画家の才能
花言葉は「偽り・欺瞞」。
薄い皮が光を受け、赤く透ける。
中身は空洞のまま、灯の形だけが残る。
鬼灯は、そういう嘘を上手に身にまとう。
数日も経たぬうちに、ニヤの機嫌は戻っていた。
結局――あの日、彼女が何に対して怒っていたのか、僕にはわからぬままだった。
新しい絵を納めるため、その日僕は朝から画廊へ向かった。
画廊の管理をしてくれているのは森川さんという、僕より五つほど年上の女性だ。
黒い艶のある短髪にパンツスーツ。
いかにもキャリアウーマン然としているのに、笑うと少女のように無邪気で、
その落差が人を安心させる。
美人で、仕事ができて、客受けがいい。
それでも僕にとっては、肩書きより先に――数少ない「味方」だ。
ニヤを拾った当時も、親戚の子という名目ではあったが、最初に相談したのは森川さんだった。
画廊に絵を預け始めた頃は、両親の下品な勘ぐりのせいで彼女にも随分嫌な思いをさせた。
それでも森川さんは、僕を切り捨てなかった。
「先生、そろそろ個展でも開かない?」
お茶を差し出され、僕が湯気の向こうに目を落とすと、
森川さんはいつもの調子で言う。
「個展……ですか」
「玲くんが興味ないのは知ってる。でも、うちの社長も楽しみにしてるし。ね?」
「ええ……ですが、この間画集を出したばかりですし。僕としては、もうしばらく作品を仕上げる時間をいただければと」
言葉を選ぶ僕に、森川さんはわざとらしくため息を落とし、
「今日も口説き損ねたわ」
と、悪戯っぽく笑った。
「すみません」
「この間、雑誌の取材受けてくれたから許してあげる」
さらりと微笑む。
それは、薄い膜みたいに場を丸くする笑い方だった。
――雑誌。
しばらく前に受けた取材のことを、僕はすっかり失念していた。
絵とはほとんど関係のないファッション雑誌か何かで、
森川さんに頼み込まれ、渋々引き受けたものだった。
出版社の人は出来上がったら自宅へ送ると言ってくれていたが、
いまだ僕の手元には届いていない。
もっとも、女優との対談など大して面白いとも思えないし、見たいとも思わない。
――紙の上に刷られた僕。
そこにいるのはきっと、僕ではない。
カップの底のぬるいお茶を飲み干し、帰ろうとした僕に、
「そうだ」
森川さんが思い出したように声を上げた。
「あの対談で話してた“大切な女性”って、だれ?」
玩具を見つけた子どもみたいに、目を輝かせて言う。
対談のことすら曖昧な僕が、すんなり思い出せるはずもなく、
「そんな話をしただろうか」と首を傾げる。
森川さんはそれを見て、口を尖らせた。
「なーんだ。リップサービスか」
「すみません。よく覚えていなくて」
ニヤが待っているので。
そう言って僕は、画廊をあとにした。
――偽り、欺瞞。
胸の奥で、花言葉がもう一度、かすれた音を立てる。
車を走らせながら、僕は先ほどの言葉を反芻していた。
機械的な涼しさが好きではない僕は、ニヤがいない限り、あまり冷房を入れない。
少しだけ開けた窓から、夏の昼の湿った風と蝉の声が流れ込んでくる。
音だけが、粘ついてまとわりつく。
――今日は中学の登校日だと言っていたっけ。
繁華街にちらほら制服姿が見えて、今朝のニヤの話を思い出す。
そして遅れて、対談の内容が浮かび上がる。
「今、大切にしているものは何ですか?」
そう訊かれて、本来なら絵に関わる道具の名でも挙げるべきなのに、
物への執着の薄い僕は、つい余計なことを言った。
「大切なものは特にないですが、大切な人ならいますよ」
余計だ。
余計すぎる。
森川さんの中では勝手に“大切な女性”へ変換されていたが、
雑誌を読んだ大半の人も、同じように受け取るだろう。
紙は、勝手に「それらしい形」を与えるのが上手い。
そう思うほどに、言わなければよかったという後悔が増す。
会話が得意ではない僕は、
さらりと流せばいい話題に、馬鹿正直に答えてしまうことがある。
今回はその最たるものだ。
聞かれてもいないものを、こちらから差し出している。
赤信号でブレーキを踏み、小さく息を吐く。
――その耳に、聞き慣れた声が混じった。
目をやると、制服姿の女の子が五人ほど固まって歩いている。
楽しげに話す輪の中に、長い黒髪を揺らし、スカートを翻すニヤがいた。
思わず車を路肩に寄せて停める。
どうしようかと逡巡した末、
せっかくだ、昼食でも外で――と自分に言い訳を作り、車を降りた。
集団の中の一人が僕に気づき、僕の顔を見る。
それから周りの子へ何事か告げると、途端にざわめきが広がった。
不思議に思いながらも近づいて、ひとまず、
「こんにちは」
と挨拶する。
一気に静かになる。
見ず知らずの大人に声をかけられれば警戒もするだろう――そう思い、
僕は気にせず、ニヤの保護者であることを伝えた。
女の子たちの視線が、一点へ集まる。
そこにあるのはもちろん、ニヤの顔だ。
ニヤは笑っていた。
けれど、その笑顔は薄い。
薄皮だけが上手に貼り付いて、中身の温度が見えない。
――偽り。欺瞞。
花言葉が、今度ははっきりと胸を擦った。
友達と一緒のところへ割り込んだのは拙かったかもしれない。
そう思うより早く、ニヤは僕の腕を掴み、強引に車のほうへ引っ張っていった。
そのまま僕を運転席へ押し込む。
彼女は友達の元へ戻るのだろうと思ったのに、
なぜか助手席へ乗り込んでくる。
降りるものだと決めつけていた僕は、しばし呆けた。
「早く出せよ!」
ニヤが睨みつけ、鋭く言い放つ。
促されるままアクセルを踏み、僕は助手席をちらりと見た。
「友達、良かったのかい。置いてきて」
当然のように返事はない。
「……昼、どうする? 外で食べようと思ってたんだけど」
ため息混じりに訊ね直すと、ニヤは短く言った。
「暑い。冷房。焼き肉」
それ以上話しかけるな、とでも言うように窓へ顔を向ける。
僕はもう一度、小さく息を吐き、
冷房を入れて飲食街へハンドルを切った。
昼食のあいだ、ニヤの機嫌の悪さは半端ではなかった。
普段は小食で、あまり食べない彼女が、今日は違う。
肉や料理を次々頼み、黙って平らげていく。
止める僕の声など、まるで届かない。
やけ食い――その言葉が、あまりにぴたりと嵌まる。
猫というより虎だ。
空腹ではなく、別の何かを噛み砕いているように見えた。
噛み砕いた先に、何が残るのだろうと考えてしまう。
帰宅してから、僕は仕事部屋で販売用の絵を描き始めた。
傍らのソファでは、ニヤが眠っている。
せっかく戻ったはずの機嫌がまた落ち、
それに比例するように僕の心も沈んでいく。
寝息があるのに落ち着かない。
目を覚ましたときの表情――そればかりが気になって、
心だけがずっと別の場所に囚われている。
それでも、手は止まらない。
絵は滞りなく進む。
大したものだと思う。
もちろん自画自賛ではない。
自分へ向けた皮肉だ。
僕の心がどれほど濁っていようと、
“売れる絵”は澄ました顔で出来上がっていく。
薄い膜が、きれいな形だけを保つみたいに。
――『母親になる才能がないの。貴方も気持ちはわかるでしょ? 画家さん?』
不意に、ニヤの母親の言葉が蘇る。
彼女はきっと、僕の絵を見たことがある。
そして気づいているのだ。
僕には“売れる絵”を描く才能があっても、
“画家として生きる才能”がないということに。
僕は商業的に成功する絵を描いているに過ぎない。
そこに感情も、愛も、ほとんど置いていない。
――つまり。
ニヤの母親が、ニヤに対して抱いていたものと同じだ。
彼女は女で、子どもを産めた。
だから産んだ。ただそれだけ。
僕は画家で、絵を描ける。
だから描く。ただそれだけ。
気分が沈もうが、感情が不安定だろうが、
僕の心から切り離された場所にあるこの「描く」という作業には、何の影響もない。
僕はただ機械的に、売れる絵を吐き出しているに過ぎない。
生活のために。
紙の上に、綺麗な嘘を刷るために。
「何、泣いてんの?」
背後から声が落ちた。
驚いて振り返ると、眠っているとばかり思っていたニヤが、
いつの間にか僕の後ろに立っていた。
相変わらず不機嫌そうな顔のまま、
背を向けて座る僕へ、後ろから腕を回す。
「泣いてる? 僕が」
「違うなら、いいよ」
肩に触れたニヤの額から、わずかな温もりが伝わってくる。
薄皮ではない、確かな熱。
本当なら、正面から抱きしめたかった。
けれど自分を制御できなくなるのが怖くて、
僕は衝動を噛み殺し、ただキャンバスに色を重ねる。
「ニヤ、その絵好きだよ」
描きかけを眺めていたニヤが、不意に言った。
「君もか」
言いかけて、僕は口を噤む。
ニヤの視線は、描きかけの絵から離れて正面へ向いている。
その先には、立てかけられたたくさんの空がある。
誰にも見せない空。
誰にも売らない空。
「あっちのほうが良いけど」
ニヤは、ほんのわずか笑みをこぼした。
それから僕の頬へ自分の頬を軽く擦りつけ、
何も言わず部屋を出ていった。
薄皮みたいな笑顔ではない、ほんの短い、確かな歪み。
それが残った場所だけが、少しだけ明るかった。




