再開
綺麗だと思った。
青年も、その青年が描く絵も。
みすぼらしい自分とは、何もかもが違っていて――
追い払われないのをいいことに、日が落ちる直前まで、ニヤは彼の背後にいた。
青年と、空の絵を、ずっと見ていた。
差し出された、あたたかい手。
やわらかな目。
彼と一緒にいられるなら、何もいらない。
そう、思った。
彼が望むなら、何にでもなろう。
飼われることにすら、甘んじようと。
***
――長い夏休みが終わり、ひと月のあいだほとんど家にいなかった僕の生活も、
ようやく落ち着きを取り戻していた。
相変わらず画廊に顔を出す以外は、自宅のアトリエに引きこもる日々。
カレンダーを見やって、ふと気づく。
「来月はニヤの誕生日か」
十月の初め、ニヤは十四歳になる。
長く室内に籠もっていた僕は、外の空気を吸いたい衝動に駆られた。
誕生日プレゼントの下見がてら、珍しく街に出る。
繁華街の一角に、欧州風を意識した意匠のショッピングモールが広がっている。
休日ともなればカップルや家族連れで賑わう場所だが、平日の昼間とあって人影はまばらだった。
天気は生憎の曇り空。
ガラスに映る光は薄く、ショーウィンドウの中だけが妙に明るい。
いつもより人が少ないメインストリートを、僕はゆっくり歩いた。
視線は店の前を滑るのに、足はなぜか止まる。
いざ何か贈ろうと思うと、何も思いつかない。
ジーンズ好きのニヤには、これまで何本も贈っている。
身の回りのものは、暮らし始めてすぐに大方買い揃えてしまった。
アクセサリーや化粧品は僕にはよくわからない。
そもそもニヤは、そういった煩いものを嫌う。
枕代わりにハリネズミのぬいぐるみを抱いて眠るくせに、
ぬいぐるみが好き、というわけでもなさそうだ。
――結局、僕は彼女の輪郭を掴めないまま、贈り物だけを探している。
しばらく店先で立ち尽くしていると、
「玲君?」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、小柄な女性が一人立っていた。
淡い茶色の髪を軽くウェーブさせ、淡色のカーディガンにフレアスカート。
いかにも「女の子らしい」装いだ。
いつもジーンズにTシャツのニヤを思い浮かべ、
彼女もこんな格好をしたら可愛いのに――などと余計なことを考えていると、
「水瀬玲君……だよね?」
念を押すように、彼女が尋ねる。
「ええ……。失礼ですが、以前どこかで?」
「えっと、高校のとき同じクラスだった、矢野杏子。覚えて……ないかな?」
その名には聞き覚えがあった。
欠席がちだった僕に、よくノートやプリントを見せてくれていた女の子。
ただ、記憶の中の彼女は、眼鏡に黒髪を二つ結びにした、
どちらかといえば目立たない少女だったが。
「ちょっと待ってね」
考え込む僕に、彼女は鞄を探り、ペンケースのようなものを取り出した。
中にはフレームのない眼鏡が収まっている。
「ほら」
そう言って、目に掛ける。
「矢野さん!」
思わず声が出た。
矢野さんは、安心したように笑った。
「すっかり変わってしまって、分からなかったよ」
「あれから二年……三年くらい経ってるから、しょうがないよ。
でも眼鏡かけても分からなかったらどうしよう、って思っちゃった」
それから、少しだけ間を置く。
「……それにしても久しぶりだね。玲君、突然いなくなったから」
高校三年の夏、僕は高校を辞めた。
もともと欠席がちだったし、勉強自体は嫌いではなかったから、
知識だけなら後からどうにでもなるだろう、と勝手に思っていた。
なにより――早く、あの家を出たかった。
「色々あってね……矢野さんは?」
「私は一応大学生。今日はサボって買い物だけど」
にっこり笑う顔は、どこか以前のままだった。
僕もつられるように、口元が緩む。
僕たちは近くの落ち着いた喫茶店に入り、懐かしい話をした。
矢野さんとは三年間――僕が学校を辞めるまで同じクラスだった。
欠席がちだった僕は、いろいろと世話になっていた。
最初に言葉を交わしたのは、図書室だった気がする。
読もうと思った本を棚から抜こうとしたら、彼女の手に触れてしまって、
まるで古いドラマみたいな「お約束」がおかしくて、
静かな図書室で二人、声を殺して笑った。
「玲君、相変わらず忙しそうだね。そういえば、この間の対談読んだよ!
元気そうで安心したけど、なんか遠い世界の人になっちゃったみたい」
「対談……」
苦い記憶が蘇る。
結局、雑誌は手元に届いていないままだが――正直、今はあまり見たくなかった。
思い起こすほど、余計なことばかり喋った気がする。
「ああいうのは得意じゃないんだけど、
懇意にしてくださってる方からのお願いで……どうしても断れなかったんだ」
苦い笑みで言うと、矢野さんは大げさに首を振った。
「そんな! すごく格好よかったよ。
雑誌であんなふうに落ち着いて話せるなんて、私だったらもうしどろもどろで、
何話したらいいか分からなくなっちゃう!」
勢いよく言い切ってから、照れたように続ける。
「……まあ、私なんかに対談のお願いなんて来ないから、心配しなくていいんだけどね」
お茶を口に運ぶ仕草まで、どこか真っ直ぐだ。
「僕も実はしどろもどろで、何を話したか覚えてないんだけどね」
僕の告白に、矢野さんは「玲君でも?」と驚き、
それから嬉しそうにまた笑った。
普段、棘のある空気を纏うニヤと向き合うことが多いせいか、
この穏やかさに、僕の肩はいつの間にかほどけていた。
気づけば、いつもの夕飯の時間をすっかり回っている。
僕たちは慌てて会計を済ませ、外へ飛び出した。
時間も時間で、雨も降り出していたから、
僕は矢野さんを自宅まで車で送ることにした。
大学に通い始めてから一人暮らしを始めたという彼女は、
僕の家からそう離れていない、学生向けのマンションに住んでいた。
「せっかくだから、部屋寄っていかない?」
そう言ってくれた申し出を丁寧に断り、
後日あらためて食事をする約束だけを交わして、
僕は少し遅い帰路についたのだった。




