優しいヒト、その傲慢な想い3
『ニヤちゃんが、いなくなったの』
その日、森川さんからの電話に、僕は言葉を失った。
「大至急、画廊まで来て」
そう言われ、僕は混乱したまま車を走らせていた。
なぜ?
どうして?
ニヤは、先方の家で幸せに暮らしている。
そう聞いていた。
学校にも通い、健康状態も良好だと――。
奇しくもクリスマス・イブのその日、
車外では雪が、にわかに降り始めていた。
画廊に着き、転がり込むように店内に入ると、
「早かったわね」と森川さんが言った。
「……ニヤは?」
息を荒くして尋ねる僕に、
森川さんは「とにかく落ち着いて」と言い、
奥の応接室へ通した。
「はい、どうぞ」
お茶が出された。
けれど僕は眉をしかめ、脇へ押しやった。
のんびりお茶など飲んでいる場合か、と、
森川さんを睨みつける。
ニヤは昨夜から急に姿を消し、
方々探しても見つからず、
仕方なく僕に連絡したのだという。
「行き先に心当たりは?」
僕が問うと、
森川さんは言外に責めを滲ませて返した。
「むしろ、私たちの方が聞きたいわ。
玲君は一年間も彼女と暮らしたのよ?
行きそうな場所くらい、わかるでしょう」
僕は何も言い返せなかった。
沈黙が長く伸びる。
その沈黙の中で、
先日までいた海辺の街が、ふっと浮かぶ。
まさか――また歩いて、あそこまで?
「玲君がニヤちゃんに初めて会った街には、いないわよ」
はっと顔を上げた僕に、
森川さんは見透かしたように言った。
「……いない?」
奇妙な言い回しに森川さんを見ると、
彼女は深く溜め息をついた。
「ねえ。
ニヤちゃんの“行きたい場所”、本当に分からないの?」
呆れたような目。
僕は、また沈黙した。
「玲君、私ね。
ずっとあなたを見てきたわ。
いつだってあなたは、自分を押し殺して生きてきた」
――ニヤちゃんはどこへ行ったの?
本当は分かっているんでしょう?
そう言われても、僕には……。
「本当に分からない?
ニヤちゃんが傷ついた時、困った時、寂しい時、
誰に助けを求めたのか。
どこで笑って、どこで幸せそうだったのか」
その問いに、僕は必死に考えた。
ニヤの居場所。
ニヤが好きだった場所。
いつもいた場所。
――僕は立ち上がった。
そして応接室を飛び出した。
クリスマスに彩られた街を、僕は全力で走った。
裏道を抜ければ、車より早い。
一刻も早く、ニヤに会いたかった。
ちゃんと見てあげると決めたのに、
また僕は、彼女の気持ちを踏みにじった。
ニヤは、いつだって僕の傍にいた。
いつだって、僕を愛していた。
僕は気づいていたのだ。
だからこそ、今さら“親の愛情”を与えようとした。
怯えていた。
ニヤに愛されることに。
ニヤを愛することに。
彼女が初めて本音を吐き出したときも、
僕は「大切なニヤ」と言ってはぐらかし、
それ以上の言葉を言わなかった。
年齢の問題もある。
倫理という名の柵もある。
けれど、それだけではない。
森川さんは、僕がいつも他者を優先してきたと言う。
でもそれは表面だけの話だ。
僕はどこまでも自分を優先し、
卑怯なほどに保身に走っていた。
ニヤの愛情が怖くて、
離れることも怖くて、
結局、傷つけて自分を守った。
もし――もしも僕の思う場所に、ニヤがいるなら。
今度こそ言おう。
心臓が壊れそうなほど早かった。
緩やかな坂を登り切り、
僕は僕たちが暮らしたマンションの前に立つ。
膝に手をつき、息を整える。
冷たい空気が肺に入り込み、
むせ返りそうになるのを、必死に抑える。
顔を上げる。
導入路の向こう。
玄関の前に、うずくまる小さな影。
「ニヤ!」
叫ぶように名を呼んだ。
ニヤが顔を上げる。
泣き腫らした目が痛々しくて、
僕はゆっくり近づいた。
しゃがみ込み、顔を覗き込む。
黒曜石みたいな瞳から、
ぽろぽろと滴が落ちる。
拭ってやりたい衝動をこらえ、
僕は言った。
「君に言いたいことがあるんだ」
もう遅いと言われるかもしれない。
今さらだと笑われるかもしれない。
それでも言う。
後ろ指を指されても構わない。
異常だと罵られても構わない。
ニヤは真剣に僕を見ていた。
僕も、その目から逃げずに、小さく息を吸う。
「ニヤ、僕は――」
言葉を開いた瞬間、
ニヤが涙に濡れたまま、ぎこちなく笑った。
あまりに綺麗で、
あまりに痛い笑顔だった。
僕はもうどうしようもなくなって、
ただニヤを抱きしめた。
何を恐れていたのだろう。
何に怯えていたのだろう。
こんなにもあたたかく、
こんなにも近くに、彼女はいたのに。
細い手が背中に回り、
僕たちは雪の中で、しばらく動けなかった。
やがて、僕は小さく言った。
「ニヤ、僕は君が好きだ」
ニヤが顔を上げ、
もう一度、花が咲くみたいに笑う。
けれどその笑顔も、すぐ泣き顔に崩れた。
「……嬉しすぎて、逆に笑えねー」
しゃくり上げる声に、僕は思わず吹き出した。
「大好きなんだ。
僕の傍にいてくれないだろうか」
確かめるように言うと、
ニヤはこくりと頷いた。
雪は不思議とあたたかく見えて、
僕はしばらく、世界が静かになった気がした。
ニヤが落ち着くのを待って、僕は携帯を取り出した。
僕には、まだやるべきことが残っている。
里親の手続き。
それを解かなければならない。
僕は簡潔に「ニヤを見つけた」と森川さんに告げ、
ニヤの手を引いて画廊へ向かった。
赤く腫れた目、繋いだ手、真剣な顔。
森川さんはそれを見て、安心したように笑った。
応接室で、僕は深く頭を下げた。
「森川さん……
今回の件で関わった方々に、多大な迷惑をかけました。
本当に申し訳ありません」
ニヤも、僕に倣って頭を下げる。
「そうね。本当に困った事態よ。
先方になんて言い訳すれば……」
森川さんの困り果てた声に、
僕は返事すらできなかった。
誠心誠意、頭を下げるしかない。
それ以外、何も思い浮かばない。
「本当に申し訳ありません。
ただ僕はもう、ニヤを手放す気は――」
「あら、玲君。
ニヤちゃんを手放す気だったの?」
森川さんが素っ頓狂な声を上げる。
「里親の法的手続きが……」と言いかけた僕に、
森川さんは心底分からない様子で首を傾げた。
「……里親?」
「いや、だから……
ニヤの里親を探すのを森川さんに――」
言葉の途中で、僕は飲み込んだ。
悪戯が成功したときの、あの笑い方。
……全部、分かった。
森川さんは困った顔を作ってから、にっこり笑った。
「私が言ってるのは、欧州にアトリエを移す件よ?
何、里親って。
断るのよね?もうほとんど受けてしまったようなものだし
先方に何て言い訳すればいいのか……それよりも」
森川さんは、肩をすくめる。
「いいわね。
クリスマス・イブに、ようやく分かり合えた恋人同士。
その巡り合わせたキューピッドには、
素敵なクリスマスが訪れそうな気がするわ」
僕はニヤと顔を見合わせ、
思わず笑ってしまった。
僕は森川さんに、もう一度深く深く頭を下げた。
外へ出ると、街は赤と緑、そして一面の白。
「な、ツリー飾ろうぜ」
「ターキーも焼こうか。あまり美味しくはないけれど、
クリスマスらしくていいと思わないかい?」
「七面鳥、食ってみてー。シャンパンも買わなくちゃな」
「そうだね。それにワインも。
うんと上等なやつを」
「ニヤも飲んでいい?」
「君はだめ」
「一口くらいいいじゃん。ケチくせーなー」
拗ねる声が可笑しくて、
僕は笑った。
手を繋ぎ、夕暮れの街を歩く。
風は冷たいのに、
温め合う必要がない。
体温が届けば、それで十分だと、
僕はそのとき初めて知った。
彼女の温もりが、
僕を現実につなぎとめるのだと。




