晦(つきこもり)
『美味しいの?』
朔が喋るはずがない。というか、そもそもあれが朔かどうかも怪しい。
そう頭では分かっているのに、あの日から冷蔵庫の缶ビールは常に1本余分に冷えている。
他部署の不具合は昨日でなんとか収拾がつき、応援部隊に借り出されていた面々はすっかりばてていた。
「お先」
そう言い置いて、今まで見たこともない程過労でくたびれた上司が早々に荷物を纏め出て行く姿を見送りながら自分もデスクを片付けていたら、「今度の金曜、空いてる?」と同期から声を掛けられた。
「なんで?」
「今回のお詫びにお疲れ会をする事になったから、出欠とってるとこ」
そういえば不具合を出したのはこいつの部署だ。
「そっちのおごり?」
「もちろん」
気前よく頷くからには、こいつの上司がメイン出資者なのだろう。確か独り身管理職のはずだから、懐具合の心配をせずに安心して飲める。
「行く」
即答し鞄を持って席を立つ。
「今日じゃなくて金曜だよ」
「分かってるって。どこぞのせいで残業時間が超過しそうだから帰るだけ」
会社の窓から見える空にはまだ夕陽が居座っているが、なんとなく朔が来る気がして落ち着かない。
「じゃあ今からデート?」
「はぁ?!なんでそうなる?」
「前に恋人が出来たって話を聞いたよ。こんなに定時きっかりに帰るならそうでしょ?」
「違う。猫が――」
「猫?飼ってるの?」
「いや、拾った猫なんだけど……」
恋人説は里親探しで定時帰りしたのを勘違いされたと釈明したが、どうにも半信半疑の様子だ。
「ふーん」
頷きながらも、もの言いたげな同期の視線を無視し、タイムカードをスリットする。【子猫が喋る】なんて荒唐無稽な妄想を信じたい思いで些か浮き足立っているとは、とてもじゃないが言えない。
「じゃあ、お先に」
「お疲れ」
そそくさと会社を後にし、コンビニで夕食を買ってから自宅に帰るが、出迎えてくれるものは当然いない。とりあえずシャワーを浴びて、ビールを開ける。
喉を鳴らし缶の半分くらいまで飲み、一息ついたところでベランダの窓の端にうごめく影に気付いた。
―――?
大きさにしてスイカより少し小さ目で、様子を窺うと、なにやら引っ掻くような物音もする。カラスか?これといってベランダに置いていないが、巣を作っていたら嫌だ。けれど嫌だと言って放っておいたところで状況は変わらない。まずは確認しなければと、恐る恐るガラス窓を開けると……
「朔?!」
真っ黒な子猫が網戸に爪を取られもがいていた。
「こら、暴れるともっと絡まるっ。あ、網戸~」
細い爪が引っ掛かった網戸には大きな穴が開き、自力で外そうとした涙ぐましい努力の跡を残している。
網戸の張替えは自分で出来るものか気になるところだが、今はこいつを助けるのが優先だ。部屋の中にとって返し、持ち出したはさみで絡まった網戸の糸を切って救出すると、子猫は一度身震いをした後、お礼を言うかのように「なー」と一回鳴いた。
真っ黒な猫など珍しくないと頭の中で繰り返しながら、淡い期待を込めて手を差し伸べたら、顔を摺り寄せてきた。
「朔?」
声を掛けられた子猫は「なー」と再度鳴き、するりと部屋に入り冷蔵庫の前に移動すると、かりかりと前足で扉を開けようとしだした。
『美味しいの?』
不意に甦る声。
化け猫?猫又?それとも偶然か?訳が分からないが、物の怪の類なら未成年ではないはずだから再開の乾杯をするにやぶさかでない。だが、その前に――
「洗うよ」
今の飼い主は動物病院の近くに住んでいると獣医は言っていた。ならば朔がここに来るまでに相当汚れているはずだ。
むんずと捕まえられたその表情はかなり不服そうだが、今は我慢してもらおう。風呂上りのビールの美味さは保障するから――。