十三夜月
玲が、倒れた。
その瞬間、頭が真っ白になった。
どうしていいかわからなくて、声が出て、泣き叫んで、
みっともなく縋るしかなかった。
他に、誰もいなかった。
だから森川さんに助けを求めた。
情けなかった。
自分が、何ひとつ出来ないってことを、
これ以上ないほど思い知らされた。
それからは、玲の傍にいることしか出来なかった。
手続きも、説明も、判断も、
全部、森川さんがやってくれた。
ニヤはただ、
ベッドの横に立って、
点滴の音を聞いて、
息をしているか確かめていただけだ。
役に立てない。
足手まとい。
邪魔じゃないかって、
そんな考えが頭の中をぐちゃぐちゃにした。
それでも離れられなかった。
必死だった。
奪われるみたいで、怖くて、
どうにか繋ぎ止めたくて。
そんなニヤに、玲は言った。
「傍に居てくれるだけでいい」
その言葉が、
胸に刺さった。
優しすぎて。
逃げ道みたいで。
ニヤを、何も出来ないまま肯定する言葉で。
役に立てなくていい。
何も出来なくていい。
ただ、そこにいろ――って。
心が、張り裂けそうだった。
ニヤは、そんな存在でしかないのか。
それでも、いないよりはマシな存在なのか。
わからない。
わからないけど、
その言葉に縋るしかなかった。
――だって、ニヤには。
玲の傍にいることしか、残ってなかったから。
***
十月も終わりに差しかかった頃、ニヤは時雨の中をひとり歩いていた。
玲のマンションへ続く、ゆるやかな坂道。
学校帰り、おろしたての黄色い傘を広げ、ニヤは一歩一歩、濡れた舗道を踏む。
冬の始まりを告げる雨は冷たく、霧のように視界を曇らせた。
髪に、制服に、世界の輪郭に、湿り気が染み込んでいく。
玲は地方の仕事で、数日前から家を空けている。
相変わらずの留守番の日々に、ニヤはうんざりしていた。
――あの日。
自分の気持ちを吐き出してから、もう何日も経つ。
なのに二人の関係は、何ひとつ進んでいない。
眠る前に額や頬に触れられることは増えた。
けれど玲の態度は、結局いつも通りだ。
「……くそ。ガキ扱いしやがって」
冷静になって考えると、あの言葉だって本心かどうか怪しくなる。
玲は、異様なほどに異性から好かれる。
モデルや俳優並みに整った、時に女に見えるほどの顔。
天才画家、印象派の新星。
物腰は穏やかで、品行方正。
嫌味なほどに完璧で、本人だけが果てしなく無自覚だ。
森川は、それがまた母性本能をくすぐると言っていた。
そんな玲が、がさつで口の悪い、痩せっぽちで色気の欠片もない自分を――
好きになるだろうか。
答えは、誰に聞くまでもない。
そう思うほど、胸の奥がきしんだ。
泣きそうになるのを堪えながら、ニヤは右手を翳す。
手首に光る、半透明の空色。
十四の誕生日に玲がくれた、ブルーオパールのブレスレットだ。
空を閉じ込めたみたいな石。
玲の描く絵に似ている。
その青を見ると、少しだけ落ち着く。
――けれど同時に、あの女の姿が胸をざわつかせる。
思い出す。
玲が、初めて自分から距離を縮めてくれた日のこと。
触れるだけの一瞬。
それでも、十分だった。
十分だったはずなのに。
「……早く帰ってこねーかな」
呟きながら鍵を取り出し、マンションの入口へ向かった。
導入路の中ほど、石橋の上に女が立っていた。
茶色い巻き毛、小柄な体、大きな瞳。
矢野杏子。
ニヤはその顔を知っていた。
「こんにちは」
人懐っこい笑顔。
それが余計に、言葉を奪う。
近くで見ると、正直――すごく可愛らしい。
守ってあげたくなるような、柔らかな雰囲気を纏っている。
この人が玲の隣に立つところを想像すると、
自分なんかが一緒に歩くより、ずっと相応しい気がした。
「素敵なマンションだね」
「……誰か待ってんの?」
「お留守だったから、帰るところ」
俯く仕草が、どこか寂しそうで。
胸の奥が、じくりと痛む。
「玲は泊まりの仕事。来週の月曜まで帰らない」
杏子は驚いたようにニヤを見て、
視線がブレスレットに吸い寄せられた。
「あら……あなた、もしかしてニヤちゃん?」
頷くと、杏子は嬉しそうに近づいてくる。
「あなたがニヤちゃんなんだ! 玲君の言った通り、ちっちゃい、可愛い――」
「矢野杏子さんでしょ。玲から聞いてる」
素っ気なく遮っても、杏子は気分を害した様子もない。
むしろ嬉しそうだ。
「そのブレスレット、ニヤちゃんにぴったり。さすが玲君」
……なんで、あんたが知ってる。
その問いが喉まで上がり、
それでも口に出した瞬間、何かが壊れる気がして、ニヤは飲み込んだ。
家に逃げ帰り、ブレスレットを床に放る。
布団に顔を埋めても、惨めさは消えない。
それでも行き着く先が玲のベッドだということが、
自分で自分を殴りたくなるほど情けなかった。
『玲君に頼まれて、一緒に探したんだよ。それ』
杏子は本当に嬉しそうに言っていた。
悪意はなかったのだろう。
だからこそ、悔しい。
彼女はニヤを、子どもとしてしか見ていない。
子どものプレゼントを一緒に選んで、“良かったね”と笑える立場として。
そして杏子は――玲が好きだ。
聞かなくてもわかる。
玲のことを話すときの目元、留守だと言ったときの寂しそうな影。
それらは全部、嘘をつかない。
月曜。
学校から真っ直ぐ帰る気になれず、友達とファーストフードに寄った。
ハンバーガーを三つ、ポテト、ナゲット、アップルパイ。
おまけみたいにアイスまで口に運ぶ。
「あんた、よくそんなに食べるわね」
呆れた声。
周りの視線も、好奇の色を帯びる。
本当は、こんなに一気に食べられるほうじゃない。
ただ、不安な日だけ、身体が勝手に何かを欲しがる。
塾があると言う友達と別れて、本屋で時間を潰した。
月曜に帰ると伝えた以上、杏子はマンションの前で待つだろう。
もし玲がまた彼女と出かけていたら――そう思うと帰れない。
日が傾き、街が暗くなり始めた頃、
ニヤは意を決して家へ向かった。
遅くなれば、また玲が探しに来るかもしれない。
何より、いつまでも外にいるわけにはいかない。
マンションの前に、やはり杏子がいた。
インターフォンの前で俯いている。
「こんばんは」
声をかけると、杏子は弾かれたように顔を上げ、
笑顔を作って返した。
けれど、その笑顔は痛々しい。
今にも泣き出しそうに見える。
「ずっと待ってたの?」
「アルバイトが終わって、今来たところ」
杏子はふわりと笑う。
そのふわりが、胸に刺さる。
彼女は鞄から小さなストラップを取り出し、差し出した。
玲の携帯につけていた、あのワニのストラップ。
ニヤの枕代わりのハリネズミと同じシリーズ。
玲は雨の日に落としたと言っていた。
どうして彼女が持っているかなんて、考えるまでもない。
「直接渡そうと思ったんだけど、玲君、まだ帰ってないみたいだから。
悪いけど……ニヤちゃん、渡しておいてもらえる?」
その笑顔が、やっぱり悲しそうで。
「……家で待ってたら?
玲も喜ぶと思うし」
気づけば、そう言っていた。
自分でも驚いた。
けれど、もう止められない。
戸惑う杏子の腕を取って、
半分やけくそみたいにマンションの中へ引っ張り込む。
「適当に座ってて」
リビングに置いて、キッチンへ向かう。
玲の大きなエスプレッソマシンは扱えない。
仕方なく、玲がニヤ用に買ってくれたピーチフレーバーの紅茶を淹れた。
甘い香り。
それが今日の空気には不釣り合いで、少しだけむかついた。
窓際の定位置に座る。
半出窓の大きな窓から、空が見える。
アトリエ以外では、ニヤはここでよく眠った。
「広いね。びっくりしちゃった」
「ニヤも最初、広くてビビった」
杏子が笑い、ニヤも乾いた笑いを返す。
玲の部屋は最上階のワンフロアを丸ごと使っている。
リビングは簡単な運動ならできてしまいそうなほど広い。
――けれど玲もニヤも、結局は窓際にばかりいる。
生活の居場所は、見た目ほど広くない。
「玲君がいない間、寂しくない? こんな広い家で一人って」
「別に」
素っ気なく答えながら、紅茶に砂糖を三つ落とす。
本当はとても寂しい。
けれど杏子に漏らす気はなかった。
「ニヤちゃん、強いね」
「別に強かねーよ」
荒い口調でも、杏子はくすりと笑う。
よく笑う人だ。
沢山の笑い方を知っている。
それが羨ましい。
「ねえ、杏子って玲の何?」
聞きたくなかったはずなのに、言葉が刃みたいに出た。
杏子は気分を害した様子もなく、少し考え、
「友達……かな」
と答えた。
「ふーん」
「ニヤちゃん、玲君が好きなんだね」
「別に」
杏子はまた笑う。
その笑い方が、
まるで“正しい場所”にいる人の笑いみたいで、腹が立った。
八時を少し回ったころ。
玄関が開く。
「ただいま」
玲がリビングの扉を開け「ニヤ、何度も電話もメールもしたのに……」
玲はニヤ向けかけた不満を途中で失くし、ソファに座る杏子を見て、言葉が止まる。
「あの……こんばんは。お邪魔してます」
ぎこちなく言う杏子に、玲は驚いた顔を作り、
それからニヤを見る。
「忘れ物、届けてくれた。ブレスレットのお礼もあるし、家で待っててもらった」
「……そう」
玲はそれだけ答え、
「少し待っていてもらえるかな。着替えて来たい」と杏子に言って部屋へ消えた。
戻ってきた玲は、改めて礼を言い、
杏子が差し出したストラップを受け取る。
杏子がほっと息をつくのを見て、
ニヤは立ち上がった。
「宿題してくる」
「ごはんは?」
「バーガー食った」
吐き捨てるように言って、リビングを出る。
自室に入ってドアを閉め、息を吐く。
「……お似合いじゃん」
枕代わりのワニを抱え込み、八つ当たりみたいに口をむぎゅっと掴む。
鏡に映る自分は、黒髪の吊り目の少女だ。
痩せた体。丸みのない胸元。
色気も柔らかさもない。
見ていてうんざりする。
「あの人みたいだったら……」
ふんわりした巻き毛。
丸みのある体。
優しげな目元。
ほんのり色づいた頬。
「……せめて半分でも、ボリュームがありゃな」
乾いた笑いが漏れ、寒さに身震いする。
シーツにくるまり、目を閉じる。
気づけば眠っていた。
喉が渇いて目が覚めた。
廊下に出ると、家の中は暗くて冷たい。
ふと、嫌な想像が頭をよぎる。
あの玲が、杏子を一人で帰すだろうか。
今頃、玲は杏子の家にいるのかもしれない。
久しぶりに帰ってきた玲に、甘えるはずだったのに。
真っ暗なキッチンで水を飲み、
怖くて、声が漏れる。
「……れい」
自分でも驚くほど心細い。
「れい……」
もう一度呼ぶと、返事があった。
「どうしたの?」
リビングの窓際。
玲はいつもの場所に座り、傍らにワインの瓶を置いていた。
「眠れないのかい? ……って、ニヤ、すごい格好だね。風邪ひくよ」
「何してんだよ」
「今夜は月がとっても綺麗なんだ」
「おいで」
膝に乗せられ、ブランケットをかけられる。
月は銀色で、端が少し欠けていた。
もう二、三日で満ちるだろう。
「……あの人は?」
恐る恐る訊ねる。
「帰ったよ。ニヤが部屋に入ってすぐ」
「送ってたの?」
「うん。ニヤが寝てるあいだに、外までいびきが聞こえてたからね」
「いびきなんてかいてねー!」
玲が楽しそうに笑う。
その笑いが、腹が立つほど、安心する。
「出かける前にノックしたけど返事がなくて、少し覗いたんだ。
……起こすべきだった?」
尋ねる玲に、ニヤは苦笑した。
「ごめんね」
玲が言う。
「何が」
「ブレスレットのこと。彼女と買いに行ったって、言わなくて」
「……別に、気にしてねーよ」
本当は気にしていた。
けれど、あれはニヤが初めてもらった誕生日プレゼントだ。
くだらないことで、傷をつけたくなかった。
「とても綺麗で、どうしてもあげたかったんだ。
ニヤに似合うと思って」
「……あれ、杏子が選んだの?」
「違う。店に入ろうって言ったのは彼女だけど、
僕が気に入って買った。ニヤに似合うと思って」
「……なら、いい」
玲の胸に顔を埋めると、
玲は静かに髪を撫でた。
「あたたかいね」
玲の声が、そう言った気がした。
それから、玲はもう一度、静かに謝り、
額にそっと触れた。
それだけで、
ニヤの胸の中のぐちゃぐちゃが、少しだけほどけた。




