雨と香り(後)
傍にいることは、許してくれる。
寄りかかっても、じゃれついても、子どもみたいに甘えても、
彼は何も言わない。
それでも――
どうしても、ニヤが入り込めない時間がある。
彼にとって大切な時間なのだろう。
それは、わかっているつもりだ。
わかっているのに、やっぱり寂しくて、心細い。
彼の匂いが残る布団にくるまって、
穴を埋めるみたいに目を閉じても、
埋まるのは隙間だけで、寂しさは増えていく。
様子を見に来てくれる女の人。
彼とその人の関係を、勝手に想像して――勝手に嫉妬して。
自分で作った影に、自分で怯えている。
雑誌を開けば、
彼の隣には、綺麗な女の人がいて、
楽しそうに笑っている。
「大切な人って、誰なんだよ」
考えれば考えるほど、
心の中がぐちゃぐちゃになる。
ほどけない糸みたいに絡まって、息がしづらい。
傍にいられれば、それでいいと思ったのに。
拾ってくれた彼の幸せを、
祈れない自分がいる。
そんな自分が、いちばん嫌いだ。
なんて醜いんだろう。
なんて浅ましいんだろう。
消えてしまいたいと思いながら、
それでも、そこから動けない。
動けない自分に、
憐れみを混ぜた笑みを――
そっと、口元に貼りつけた。
***
その晩、少し遅めに帰路についた僕は、
重い気持ちのまま玄関のドアを開けた。
妙に身体が重い。
このところ仕事が立て込んでいたせいか、
それとも、気分の問題なのか。
今朝、外で食事をすることはニヤに伝えてある。
遅くなることも、念のためメールを入れておいた。
まだ寝るには早い時間なのに、部屋の中は真っ暗だった。
闇が、いつもより濃い。
「ただいま」
声を落としてみる。
返事はない。
玄関には、
いつもなら脱ぎ散らかされているはずのニヤのスニーカーもなかった。
――嫌な予感が、背中を冷たく撫でる。
靴のまま家に入り、
手当たり次第に灯りを点ける。
リビング。
キッチン。
仕事部屋。
ニヤの部屋。
自分の部屋。
どこにも、いない。
ニヤは基本的に、あまり外へ出かけない。
まして夜、この時間に姿がないなんて、
僕の知る限り一度もなかった。
気づけば僕は、傘も差さずに夜の街へ飛び出していた。
雨はすでに本降りで、
大粒が痛いほど肌を叩く。
走りながら何度もニヤの携帯に電話をかける。
けれど、電源が切れているのか、まったく繋がらない。
メールで済ませた自分を、痛烈に後悔した。
声で確かめるべきだった。
――「今、どこ?」と。
近くの公園。
雨をしのげそうな場所。
コンビニの軒先。
バス停。
思いつく限りを探す。
けれど、そんなところにいるはずがない。
一年近く一緒にいたのに、
ニヤが「行きそうな場所」が
ひとつも思い浮かばない自分に、呆然とする。
この一年、
僕はニヤの何を見ていたのだろう。
苛立ちと恐怖が胸の奥で絡まり、
それでも足は、ただ前へ前へと進んだ。
冷たい雨が、
壊れそうなほど早く打つ心臓を、
少しだけ冷やしてくれる。
「ニヤ……! ニヤ……!」
喉が腫れ、声が掠れてきても、
僕は狂ったように名前を呼び続けた。
――ついに、
僕は愛する猫に愛想を尽かされたのだろうか。
いや。
ただ少し姿が見えないだけで、
こんなにも不安になるのは、
僕が知っているからだ。
ニヤが、
いつか僕の元からいなくなる日が来ることを。
そして僕は、
ずっとその日を恐れてきたのだ。
喉が焼けるように痛み、
声がほとんど出なくなった頃。
国道沿いのコンビニの前に、
サラリーマン風の男が立っているのが見えた。
今はそんなもの、
視界に入るはずがないのに。
なぜか、胸の奥がざわついた。
近づくと、
うずくまって座り込む、長い黒髪の少女がいた。
その前で、
中年には少し若い男が、しきりに話しかけている。
――ニヤ。
僕は荒い息のまま、
髪から滴る水を払うこともできず、
二人の間に身体を滑り込ませた。
話を遮られた男が、露骨に僕を睨む。
「……僕のニヤに、何か用ですか」
そう尋ねると、
男は僕を兄か何かだと思ったのか、
言い訳にもならない言葉を残し、退いていった。
ニヤは、
僕が来ると思っていなかったのだろう。
膝を抱えたまま、驚いた顔で僕を見上げていた。
「帰るよ」
腕を掴み、立たせようとする。
「離せよ!」
振りほどかれ、
思わず力を抜いたその瞬間、
僕の手がニヤの頬を打っていた。
見開かれた目。
かすれた声で、もう一度言う。
「……帰ろう」
噛みつくように睨まれ、
「ほかの女の匂いさせて、ニヤに近づくな!」
叫ぶと、
ニヤは再び雨の中へ走り出した。
伸ばした手は、
確かに彼女を掴んだはずなのに、
まるで力が入らない。
視界が歪み、
ニヤの小さな叫び声とともに、
僕の身体は雨に濡れたアスファルトへ崩れ落ちた。
次に意識が浮かび上がったとき、
僕は病院のベッドの上にいた。
消毒薬の匂い。
見慣れない天井。
「気がついたのかよ」
不機嫌な声。
頬にガーゼを貼ったニヤが、
いつものしかめっ面で立っていた。
布団の中から手を伸ばし、
そっと頬に触れる。
殴られると思ったのか、
ニヤは歯を食いしばった。
けれど、その目は真っ直ぐだった。
どんなときでも、
折れない。
退かない。
僕はその強さが、
ひどく羨ましかった。
……そして、
自分の弱さを思い知らされる。
「ごめんね。痛かったろ」
声は、驚くほど掠れていた。
「痛いに決まってんだろ。
容赦なく殴りやがって。児童虐待だぞ」
「……ごめん」
「ま、いいよ。
お前のニヤなんだろ。好きにしろ」
投げやりに言ってから、
小さく溜め息をつく。
「それより森川さんに謝っとけ。
夜中に呼び出して、散々迷惑かけたんだから」
そして、視線を伏せる。
「……お前、ただの風邪だってさ。
気づいてなかったのかよ。
無理して出かけるからだろ」
声の端が、少し揺れていた。
「森川さん、泣いてたぞ。
良かったって。
……あんまり心配かけんな」
そう言って、
ニヤは病室を出て行った。
「ニヤ」
呼び止める。
「……ありがとう」
振り返らずに、
小さく言う。
「ニヤは、何もしてねーよ」
その背中を、
僕は見送ることしかできなかった。
数日後、家に戻った僕は、
ようやく気づいた。
――僕は、
見えているつもりで、
何ひとつ見ていなかったのだ、と。




