレイチェルをいたぶってた訳か?」

「・・・そうだ」

 何の感情も込めず、イビスは言う。エアニスの掌にじわりと力が入る。

「よく耐えたな、レイチェル」

「あ、えっと・・・はい・・・」

 レイチェルが受ける筈だった痛みの大部分はイビスの思惑によってトキの方へ行ってしまった訳だが、今それを言うと話がややこしくなると思ったレイチェルは敢えてエアニスの言葉を受け流した。トキには申し訳ないと思ったが。

「この女を拷問にかけようにも殺してしまっては元も子も無いからな。

 "人質"を使って扉を開けさせたが、ここは全ての力が外界から隔絶されているらしく、俺の力でも"人質"に手を出す事が出来なくなって困っていた所だ」

「人質?」

 イビスの言う"人質"とは、もちろんレイチェルの事ではなくトキの事だ。エアニスは、彼がイビスの力によって治療中も痛め付けられていた事を知らないので、その言葉の意味を理解出来ない。

 イビスは右手を上げると、その手に彼がいつも使っている大剣が現れた。それを握ると一歩踏み出し、エアニスに剣を向ける。

「この女が言う事を聞くまで、代りにお前を痛めつける事にしよう」

 その言葉にエアニスは鼻を鳴らして、腰の剣を引き抜く。

「痛め付ける?

 はっ、舐めるなよ。殺すつもりで来い」


 イビスと対峙して、エアニスは改めて感じる。

 これが最後の戦いになると。

 彼等にとっても、これ以上退く事は出来ない筈である。

 エアニス達にとっても同じだ。だから、この戦いはどちらかが倒れるまで終わらない。

 そう思うと、すう、と感覚が冴えて来るのを感じた。大戦中の戦場では、よくある事だった。緊張か恐怖か、それとも全力で戦える事に対する歓喜か。この感覚の正体が何かは知らないし、知ろうと思った事も無いが、とにかくこうなるとエアニスはすこぶる調子が良い。

 戦う事が楽しくなるのだ。

 あまり褒められたものではなく、かつてレナと交わした約束とも相反する感情だ。

 大戦が終わってから自ら封印したつもりの意識だが、今だけはこれを解き放とう。

 自分の全てを力に変えよう。

 全てを捨ててでも、彼女達を守らなくてはならないのだ。

 エアニスの纏う空気が変わり、チャイムはゆっくりとその背から遠ざかる。自分が手出し出来る様な戦いでない事は分かっている。アイビスも、二人の戦いに手を出すつもりは無いのか、跪くレイチェルを見張るように、彼女の側から離れようとしなかった。


 エアニスの思考は次第に暗い深みへと沈んでゆく。

 やがて意識が心の裏側へと突き抜けると、全ての不要な思考が頭の中から消え失せた。

 脳は心を排除し、ただ相手を倒す事だけに全ての力を発揮する。

 思考よりも本能に従い、エアニスは言葉も無くイビスに向かって飛び掛った。

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