「一途な愛は社会への反逆だ」と婚約破棄してきたエリート様へ〜快楽中毒の世界でシラフを保っていた私が、あなたの論文も研究も全停止して最下層へ叩き落として差し上げます〜
「一途な愛は社会への反逆だ」と婚約破棄してきたエリート様へ〜快楽中毒の世界でシラフを保っていた私が、あなたの論文も研究も全停止して最下層へ叩き落として差し上げます〜
統制統治機構のフロアには、甘いバニラの香りが漂っていた。天井の噴霧口から合成多幸薬〈ソーマ〉の微粒子が放たれ、人々の気分を幸福の基準値へ整えている。感情の波を小さく保つことが、社会を安定させる最も確実な方法だと、学校でも職場でも教えられてきた。
受胎カプセルから生まれた私たちは、眠っている間にも同じ言葉を聞かされる。全員が全員のもの。誰もが複数の相手と関係を結び、誰もひとりを特別に選んではならない。嫉妬も怒りも独占欲も、旧時代の人類が克服できなかった欠陥として、歴史教材の隅に記されていた。
その日の午後、上級階級アルファ・プラスの専用サロンで、私の婚約者アーサーがグラスを置いた。合成大理石の床に、硬い靴音が響く。隣にはベータ階級のリリィが寄り添い、甘い香料をまとった指で彼の袖をつまんでいた。
「アイリス。君とのペアリングは破棄する」
サロンにいた人々が、いっせいにこちらを見た。誰も驚いた顔をしない。誰かの関係が終わることも、別の誰かと始まることも、この社会では珍しい出来事ではなかった。
「理由を聞いても?」
私は手元の端末を閉じた。私の席の卓上には、生体培養の研究者用に携帯型空気清浄フィルターを稼働させてある。漂うソーマの微粒子を吸着して除去しているため、私の感覚は常に澄んでいた。薬で頭を鈍らせていないからなのか、アーサーの声はいつもより少しだけ震えて聞こえた。
「君は異常だ。この三か月、私以外の相手と関係を持たず、申請すらしなかった。旧時代の古典文学ばかり読み、ソーマの摂取量も規定の半分以下。そんな排他的な執着は、社会への反逆だ」
アーサーはリリィの腰に腕を回した。彼女は彼の胸へ頬を寄せ、こちらに向かって薄く笑う。
「私たちは、今度五人で共同ペアリングを結ぶの。誰かひとりに縛られるなんて、息苦しいでしょう?」
「アーサーも、君の病的な独占欲には疲れたのよ。前頭葉の調整を受けたら? 感情の波が消えれば、少しは皆と仲良くできるわ」
周囲から笑い声が漏れた。大きな声を立てる者はいない。幸福の基準値に調整された笑顔が、グラスの向こうに並んでいた。
私は彼らの顔を見渡した。誰も怒っていない。誰も悲しんでいない。目の前で誰かが傷つけられても、ソーマが「問題なし」と告げてくれるのなら、彼らにとっては何も起きていないのと同じだった。
「分かりました。ペアリングの破棄を受け入れます」
アーサーの眉が動いた。彼は私がすがると思っていたのだろう。リリィの腰を抱く腕に、少し力が入った。
「物分かりがいいじゃないか。君もようやく、自分が間違っていると認めたんだな」
「いいえ。私の考えは変わっていません。ただ、あなたとの関係を続ける理由がなくなっただけです」
私は端末を起動し、中央スクリーンに審査申請書を映した。画面に並んだのは、遺伝子設計の演算式と、研究成果の登録履歴だった。アーサーの顔から、貼り付けたような笑みが消えていく。
「それは、次期生殖培養局長の昇進試験に提出した論文の資料か?」
「はい。こちらは、その論文で中核に使われている演算アルゴリズムの登録記録です」
画面に、私の氏名と特許番号が表示された。私が開発したのは、受胎カプセル内の生体反応を解析し、培養環境を調整するための基礎アルゴリズムだ。アーサーの論文は、その仕組みを使って「感情を排した完全無欠な培養サイクル」を実現したと主張していた。
しかし、彼は私の名を共同研究者として記載していない。特許の実施許諾を受けた際に交わした契約には、研究成果を発表する場合、開発者名を明記すること、登録内容の範囲を超えて複製しないことが定められていた。
「待て。あれは、君が私に使わせてくれると言っただろう」
「研究用の実施許諾です。あなたの論文に私の成果を無断で転用し、あなたひとりの業績として提出する許可ではありません」
「共同で作ったものだ。君だって、あの研究室にいたじゃないか」
「研究室にいたことと、特許の権利を譲ったことは別です。契約書にも、登録記録にも、あなたの署名があります」
私は端末を操作した。論文審査機関と統制中央審議会へ、特許実施許諾の停止申請と、無断転用に関する証拠資料が送信される。受理通知が返ると同時に、アーサーの研究端末に赤い警告が表示された。
「何をした?」
「契約条項に基づき、申請の受理と同時に、あなたの研究室に対する利用権限を一時停止しました。審査が終わるまで、関連コードと培養データへのアクセスも凍結されます」
「ふざけるな。そんなことをしたら、私の論文は――」
「審査対象として扱えなくなるでしょうね。あなたの昇進試験も、いったん保留です」
アーサーは端末を開き、何度も画面を叩いた。けれど、認証画面は赤いままだった。彼の指先が震えるたび、サロンに漂う幸福な音楽の旋律が、妙に遠く聞こえた。
「すぐに許可を戻せ。君は私の婚約者だったんだぞ」
「婚約は、特許の利用契約ではありません」
「君は私を愛していたんだろう?」
その言葉に、私はすぐには答えなかった。ソーマを摂取しない私の胸には、怒りも悲しみも残っている。けれど、アーサーがそれを口にしたからといって、私の気持ちまで彼の所有物になるわけではなかった。
「愛していた時期はありました。でも、あなたが何をしても許すという意味ではありません」
そのとき、サロンの自動扉が開いた。灰色の制服を着た治安調整局の調査官が二人、端末を手に入ってくる。彼らはアーサーの身分コードを照合し、審査開始に伴う研究資格の一時停止を告げた。
「アーサー・コード994。特許成果の無断転用と、業績登録における開発者情報の不記載について、正式な審査を開始します。審査終了まで、研究責任者の資格および昇進試験の登録を停止します」
「これは誤解だ! アイリスが個人的な恨みで騒いでいるだけだ!」
「契約書と登録記録はすでに提出されています。異議申し立ては、指定された審査窓口へお願いします」
調査官たちはアーサーを連行しなかった。正式な処分が決まるのは、審査の後だ。だが、彼の研究室の扉は閉じられ、論文は審査対象から外される。局長昇進の候補者名簿からも、彼の名は一時的に消えた。
リリィはアーサーからそっと離れた。先ほどまで彼の腰に回っていた腕が、宙に残る。
「リリィ、君からも説明してくれ。私たちは一緒に研究を進めるはずだっただろう?」
「私、特許のことは知らないわ。無断で使ったのなら、あなたの責任でしょう」
「でも、君は私の味方だと言ったじゃないか」
「あなたがアルファ・プラスで、昇進が確実だったからよ。今は審査中の人と一緒にいる理由がないわ」
彼女は別の男性の腕に寄り添った。相手は彼女を受け入れ、何事もなかったようにグラスを掲げる。共有を掲げる社会では、誰もが誰かのものになれる。けれど、価値を失った人を支える者はいなかった。
アーサーは私を見た。目の縁が赤くなり、声がかすれている。
「アイリス。頼む。君なら分かるだろう。私を助けてくれ」
「あなたは、私を異常だと言いました。なら、私のような人間の判断に頼らないでください」
「君は他の男と関係を持たなかった。私を独占したかったんじゃないのか?」
「誰かを選ぶことは、その人を所有することではありません。私はあなたを選んでいました。でも、あなたが私の仕事を自分のものにしたことまで受け入れるつもりはありません」
アーサーの口が開き、閉じた。返事は出てこなかった。調査官に促され、彼は端末を抱えたままサロンを出ていく。扉が閉じる直前まで、彼は何度もこちらを振り返った。
審査結果が出たのは、十日後だった。アーサーの論文は、私の特許を無断で転用し、開発者の記録を隠していたとして不採用になった。昇進試験の資格も失い、研究責任者から外された。重大な研究不正と業績の虚偽記載が認定され、階級はアルファ・プラスからデルタへ降格。彼は、最果ての合成樹脂肥料工場への転属を命じられた。
その知らせを聞いた日、私は端末の画面を閉じた。誰かを追い落とした快感が、胸の中に広がったりはしない。残ったのは、長く握っていた指を開いたときの、軽い痛みだけだった。
サロンのダストシュートに、未開封のソーマ錠剤を落とした。小さな音がして、錠剤は暗がりへ消えていく。甘い香りはまだ空気に残っていたが、私の頭は曇っていなかった。
一途な愛は、社会への反逆なのだろう。けれど、自分の人生を誰に預けるか、自分で決めることまで罪だと言う社会なら、私は何度でも反逆者になる。
私は端末を鞄にしまい、統制統治機構の扉を出た。靴底が外の舗道に触れる。行き先を決めるのは、薬でも、階級でも、他人の許可でもなかった。自分の足で歩くことを、私は選んだ。




