立待月(十七夜)
「朔、行くよ」
定時間際に一仕事頼まれてしまい、自宅に着いた時には着替える間もなかった。仕事の鞄を放り、空いた手で小さな身体を掬い上げる。すぐに家を飛び出した。
片手で朔を抱えながら元来た自転車置き場へ戻って前かごに朔を降ろし、くるりと丸まったのを見て取るや、全速力で自転車を飛ばす。
約束の時間に間に合うか?
不要になるからと譲るつもりで準備していたトイレ砂やキャットフードの試供品を忘れたが、今更撮りに戻る余裕はない。とにかく自転車を漕いで漕いで、汗が滲む頃、遅刻するどころか数分の猶予を持って動物病院前に着いた。
「ふぅー」
自転車のスタンドを立て、日没したものの未だ明るさが残る空を見上げながら、近くの自販機で買った炭酸飲料を飲んで一息ついてから前かごの中を覗くと、朔がギュッと顔を隠すように丸まって小さな塊になっていた。
アスファルトで舗装された道路に大きな起伏はないが結構なスピードを出していたので、小さな体にはきつかったかもしれない。
「朔ものど渇いた?」
ちょんと指で額を突っつくと、朔が恐る恐る顔を上げた。
その姿に思わず苦笑を洩らしながらペットボトルを差し出すと、暫く様子をうかがった後、結露を美味しそうに舐めだした。ボトルのキャップを閉めてかごの中に置き、自転車を漕いでいる間に乱れた身だしなみを整える余裕も出来た。そうしている間に朔が露を舐めるのを止めたので、もう一度ペットボトルを傾け飲み干そうと顎を上げると、
「ん?」
さっきまで何もなかった空の隅っこに月が姿を現していた。
ほんの少し欠けた月だ。
*
話はトントン拍子に進んでしまった。
空の前かごの自転車に乗る。
行きは朔と、帰りは月と。
「……」
これでいいと自分に言い聞かせ、帰路に就いた。