母親の才能
茄子科の多年草。
カガチ、ヌカヅキとも呼ばれる。
薄い皮に灯を孕んだふりをして、内側は空洞だ。
鬼灯はいつだって、からっぽのまま赤く透ける。
「何、ぼんやりしてんだよ」
愛猫の不機嫌な声に、僕は現実へ引き戻された。
「なんでもないよ」
そう応えて笑ってみせると、ニヤはますます眉間に皺を寄せ、ぷいとそっぽを向く。
僕の可愛い猫は、僕の前ではあまり笑ってくれない。
「明日から、しばらく留守にする。アイスとドリア、冷凍庫に入ってる。君、好きだろ」
「“しばらく”ってどのくらいだよ。相変わらず責任感のかけらもない飼い主だな」
ふてぶてしく言い放つニヤに、僕はおどけた顔を作ってみせる。
それから彼女の身体を抱え、膝からいったん立たせた。
「まあ、そういうこと。いい子で留守番してて」
空になったドリアの皿を取り上げ、僕はキッチンへ逃げる。
僕に向けられることのない――真っ黒で、透き通った瞳。
その中に、僕が映らないことに耐えられなくなる時がある。
二十になった僕は、十三の幼い少女に恋をしてしまっていた。
それが罪だということくらい、わかっている。僕に向けられることのない、真っ黒で透き通った瞳。
その中に自分が映らないことに、耐えられなくなる時がある。
だから僕は逃げる。
踏み越えてしまう前に。
彼女の意思を、僕の都合でねじ曲げてしまわぬように。
夏休みのあいだじゅう、ニヤを見つづけることは僕にとって過酷だった。
近さが、距離になる。
触れられるほど目の前にいるのに、視線はいつも僕の背後をすり抜けていく。
――手を伸ばせば、彼女は僕を見るだろうか。
終わらせてしまえば、僕の輪郭を瞳に刻むだろうか。
黒い衝動が思考を濁らせる。
けれど答えは最初から決まっている。
だめだ。
そんなことをすれば、あの美しい黒猫は僕のもとから逃げ出すだろう。
残るのは、奪った手触りと、空っぽの部屋だけだ。
踏みとどまっているのは、なけなしの自尊心のせいだ。
飼い猫に「行かないでくれ」と泣きすがる哀れな飼い主にはなりたくない。
ただ、それだけ。
翌朝。
ニヤがまだ自室から出てこない、早い時間に僕は家を出た。
未練がましく起きてくるのを待ったところで、
彼女が僕を引き留めることはない。
僕を視界に入れてくれるかどうかさえ、怪しい。
それなら、起き出す前に消えるほうが幾分ましだと思った。
しばらく車を走らせ、僕はマンションからそう遠くない山中に車を停めた。
ニヤを飼い始めてから、前ほど遠方へは足を延ばさなくなっていた。
留守中の世話は、僕の絵を置いてくれている画廊を管理する森川という女性に頼んである。
何かあればすぐ連絡が来る。
短時間で戻れる距離となると、結局、行き先はいつも似た近場に限られる。
淀みはじめた空を見上げ、峠の休憩所のベンチに腰を下ろす。
画用紙に灰色を置いていく。
余計な手は加えない。
写真のように、ただ、ありのままを写す。
写すたび、空はますます空っぽに見えた。
――『あなた、この子いらない?』
整った、少し高い声。
僕はまた、あの日のことへ引き戻される。
「あなたさえ良ければ、この子あげるわよ」
ニヤを送り届けた高級マンション。
玄関先で、まだずいぶん若いニヤの母親が放った言葉は、僕の想像を軽々と越えてきた。
ニヤの格好から、古びたアパートを勝手に思い描いていた僕は、
彼女が“自宅”だと言った建物の前で、インターフォンを押す手を迷わせていた。
そうして逡巡していた、その時だった。
外出しようとしていた母親と鉢合わせたのは。
男物のおさがりを、くたびれるまで着回していたニヤの身なりとは対照的に、
母親はドレスのようなブランド物のワンピースを纏っていた。
香水の匂いまで、場違いに澄んでいる。
すらりと伸びた背。
整いすぎた顔立ち。
見た目だけなら二十代半ば――
(いったい、いくつで産んだのだろう)
そんなことを考えていた僕へ、彼女は意外にもにこにこと話しかけてきた。
人当たりが良い。
それが最初の印象だった。
僕が帰り道に買った、ニヤの新しい服を見て、
母親は一瞬だけ「良かったわね」と微笑んだ。
けれどその笑みはひどく他人行儀で、視線はすぐ僕へ移る。
確かめるように僕をしばらく眺め、
それから、唐突に投げてきた。
「あなた、この子いらない?」
意味がわからず、僕は間の抜けた顔を晒していたと思う。
「あなたさえ良ければ、だけど。いらなければ、その辺に置いていってもらって構わないわ」
彼女は続けた。
僕の驚きなど、最初から数に入れていない口ぶりで。
「……どういうことですか」
常識の外側の言葉を咀嚼するのに、時間が要った。
やっと吐き出した僕の問いに、彼女は肩をすくめる。
「そのままの意味よ」
思わずニヤを見る。
ニヤは、隣の猫から名をもらったのだと言った時と似た表情で、
買ったばかりの靴を黙って眺めていた。
まるで、自分のことではないみたいに。
僕の視線に気づいた母親は、切なげに息を落とす。
「酷い母親よ。でも、だめなの。私には母親になる才能がなかったみたい」
「ニヤを産んですぐに気づいたの。私は母親になれないって」
「でも勘違いしないで。私はこの子の不幸を望んでるわけじゃないのよ。ただ、才能がないの」
淡々と並べられる言葉。
僕が何か言おうとした、その瞬間。
「あなたも、気持ちはわかるでしょ? 画家さん」
見透かすように、彼女は言った。
僕の内側を抉るようなその一言に、喉が固まる。
両親を捨てた僕も、同じ穴の狢だから。
「母親になりたくないわけじゃないの。カウンセリングもしたし、努力もしなかったわけじゃない」
「でも、だめだった」
だから、と彼女は言う。
ニヤは“ちゃんとした人”に預けたほうがいい、と。
身勝手だ。
そう断じたかった。
けれど結局、僕は何も言えなかった。
ニヤが生まれたことは、もう取り消せない。
今さら“なかったこと”にもできない。
それでも彼女は、これから先、母親として愛せないのだろう。
彼女の言葉を遮って、僕はニヤを引ったくるように抱え、
気がつけば自分の車に乗せていた。
マンションを離れてからも、ニヤは表情を変えず助手席で外を見ていた。
窓の向こうの景色が流れていく。
彼女の目の奥だけが、動かない。
少し休憩しようと小さな公園の脇に車を停め、
僕はジュースを二本買った。
一本をニヤへ渡す。
「迷惑だったら、この公園に捨ててけよ」
ようやく口を開いたニヤは、
ゴミを捨てることを勧めるみたいな素っ気なさで、そう言った。
「捨てないよ」
シートを倒し、甘ったるいジュースを口に含みながら答えると、
ニヤは少しだけ意外そうな顔をした。
「猫は好きなんだ」
僕は言った。
それだけでは足りなくて、続ける。
「でも、猫アレルギーでね」
不意に出た言葉の意味が掴めないのか、
ニヤは怪訝そうな顔をする。
けれど僕は構わず言葉を選び直すみたいに、ゆっくりつづけた。
「だから……君みたいな猫を飼うのも、悪くない」
そう言って笑った僕の顔を、ニヤは真剣に見つめていた。
本当は、もっとちゃんとした言葉をかけたかった。
“君は捨てられるべきじゃない”とか、
“君はここにいていい”とか、
そういう、まっとうな言葉を。
けれど言葉は見つからなかった。
やっと出た、幼い告白みたいな台詞に――
ニヤは笑っていた。
最初で最後かもしれない。
あんなふうに、ニヤが僕を“見た”のは。




