その猫の居場所
珍しく遅く帰ってきたあいつから、知らない匂いがした。
いつもの絵の具の匂いじゃない。
花みたいな、やさしい匂い。
画廊のあの人とも、違う。
その瞬間にわかった。
――会ってきたんだ。
「大切な人」に。
腹が立つより、先に怖くなった。
あいつが外で食べてくるって言ってた日。
たまたま見かけた、見慣れた車。
助手席には、知らない女。
綺麗で、可愛くて。
ニヤと違って――大人。
あいつ、あんな顔で笑うんだ。
見たことないくらい、楽しそうで。
胸がぎゅっと潰れて、
勝手に、涙が落ちた。
「お願いだから」
声に出せないまま、何度も繰り返す。
「ニヤから、玲を取らないで」
奪われる前提で祈ってる自分が、
いちばんみじめだってわかってる。
それでも、祈るしかない。
だって、ニヤには――
あいつしか、いない
***
日が完全に落ちる少し前だった。
夕食まで作ってくれた森川さんが、僕の家を後にしたのは。
体調がずいぶん戻った僕は、彼女が帰ったのをいいことに、
汗ばんだ髪と身体の不快さに耐えきれず、シャワーの準備を始めていた。
タオルを手に取った、そのとき。
玄関のほうでドアの開く音がした。
森川さんと入れ違うように、
ビニール袋を下げたニヤが帰ってくる。
「おかえり」
声をかけると、ニヤは返事をせず、
憮然とした顔で僕を見た。
視線は、僕の手にあるタオルに縫い止められている。
「……お前、何してんだよ」
「少し、汗を流そうかな。体調もだいぶ良くなったし」
答えた瞬間、ニヤの目が細くなる。
次の瞬間、乱暴に腕を掴まれ、
僕はそのまま自室まで引きずられ、ベッドに押し戻された。
「ニヤ、もう体は――」
「大丈夫じゃない」
「少し汗を――」
「流すな」
「ニ――」
「うるさい」
言葉を許さない、とでも言うような勢いだった。
ため息をつきながら、僕は視線をビニール袋へ移す。
「……何、買ってきたの?」
ニヤは黙ったまま、袋の中身を床に並べる。
スポーツドリンクが一本。
レトルトのお粥が三つ。
それから、ニヤのお気に入りのアイスがひとつ。
「……僕に?」
訊ねると、ニヤは小さく頷いた。
「ありがとう」
そう言うと、ニヤは荷物をまとめて部屋を出る。
すぐに戻ってきて、今度はベッドに上がり込み、
僕の胸元に顔を寄せた。
匂いを確かめるような、静かな仕草。
「……何してるんだい?」
「汗臭い」
一言だけ言って、そのまま顔を埋める。
僕はそっと抱き寄せる。
ニヤは額を擦りつけるように甘えてきて、
いつもと違う様子に、僕は少し距離を作って顔を覗いた。
「ニヤ?」
「……森川さん」
伏せていた顔が上がる。
真剣な瞳。
「どうかしたの?」
「……触った?」
「森川さんが、僕に? どうして?」
「……匂いが、するから」
再び視線を落とすニヤに、僕は言う。
「パジャマの用意をしてくれただけだよ」
「……本当?」
不安が滲む声。
「ああ。本当だ」
できるだけ穏やかに答えると、
ニヤは少しだけ、ほっとした顔をした。
けれど、その表情はすぐ曇る。
「……じゃあ、あの車に乗ってた人は?」
胸が詰まる。
どこで見たのかはわからないが、
矢野さんのことだと、すぐに理解した。
「……彼女は、触った」
言葉が落ちた瞬間、
ニヤの身体がわずかに震える。
「あの人が……玲の恋人?
……大切な人?」
頭を撫でながら、
不安の色を隠しきれない声を聞く。
「大切な人だよ」
友達だ、と続けるべきだった。
けれど僕は、言葉を飲み込んだ。
――卑怯だと、わかっていながら。
「……玲?」
記憶が引き戻される。
あの夜、矢野さんの潤んだ瞳。
『大切な人がいるって、言ってたもんね』
胸の奥が締めつけられる。
何も言えず、ただ頷いた。
「……何でもないよ」
現実に戻り、僕はニヤを強く抱きしめた。
「なあ……ニヤじゃ、だめ?」
小さな声。
「お前の大切な人……ニヤじゃだめ?
……なれない?」
「ニヤ……」
名を呼ぶと、寂しそうに笑う。
「冗談」
そう言って、無理に軽くする。
「わかってるって。ニヤはペット代わりだろ。
ちゃんと可愛がって、世話しろよ」
その笑顔が、あまりに痛々しくて、
言葉が出なかった。
ニヤは腕の中から身を捩り、こちらを真っ直ぐ見る。
「……嘘」
震える声。
「ペットでも、そばにはいられる」
必死に、額を押し付けてくる。
僕は息を吐き、
その黒髪をゆっくり撫でた。
「……お前が倒れても、ニヤは何もできない。
泣いて、怖くて、森川さんに頼って。
料理も看病も、全然わかんない。
あの人みたいに、笑わせられないし……
大人じゃない」
言葉が、途切れる。
「役に立たない。
……だけど」
「ニヤ」
僕は遮るように、そっと抱き寄せる。
「意地悪だった。ごめん。
でも、ニヤは……そばにいてくれるだけで」
大きく首を振る。
「いやだ……!」
涙が、僕の頬に落ちる。
「他の人に触れるのが嫌だ。
触れられるのが嫌だ。
ニヤは子どもだからだめ?
……それでも」
泣きじゃくるニヤを前に、
僕は自分の卑怯さに吐き気がした。
「彼女とは、何もしてない。
話しただけだ。
大切な友達だよ」
「……友達?」
「うん」
「……嘘だ」
「嘘じゃない」
「じゃあ……」
答えはわかっている。
それでも――
「……大切な、僕のニヤ」
額に、静かに口づける。
そのあと、ニヤは子どものように泣き続けた。
ニヤは強い。
そして、同じくらいに弱い。
その単純な事実を、
僕はずっと見落としていた。
泣き疲れて眠るニヤの額に、もう一度、そっと触れる。
――ここが、彼女の居場所であるように。
願いを、胸の奥で繰り返しながら。




