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罪悪のカタチ  作者: TAKI
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第1章 罪の始まり

いったい何が罪なのか。何が私に対する罰なのか。その形さえわからぬまま、人は生きる。なんと醜く恐ろしく儚いものなのだろうか。


罪悪のカタチなんてわかるのだろうか。


※この作品はフィクションです。実際の事件や人物には一切関係ありません。

 「今!今アパートから容疑者が出てきました!警察の誘導のもと、警察車両へと向かって行きます!」

アナウンサーの声があちらこちらから響く。カメラマンはナカギシコウイチの姿をカメラに収めようと、警察が張った規制線を超えようとしている。大量のフラッシュと声を浴びたナカギシは、警察車両に乗り込んだ。後部座席から見える目の前の景色に、ナカギシは少し驚いた。

『こんなに人が集まってる………………。』

少しの恐怖と興味がナカギシを襲った。ナカギシは小さく身震いをして深く頭を下げて顔を隠した。その表情からナカギシの感情は読み取れなかった。


「………………ナカギシコウイチ?………………本名?」

6月12日、取り調べ室。刑事の烏丸洋平はナカギシと名乗る男に尋ねた。その男は丸坊主で、季節に合わない黒いジャンバーを羽織っている。そして両手の甲にはタトゥーが入っていた。カタカナで左手には「ナカギシ」、右手には「コウイチ」と彫られていた。そしてメモにもカタカナで書かれた「ナカギシコウイチ」の文字。漢字は不明だった。自分の名前を隠す理由がわからない。ナカギシを逮捕したとき、彼が住んでいたであろうアパートの表札もカタカナで書かれていた。余罪の発覚を恐れてのことだろう。しかし、本名か否かをはっきりさせなければ、今後の捜査が少し面倒になってくる。烏丸はそんな意図で本名であるかを確認した。ナカギシはゆっくりと黙って頷いた。烏丸は率直に疑問をぶつける。

「なんで全部カタカナ?」

ナカギシはうつむき加減で頭をかくだけだった。烏丸は少し大きな声でもう一度尋ねた。

「なんで漢字を教えてくれない?」

ナカギシは頭をかく手を止めて、小さくため息を吐いた。烏丸もつられてため息を吐いた。

「教えてくれたっていいだろぉ。全国報道でお前の名前は広まってるんだし。」

フウゥゥゥゥン………………。

ナカギシは深いため息で返事をする。それでも烏丸は落ち着いて話を変えた。

「まぁいいや。で?お前の逮捕理由となった一家殺人事件。これはお前がやったってことで間違いないか?」

烏丸は本件に関する報告書を見た。ナカギシを逮捕するに至った事件、若山一家殺人事件。6月11日の深夜1時頃。自宅で就寝していた若山修三、妻の幸子、長男の圭太、長女の瑞希、計4人が刺殺された。現場となった若山家の住宅には、ナカギシの指紋が至る所に付着しており、犯行に使われたであろう包丁も見つかっている。犯行時間から約7時間後に通報があり、第一発見者である近隣住民の松尾恭子が通報した。松尾は若山家と仲が良く、週に1回ほどのペースで野菜やお菓子のおすそ分けを渡しに行くほどだった。事件同日の午前8時頃。ゴミ収集の日だったそう。収集所に向かうために若山家の前を通った松尾は、住宅の1階の窓が割れているのを見つけ若山に知らせようしたらしい。しかしインターホン越しに声をかけたが反応はなく、不審に思った松尾はドアノブに手をかけた。すると鍵は開いており、扉を開けると目の前に血だらけになって倒れた若山幸子の遺体があったという。その後、松尾の通報によって警察が駆け付けた。その後の捜査で、ナカギシは犯行から3時間ほど現場で休んでいたことがわかり、冷蔵庫を物色した形跡やテレビ番組を見ていたこと、トイレで用を足した形跡まで見つかった。当然それらも証拠となり、ナカギシが犯人であると特定できたという。しかし不思議にも、住民票や表札、押収した保険証、個人情報に記載されている全ての名前がカタカナだったという。本名ではあるのだろうが、詳しい身元、本籍といった情報の特定が困難になるため、烏丸はナカギシの本当の名前を知りたがっていた。それでもナカギシは供述しないため、いったん話題を変えたのだ。

「お前で間違いないんだよな?」

再度烏丸は確認した。ナカギシは依然としてうわの空だった。烏丸はそれでも落ち着いて続けた。

「こんなこと俺もあんまり言いたくないけどさぁ、お前がやったって証拠、言い逃れできない証拠がめっちゃ出てきてんのよ。指紋や凶器、足跡。挙句に尿まで検出されてんだよ?さすがにシラ切り通すのは無理があるんじゃない?」

ジッと烏丸はナカギシを睨んだ。いくら口調を穏やかにして接したって、目の前にいるのは殺人犯。穏やかであれど弱みを見せるわけにはいかない。同じ人間であるはずの目の前の男は、普通なら考えつかないような凶行に及んでいる。油断は禁物だ。そして当然許すわけにもいかない。

「早く話してくれたら、取り調べも早く終わるから。質問に答えてくれない?」

ナカギシはまたも深いため息を吐いた。ため息を吐きたいのはこっちのほうだ。そう思いながら烏丸はナカギシの様子を窺った。するとナカギシはようやく口を開いた。

「………たしかにぃ、私がやりましたねぇ。」

ナカギシは低く小さな声で答えた。ようやく話が進んだ。ほんの少しの安堵が烏丸の胸中に浮かんだ。

「認めるんだな?」

烏丸はもう一度確認をした。

「そぉですねぇ………。今の段階ではそう言えますね。」

ナカギシは特に後ろめたさなどを感じさせない、独り言を呟くように言った。が、その発言の不可解な点に烏丸は反応した。

「今の段階?………どういうこと?」

あくまで自白を促すのであって強要をするつもりはない。先輩刑事には自白を強要する人もいるが烏丸はそんなことをしたくないと思っている。

『それをしてはやつらと同じだ。』

刑事になって早6年、烏丸はそんな誠実さだけは捨てまいと努めてきた。だからこそ烏丸は、ナカギシは自分が発言によって自白を強要しているように捉えられているのではないかと思ったのだ。取り乱すようなことはせず、烏丸は落ち着きを保っていた。そんな烏丸の考えなど知らず、ナカギシは話し出した。

「いやぁ、実はですねぇ。………私、記憶無くなるんですよ。」

「記憶?記憶喪失?」

意外な供述に烏丸は思わず疑問を口にした。

「記憶喪失になるってことか?」

ナカギシはゆっくり頷いた。

「記憶喪失、記憶障害ですねぇ。」

「へぇ……………。そうなんだ。」

烏丸は冷静さを保ちながら追及を始めた。

「具体的にどんな症状なのか言える?」

「具体的に……………。うぅぅん…………そうですねぇ。」

坊主頭をかきながらナカギシは少し考えていた。烏丸は急かそうとしない。30秒ほどナカギシは沈黙を通し、ようやく語り始めた。

「3日で記憶が消えるんです。何をしても。」

「………………3日。きれいさっぱりに?」

「大体そうですねぇ。覚えておくには毎日同じことを繰り返す必要があるんです。」

「パソコンの保存機能みたいなものか。文書作成ソフトとか。毎回上書き保存しないと保存されない、そんな感じか。」

「………………うぅぅん。たぶんそうなんでしょう。」

曖昧な返答からはその発言の真意が読み取れない。烏丸はナカギシの一言一句、一挙手一投足に注視した。しかし、反応を待つだけでは進展に時間がかかる。烏丸は質問を続けた。

「3日間なら記憶は保持できるのか?」

「そうです。3日間の記憶はできるんです。例えば3日前に何かを食べたりすれば、3日間だけ覚えれます。けど、3日間以降その記憶を保持するには、毎日その何かを食べておかないといけないんです。」

「………………なるほどね。」

記憶障害。大まかな症状はわかった。しかし、

「その割には、その症状についてはかなり覚えているね。毎日自分の症状を記録しているわけ?」

少々皮肉めいた質問をした。虚偽の供述の可能性だってある。はっきりさせなければナカギシの思うツボだ。が、ナカギシは思いのほか軽く

「そうですねぇ。」

と呟いて、言葉を続けた。

「毎日そんなかしこまったものじゃないですけど、記録はつけてます。日記みたいなものですね。」

「日記?」

「はい。毎日日記をつけるようにしてます。その日あった出来事を書き留めてます。もしかしたら思い出せるかもしれないんで。まぁ、結局思い出せれないんですけどねぇ。」

ナカギシはどこか申し訳なさそうに笑った。一方烏丸は笑わなかった。信憑性のある話に聞こえる。しかし、急にベラベラと話し出すナカギシにどこか異様さを感じていた。虚偽の供述である可能性が捨てきれない。烏丸は小さくため息を吐いて尋ねた。

「その話は本当なの?」

ナカギシは烏丸の目をまじまじと見つめた。黒い瞳の四白眼。狂気の目、烏丸からはそう見えた。ナカギシは首を傾げながら見つめてくる。

「えぇ?……………疑ってるんですか?」

烏丸は動じずにナカギシの目を見て言った。

「疑うのが俺たちの仕事なんでな。もちろん、それが本当ならそれでいい。けど、なにもなしにそれを信じろって言われてもな。」

「あぁ、なるほど。証拠を出せと。」

「そうだな。……………記憶障害を証明できるものを覚えているのなら教えてほしい。」

それを聞いたナカギシは微笑みを浮かべながら答えた。

「それならさっき言った日記を見てください。全部そこに書いてます。そこに書いてあることが真実です。」

ずいぶんとあっさりとしている。しかし、記憶障害が本当ならばこの供述で捜査するしかない。

「その日記はどこにあるの?」

「屋根裏にあります。毎日書いてそこにしまうんで覚えてます。」

「……………わかった。取り寄せるからちょっと待ってろ。」

烏丸は席を立ち、いったん取り調べ室から出た。


 「……………はい。取り調べ室に持ってきてください。……………はい。………お願いします。……………えぇ。失礼します。」

烏丸は電話を切った。烏丸は取り調べ室で彼の日記を読むことにした。上からの許可を取り、捜査班、鑑識に取り寄せを依頼した。押収した証拠品を取り調べ室で調査する。そうそうないケースに皆動揺しながらも、渋々承諾した。自分でも何がしたいのか、本当のところを言うと少しわからなくなっている気がする。普通なら物的証拠と状況証拠、そしてあっさりと吐いたその供述から彼を犯人と断定して事件解決。動機を聞き出そうにも記憶障害のため有耶無耶に。もしくは証拠品から動機を仮定して最終的に仮定を真実にして捜査を終了する。そんな淡泊なものだ。先輩も他の刑事も今回の事件ならそんな感じで済ませる。実際、自分もそんな風な教えを受けた。けれど、それは違う。それは本当の事件解決ではない。事件の真相を明らかにすること。それが本当の正義であるはずだ。本件の容疑者が記憶障害だと言うのなら、それに乗って有耶無耶にして良いのか。その背景を、事件に至った経緯、深層心理を明らかにすることが必要だ。烏丸を突き動かしているのはそんな心理だった。烏丸はスマホをスーツのポケットにしまおうとしたが、ふとある記憶を思い出し連絡先を打ち込んだ。茂木健司。脳神経外科の医師だ。右耳にスマホを当て、呼び出し音を聞きながら相手が出るのを待つ。3コールもしないうちに相手が出た。

「はい、茂木です。」

「もしもし、お久しぶりです。烏丸です。」

「おぉ!烏丸さん!久しぶりですね!3年ぶりですかぁ。」

「あぁもうそんなになりますか。3年前はありがとうございました。」

「いえいえ。あぁ、それで今日はいったい?」

「あ、少し聞きたいことがありまして、」

「聞きたいこと?ほう、それは、」

烏丸は事件の詳細とナカギシの名前は伏せつつ、ナカギシの記憶障害について尋ねた。茂木は頭を抱えていた。

「申し訳ないけど、そのような症例は聞いたことありませんねぇ。健忘症の類に近いような症例はあるにはあるんですが、3日に1度の記憶喪失っていうのはぁ、ねぇ……………。」

「先生でもわかりませんか。」

「うぅん。そもそも脳の記憶障害で、全記憶が定期的にリセットされるっていう形をとらないんですよ。脳の構造や記憶形成の仕組みから見ても説明が難しいですねぇ。」

「なるほど。……………そうですか。」

「すいませんねぇ。今回も力になりたいんですけど、」

「いえいえ!専門的意見が聞けただけでも大きな収穫です。すみませんお忙しいときに、」

「いやいや、烏丸さんの頼みですからね。」

これ以上の追求は茂木を巻き込むことになる。そう考えた烏丸は通話を終えた。スマホをポケットにしまい、烏丸はため息を吐いた。前代未聞の記憶障害。ナカギシの虚偽の供述の可能性が高くなってきた。やはりよくある障害を装った愉快犯などの手口なのか。不可解な点の多さに烏丸は困惑した。すると

「おおぉ!烏丸!」

廊下の向こうから先輩刑事である野崎が烏丸を呼び止めた。野崎は俗に言う昭和崩れの刑事だった。野崎の顔は怪訝そのものだった。

「烏丸ぁ。お前いったい何考えてんだ。」

「何って、何がです?」

「取り調べ室で押収物を調査するって。しかも、犯人の前でだぞ?刺激する可能性があるだろ。」

そのことか。正直少しだるかった。

「まぁそうですけど、このまま解決ってわけにはいかないでしょ?それに彼は、自身は記憶障害であると供述しています。その供述の真偽を確かめないと。」

「それはそうだが、何もやつの目の前ですることはないだろ?」

「記憶が呼び起こされるかもしれないでしょ?少しでも真相解明に繋がるなら調べるべきです。」

「あのなぁ。」

野崎は烏丸の肩に腕をかけもたれかかった。

「あぁいうやつはこっちの言い分でどうにでもできるんだよ。こっちが上手い具合にすれば、早く片付く。お前も面倒ごとはもう嫌だろ?」

面倒ごと。確かに面倒ではあったが、それとこれとは話は別だ。

「そりゃ面倒ごとは嫌いです。けど、真相が有耶無耶のまま人をしょっ引くのも同じぐらい嫌です。」

「かあぁぁ。綺麗なやつだねぇ。刑事のカガミだな。おまえ。」

バンバンッ、と野崎は力強く肩を叩き、烏丸と別れた。烏丸はまたもため息を吐いた。


 ガチャッ……………。

烏丸は取り調べ室に入った。記録係の刑事、堀田が烏丸に一礼する。そして堀田は席に近づく烏丸の耳元に駆け寄り

「特に異常はなし。ずぅ―と、あぁして座ってるよ。」

と報告した。

「………………そうか。わかった。ありがとう。」

と烏丸は端的に返した。烏丸はナカギシの目の前の椅子にずっしりと座った。ナカギシは少し前のめりになって烏丸に声をかけた。

「………………どうでした?……………日記。」

烏丸は落ち着いて答えた。

「少ししたらこっちに来るよ。お前の前で調べるつもりだ。もしかしたら、何か思い出すかもしれないしね。」

烏丸の返答を聞いて、ナカギシは微笑んだ。

「じゃあ、これで信じてもらえるんですね?いやぁぁ。よかったよかった。」

「それはまだだよ。」

烏丸ははっきりと言った。ナカギシから微笑みが消えた。

「なぜ?私は本当のことしか言ってないのに。」

「それをあぁそうですかって100%信じるための証拠が足りないんだよ。だから’まだ’信じられない。」

烏丸の回答を聞いてナカギシはため息を吐いた。

「まぁ仕方ないですよね。私みたいなやつの話、信じられませんよね。」

「急いで届けてくれると思うから。ちょっと待ってろ。……………それまで、お前の話を聞かせてくれよ。」

「私の話?」

ナカギシは首を傾げた。

「そう。お前の話。それこそさっきの質問、答えてくれよ。なんで漢字じゃなくてカタカナなの?」

「あぁそのことですかぁ。」

ナカギシは頭をかいた。烏丸は言葉を付け足す。

「自分の漢字も記憶できなかったの?」

ううぅぅん……………

とナカギシは呻いた。

「あながち間違いじゃないですけどぉ、なんていうんですかねぇ、カタカナまでしか記憶できませんでした。」

「カタカナまでしか?」

新たな疑問だ。烏丸は多少驚きながらも落ち着いて

「理由、話してもらえる?」

と尋ねた。思いのほかナカギシは拒まずに話し出した。

「記憶障害と言ったんですけど、保育所?までの記憶はちゃんとあるんです。5歳ごろぐらいまでかなぁ。そこで教えてもらった私の名前の書き方は覚えているんです。」

「若年性認知症の症状みたいに聞こえるな。」

「じゃくねんせい?」

「あぁ独り言だ。気にするな。……………続けて。」

「あぁはい。まぁそれでそれからおそらくその漢字も学んだんでしょうけど、学校って毎日おんなじことしないじゃないですか。それで私の漢字は記憶できなかったんです。」

おおむね理解できたと思う。烏丸はナカギシの発言を頭の中で反芻し処理に努める。

「その対策のひとつで、手の甲に名前を?」

1番合点のいく可能性を尋ねた。しかしナカギシは首を傾げて

「いやぁ、これがついたのは最近ですねぇ。」

と答えた。

「………………なるほどね。」

予想外の回答、とは思わなかった。記憶障害と供述しているなら不可解な回答は出てくる。ましてや身元も経歴も不明な人物の供述だ。下手にこちらで断定しては真実は見えない。ただ、烏丸には現時点でナカギシの経歴を予想することは困難だった。どんな質問をしても後出しじゃんけんのような返答が返ってくる。その返答の信憑性を調べるには彼の言う「日記」がなければならない。もちろんその日記に真実が書かれているのかは不明だが。

「まぁ、あとで日記見ながら確認させてもらうよ。」

烏丸はいったん話を切ることにした。が、そのとき

「ところでぇ、」

とナカギシが口を開いた。烏丸は

「なに?」

と尋ねた。ナカギシは若干の好奇心を見せながら

「刑事さんのお名前はなんですか?」

と質問した。どういう魂胆なのか。その底知れない何かが妙に不気味だった。烏丸は冷静に

「烏丸洋平だ。」

「カラスマヨウヘイ。聞き馴染みないですね。」

「まぁ珍しい苗字だよな。いいよ、覚えれなくても『刑事さん』で。」

「そうですね。そうさせてもらいます。」

なんのためのやりとりなのか。ナカギシの真意が見えない。烏丸は冷静を装いながらも、ナカギシから滲み出る狂気に内心動揺していた。

 数分後。ようやく日記が取り調べ室に届いた。烏丸は驚愕していた。取り調べ室に運ばれた日記。そこらへんで買えるノートがおよそ50冊。膨大な数だった。想定していた数よりはるかに多い。決して少ないとは思っていなかったが、記憶障害を供述している分、烏丸はどこかで日記の数は大したことないと思っていた。思わず烏丸はナカギシに尋ねた。

「お前。これ何年書いてた?」

ナカギシは天井を見ながら

「えぇっとぉ、たぶん小学生のときからですかねぇ。ちょっと覚えてませんけど。」

と答えた。烏丸はノートを一冊手に取って、中身を確認した。そこには5ミリにも満たない小さな文字で、びっしりとその日の出来事が書かれていた。見開きでおよそ2週間分の内容が書かれている。

「こいつは骨が折れるなぁ。」

思わず烏丸は本音を漏らした。ナカギシは微笑みながら

「刑事さん。そこに書かれていることは全て真実です。私が言うのもなんですが、どうか、詳しく調べてください。お願いします。」

ナカギシは軽く頭を下げた。烏丸は深呼吸をして腹をくくった。

「わかったよ。全部見てやる。」

ナカギシの目を見て、烏丸は答えた。


<ナカギシの日記➀ 烏丸の報告書、証拠品参照>

 8歳になるコウイチは公園のゴミ箱の蓋を開けた。タバコみたいな煙っぽい臭いと、何かのジュースの臭いと、生ごみの臭いが混じり合って、ドッとコウイチの鼻の奥を刺激する。コウイチにとってその臭いは苦ではなかった。なんの躊躇いもせず、コウイチはゴミ箱の中を覗き込み、ガチャガチャと手でゴミをかき分けた。狙いのものを探すために。

「………………あった!」

食べかけのハンバーガー。ハエがたかっていて中の具材が崩れている。1週間ほど前のものなのだろう。けどまだ形はしっかりしているし、臭いもそこまでキツくない。コウイチはそのハンバーガーを手に公園の公衆トイレに入った。洋式トイレの個室に駆け込み鍵をかけると、コウイチは迷うことなくハンバーガーに食らいついた。決してうまいとは言い難い酷い味。ウジのようなうねうねっとした何かが、ハンバーガーの中でうごめいているのがわかる。たまにコバエみたいなものと一緒にそれらを飲み込んだ。けどさすがに変な病気になるのは怖かったからよく噛んでから飲み込んだ。食べ終わったとき、自分が自然と泣いていたことがわかった。頬が涙で、鼻が鼻水で濡れていた。コウイチは腕でそれを拭ってトイレを出た。コウイチにとってこれが初めてのハンバーガーだった。トイレの外に出ると学校の同級生たちがいた。サッカーをしている。同じクラスの高場サトシが6人の男子を仕切っていた。コウイチは少し身をかがめて公園から去ろうとした。がしかし

「あ。おい!ゴミネズミ!」

高場が大声で呼び止めた。ゴミネズミとはコウイチのことだ。無視をするわけにもいかなかったので、コウイチは小さな声で

「………………な、なに?」

と反応した。

「そこ動くなよー!」

高場はそう指示した途端、サッカーボールを他の男子から取り上げて、思い切りコウイチに向かって蹴った。コウイチは当たるかもしれないという恐怖と混乱でその場に立ち尽くしていた。そのおかげか高場の蹴ったボールに当たらなかった。高場のボールはコウイチの横をギュンッと突き抜けて行ったのだ。コウイチはほんの少しホッとした。しかし、その束の間

「なに避けてんだよ!」

と叫びながら、高場はコウイチに向かって猛スピードでタックルもどきの突進をした。そのスピードと威力の突進を右腹部に受けたコウイチは、2、3メートル後方に吹き飛び倒れ込んだ。あまりの激痛から腹部を手で押さえ咳き込んだ。高場は睨みながら近づいてくる。

「なぁ!なに避けてんだって聞いてんだよ!」

コウイチは肩で呼吸しながら答えた。

「ハァ………………ハァ………………い、イヤ。避けてない。」

しかし高場はお構いなしに

「ボール当たんなかっただろ!お前が避けたからだろうが!」

と怒鳴りつけ、右足でコウイチの腹部を蹴りつけた。何度も何度も腹部を蹴る。コウイチはダンゴムシのように身体を丸めて身を守ろうとした。すると今度は背中、頭、太もも、腕と身体中の至る所に激痛が走った。他の6人もコウイチを蹴り始めたのだ。

「ゴミネズミはとっとと死ね!」

「早く殺さないとみんなゴミになるぞ!」

なんて戯言を皆口々に、そして笑いながら言っていた。コウイチは

「辞めてよ。」

と何度も小さな声で言った。けれども彼らの耳には届かない。高場の蹴りがコウイチの溝内に入った。その瞬間、一気に吐き気に襲われてコウイチはさっき食べたハンバーガーをゲロと一緒に吐き出した。すると蹴っていた7人は一斉に離れた。

「うわっ!こいつゲロ吐いた!きったね!」

取り巻きのひとりがそう言うと、高場は腹を押さえてうずくまっているコウイチに近づき、コウイチの髪の毛を鷲掴みにした。そしてまるで人殺しのような目をしながら

「きたねぇだろうが。全部掃除しろよ。」

高場のドスの利いた言葉と腹部の激痛から、とうとうコウイチは泣きじゃくり

「ごめんなさい!もう許してください!」

と叫んだ。が、そんな願いが通じるわけもなく

「会話しろよ!ゴミネズミ!」

と怒鳴り、そのままコウイチの顔面を地面に落ちた吐しゃ物に叩きつけた。いくら自分が食べたものであっても、吐しゃ物特有の臭いには耐えられずさらに吐き気を催した。しかしそれを上回るほどの顔面の激痛がその吐き気を食い止めた。

「全部食べたら今日は見逃してやるからさぁ。食えよ。全部。」

高場はそう言って地面にコウイチの顔面を擦りつけた。最初は抵抗していたコウイチだったが、なかなか食べようとしないコウイチにしびれを切らした取り巻きが

「早く食えよ!」

と怒り、背中を何度も蹴りつけた。それに耐えられなくなったコウイチは砂やタバコの吸い殻と一緒に吐しゃ物を食べた。それを見た7人は、まるで大物芸人の漫才でも見たかのように腹を抱えて笑った。コウイチは泣きながら吐しゃ物を口に含み、よく噛まずに飲み込んだ。それから1時間ほど、コウイチは殴られ続けた。17時を回ったとき、

「そろそろ帰ろうぜ!」

と高場の提案で7人はさっさと帰ってしまった。コウイチは疲れ切ってその場に倒れ込んだ。

 18時頃、コウイチはボロボロのアパートに帰った。鍵のかかっていない204号室のドアを開ける。むわぁっとした嫌な空気が、ドアを開けた途端にコウイチの全身を包み込んでいく。慣れているはずの嫌な臭いが鼻の奥の奥にグイグイと容赦なく突っ込んでくる。コウイチは深く深呼吸をして部屋に入った。

「………………………………ただいま。」

小さく、それでも聞き取れるぐらいの声で呟いた。玄関で靴を脱ぎ、靴を綺麗に揃えてから暗い廊下を歩いていく。赤い日の光が刺し込んでいる誰もいないリビングに入った。水が飲みたい。足音を立てないように台所に移動する。ふと部屋の隅に設置されている壊れかけのテレビを見た。誰も見ていないから画面が真っ暗だ。コウイチの口から安堵のため息がこぼれた。コウイチは蛇口を優しく捻り、ポタポタと滴り出てくる水滴を両手で受け止めて溜めた。手から溢れ出るかギリギリのところでその水を口に含んだ。そして急いで蛇口を閉めて、水滴のついたところを自分の服で綺麗に拭き取った。手慣れているせいかその作業はスムーズで、コウイチは服が濡れたことなど気にもせず、急いで自分の部屋に向かった。部屋といっても誰も使っていない押し入れだ。19時頃、コウイチは押し入れの中で懐中電灯を光らせて宿題をしていた。算数。九九の問題。今日学んだことを必死に思い出す。今日は7の段の応用。計算ドリルの問題ページを開き、隅の方に7の段を順番に書いていく。今日は思いのほか順調に問題が解けている。あと数問で全てが解き終えるというとき、別の段の問題が出てきた。コウイチは焦った。

『4の段?なんだったっけ………………。』

頭の中をグルグルと回転させて、過去の記憶を呼び起こそうとする。しかし、頭の中には4の段をした記憶はない。習ったのは先週の金曜日。今日は火曜日。最近は行事や臨時休校が相次いだことで授業のペースが速く、4の段は金曜日の1回きり。復習する時間はなかった。家で宿題ができる時間は2時間ほどしかなく、それに加えてコウイチの通う西籔井小学校は宿題が多いことで有名な小学校なため、算数だけに時間を割くわけにはいかないのだ。

『思い出せ。思い出せ。思い出せ。思い出せ。思い出せ。思い出せ。』

念仏を唱えるかのように頭の中で何度も唱える。しかし、そんな願いが届くわけもなく、4の段を学んだ記憶が蘇ることはなかった。仕方がないので教科書を見ることにした。ランドセルの中にしまってある算数の教科書。今日学校を出る前にちゃんと中にあるのを確認し、そのこともちゃんと覚えていた。コウイチは押し入れ内にあるであろうランドセルを探した。が、ランドセルが見つからない。

「え?あれ!?………………え!どこ?どこ!?」

大きな焦りでそんな独り言が漏れ出てくる。いつから無い?どこまで持っていた?またも記憶を遡る。

「………………………………………………あ………………。」

今度は思い出せた。ランドセルを背負ったまま、学校から公園に直行したのだ。お腹が空きすぎて、早く何かを食べたくて急いで公園に行ったんだ。ランドセルは公園にある。それを忘れて帰ってきてしまった。

『どうしよう。公園に取りに行かなきゃ。』

そう思った束の間、ガチャッと玄関のドアが開く音が聞こえた。建付けが悪くなっているドアなので、押し入れに入っていてもドアの開閉音が聞こえる。

『………………今日は取りに行けない。』

コウイチは諦めた。恐る恐る押し入れから出て、リビングの方に向かった。リビングにはテレビの前でこちらに背中を向けて寝そべっている父がいた。工事用の作業着を着ている。今日も工事に出向いていたのだろう。その割には作業着の汚れが目立たないが。父はさっきまで真っ暗だったテレビをつけて、お笑い番組を見ていた。

「………………チッ………………。またこいつら出てるよ。面白くねぇのにギャーギャーギャーギャーやかましい。」

と文句を言っている。画面の反射で気付いたのか、それとも第六感みたいな直感が働いたのか、急にこちらに身体を向き直した。

「いたのかよ。つかきったね、お前。」

コウイチは黙ったまま小さく頷いた。

「あっそ。じゃあいつも通りのとこ行ってこい。いつものやつな。」

「………………………………わかった。」

ボソッと答えた。コウイチはリビングを出て玄関に向かった。するとリビングから大きな声で

「20分以内な!」

と父が叫んだ。コウイチは少しだけ声を大きくして

「わかった。」

と言い玄関を出た。片道徒歩10分の道のりをコウイチは走った。走ればなんとか20分以内に帰れる。コウイチは古びたコンビニに辿り着いた。源三じいさんが営んでいるコンビニ(ゲンマート)、ここは普通のコンビニよりも商品の価格が安く、アパートから1番近いコンビニなので毎日行っている。コウイチは迷わず酒類コーナーに行った。ビールと缶チューハイを2つずつ。そしてつまみのコンビーフ缶詰とするめジャーキーを手に取り、レジにいる源三じいさんのもとへ向かった。源三じいさんは険しい顔でコウイチを睨む。睨みながらバーコードを読み込む。

「980円。」

しゃがれた声で源三じいさんが言った。コウイチはズボンの後ろ側のポケットからしわくちゃになった千円札を取り出して源三じいさんに渡した。源三じいさんはそれを受け取り、20円をコウイチに手渡しした。それから源三じいさんはビニール袋に商品を入れてコウイチに渡した。

「ありがとうございます。」

コウイチはそう言って頭を下げた。すると源三じいさんは言った。

「………………あんまり、こんなこと続けるな。とっとと警察にでも行け。」

コウイチは少しだけ返答に迷った。しかし時間をかけるわけにはいかないので

「ありがとうございました。」

と言って急いで店を出た。少しだけ重いビニール袋を右手に持って、ガサガサを音を立てながら暗い夜道を走った。アパートに着いた。玄関のドアを開け、リビングにいる父のもとへ向かう。時計を持ってはいなかったが、体感20分以内に帰れたと思ってどこか安心していた。しかし

「おっせーんだよ!!」

と帰ってきたコウイチを見るなり、父は怒鳴りつけた。

「おいこれ見ろ!」

と父は左腕に身につけている腕時計をコウイチに見せつけた。父はコッソリ時間を計っていたらしい。その時間は20分と10秒。

「じゅーびょー遅い!20分以内って言ったよな!?」

コウイチは何度も頷いた。そして

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

と謝った。父は深いため息を吐き

「はいじゃあ罰ゲーム!」

と言った。その途端、コウイチの顔は真っ青になった。

「やだ!いやだッ!許して!」

コウイチは泣きながら叫び、咄嗟に土下座をした。しかし父は

「いいからそういうの。」

と一蹴し

「じゃあ今日の罰ゲームはトイレ掃除ね。」

と軽々しい口調で言った。コウイチは泣きながら

「と、トイレ掃除?」

と尋ねた。父は呆れた。

「先週やっただろぉが。トイレの便器、全部素手で磨くんだよ。」

記憶にない罰ゲーム。しかし本能的に

「い、いやだ。やりたくない。」

と拒否した。すると父は

「パパの言うこと聞けねぇのか!」

と怒鳴り頭を殴りつけ、倒れ込んだコウイチの足を引っ張りながらトイレに連れて行った。コウイチは大きな声で泣いた。そんなことお構いなしに父はコウイチをトイレに閉じ込めた。そしてトイレのドアの前で胡坐をかいて、コウイチが出てこれないようにした。

「出して!お願い!」

コウイチは何度もドアを叩いた。

「ちゃんと掃除出来たら出してやるから。」

父は少し声を柔らかくして言った。そして思い出したかのように

「あ、あとごめん。さっきお父さん使ったんだ。流し忘れてたらごめんなぁ。あとたぶん水道壊れているから。」

父はそう言うとケラケラと笑った。

 コウイチが眠りについたのは23時頃だった。父はコウイチが買って来た酒とつまみ、そしていつ買ったのわからないコンビニ弁当を食べながらテレビを見ていた。さっき見ていたお笑い番組とは違う番組なのだろう。父の大きな笑い声が押し入れの中まで聞こえてくる。コウイチは身体を丸めて押し入れの中で目を閉じた。早く眠って朝になってほしい、そんな想いを胸に。しかし、ついさっきまでのあの地獄が何度もコウイチの眠気をかき消した。思い出すだけで吐き気がする。押し入れの中に充満しているであろう自分の臭いを嗅ぎたくない。洗っても洗っても落ちた気がしない悪臭が、余計にコウイチを眠れなくした。ぎゅるぎゅる。腹の音が鳴る。思えば何も食べてない。喉の渇きだけ異様に潤され、腹に水がタプタプと溜まっている。

『これ………………本当に大丈夫なのかな。』

様々な不安が押し寄せてくる。コウイチは涙を滲ませながらグッと目を閉じた。すると、ガチャンッと玄関のドアが開く音が聞こえた。コウイチはその音と小さな揺れで目を開けた。すぐわかった。母が帰ってきた。コウイチさらに瞼に力を入れて目を閉じた。少しして声が聞こえる。

「また金使ったの!?」

母の声だ。

「なんであたしの金をいっつもギャンブルで溶かすのよッ!!」

母の声の中に、少しだけ母の涙を感じた。泣きながら叫んでいるんだろう。父はそれに負けないぐらい大きな声で

「うるっせぇな!てめぇは金しか言えねぇのか!」

と怒鳴った。

「あんたが働かないから私が稼いでるんでしょ!?」

「働いてるわ馬鹿!お前よりも全然働いてるわ!今日もちょー大変だったし。」

「うそばっかり!どうせパチンコでしょ!それか女ね!?」

「うるせぇぇぇ。超うるせぇ女だな!てめぇは!てめぇは何にも考えずに働いてりゃいいんだよ!」

「なんなのよ!」

その直後、大きな物音が聞こえた。物を投げつける音。何かを落とした音。殴ったり蹴ったりするような音。コウイチは震える手で耳を押さえた。

『早く眠ってくれ。頼むから早く寝て!』

涙を流しながらそう祈った。

 目が覚めたのは朝の4時だった。コウイチは押し入れの隅に畳んで積んでいる服に着替えて押し入れから出た。真っ暗の部屋を見渡す。誰もいない。おそらく父も母も寝ているのだろう。コウイチは音を立てないように押し入れから少し重いリュックとさっき脱いだ服を取り出し、静かに玄関に向かって歩いて行った。リビングの横を通る。テレビの目の前に母が寝ている。昨日の言い合いに疲れてそのまま寝ているんだろう。よく見ると椅子や本があちこちに散乱している。父の姿はない。

『たぶんお店かホテルかな。』

勝手にそう納得した。玄関で靴を履き、小さくギィィッと音を立てながらドアを開け外に出た。コウイチは昨日の公園に向かった。この時間は誰も使っていないし、高場たちが来ることもない。コウイチは公園に設置された水飲み場に行った。水飲み場の蛇口をひねると勢いよく水が出てくる。コウイチは持ってきた服を急いで水に濡らした。そしてリュックから洗剤を取り出して濡れた服にかけた。ゴシゴシと擦るとすぐに泡立つ。ある程度してその泡を流した。ズボンも同じようにして洗濯する。そうして洗濯した衣類を昨日道端で拾ったビニール袋に入れてリュックの中に押し込んだ。公園の時計を見た。4時半。

『もう時間だ!』

コウイチは急いで公園を出て行った。コウイチが駆け足で向かったのは新聞販売店だった。時間は4時42分頃。公園の近くだったのですぐに着くのだが、今日は少し遅れてしまった。コウイチは新聞販売店の裏口に周りドアをノックした。しかし誰も出てこない。コウイチは少しだけ力を入れて、もう一度ドアをノックした。すると勢いよくドアが開き、背の高い中年の男が出てきた。店長の堀だ。堀は怪訝そうに言った。

「10分遅刻。何してた?」

遅れてしまったことでイラついているのだろうが、それにしてはやけに淡々と尋ねてくる。コウイチは頭を下げて謝った。

「ごめんなさい。ちょっと洗濯に時間がかかってしまって………………。」

その返答を聞いた堀は深いため息を吐いて、頭を掻きむしった。そして

「あっそ。じゃあ早く行ってきて。店の横のゴミ捨て場にいつもの置いてるから。」

とコウイチに言った。コウイチは

「は、はい!」

と少しだけ声を張って返事をし、店の横にあるゴミ捨て場に向かった。ゴミ捨て場の隅に新聞が積み重なっている。これは堀の計らいだった。コウイチはその新聞の束を持ち上げて、徒歩20分圏内の住宅のポストに運びに行った。この作業を5時半までに終わらせる。ただコウイチはまだ8歳ということもあるので、配る家は多くても5、6軒ほどだ。コウイチはとっくにその作業に慣れていた。少しだけ重たい新聞の束を抱えて、駆け足で運びまわる。今日は少し遅刻してしまったが、慣れた作業なため余裕で5時半までに配り終わった。新聞販売店に帰ってきたコウイチはまた裏口に行き、ドアをノックして堀を呼んだ。今度はすぐに堀が出てきた。堀は眠そうに欠伸をして

「終わったぁ?はい、お疲れ。」

と言って、ポケットからくしゃくしゃになった千円札を取り出し、コウイチに手渡した。コウイチは

「ありがとうございます。」

と礼を言って、

「あ、あと。」

と言葉を付け足した。堀は眠気からか少し怪訝そうに

「なに?」

と尋ねた。

「あの、今日も洗濯物お願いしたいんですけど………………。」

コウイチは少し声を小さくして頼んだ。それを聞いた堀は思い出したように

「あぁはいはい。それね。」

と頷いた。

「じゃあ早く渡して。その洗濯モン。」

堀がそう言うと、コウイチは急いでリュックからビニール袋を取り出した。それを見た堀は

「もっと綺麗な袋ないわけ?」

と文句を言った。コウイチは

「………………すみません。」

と呟いた。堀は少し乱暴にビニール袋を受け取ると

「まぁいいや。はい、じゃあもういいよ。」

と言ってドアを閉めてしまった。コウイチはドアに向かって会釈をして、走って家に帰った。

 6時過ぎ。コウイチは家に帰った。そして急いで台所へ向かった。リビングではまだ母が寝ている。コウイチは母を起こさないように、それでもできるだけ急いで支度を始めた。食器棚から皿と食パンを1枚取り出した。本当は食パンを焼きたかったが、電気を使うと叱られるので諦めた。そして冷蔵庫からイチゴジャムの瓶を取り出した。ジャムはほとんど残っていない。コウイチは食器棚から割り箸を持ってきて、瓶の底にこびりついているジャムをすくい出し食パンに塗りたくった。それを皿の上に載せ、リビングの隅にあるちゃぶ台に持って行った。本当はリビングのど真ん中にちゃぶ台があるのだが、昨日父が寝るために隅の方へ動かしてそれっきりだったのだろう。ちゃぶ台に食パンが載った皿を置き、台所に戻ってコップに水を入れた。それをまたちゃぶ台に持って行って、その横で眠っている母の身体を揺すった。

「母さん。母さん。………………朝だよ。」

コウイチは母を起こした。母は目を覚ました。母の顔は険しく頭を押さえている。昨日の喧嘩で頭を打ったのだろう。起き上がった母はコウイチを見るなり

「………………パパ。おはよう。」

と呟いた。コウイチは少し微笑みながら

「………………パパじゃないよ。起きて。」

と言った。母は少し呻きながら

「ご飯はぁ?」

とコウイチに尋ねた。コウイチはすぐ横にあるちゃぶ台を指さして

「ここにあるから食べて。」

と優しく言った。母はまるで幼児のように

「はぁーい。」

と返事をして、ちゃぶ台に向かってのっそりと近づき食パンに噛り付いた。

「パパ。美味しくない。」

母は泣きそうな顔をしながらコウイチに言った。コウイチは小さくため息を吐いて

「………………ごめんね。」

とだけ答えた。母もそれ以上は言わなかった。5分ほど、コウイチは母が食パンを食べる様子を見ていた。一口が大きい割に食べるのが遅い。しかしいつものことなので、コウイチはイライラすることも、母を咎めることもしなかった。そして半分ほど食べ終えるのを見て、コウイチは立ち上がり

「食べ終わったら、お皿台所に持って行ってて。」

と言って押し入れに向かった。母は何も言わなかった。コウイチは押し入れで学校の準備をしようとしていた。しかし肝心のランドセルがないことを思いだした。さっき公園に行ったとき、きちんと確認してはいなかったが、ランドセルらしきものはなかったはず。しかし昨日はたしかにランドセルを持って行った。

『………………どこにあるんだろう。』

ランドセルがないという喪失感と日記が無いという不安が今になってどっと押し寄せてきた。少しだけ動悸が激しくなっている気がする。コウイチは何度も深呼吸をして、とりあえず学校に行くことにした。コウイチは押し入れの中を少しだけ整理して、もしものときのために家用の筆記用具を手提げ袋に入れた。そして押し入れから出て玄関に向かった。ふとリビングを見ると、母がテレビを見ながら仕事に行く準備をしていた。母はスナックで働いているため、いつも夜遅く帰ってくる。けど父がちゃんと働かないため、最近は午前中にパートを入れているらしい。だからなのか、母はいつも疲れ切った顔をしている。コウイチはリビングに立ち寄って

「………………母さん………………。」

と声をかけた。母はコートを羽織ろうとしていた手を止めて

「なに?コウイチ。もう学校?」

と反応した。コウイチは大きく頷いて

「………………行ってきます。」

と言った。母はため息交じりに

「はい、いってらっしゃい。」

と言って、コートを羽織り襟を整えた。コウイチは少しだけ速足で玄関に向かい外に出て行った。


 ただでさえボロボロだったコウイチのランドセルは教室の自分の机の上に捨てられていた。悪臭とハエを漂わせて。教室に入ったコウイチはそれを見て立ち尽くしていた。糞尿にまみれたランドセル。中身は教室のゴミ箱の中に捨てられていた。コウイチは無言で掃除用具入れから雑巾とビニール手袋、そしてゴミ袋を取り出した。ビニール手袋をはめて糞尿まみれのランドセルを掴みゴミ袋の中に入れた。これ以上臭いが広まらないようにキツく袋の口を締める。そして水道で濡らした雑巾で机の上を拭いた。その間、周りに同級生や先生が群がっていたけれど、手伝おうとする人はただのひとりも現れなかった。コウイチは掃除用具入れにあった消臭スプレーを机に吹きかけ、別の雑巾で拭いた。ある程度綺麗になったら、コウイチはランドセルが入った袋を持って外に出て行った。あまりの悪臭からか、それともその異様さからか、誰も声をかけてこない。外に設置された誰も使っていない手洗い場でランドセルを洗った。汚れはあらかた落ちるのだが、臭いは洗剤を使わないと落ちそうにない。幸い、中身に糞尿はかかっていなかったので授業中はランドセルを天日干しすることができる。臭いが落ちる保証はないが幾分マシにはなるはずだとコウイチは考えていた。ランドセルを近くの木の陰に隠して、コウイチは教室に戻ることにした。手洗い場で入念に手を洗い、朝の会に間に合うように急いで校舎に入る。階段を駆け上がって自分のクラスの教室に向かった。教室には高場たちもいた。高場はコウイチを見るなり大きな声で言った。

「よー!ゴミネズミぃ!おトイレ我慢できなかったかぁ!?」

高場は声高らかに笑った。それに同調したのか本心なのか、周りの取り巻きたち、同級生たちも笑った。コウイチはあえて反応はせず、まだほんの少し糞尿の臭いがする自分の席に座った。コウイチが座った途端、高場はさらに大きな声で

「クソまみれの椅子に座った!きったねぇ!」

と叫び嘲笑した。周りからも悲鳴に似た叫びや笑い声

「おぇぇ。」

といった嗚咽が聞こえた。コウイチはグッと下唇を噛んだ。少しして、ガラララッと教室のドアが開いた。担任の中村雄馬が入ってきた。

「はいみんなー、静かにしてー。」

大きな声ではあるがどこか覇気がない。中村は目を擦りながら

「はい、じゃあ朝の会を始めまーす。」

と言った。が、その途端、スンッ………………スンッ………………と中村は臭いを嗅ぐジェスチャーを始めた。そして大袈裟に顔をしかめて

「なんか臭くない?」

と言った。すると高場が勢いよく手をあげて

「コウイチ君がうんこで遊んでましたー!」

と笑いながら言った。中村はコウイチを睨んだ。

「………………本当なの?」

コウイチは首を横に振って否定した。中村はため息を吐いた。

「コウイチさぁ、なんで嘘つくの?」

怪訝そうに尋ねる中村にコウイチは涙をこらえながら反論した。

「僕はやってません!教室に入ったときにこんなことになってて………………。」

中村はコウイチのもとに近づいた。

「そんなわけないじゃん。逆にさ、どうやって他の人がクソで遊ぶの?」

落ち着きながらも棘のある声で中村はコウイチに尋ねる。コウイチは声を張り上げて

「わからないけど、僕じゃないです!」

と言って首を横に振った。そのとき、中村はさらに深いため息を吐いた。

「先生噓つきは嫌いだなぁ………………。チッ………………今日は良い日だったのに………………。」

ガシャンッ!

中村はコウイチの椅子を蹴とばした。コウイチは椅子から落ちた。コウイチはその衝撃で背中を床に打ち付けて倒れた。中村はお構いなしにコウイチの髪の毛を鷲掴みにした。

「コウイチのせいでしょ?そう言いな?」

その目はまるで人殺しのような目をしていた。そんな眼差しと、低くて暗いその声がコウイチの心を破壊していく。コウイチの目からはツゥゥッと涙が流れた。しかしコウイチは黙っていた。中村は表情は変えず、声を荒げた。

「おまえだろ!?」

激しく髪を引っ張った。コウイチは沈黙を貫こうとした。中村は何度もコウイチの頬を平手打ちした。

「嘘つくなー。お前だってわかってんだよー。」

コウイチは小さな声で

「違います………………違います………………。」

と言った。中村は大声で言った。

「お前常習犯じゃん!毎回毎回教室汚すのはお前なんだよ!何度も言わせんな!」

『毎回?』

コウイチにそんな記憶はなかった。ランドセルをこんな風にされたことも、こんな言いがかりを付けられたことも今日が初めてだ。

「………………もういいや。認めないんなら。」

そう言って中村は髪の毛を掴んだ手を離した。

「コウイチ君はあとで先生と一緒に来なさい。」

中村はそう言って教卓に戻った。コウイチは身体を起き上がらせ、座席を元に戻して座った。

「みんなごめんね。じゃあ、朝の会始めよっか。」

そうして何事もなかったかのように朝の会が始まった。クラスの係り活動のお知らせや行事について、そして今日の予定について淡々と報告される。しかし、コウイチはそんな報告をきちんと聞くことができなかった。これから起きることに恐怖していたのだ。

「はいっ。じゃあ今日も1日頑張りましょう。ありがとうございましたぁ。」

気が付いたら中村が朝の会を終わらせていた。コウイチは冷や汗が止まらなかった。そして

「コウイチ君。来なさい。」

と中村から呼び出された。コウイチは躊躇った。しかし高場から

「行けよ!早く!」

と急かされた。さらに周りからの冷たい視線に耐えられなくなり、コウイチは足を震わせながら中村のもとへ行った。

「じゃあ行こっか。」

中村はコウイチの方をポンポンと叩いて、一緒に教室から出て行った。連れてこられたのは屋上だった。本来生徒は入れない。中村は屋上の隅になぜか置かれているパイプ椅子を立てらかせて座った。コウイチは椅子に座っている中村の目の前で立ち尽くしていた。中村は微笑を浮かべながら言った。

「周りと違うってのは、生きづらいもんだよな。」

コウイチの目からは涙がこぼれた。

「先生もな、なかなか認められないんだよ。まぁ最近は徐々に認められるようになってきているそうだが、まだまだ時代がついてきてない。だからよくストレスが溜まるんだ。」

中村の目に光はなかった。

「お前はたしか、なんでも忘れるんだったよな?ならお互い好都合だ。」

コウイチは涙ながらに言った。

「………………ぼ、僕はやってません。」

その途端、中村の笑みが消えた。

「んなこと今はどうでもいいよ。」

気が付けば、空は少しずつ曇り始めていた。

 思い出したくもない経験したコウイチは2限目の授業でクラスに合流した。2限目は調理実習だったため家庭科実習室での授業だ。コウイチは調理実習があるということは知っていた。しかし、そのための準備物が必要なことは忘れてしまっていた。当然そのとこを家庭科の担当教員、溝口菊枝は叱責する。

「何回忘れてきたら気が済むのッ!」

金切り声のような声が教室に響いた。コウイチはうつむき加減に

「すみません。………………なかなか記憶ができなくて………………。」

溝口は怒りの表情で追及する。

「それでもいろいろ手段があるでしょうが!メモしたりだとか友達に言ってもらうだとか!」

コウイチはハッと顔をあげて溝口に言った。

「メモはしてました!いつも日記にメモしてます!けど、昨日。そのランドセルを誰かが間違えて持って帰ったらしくて………………。確認できなかったんです。」

そう言った途端、背後からクスクスと小さく笑う声が聞こえた。コウイチはその声がする方へ振り返った。そこにいたのは高場と取り巻きたち。

『………………やっぱり。』

怒りのような焦りのような、複雑な感情が一気に押し寄せてコウイチは声を大きくして言った。

「高場君たちです!高場君たちが僕のランドセルを盗んだんです!」

「何を言ってるの!あなたが忘れたってことを人に擦り付けようって言うの!?」

コウイチよりも何倍も大きく甲高い声で溝口が吠えた。コウイチは高場たちのいる方向を指さして

「高場君たちは毎日僕をいじめるんです!昨日も公園でたくさん殴られました!」

と訴えた。抑えていた感情が爆発していたのだ。

「それがなんだっていうの?!あなたが忘れ物をしたって理由にはならないでしょ?」

溝口はコウイチの話を聞こうとしない。

「僕はそのとき公園にランドセルを持って行きました!けど帰るときはなかったんです!高場君たちが帰った後に帰ったんで、たぶん高場君たちがそのとき…」

「なに言いがかりつけてんだよ!」

さっきまで笑っていた高場がとうとうキレた。必死に訴えるコウイチの胸ぐらを掴んで激しく揺さぶる。

「おい!俺たちが盗んだって証拠出せよ!今ぁ!」

高場が大声で叫ぶ。コウイチも負けないように

「盗ったんだ!高場君が盗ったんだぁ!」

と涙をながしながら叫んだ。そして高場はコウイチの右頬を一発殴った。その衝撃で倒れ込んだとき、ふたりはもつれ合ってしまい、コウイチの左手が高場の左目に当たってしまった。ふたりは倒れ込んだ。そのときようやく溝口が止めに入った。

「ふたりともやめなさい!まったく。馬鹿なことしてっ!」

コウイチは右頬を押さえて、静かに涙を流していた。一方で高場は左目を押さえてわんわん泣き喚いていた。高場の目が赤くなっている。コウイチの手が当たってしまったことと涙によるものだろう。溝口が高場の取り巻きたちに向かって

「君たち!高場君が怪我したから保健室に連れて行ってあげて!」

と命令した。取り巻きたちは素直にその命令を聞き、まるで救急隊のように手早く保健室に高場を連れて行った。溝口はコウイチを睨んだ。

「中村先生に報告します。みんなの授業を邪魔してるんだから、中村先生にちゃんと指導してもらいなさい!」

その発言を聞いた途端、コウイチはさっきの高場以上に大きな声で泣き叫び、溝口の足にしがみついた。

「やだぁぁぁあ!それだけは!それだけはいやだ!」

溝口はコウイチの頭を平手打ちして

「お黙り!あんたが悪いんだからね!」

と怒鳴りつけた。それでもコウイチは首を振って

「もうあんなことしたくないぃ!気持ち悪い!」

と叫んだ。

「いい加減離しなさい!」

としがみつくコウイチを引きはがし、教室に設置された電話で職員室に連絡をした。3分もしないうちに中村が家庭科実習室に来た。中村を見たコウイチは逃げようとした。しかし足がすくんで立ち上がれず、強引に中村に連れて行かれた。

 それからコウイチは放課後まで男性職員用トイレの個室に閉じ込められていた。内側からしか鍵はかけられないのだが、中村の手によって外側からドアを固定されていて出ることが出来ない。抵抗する気力も、ドアを叩いて助けを求める力も残っていなかった。いろんな生徒の声が聞こえてくる。1日を終えた生徒が帰ろうとしているんだ。コウイチはドアに寄りかかって倒れていた。片足が和式トイレに入っているが、そんなことを気にする余裕はない。コウイチは深いため息を吐いた。固定されたドアが開いたのは生徒の声が聞こえなくなってからだ。中村は清々しい顔をして

「帰っていいよ。また明日。」

と言ってコウイチを外に出した。コウイチは重たい身体を起き上がらせて、ほどけそうなズボンの紐を結び直して個室から出た。

「また明日。」

中村がもう一度言った。コウイチは何も返そうとしなかった。

「また明日!」

大声で中村が言った。ビクッとコウイチは反応し、小さな声で

「………………ま、また明日………………。」

と言った。朝から干していたランドセルを回収して学校を出てから、何かが途切れたのか全身が痛み出した。両手首が特に痛む。今更気が付いたが、両手首が真っ赤に腫れあがっていた。しかし絆創膏などはない。とりあえず新聞販売店を目指して歩いた。新聞販売店に着くと、朝と同じように裏口に回ってドアをノックした。朝と違って堀はすぐに出てきた。

「あぁ。学校終わったの?」

堀は特に笑顔を見せたりもせず、さらっと質問をした。コウイチは小さな声で

「………………はい。そうです。」

と答えた。堀は自分の腕時計を見た。

「でももう少しで5時半だよ?遅くない?」

単純な疑問なんだろうか。堀は間髪入れずに尋ねてくる。コウイチは小さく頷いて

「………………あぁ、そうなんですか。」

と反応し

「洗濯物、ありますか?」

と尋ねた。堀は思い出したように

「あぁはいはい。」

と言って少しの間、中に戻って行った。そしてものの数分で戻ってきて服の入った綺麗なビニール袋を渡した。

「あとお前さ。なんか臭くね?」

急な堀の質問に思わずコウイチは

「………………え?」

と困惑した。ランドセルの臭いだろうか。1日中外で干していても臭いは取れなかったんだ。堀はため息をこぼした。コウイチは深く頭を下げて

「………………ごめんなさい。臭くて。」

と言った。堀は黙ってコウイチを見ていた。コウイチは恐怖と不安でその場で直立し、目を泳がせていた。堀の目は睨んでいるようにも観察しているようにも見えた。コウイチの顔は変な汗で濡れていた。30秒ほど経って堀は口を開いた。

「ランドセル。ゴミ捨て場に捨てて。」

「………………え?」

意味がわからなかった。

「な、なんでですか?無いと困るんですけど。」

コウイチは恐る恐る言った。しかし堀は表情を変えず

「それが臭いの原因でしょ?臭いから捨てて。じゃないと明日から配達させないよ。」

と言った。

「………………いや。でも、」

とコウイチは拒んだ。その途端。強引に堀はランドセルに手を伸ばし、ランドセルを奪い取った。

「臭いから。わかった?」

堀の目から怒りは感じられなかった。コウイチは諦めた。

「………………はい。」

と小さく返事をしてその場を後にしようとした。そのとき

「あと!明日は遅刻せずに来いよ!」

と堀は言った。コウイチは

「わかりました。」

と小さな声で答えて家に帰った。コウイチは宿題を洗濯物が入ったビニール袋入れて持ち帰った。そしていつもと同じように父が帰ってくるまでに宿題を済ませようと押し入れの中に入った。時々グゥゥッと腹が鳴る。コウイチは腹筋に力を入れて我慢した。19時頃、玄関のドアが開く音が聞こえた。

『………………帰ってきた。』

そんな独り言を心の中で呟く。コウイチは急いで押し入れから出ようとした。しかし今日は少し様子がおかしかった。この時間に帰ってくるのは大抵父だけのはず。なのにこちらにドスドスと音を立てて近づいてくる足音は父1人のものではなかった。

『父さんと誰が入ってきたんだろう………………。』

そんな疑問と直視したくないこれからの予測がコウイチの動きを止めた。足音は押し入れの前で止まった。コウイチは狭い押し入れの隅に逃げた。身体を丸め、膝を抱え込み、右手で左腕の震えを押さえながら恐怖した。コウイチは心の底から願った。

『助けてください助けてください助けてください助けてください助けてくださいたすけ』

バダンッ!

その音とともにコウイチの心の声はピタリと止まった。力強く押し入れの襖が開かれたのだ。襖を開けたのは父。その横には母がいた。ふたりの表情は憤怒そのものだった。

「出ろっ!クソガキぃ!」

父は怒鳴りながらコウイチの腕を掴み引きずり出した。投げられたボーリング玉のように転がり出たコウイチを父は何度も蹴りつけた。

「面倒事ばっか起こしやがって!このガキぃ!」

何に怒られているのかわからない。ただただ困惑した。

「なに!?なんのこと!?」

率直な疑問を両親に問いかけた。父は大声で言う。

「またご自慢の病気かぁ!?便利な脳ミソだな!」

父の蹴りがコウイチの溝内に入る。コウイチは吐しゃ物とも言えない何かしらを吐き出した。

「ほ、本当に!なんのことなの!?」

肩で息を整えようとしながらコウイチはまた尋ねた。すると今度は母が答えた。

「さっき電話があったの。あんた、高場を殴ったんでしょ?」

『高場君を殴った?』

意味が分からない。殴られたのはこっちだ。コウイチは全力で否定した。

「ち、違う!殴ってない!殴られたのは僕で…。それに!高場君は僕のランドセルを盗んだんだ!」

「けど目を怪我させたんでしょ?!」

「あ………………。いや、それは、」

たしかにそうだった。実際に保健室に運ばれたのは高場の方だ。けれどもあれはもつれ合ったことによる事故だった。

「たしかに手は当たったけど、それでも先に殴ったのは高場君だし、僕は殴ってない!」

「なんで嘘ばっかつくの!」

母は父に負けないほど大きくそして甲高い声で怒鳴った。

「誰が治療費出すと思ってんの?!誰が慰謝料払うって思ってんの!?あんたみたいに金になんない癖に面倒事増やす奴が一番迷惑なの!生きてるだけで迷惑なのよ!」

「………………………………めいわく?」

とっくに慣れているはずなのに。コウイチの目には大粒の涙が溢れていた。

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

コウイチは泣き叫んだ。大きく口を開き、鼻水をダラダラと垂らしながら泣いた。父は耳を塞いで

「うるせんだよっ!」

と怒鳴りつけた。しかしコウイチは泣き止まない。

「早くなんとかしてよ!うるさくて寝れないじゃない!」

母は父に向かって怒鳴った。父は怪訝そうに答える。

「てめぇが泣かしたんだろが!くそったれが。」

そう愚痴を呟くと父はコウイチの腕を引っ張って、服を脱がし始めた。コウイチはジタバタと抵抗する。しかし父の力は強く、成すすべもなくコウイチは下着姿となった。そんな姿になったコウイチを父は丸太を担ぐかのように抱えて玄関に向かった。そして玄関のドアを開けて階段から投げ落とした。コウイチは体中を打ち付けて、階段の麓へ転げ落ちた。父は呼吸を整えながら言った。

「じゃあ罰ゲームなぁ!今日から3日間、家帰ってくるなよ!帰ってきたら殺すからな!」

父はさっきとは打って変わって少しだけ優しい口調でそう言った。コウイチは倒れたまま身体を起こそうとも、返事をしようともしない。

「あぁそれと!いつも通り酒とツマミ買って来いよ!3日間!じゃあな!」

そう言って父は部屋に入って行った。ヒュゥー………………ヒュゥー………………とコウイチは涙を流しながら呼吸を整える。

『………………買いに行かなくちゃ………………。』

激しい痛みを抱えたまま、コウイチはのっそりと立ち上がってゲンマートに向かった。19時半頃、コウイチはゲンマートに着いた。しかし店はもう閉店の準備をしていた。源三じいさんがカウンターでレジの金の整理をしていた。コウイチは少しだけ大きな声で

「すみません!………………まだ、買い物できますか?」

と尋ねた。源三じいさんは少しだけ目を見開いてから、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で

「………………できるよ。」

と答えた。何とか聞き取れたコウイチは深々と頭を下げて、急いでいつもの酒とツマミをカゴに入れてレジにいる源三じいさんのもとへ向かった。

「………………お願いします。」

そう言ってレジカウンターにカゴを置いた。源三じいさんは黙って商品のバーコードを読み込む。そして

「980円。」

と言った。コウイチはポケットから金を取り出そうとした。が、ここでようやく自分が下着姿だったことに驚く。金なんて持っていない。しかし金が無ければ………………。コウイチは小さな声で

「どうしよう………………どうしよう………………どうしよう………………。」

と呟き始めた。源三じいさんは黙ってコウイチを見ていた。段々とその視線に耐えられなくなったコウイチは、深々と頭を下げて

「すみません。今、お金がないんで明日の朝一番にお金を持ってきます。お願いします。そうさせてください。」

と懇願した。源三じいさんは黙ったままだった。コウイチは涙をグッとこらえて頭を下げ続けた。しばらくの沈黙の後、ようやく源三じいさんは口を開いた。

「………………持ってけ。」

その一言にコウイチは驚きを隠しきれず、

「………………え。」

と頭をあげて聞き返した。源三じいさんは今度は少しだけ声を大きくして

「どうせいつもロクに売れやせんのだ。わしが立て替えるから、持ってけ。」

と言った。コウイチは恐る恐る

「じゃ、じゃあ、その分のお金は明日必ず、」

そう言いかけた途端、

「持ってけと言うとるんだ!聞こえんか!」

と今まで見たことないような表情で源三じいさんが怒鳴った。コウイチは驚きと困惑のあまり黙り込んでしまった。源三じいさんは一度咳払いをして

「………………それ持って家に帰ってから、もう一度ここに来い。………………話がある。」

と言った。コウイチは何が何だかわからず

「………………わ、わかりました!」

と叫んでしまい、商品を抱えて店を後にした。コウイチは商品を部屋のドアの前に置き、ドアを3回ノックした。耳を澄ますと部屋の奥からこちらに向かって来る足音が聞こえてくる。コウイチは急いで階段を降りてゲンマートに向かった。

 コウイチは源三じいさんの家にお邪魔することになった。源三じいさんはコウイチを茶の間に案内した。源三じいさんの家は昭和を彷彿とさせるつくりで、その年季の入り具合に源三じいさんの歴史を感じられる。源三じいさんはちゃぶ台の目の前に敷かれた座布団にコウイチを座らせて

「………………ちょっと待ってろ。」

と言って台所に行ってしまった。コウイチは内心困惑していた。数分後、台所から源三じいさんが帰ってきた。源三じいさんはお盆を持っていて、お盆には和食料理がある。源三じいさんは丁寧にちゃぶ台に料理を並べた。源三じいさんの分とコウイチの分。全ての料理を並べ終えると、源三じいさんはコウイチの向かい側に座って

「………………食え。」

と言って料理を食べ始めた。コウイチは恐る恐る手を合わせて

「………………いただきます。」

と言い、料理に手を付けた。鮭の塩焼き。食べるのはいつぶりだろうか。箸で鮭の身を崩して口に運ぶ。まるで美食家のように味わって食べる。

「………………………………おいしい!」

自然と漏れ出た声が思いのほか部屋に響いてしまった。源三じいさんはそんなコウイチを見ていた。その視線に気が付いたコウイチは肩をすくめて

「………………すいません。はしゃいで………………。」

と謝った。すると源三じいさんはため息を吐いた。

「なぜ謝る?」

源三じいさんは小さな声で言った。その唐突の問いにまたもコウイチは驚愕した。

「………………え?」

「なぜ謝る?なにか悪いことでもしたんか。今。」

少しだけ声を大きくして源三じいさんがまた尋ねた。コウイチは少し戸惑いながら答えた。

「………………だ、だって大きな声を出しちゃったから。」

「鮭の塩焼き、美味かったのか?」

今度はもっと声が大きい。大きいといってもようやく人並みの声量になっただけだった。コウイチは大きくうなづいた。

「すごく。本当に美味しかったです。」

「美味かったから、おいしいって言ったんだろ?」

「………………………………はい。」

「なんでそれで謝るんだ。おいしいからおいしいと言う、当たり前のことだろうが。」

「当たり前………………?」

不思議だった。それが当たり前なんだと。

「それになぁ。作った側からするとな、おいしいって言われると嬉しいんだよ。」

源三じいさんは照れくさそうに、今まで見たことないような穏やかな笑顔で言った。源三じいさんは今度は笑顔で

「美味いか?わしの料理は。」

と尋ねた。コウイチの目には涙が溢れた。我慢しようと必死に目元に力を入れるが、涙はボロボロと流れ出てしまう。コウイチは涙を拭いながら

「………………グスンッ………………おいしいです!………………ホントに本当においしいです!」

と言った。源三じいさんは小さく頷いた。そして

「好きなだけ食え。あぁそれと服がいるな。ちと待ってろ。」

と穏やかな表情で言い、立ち上がって服を探しに行った。コウイチは大粒の涙を流しながらご飯を頬張った。食事を終えたコウイチは源三じいさんが持ってきてくれた子供服に着替えて、ちゃぶ台に置かれた茶菓子とお茶を飲んでいた。コウイチはまたも疑問が浮かんだ。

「あの………………この服って、」

コウイチは思わず尋ねた。源三じいさんは穏やかな表情で答えた。

「………………孫のだ。」

部屋の片付けをしていた源三じいさんはゆっくりとコウイチの目の前に座った。

「お前さんと同じぐらいの孫がいたんだ。………………20年も前になるが。」

源三じいさんの表情はどこか寂しそうだった。

「………………20年前?」

率直な疑問を投げかけた。源三じいさん一度鼻を啜って話し始めた。

「隣町にわしの息子のダイスケが住んでいた。妻と子供と一緒に。わしの妻は昔に亡くなっていて、男手一つでダイスケを育てたんだ。わしはとにかくダイスケに幸せになってほしい。そう思って育てた。」

「………………………………ど、どんな風に?」

コウイチは一瞬躊躇ったが聞かずにはいられなかった。源三じいさんは微笑みを見せながら答えた。

「俗に言う、昭和の激しい教育ではなかったと思う。自分で言うのもなんだが、どちらかというとわしは少しばかり子煩悩という部類だったと思う。もちろんちゃんとメリハリははっきりさせていたが、基本的にダイスケが興味を持ったことは尊重していたし、いろんなところに連れて行った。」

源三じいさんは過去の記憶を振り返りながら答えた。

「ただ、今思えばわしの教育は間違っていたのかもしれん。」

「………………なんでですか?」

「結婚したダイスケは妻と子に暴力を振るっていたそうだ。」

「………………え………………なんで、」

「自分の思い通りにいかないことが気に食わなかったらしい。どうやら、わしは息子を甘やかしすぎたそうだ。」

源三じいさんの表情は曇っていた。

「ダイスケの暴力は日に日に悪化したそうだ。わしも止めようとした。何度も話し合ったり暴力を止めに行ったが、ダイスケは止まらなかった。いつからか、時々ダイスケの妻と子はこっそりわしの家に隠れることが増えた。たまにわしの家から孫が登校したり、息子の妻が手料理を振る舞ってくれたり。わしはダイスケだけでなく、ダイスケの妻も、孫も守りたいと心の底から思った。………………ただ20年前のある日、ダイスケは一家心中を図った。」

「いっかしんじゅう?」

「家族全員で自殺したんだ。自らの手で命を捨てた。」

コウイチの背筋に冷たい何かがズゥっと走った。

「………………残酷な話をするが、わしが何よりも悲しかったのは、孫の状態だった。孫は死ぬ直前まで暴力を受けていたらしい。そのあとの鑑定で、ダイスケは人を傷つけることに快感を覚えていたそうだ。わしですら、そのことには気付けなかった。」

源三じいさんの目には小さな涙が滲んでいた。コウイチは何かを言いたかったが、衝撃のあまり言葉が出なかった。

「………………息子があんな風になってしまったのはわしの責任だ。わしが殺したも同然だ。そう思ってしまってな。………………怖くなったんだ。誰かと関わることが。………………ただ、」

源三じいさんはコウイチの目を見て言った。

「お前さんを見ていると、あのときの光景を思い出す。………………神様から言われてるような気がするんだ。『今度こそ。』と。」

「………………今度こそ?」

「わしは、君たちのような未来ある子供たちが傷つけられ、未来を奪われて絶望する姿はもう見たくない。だから、今度こそ。今度こそなんとか救ってやりたいんだ。………………ただ、わしは弱い人間だ。そうは思っていてもなかなか動き出せず、今日に至るまで手を差し伸べてやることができなかった。………………本当にすまなかった。」

源三じいさんは深々と頭を下げた。コウイチは慌てて源三じいさんに頭を上げさせようとした。

「謝らないでください!むしろ、いつも大人じゃない僕がお酒を買っていることを黙っててくれて。こちらこそ本当に申し訳ないです。」

源三じいさんは頭を上げた。源三じいさんは静かに泣いていた。

「わしは今日、決心した。今度こそ、君を助けると。今度こそ助けてみせると。」

その誓いを聞いたコウイチの目にも涙が込み上げてきた。源三じいさんは優しく微笑みながら語り掛けた。

「全てが治まるまで、この家にいていいから。あの家にいては君の命が危ない。君の抱える問題はわしがなんとかしてみせる。いいかい?君の人生はこれからなんだ。君自身を大切にしなさい。」

源三じいさんはコウイチの右肩に手を置いて言った。コウイチは泣きじゃくりながら

「………………ハイ………………はい!………………ありがとうございます!」

と言った。源三じいさんはコウイチを抱きしめながら

「辛かったな………………大変だったな………………もう、大丈夫だ!」

と涙ながらに言った。コウイチは源三じいさんの腕の中で泣き叫んだ。

 翌日の朝4時。いつものようにコウイチは目を覚ました。コウイチは源三じいさんから借りた布団を綺麗に畳んで、玄関に向かった。玄関には源三じいさんがいた。背中を丸めて靴紐を結んでいる。驚いたコウイチは

「お、おはようございます。」

と言った。源三じいさんはその声に気が付くと、コウイチに顔を向けて

「おう。おはよう!」

とにこやかに挨拶をした。

「早いなぁ、いつもこの時間に起きるのか?」

源三じいさんは素朴な疑問を投げかけた。コウイチを小さく頷いて

「これから新聞配達に。」

と言うと、源三じいさんは小さくため息を吐いて

「お前さんの歳の子はまだ寝ていればいいさ。身体が持たんぞ?」

と言った。コウイチを小さく首を振って

「そうですけど、毎日やってるんで。それにお金が貯まったら、自分の好きなことができますし!」

と微笑みながら答えた。すると源三じいさんは真剣な表情になって

「無理をしてはいかんよ。」

と言った。コウイチ少し食い気味に

「いやでも、大丈夫なんで。」

と言った。源三じいさんは少しだけ表情を和らげて言った。

「まぁ。今日は行ってきなさい。でも、帰ったらちゃんと話し合おう。君には君の時間が必要だ。」

「僕の時間?」

「お金が欲しいんなら、わしに言いなさい。ちゃんとお小遣いをあげるから。ね?」

お小遣い。コウイチには無い感覚だった。源三じいさんは立ち上がって

「じゃあ、わしはちと用事があるから。お前さんも用事が終わったらここに帰ってきなさい。朝食を作ってあるから。」

と言って玄関のドアを開けて外に出て行った。コウイチは立ち尽くしていた。そしてハッとようやく我に返り、急いで靴を履き外に出て行った。

 いつもと同じように新聞販売店の裏口に行った。時間は4時半。今日は間に合った。コウイチはドアをノックした。少しして堀が出てきた。堀は眠そうに目を擦りながら欠伸混じりに言った。

「今日は間に合ったんだ。つか洗濯物は?」

コウイチは少しだけ戸惑いながら

「………………き、今日は大丈夫です。」

と答えた。堀は

「ふぅーん。」

と頷き

「じゃあいつものところにあるから。ちゃっちゃと行ってきて。」

と言い、さっさと部屋の中に戻って行った。コウイチは小さな声で

「わかりました。」

と裏口のドアに向かって言い、いつものゴミ捨て場に向かった。ゴミ捨て場にはいつも通り新聞の束と見覚えのあるランドセルがあった。古傷だらけでボロボロのランドセル。コウイチのものだ。コウイチはランドセルを拾い上げた。昨日の悪臭がしない。それどころかほんのりと洗剤の臭いがする気がする。

「たしか、昨日店長が捨てるって………………。」

コウイチは脳を目一杯に使って考えた。そしてひとつの仮説が浮かび上がった。

「………………もしかして………………。」

コウイチはランドセルを背負い新聞の束を抱えて、いつもと同じ場所に新聞を届けに行った。数十分で新聞を全て配り終えたコウイチは、急いで新聞販売店の裏口に周った。そしてドアをガンガンとノックした。

「店長!終わりました!店長!お礼を言わせてください!」

しかし堀は出てこない。

『忙しいのかな。』

激しくドアをノックしてしまったことを少し申し訳なく思ったコウイチはもう帰ることにした。がそのときだった。足元に何かがあることにようやく気が付いた。そこにあったのは封筒と大きな重しだった。重しはまだ開封されていない食パン、封筒の中身はくしゃくしゃの千円札だ。コウイチは小さな声で

「………………ありがとうございます。」

と呟き、頭を下げた。そしてランドセルにパンと封筒を入れ、少しだけ軽い足取りで源三じいさんの家に帰った。

 5時半。源三じいさんは家で死んでいた。コウイチが家に帰ったとき、源三じいさんは玄関で頭から血を流して倒れていて、コウイチの発見で近所の人が通報した。コウイチは通報することができなかった。1時間半前まで元気で、微笑みながら接してくれた人が突然死んだことによる動揺と、電話番号がわからなかったからだ。110番。この番号がコウイチの記憶にはなかった。警察はすぐに駆け付けた。調べによると源三じいさんが家に帰ったのは5時頃、家に入ろうとしたとき強盗に襲われ、後頭部を鈍器で何度も殴られたらしい。そのため家の中は荒らされていて、土足で侵入したせいか足跡がいくつも発見された。そして店の金と通帳が盗まれていた。常連客や近所の人の話によると、ゲンマートに強盗が押し入ったのは今回が初めてではなく、何回か未遂で治まったことがあったらしい。警察は今回も同一犯とみて捜査をすることにした。コウイチは源三じいさんの家の前で呆然としていた。源三じいさんの家には警察と救急隊と野次馬がうじゃうじゃしている。

『………………こんなに人が集まっている。』

混乱のせいか、涙が出てこなかった。

「すみません。」

背後からコウイチを呼ぶ声がした。コウイチが振り返るとスーツ姿の男が立っていた。

「刑事の藪上です。亡くなった原田源三さんの関係者ですよね?ちょっと署でお話いいですか?」

コウイチは混乱のあまり

「………………はい………………。」

と小さく頷いてしまった。コウイチは藪上とともに警察署に向かった。藪上の取り調べはコウイチの想像を超えていた。10時間以上に及ぶ取り調べは、8歳の子供に耐えられるものではなかった。

「なんで、原田さんの親戚でもない血縁関係もない他人の君が、あの人の家にいたんだ!?あぁ!?」

藪上の怒号でコウイチは肩をすくめた。

「君のことを調べさせてもらったよ。どうやら常連らしいね。しかも、未成年にも関わらず酒を購入していた。」

藪上は煽るように語り掛けた。コウイチは首を振って否定した。

「違います!お父さんに買って来いって言われて、毎日仕方なく!」

「お父さんにも話を聞いたよ!お父さんはそんなことを言ったことは一度もないってさ!」

違う。そんなのは間違っている。コウイチは全力で否定した。

「違う!本当にお父さんが毎日買って来いって!」

「君はどうやら記憶ができないようだね?君の記憶違いでしょ?真実は、貧乏暮らしに嫌気がさした君は、8歳にも関わらずグレて酒に溺れ、そしてついに原田さんの金に目がくらんだ。そうだろ!」

意味が分からない。8歳のコウイチでも藪上の理屈がでたらめだということがわかった。しかし藪上は全く自分を疑おうとしない。それどころか、まるで殺人鬼を見るような目でコウイチを睨んだ。

「本当は、君が原田さんを殺した。お前みたいな欠陥だらけの人間は絶対やってるに決まってる!そうだろ!人殺し!」

「………………………………………………………………」

藪上の言葉はコウイチの何かを壊した。

『………………………………本当に自分が殺したのかな。………………………………自分が知らないうちに源三じいさんを殺したのかな。………………今、本当は自分の知らないところに源三じいさんの金があって、自分はグレて酒に溺れていたのかな。ただ自分が忘れているだけなのかな。自分は人殺しなのかな。』

コウイチの呼吸は徐々に荒くなってきた。抑えようとしても呼吸が止まらない。肩で息をしている。痛みを伴っている。苦しくなっている。脳はその全てを理解しているが、身体は言うことを聞かない。

『………………………………………………早く楽になりたい。』

コウイチは震えながら口を開き

「………………はい………………僕が」

と言いかけた。そのときだった。勢いよく取り調べ室のドアが開いた。1人の刑事が入ってきて藪上に向かって

「犯人が見つかった。」

と報告した。藪上は驚いた表情で

「………………え、え?本当ですか?野崎さん。」

と問いかけた。野崎はコウイチに一瞬目を向け、瞬時に状況を理解した。そして

「てめぇ、ふざけんなぁ!」

バキィッ!

と藪上の顔面を殴った。藪上は椅子とともに床に倒れ込んだ。鼻からは大量の血が噴き出している。コウイチは恐怖と驚きで椅子に座ったまま黙っていた。野崎は倒れた藪上の胸ぐらを掴んで頬を殴りつけた。

「てめぇ!こんな小さな子に何言った!何をしたぁッ!」

バキッ!ボグッ!

鈍い音を立てながら野崎は藪上の顔面を殴り続ける。

「てめぇは刑事失格だぁ!憶測だけで人を落とし込むのはクズだぁ!」

バキィ!

最後の一発で藪上は完全に伸びてしまった。野崎は息を切らせながらコウイチに向き直った。野崎は少しだけ声を和らげて言った。

「この馬鹿が本当にとんでもないことをした。申し訳ない!」

コウイチは何も言えなかった。ただ怖くて。ただ訳が分からなくて。野崎はコウイチに向かって言った。

「とにかく君を解放する。おじさんと一緒に来てくれ。」

コウイチは黙って頷いて野崎の言うとおりにした。野崎は自身の車を出してコウイチをいつもの公園に送った。車内では一言も会話がなかった。公園に着いたとき、野崎はコウイチに言った。

「いいか。君が今日受けたことは、本来あってはならないことだ。もし、訴えたいと思うならそうしてくれて構わない。そのときは力になる。」

そう言うと野崎は胸ポケットからメモ帳を取り出し、何かを書き始めた。そしてその1枚を破り取ってコウイチに渡した。

「そのときはここに電話してくれ。俺の電話番号だ。」

コウイチはただ黙って頷き、メモを受け取った。そして車の外に出た。コウイチは頭を下げて野崎を見送った。コウイチは何も考えてはいなかった。とりあえず、公園のベンチに腰かけて、ただ茫然とメモを眺めていた。

 それから3日間。コウイチは公園を拠点にして過ごした。学校には行かず、町中のゴミを漁って食料を探した。ときどき見つけたまだ腐っていない食べ残しに喜んだり、土砂降りの中公園で遊んだり、清潔感など気にもせず本能の赴くままに生きた。新聞販売店にだけは通った。堀は汚くなっていくコウイチにいろいろと質問をしたが、深く追求しようとはしなかった。コウイチはいつもと同じように新聞を配り、くしゃくしゃの千円札をゴミ箱で見つけたビニール袋の中に貯めて行った。公園には毎日高場たちが来た。コウイチを見つけるなり傘で殴ったり、全員で蹴ったり。コウイチは砂利や砂、紙屑を食べさせられた。高場たちはそれを見て笑っていた。コウイチは泣いたり拒絶したりしたが、高場たちが帰ったあとは何も思わなかった。公園に母と思われる人が来たのは3日目の夜だった。母は泣きそうな顔で

「コウイチ!母さんよ!さぁ、帰りましょ!」

と言った。コウイチは公園のベンチに座ったままキョトンとして

「………………だれですか?」

と言った。母は金切り声で

「あなたの母さんよ!」

と叫んだ。コウイチは記憶を振り返った。母さんという人。自分の母さん。そんな人………………

『………………………………そんな人、いたっけ?』

記憶の中に該当する人はいなかった。しかし母はコウイチの手を引いて

「さぁ!早く帰るわよ!」

と言って強引にボロボロのアパートに行った。コウイチは不思議に思っていたが、特に抵抗しようとも疑おうとも、何か行動を起こそうとも思わず、言われるがまま従った。


〇取り調べ

 烏丸はナカギシの向かいに座って日記を読み漁っていた。地味に綺麗で力の入った字を目で追う。

「速いですねぇ、刑事さん。」

ナカギシが坊主頭を掻きむしりながら烏丸に言った。烏丸は顔色を変えずに言う。

「速い?何が?」

ナカギシは微笑みながら言った。

「読むスピードです。そんなに面白いですか?」

烏丸は平然を装いながら答える。

「まぁまぁかな。けどこれ全部本当なの?」

ナカギシは目を丸くした。

「疑ってるんですか?こんなに正直に話してるのに?」

「でも記憶はないんでしょ?そりゃ疑うよ。」

烏丸はページをめくった。ナカギシはため息交じりに言う。

「たしかにぃ記憶はありません。しかし、私は嘘を嫌います。不正も嫌いです。そんな性格です。だから私は嘘を書くことはないと思うんです。その性格がコロコロ変わるとは思えません。」

腑に落ちるような腑に落ちないような。烏丸は小さなため息を吐いた。

「まぁでも、お前を見ているとあながち嘘とも言い難いね。」

「でしょ?」

ナカギシの顔にまた笑みが戻った。烏丸はナカギシの目を見て言った。

「けど言ったでしょ?疑うのが刑事の仕事だ。多少の疑いをかけられるのは覚悟していただきたいね。」

ナカギシは何度も頷いた。

「そりゃもちろんです。私は殺人を起こしてしまっているんですから。疑われて当然です。」

「ただ俺は、真実を追求するだけだ。疑いを疑いのまま終わらせるなんてことはしない。」

「………………へぇ。」

ナカギシは微笑みながら相槌を打った。烏丸は日記のページをまためくる。

「それにしても、刑事さん。本当に読むスピードが速いですね。」

「そんなに珍しい?俺の読むスピード。」

烏丸は日記を読みながら答えた。

「私は記憶することのできない人間ですが、おそらく刑事さんほど本を読むスピードが速い人、見たことないと思います。速読ってやつですよね、たしか。なんでそんなに速いんですか?」

烏丸は少しだけ考えながら言った。

「あーもともと文学学んでたからな。そういう系の大学行ってたし。それに本とは昔から友達だったからなぁ。」

「本が友達?あなた、人間の友達はいなかったのですか?」

「少ない方だったねぇ。まぁ価値観の違いとかであんまり上手く付き合えなかった。」

ナカギシは興味深々だった。まるで博物館で恐竜の化石を見る子供のように、目を輝かせながら烏丸を見ていた。烏丸はその視線に気付きつつも、あえて日記に注視した。ナカギシは微笑みを浮かべながら口を開いた。

「じゃあ、結婚はされていないんですか?」

一瞬、日記のページをめくろうとした烏丸の手が止まった。烏丸は一息ついてナカギシの目を見た。

「………………関係ある?お前に。」

ナカギシは首を傾げた。

「………………たしかにぃ、あるかと言われたら微妙なところです。けど、気になります。あなたも私と同じなのか。」

虚ろな目がジッと烏丸を見つめる。吸い込まれそうな、襲われそうなその目に烏丸は対抗して睨みを利かせた。烏丸は湧き上がる感情を抑えながら口を開いた。

「………………同じなわけあるかッ。」

その言葉を聞いたナカギシは小さく頷いた。

「そうですか。良かったですね。」

そう言うとナカギシは背もたれにもたれかかり、深いため息を吐いた。烏丸は日記に視線を戻した。

「これで小学校のときの記録は全て読み終えた。………………えらくハードな小学時代だな。」

ナカギシは微笑を浮かべながら

「もう覚えてませんけどねぇ。」

とどこか悲しげに答えた。

「結構いろいろあったらしいじゃん。けど、毎日日記をつけている。随分とマメだな。」

「たぶん持ち歩いてたんだと思います。どんなときも。ときどき折れ曲がった日記があったでしょ?たぶんズボンとかポケットに折りたたんで持ち歩いていたんだと思います。」

たしかに何冊か折れ曲がったものもあった。ほとんどの日記がボロボロだったので言われるまで気にならなかったが、その説明を聞くと納得がいく。

「源三じいさんは覚えていないの?」

烏丸は唐突に尋ねた。ナカギシの顔から笑みが消え

「だれですか?それ。」

と首を傾げた。

「この日記に出てくる人。お前にえらく優しくしてたけど、強盗に襲われて亡くなった。」

「覚えてないですねぇ。」

「………………なんにも?」

烏丸は少しだけ睨みながら尋ねた。ナカギシは数秒ほど呻きながら考えて

「………………その人には申し訳ないですけど、なんにも覚えていませんねぇ。」

「じゃあ堀って人は?」

ナカギシの反応は同じだった。

「堀?うぅーん………………誰でしょうかぁ。」

「自分の親は?」

ナカギシは虚空を見つめながら頭を掻いた。

「いたんでしょうけど、なんにも記憶がないですね。日記にはなんて書いてあります?」

「両親を憎んでいた。と。」

「あぁ、なるほどぉ。つまりは虐待をしていたと?」

烏丸は頷いた。

「どのページにも親から受けた暴力について書かれてある。トイレを素手や舌で掃除したり、下着姿で外に投げ出されたり。あと同級生、高場?っていうガキンチョからいじめを受けていたそうだね。」

ナカギシは真顔で相槌を打った。

「いろいろやらされていたんですねぇ。たしかに、身体に残る古傷はその暴力行為の証拠だと考えれば、いろいろと辻褄が合う気がします。」

烏丸はページをパラパラとめくり、とあるページで止めた。

「俺が一番気になったのは担任だったよ。」

「担任?なんて人です?」

「中村雄馬、覚えてない?」

ナカギシは天を仰ぎながら記憶を遡った。

「………………覚えてないですね。」

烏丸は真剣な顔で話し始めた。

「さっき野崎さんに調べてもらったが、こいつは前科だらけだったよ。」

「前科だらけ?なにをしていたんですか?その人。」

「初めて逮捕されたのは12年前。お前が小学6年生のときだ。自分の担任するクラスの男子生徒に性的暴行を加えていた。学校は何年も前からその事実を知っていたが、保身のために隠していたそうだ。ただ、12年前の11月。その日は参観授業だったらしく、職員トイレで揉める中村と男子生徒をとある保護者が発見した。男子生徒はほぼ全裸で、中村は下半身を露出していたそうだ。さすがに言い逃れできなかったからか、中村も学校も性的暴行の事実を認め、中村は不同意性交などの罪で起訴され、学校も責任を追及された。その被害者の男子生徒の名前は言われなかったが、事件は全国報道されたらしい。」

「めちゃくちゃな事件ですね。」

「そんな人間がお前の担任だったんだ。そして、お前はその被害者だった。」

ナカギシは目を見開いて鼻から深い息を吐いた。一瞬、その目に涙が滲んでいるようにも見えた。

「………………なにか思い出した?」

ナカギシはぎこちない笑顔で首を振った。

「いえ………………ただ、私が被害を受けていたっていうのが、すごい驚きで。」

「………………どうやら計画的な犯行だったらしいね。」

「計画的?」

「彼の犯行は4日に一度だった。お前の障害を利用して、お前から被害届が出されないよう対策していたんだろう。犯行に及んだ日は脅したりして口封じしてた。お前の日記からそう考えられるね。」

「怖いですねぇ。本当に恐ろしい。」

ナカギシはまるで他人事のようなリアクションをしてみせた。

「覚えてないの?」

烏丸は再度聞き返した。ナカギシは頭を掻きむしった。

「うぅーん………………残念ながら、なんにも。」

「………………あっそ。」

烏丸はため息を吐いた。

「………………なんで親のもとへ戻ったの?」

烏丸は少しだけ声を大きくして質問した。

「………………はい?なんのことですか?」

ナカギシが聞き返した。

「源三じいさんが亡くなった日、お前は警察の取り調べを受けてそれから公園で約3日間生活した。そう日記に書いてある。お前の母親が連れ戻しに来たんだろ?なんで言う通りにしたんだ?」

ナカギシは小さな声で笑った。

「刑事さん。言ったでしょ?当時の記憶はもうないんですよ。そんな昔のことを聞かれたって、答えようがないですよ。」

「じゃあ今のお前なら?」

烏丸の一言にナカギシは疑問を抱いた。何が言いたいのか理解できない。

「どういう意味です?」

烏丸は真剣な眼差しでナカギシの目を見た。

「もし、今のお前が公園で生活していて、記憶にない女が母親だと言って近づいてきたら、お前はどうする?」

「一体何が言いたいんですか?」

ナカギシは徐々に苛立ち始めた。一方で烏丸は落ちついていた。

「お前はあの家族に依存していた。違う?」

ナカギシは眉をひそめて

「………………はぁ?」

と反応した。

「何言ってるんですか?さっき刑事さん言ってたでしょ?私は両親を憎んでいたと。」

「たしかにそう言った。けど、どうもそこに引っ掛かるんだ。お前が母親について行った理由。そのときの心理が。」

ナカギシは貧乏ゆすりを始めた。そんなことお構いなしに、烏丸は落ち着いた口調で続ける。

「虐待を受けている子供によく見られる傾向なんだ。トラウマ的絆とか共依存って言うんだけど。親から激しい虐待を受けていても、親から離れることができない。その理由には暴力と時々見せられる優しさで感覚が麻痺していたり、親の要求に答えないと親がダメになるっていうある種の使命感があるんだ。お前の日記を見ていると、拒絶しようとしたりその環境から抜け出そうとしたりしたときも、お前は無意識のうちに依存していた。そんな風に見えるんだ。………………まぁたしかに不幸が連鎖しているっていうのも原因としてはあるんだろうけど。」

「なにを言ってるんですか!」

ナカギシは怒りに満ちた顔で立ち上がった。補助席でずっとふたりの会話を聞いていた記録係の刑事、堀田は危険を察して立ち上がり

「座れぇ!ナカギシ!」

と怒鳴った。しかし烏丸は

「まぁ落ち着け。」

と堀田を静止させた。堀田は何か言いたげな表情をしながらも、指示に従い椅子に座った。ナカギシは狂気に満ちた目で烏丸を睨んでいた。烏丸も立ち上がりギロリとナカギシの目を睨んだ。

「落ち着け。話の途中だ。」

ナカギシは鼻息を荒くして

「でっち上げで人を貶めようなんてクズですよ!」

「その依存関係がお前の記憶障害の原因じゃないのか!?」

ナカギシの怒号よりも大きな怒号で烏丸が詰め寄った。

「記憶障害には脳の損傷によるものがある。幼い頃から虐待を受けてお前も脳を損傷している可能性だってある。そこに不幸が重なって、時々母親が見せる優しさがお前の記憶や深層心理を曖昧にさせた。お前の今の症状は、日々の暴力と依存によって引き起こされた。そうは考えられないか!?」

烏丸の言葉を聞いたナカギシは静かに椅子に腰を下ろした。

「………………………………たしかに、言われてみるとその可能性も考えられますね。」

烏丸も椅子に座り、落ち着いた声で

「だろ?」

と答えた。ナカギシは深々と頭を下げて

「すみません。怒鳴ってしまって。つい、カッとなってしまったんです。」

と謝罪した。烏丸はナカギシの下げた頭を見つめながら

「それはなんで?」

と問いかけた。頭を上げたナカギシは恥ずかしそうに答えた。

「たぶん、疑われたことに無性に腹が立ってしまったんだと思います。私はこれが真実だと言ってるのに、唐突に変なことを言われて。まるで嘘つき呼ばわりされているのではと、そう思ってしまったんです。」

「………………言ったでしょ?俺たちの仕事は疑うことだ。素性も何もわからない人間に疑いをかけるのは当然だろ?………………ただ、今言ったように、俺はお前のことをほとんど知らないし何もわからない。真実だと断定することも、それを肯定することもできない。してはならない。だから俺は可能性の話をしている。それが真実なら認めてくれ。違うならちゃんと説明しろ。それが真実の追求だ。」

ナカギシは黙って頷いた。しぃーんと取り調べ室が静寂に包まれる。烏丸は一息ついてから

「誤解を生んでしまったのなら謝るよ。すまなかった。」

と言った。ナカギシは首を振って

「いえいえ、私こそ。こんなおつむで、」

と答えた。烏丸は一度咳払いをして

「じゃあ、続き見て行こうか。」

と次の日記を手に取った。

ご愛読ありがとうございました。第2章に続きます。暗くて残酷な話ですが、お付き合いいただけると幸いです。

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