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雨と香り(前)

まっすぐ目を合わせると、あいつはふわりと笑う。


綺麗すぎる。

腹が立つくらいに。


だから、先に目をそらす。

見てたいのに。

見たら、バレるから。


――欲しいって。

あいつのことを。


だから空を見る。

あいつの心を写したみたいな空の絵。

あれなら見ていられる。

あいつの目じゃなくて、紙の上なら。



「でも、あの絵はあげられないよ」


……違う。


欲しいのは絵じゃない。


そう思って睨んでも、返ってくるのは寂しそうな笑いだけ。

優しいふり。

わかってるふり。

全部、薄い。


あいつが欲しいのは、ニヤじゃない。

ニヤは、飾りみたいなもんだ。

置いとくのに都合がいいだけ。


だから演じる。


気ままな猫。

爪を立てて、平気な顔して、甘えたりしないふり。


「別に」って言える猫。

「いらねえ」って言える猫。


そうしないと、捨てられる。


欲しいって言ったら、重くなる。

重くなったら、捨てられる。


だから隠す。

噛みついて、そっぽを向いて、猫のまま。


――あいつに捨てられないために。



***

僕は一日の大半をアトリエで過ごす。


絵の具の匂いが落ち着く、という単純な理由もある。

けれど仕事として絵を描く以上、決められた時間は職場にいるのが相応しい――そういう妙な几帳面さを、僕はどこかで信じていた。


アトリエは長いあいだ、ひとりの空間だった。

両親はもちろん、森川さんや親しい間柄の人間であっても、決して入れなかった。

鍵を掛けて守っていたのだと思う。


それなのに、いつの間にかニヤはそこへ入り込み、

勝手に居場所を作ってしまった。


彼女は、絵が完成するまでの過程が面白いらしい。

無言で、ずっと筆先の動きを目で追っている。

その集中のしかたが妙に生き物めいていて、

猫じゃらしを目で追う猫みたいで――僕はたまらず可笑しくなる。


休日の昼下がり。

昼食を終えたニヤは、相変わらず僕の作業を眺めていたのだが、

満腹のせいか、すぐ小さな寝息を立てはじめた。


彼女の定位置は、黄色い革のラブソファだ。

お気に入りのブランケットと、枕代わりの大きなハリネズミのぬいぐるみ。

そこだけが、生活の匂いを持っている。


僕は手を止め、ニヤにそっとブランケットを掛けてやる。

艶のある黒髪をひと撫でして、

穏やかな寝顔を見下ろしながら、思う。


――こんな時間が、いつまでも続けばいいのに。



ニヤの誕生日を目前に控えた十月のはじめ。


駅前のパーキングに車を停め、駅構内の喫茶で矢野さんを待っていた。

プレゼントに散々悩んだ挙げ句、

結局ひとりでは決めきれず、僕は矢野さんに助けを求めたのだ。


前回の埋め合わせに食事をする約束をしていた矢野さんは、

すぐ快諾してくれた。

午前の講義が終わったら、そのまま買い物に付き合ってくれることになっている。


今回の誕生日は、どうしても喜ばせたかった。


単純にニヤの笑顔が見たい、ということもある。

けれどそれ以上に――前回の誕生日が苦いものだった。

できるなら、あれを塗り替えたかった。


あれは、ニヤを引き取って間もない十月の終わりのことだ。


いつも通り森川さんのところへ絵を納めに行った僕は、

運悪く、画廊の親会社の社長と、その知人たちに捕まってしまった。

僕のファンだという彼らの話は予想以上に長く、

接待という名目で、僕は連れ出されそうになっていた。


当時すでにニヤの存在を知っていた森川さんの機転で、

どうにかその場を抜け出せたものの、

帰って夕食を作るにはどう考えても遅い時間だった。


仕方なく、よく行くトラットリアへニヤを連れて出かけた。


十数人が座れる程度の小さな店で、

リストランテほど仰々しくはないにせよ、家庭的で大衆的な雰囲気の中にも

それなりの「よそ行き」の空気がある。

ニヤにとっては落ち着かない場所だったのだろう。

終始、居心地悪そうにしていた。


家から歩ける距離にあるその店は、

車の心配をせずにワインが飲める数少ない店で、僕のお気に入りだった。

――けれど、ニヤには合わなかった。


「ニヤも好きになってくれたら」

そんな浅い期待を抱いていた僕は、内心がっかりしながらも、

今さら別の店を探すには遅かった。


とりあえずニヤの好みそうなパスタと肉料理を頼み、

僕は適当なチーズとブルスケッタでワインを傾けた。


しばらく静かに食事をしていると、突然、店内の灯りが落ちた。


驚いて周りを見る。

聞き慣れたメロディーとともに、店の奥から

たくさんの蝋燭に彩られた特大のショートケーキが現れた。


僕らより先に来ていた家族連れ――小学生くらいの男の子の誕生日らしい。

オーナーが客たちに歌を促し、

店内はどこまでも幸せそうな空気に包まれていった。


僕はその微笑ましさに見とれてしまって、

ニヤが、その時どんな顔でそれを見ていたのか――まったく気づかなかった。


帰り道、ニヤがぽつりと呟いた。


「誕生日って、祝うもんなんだ」


その一言で、僕は今日あの店に連れて行ったことを死ぬほど後悔した。


慌てて誕生日を尋ね、僕は愕然とする。

その日は、ニヤが僕の家に来た日だった。


つまり――ニヤの母親がニヤを捨てた日。


寂しそうでも辛そうでもない顔が、

僕にはたまらなく悲しく見えた。


彼女にとって「誕生日を祝う」ということは、

驚きでこそあれ、自分自身とは切り離された出来事なのだ。


……だから、今年は。



このところ仕事はずっと立て込んでいた、様々な不慣れなイベントや仕事関係の取材、対談、それが終わればアトリエにこもる。



纏まって寝たのはいつが最後だったろう?


正直疲れはてていたけれど、それでもできるなら

ニヤの満面の笑みが見たかった。

無理にでも、楽しい一日にしてやりたかった


長閑な昼下がりの喫茶でそんなことを考えながらぼんやりしていると、


「お客様、コーヒーのお代わりはいかがですか?」


突然声を掛けられ、ぼっとする頭で「いえ、結構です」と答えながら顔を上げる。

するとそこに立っていたのは、悪戯が成功して嬉しそうな矢野さんだった。


「矢野さん……」


「ごめんね。お待たせしました」


申し訳なさそうに言う彼女に、「そんなに待ってないよ」とありきたりな返事をして、

「お茶は?」と尋ねる。


「ううん、いらない。それより早く行こ。

可愛い従姉妹ちゃんに、素敵なプレゼント見つけないと!」


張り切る矢野さんに、胸が少しだけ痛んだ。


僕はニヤのことを「預かっている親戚の子」だと説明していた。

社会的に見ても、僕らの関係は危うい。

矢野さんや森川さんなら余計な詮索はしないだろうが、

それでも――若い男と暮らす少女に好奇の目が向く状況は、できるだけ避けたかった。


……いや、違う。


僕はただ怖いのだ。

胸の内を覗かれるのが。

「それは間違っている」と言われるのが。


「どうしたの? 早く行こ」


にっこり笑う矢野さんに、僕も笑みを返す。

促されるまま、喫茶店をあとにした。



散々悩んで歩き回った末、

僕たちは偶然入ったアクセサリーショップで、ブルーオパールのブレスレットを見つけた。


シンプルなデザインで、手につけても煩わしくなさそうだった。

何より僕の目を引いたのは、青と白と黒が入り混じった半透明の石だった。


オパールとしては価値が低いらしい。

けれど――空みたいだ、と思った。

ニヤもきっと気に入ってくれる。

そういう根拠のない確信だけが、静かに残った。


予定より少し遅れて、僕たちは予約していたレストランに入った。


仕事の会食によく使うそこは、いわゆる高級店に分類されるが、

同種の店よりずっと簡素で、気取らない雰囲気がある。

僕はその空気が好きだった。


食事は終始、穏やかに進んだ。


心が落ち着く反面、ニヤがいないとどうにも物足りない。

ぼーっとする頭を必死に動かしながら、心の中で矢野さんに謝りながら、運ばれてくる料理を僕は口に運んでいた。


「早く、プレゼント渡したい?」


唐突に矢野さんが尋ねる。


驚いて顔を上げると、

彼女は笑いながら言った。


「玲くん、なんかそわそわしてるから」


「そんなに、そわそわしてるかな……」


自分ではよくわからないまま、とりあえず謝る。

矢野さんはそれを咎めるでもなく、ゆっくりと紅茶を飲んだ。



デザートを終え、プティフールをつまみながら、少しだけ長居をしたあと、

僕は矢野さんをマンションまで送った。


そのまま帰るつもりだった僕を、彼女はもう一度呼び止める。


時間も時間だし、一人暮らしの女性の家に上がり込むのは憚られた。

今回も丁寧に辞退しようとしたのだが、


「どうしても見せたいものがあるの」


その言葉と、一日付き合わせてしまった申し訳なさが背中を押して、

結局、少しだけ寄っていくことになった。



最上階の一番奥にある部屋は、リビングとキッチンの二部屋。

一人暮らしにはちょうどいい広さだった。


とても綺麗に片付けられた室内には、

観葉植物や人形、可愛らしい小物が女の子らしく飾られている。

殺風景な僕の家とは、どこまでも違う。


「あまり見ないほうがいいか」と思いながらも、

目が勝手に走る。


「いい部屋だね」


僕は簡潔に感想だけ述べ、玄関の対極にある窓際へ腰を下ろした。



「あんまり片付いてなくてごめんね」


僕より遅れてリビングに入ってきた矢野さんの手には、

カップを二つ載せた盆と、分厚い本があった。


「インスタントだけど」


言いながら僕の前にカップを置く。


「見せたいものって、それのこと?」


尋ねると、矢野さんは分厚い本を僕のカップの横に置いた。


見覚えのある校章。

そして「第59期生 卒業記念」の文字。


「卒業アルバム……」


思わず呟くと、矢野さんはにっこり頷いた。


高校を辞めた僕は、当然、卒業アルバムなど持っていない。

その存在すら、忘れていた。


「見ていい?」


「もちろん」


分厚い表紙を開き、ページをめくるたびに懐かしい顔が現れる。

僕が参加できなかった卒業フェスティバルの写真も挟まっていて、

その笑顔の列が、ひどく眩しい。


顔は綻ぶのに、胸の奥が少しだけ冷える。

知らないはずの景色なのに、どこかで「失った」と感じている。



「……寂しかった」


矢野さんが、呟くように言った。


独り言かと思って顔を上げると、

思ったよりずっと近い場所に彼女の顔があった。

茶色がかった瞳が、まっすぐ僕を捉えている。


「矢野さん……?」


「私ね……卒業式の日に玲くんに告白するつもりだったんだ。

それなのに玲くん、何も言わずに突然いなくなっちゃって……

連絡も取れなくて、すごく寂しかった」


真剣な眼差しで紡がれる言葉に、

僕は瞬きを忘れた。


当時、矢野さんとは親しくしていた。

けれど、彼女が僕にそんな感情を抱いていたなんて、少しも思わなかった。


「だから、この間玲くんに会ったとき、本当に信じられなくて。

また会えるなんて嘘みたいで……」


矢野さんは息を吸い、言い直すみたいに続ける。


「今から……今からでも大丈夫かな。

卒業式のやり直し」


言葉の意味を理解するのに、僕は数秒を要した。

そして、自分が告白されているのだと気づいたときには、

真剣な瞳がもう目の前にあった。


告白されるのは初めてではない。

けれど、これまでは大抵、よく知らない相手で、

「知らないから」という理由で断ることができた。


矢野さんは違う。

彼女と過ごす時間は穏やかで、居心地がいい。

人として、彼女は愛されるべき人だと僕は思う。

僕自身、矢野さんのことが好きだ。


いつも笑顔を絶やさないところも、

穏やかな物腰も、

ひたむきさも。


ただ――それは恋とは、少し違う場所にある。


答えはわかっている。

それでも、口にできない。


胸の奥に、許されない感情が沈んでいる。

それを「なかったこと」にするには、僕はまだ弱い。


けれど矢野さんの言葉は、僕を現実へ引き戻す。

僕が向き合うべきなのは、こちら側なのだと。


僕が恋をするべき相手は、

まだ子どもであるニヤではなく、

矢野さんのような、まっとうな大人の女性なのだ。


――潮時なのかもしれない。


心の中でそう呟いたとき、

外から、にわかに雨音が立ちはじめていた。


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