優しいヒト、その傲慢な想い1
たくさんの優しさを、ありがとう
たくさんの笑顔を、ありがとう
たくさんの温もりを、ありがとう
あなたがくれた優しさも、笑顔も、温もりも、
私は決して忘れません。
たとえそれが偽りでも
たとえそれが同情でも
それらをくれたことに、
それらで身を包んでくれたあなたに、
心から、ありがとうと伝えたい。
最後のわがままを許してくれるなら――
嘘でいいから、言ってください。
「傍にいて」と。
嘘でいいから、言ってください。
「大好きだった」と。
……それが駄目なら、せめて名前を呼んでください。
いつもみたいに微笑んで、
ただ一言、名前を呼んでください。
***
森川さんがニヤを伴って家に来たのは、随分と遅い時間だった。
険しい表情の森川さんとは対照的に、ニヤは終始、穏やかな笑顔を浮かべていた。
その笑顔が、ひどく胸に引っかかった。
森川さんは簡潔に告げた。
ニヤの里親が見つかったこと。
すぐにでも法的な手続きを進められる準備が整っていること。
ニヤに「里親を探してほしい」と頼まれた日から、
決まるまでの時間は、驚くほど短かった。
本来なら、僕が果たすべき役目だった。
けれど僕は、そのすべてを森川さんに委ねた。
人脈も、経験も、判断力も、彼女の方がずっと適任だと――
そう、自分に言い聞かせた。
いや、違う。
今回も僕は、自分の心の弱さから逃げただけなのだ。
「構わないかしら?」
森川さんの問いに、
僕はニヤの方を見て、ただ答えた。
「……ニヤが、そう望むなら」
明日には、ニヤは一度施設に入ってかは、里親の元へ行く。
今夜が、ニヤと過ごせる最後の夜なのだと、
森川さんはそう言った。
森川さんが帰ったあと、
僕たちは並んでリビングの窓際に座った。
どちらも、一言も発さなかった。
言葉を交わすことが、罪であるかのような静けさが流れていた。
「なあ」
沈黙を破ったのは、ニヤだった。
「……なんだい?」
「ありがとな」
短い言葉だった。
「どういたしまして」
そう答えて、僕は空を見上げた。
消えそうなほど細い、弓なりの月が、
まるで笑っているように頭上にあった。
僕らはそのまま朝まで過ごし、
驚くほど穏やかに、別れた。
ニヤのいなくなった家は、
家具も何も減っていないのに、
まるでがらん堂のようだった。
初めて、この家の広さに驚き、
そして、思わず笑ってしまった。
僕は、両親を捨てた。
――そう、思っていた。
けれど違う。
捨てたのではない。
落としたのだ。
ニヤを失って、初めてそのことに気づいた。
人は自分を正当化するために、
「捨てた」と言う。
けれど本当は、持ちきれなくなり、
その重みに耐えられず、落としているだけだ。
塞がった両手では、拾い直すこともできず、
それを「捨てたのだ」と言い張る。
なんと滑稽で、
なんと哀れなことだろう。
主を失った窓際の定位置で、
僕はいつものようにワインを傾けた。
「……もう、ここを引き払おうか」
かすかに、彼女の香りが残っている気がして、
その場所で、ひとり呟いた。
***
ニヤと別れて、数日が過ぎた。
依頼された絵には、どうしても手がつかず、
気がつけば僕は、ニヤと出会ったあの海辺の街に立っていた。
穏やかな青空の下、画用紙を広げても、
何も描けなかった。
十二月の風は、思いのほか温かく、
いっそもっと冷たければいいのに、と考える。
そうすれば、身体も心も凍りついて、
何も感じずに済んだだろうに。
――あの日。
ニヤは、どんな思いでここまで来たのだろう。
何日もほとんど食べず、
靴底が擦り切れるまで歩き続けたニヤ。
母親のことを、彼女は淡々と語っていた。
「愛される」という感覚がわからないのだと。
母親は、ニヤを殴ったことも、
露骨に邪険にしたこともなかったという。
欲しいものは買い与え、
金銭的に困ることもなかったらしい。
それでも、なぜ――
あのときのニヤは、
あれほど痩せて、
あれほど擦り切れた服を着ていたのだろう。
ニヤは、物を欲しがらなかった。
食べ物にも、執着しなかった。
では、彼女は何を求めて、
ここまで歩いてきたのか。
海岸沿いを進むと、
かつて海賊が船を隠したという洞穴がある。
その上には、ひどく高い崖がそびえていた。
僕は、その崖を望む遊歩道の脇に腰を下ろした。
傍らには石碑があり、
許されぬ恋に落ちた兄妹が、
口紅で辞世の句を残し、
ここから身を投げたのだと記されている。
彼らは、幸せだったのだろうか。
その紅の遺言を見つけた両親は、
ここで、何を思ったのだろうか。
そして、ニヤは――
ひとりでここに来て、
何をしようとしていたのだろう。
僕は願う。
ニヤの幸せを。
僕と離れることが、
彼女の幸せだというのなら、
それを、甘んじて受け入れよう。
僕はリビングに貼り付けてあった、
ニヤが欲しがっていた絵を、
そっと風に預けた。
絵は風に弄ばれ、
やがて、深い海の底へと消えていった。




