不機嫌な猫
原産地は東南アジア・南欧・アメリカ大陸など、温帯に自生。
主に観賞用、あるいは食用として栽培される。
旅先から何度か電話をかけたが、ニヤが出ることはついになかった。
森川さんから連絡がない――それはつまり、何事も起きていないということなのだろう。
僕は勝手にそう納得し、予定通り一週間を過ごして帰路についた。
ニヤとの生活から逃げ出した僕は、今度はニヤのいない生活に耐えられなくなって家へ戻る。
我ながら、どこまでも情けない。
機嫌取りのつもりで、道すがらアイスをいくつか買い込んだ。
溶けないように、溶けてしまわないように――そんな気持ちで、レジ袋を握る手に力が入る。
今日は外食でもしよう。
彼女の好きな焼き肉にでも連れていけば、少しは――僕の帰りを喜んでくれるだろうか。
自宅のマンションに着いたのは、夕暮れを少し回ったころだった。
玄関を開けると、室内は暗い。
電気のついていない気配に、一瞬どこかへ出かけたのかと思った。
けれど、無造作に脱ぎ捨てられたニヤのお気に入りのスニーカーが玄関に転がっているのを見て、息が詰まる。
――いる。
リビングを覗き、キッチンへ回る。
買ってきたアイスを冷凍庫へ押し込み、ニヤの部屋へ向かうが気配はない。
仕事部屋にもいない。
やはり出かけているのか、と落胆しかけた僕は、
着替えようと自室へ入ったところで、その姿を見つけた。
昼間でも薄暗い僕の部屋。
夕日が落ちた今は外の灯りすら入り込まず、闇が溜まっている。
その暗がりの中で、ニヤは両膝を抱えて座っていた。
「……ただいま」
いるとは思っていなかった。
胸の内で大きく波が立つのを押し込み、極力穏やかな声を作る。
小さな僕の猫が逃げてしまうのが怖かった。
ニヤは顔を上げ、僕が点けた明かりを眩しそうに細めながら、
至極不機嫌そうに僕を睨みつける。
足元にはスナック菓子の袋が散乱し、牛乳のパックが二本ほど転がっていた。
「……こんな所で、何してたの?」
僕の問いに答えず、ニヤはすっと立ち上がり、僕の脇をすり抜けてリビングへ消えようとした。
反射的に腕を掴む。
けれど、かける言葉が見つからない。
僕はただ黙って、ニヤの顔を見つめていた。
「お前、どこ行ってたんだよ」
唐突に投げられたその言葉に、僕は混乱した。
どこ、と言われても――明確に答えられる種類の「どこ」ではない。
「……いつも通りだよ。山間の街で三日ほど泊まって、それから海に出て……そこで描いてた」
「一人で?」
意図がわからず、言葉が詰まる。
僕が誰かを伴って出かけることなど、ほとんどない。
この旅は僕が絵を描く時間だ。誰にも邪魔されたくない。
ニヤがなぜそんなことを聞くのかもわからない。
何より――彼女が怒る理由が、僕には見当たらなかった。
こうして家を空けるのはいつものことだ。
嫌味を言われることはあっても、怒りをぶつけられたことはなかった。
「ああ、一人だよ。君も知ってるだろ。僕がこの旅を邪魔されたくないことは」
「邪魔して悪かったな」
ニヤが目をすっと細め、僕を睨む。
たぶん一年前――海辺の町で出会った、あの時のことを言っているのだろう。
僕が予定を切り上げて帰ったことを、以前うっかり口にしてしまったことがあった。
「どうせ……ニヤは邪魔だよ……」
叫ぶように言うと、彼女は掴まれていた腕に爪を立て、
乱暴に引き剥がして部屋を出ていった。
激しいドアの音。
自室へ飛び込んだのだとわかる。
外へ出ていない――そのことに、僕はほんの少しだけ安堵して、
食べ散らかされた袋もそのままにベッドへ横たわった。
ニヤに引っかかれた傷が、つきりと痛む。
光に翳すと、皮膚が少し鬱血し、赤く滲んでいた。
しばらくぼんやりしてから、僕はのろのろと片付けを始めた。
普段、ニヤがあまり興味を示さないファッション雑誌が、
くたびれた様子で床に転がっている。
友達から借りたのだろうか。
夕食の時にでも返そうと、僕はそれを手に取ってリビングへ向かった。
けれど、その日――ニヤが部屋から出てくることは、結局なかった。




