十六夜
「今日も早いね」
5時30分ちょうどにタイムカードをスリットすると、後ろから声を掛けられた。
「ん、ちょっと」
朔を飼い主候補と引き合わせるために獣医と約束した時間まで余裕はあるものの、慌てるとろくな事がないので定時に出るだけの事だが、何となく説明が面倒で適当に言葉を濁してその場を後にすると、「恋人かな?」などと話している声が漏れ聞こえてきた。
猫だ!猫!
内心講義しつつも戻って訂正するのもおかしいので、後日昼食の雑談の時にでもさり気なく話題にしようと心に決め、駐輪場に向かう。
期間にして約二週間。長かったような短かったような朔との生活は、悪くはなかった。子猫はもっとうるさく鳴いて手が掛るイメージがあったのだが、朔はすぐにトイレを覚え、食べ残しもほとんどなく、それ程鳴かない。気まぐれに傍によってきたり膝に乗ることはあったがこびる様子もなく実に生活に溶け込んでいた。
「………」
踵を返し会社のロビー端にある人気のない階段まで行き、携帯を出すと件の動物病院の番号にかける。すると5コールを待たず獣医が出た。いつも6時以降の様子しか知らないが、定時で上がってしまうのか、人手不足なのか、獣医以外の従業員を見た覚えがない。
「あの、猫の里親の……」
「ああ、こんにちは。どうされました?」
「どうしても今日やらなければいけない残業の終わる目途がつかないんで、申し訳ないのですが顔合わせは明日でもよろしいでしょうか?」
「分かりました、相手の方に伝えておきます。本当にご近所なので夜ならいつでもいいそうですよ」
微妙に含み笑いをこらえているように聞こえるのは、こちらの急な思い付きに後ろめたさがあるからだろう。
携帯をポケットに戻し、今度こそ自転車で家路に着く。途中コンビニに寄って自分と朔の晩御飯を買う。それもいつもよりワンランク上のものを奮発しよう。ささやかなお別れ会だ。
いつものようにドアを開けると、三和土に寝そべり涼をとる朔がむくりと起きた。
朔に手を伸ばすと、撫でてくれとばかりに首を伸ばしてきたので、今日でお別れかもしれないからと請われるままに首を掻くと擦り寄ってきた。ついでに背中もカリカリ掻く。気持ちよさそうに喉を鳴らすので最後だからと長めに掻いた。
ペット禁止の住居で一人暮らしをしているのだから、きちんと世話が出来る飼い主を探す以外他に手はない。
「シャワー浴びたら、ごはんにしよう」
十六夜月は躊躇い月。
日没まであと僅か。
未だ昇らぬ月はゆっくりと顔を出し、最後の晩餐を照らすだろう。