猫との決別2
父が亡くなったのは、十月も終わりに差しかかった頃だった。
もともと肝臓を患っていた父は、僕が家を出て母と別居してから、
まるで自分の命を削るように酒を飲み、
驚くほど呆気なく死んだ。
倒れてから何度か病室へ足を運んだが、
母は病院にも、通夜にも、葬儀にも姿を見せなかった。
ニヤに余計な心配をかけたくなかった。
それに、ニヤの前で「親」という存在をできるだけ見せたくもなかった。
だから僕は、地方での仕事だとだけ伝え、
泊まり込みで、父の死後の処理に追われていた。
親戚たちは母を辛辣に罵り、
僕には諂うような笑顔を向けた。
――まただ。
胸の奥に溜まる苦さを噛み殺し、
形式的に彼らへ応対し、
疲れ果てて家に戻ったのは、月曜の夜だった。
帰りに何度かニヤへ電話とメールを入れたが、
結局、彼女から返事はなかった。
苛立ちと疲労を抱えたまま家に入った僕は、
玄関に見慣れない靴があることにも気づかず――
「……なんで出ないんだよ」
不満を漏らしながらリビングへ進んだ瞬間、
そこに矢野さんの姿があって、言葉を失った。
ニヤを見ると、
忘れ物を届けに来てくれたから家に上げたのだという。
ブレスレットを一緒に買いに行ったことまで、知っていた。
不安に揺れるニヤの瞳を見て、
渡すときに何も言わなかったことを、強く後悔した。
今さら悔やんでも、傷つけた事実は消えない。
内心で舌打ちしながら、
「着替えてくる」とだけ告げ、部屋へ戻った。
線香の匂いが残る服に、
ニヤが気づくのが嫌だった。
それ以上に、父のことをこれ以上思い出したくなかった。
スーツを脱ぎ捨て、
いつもの服に着替え、リビングへ戻る。
矢野さんからストラップを受け取ったあと、
ニヤは渋い顔で「宿題する」と言い、部屋へ引っ込んだ。
追いかけたい衝動を抑え、
僕は矢野さんに向き直った。
「送っていくよ」
矢野さんは一瞬、僕を見てから視線を落とした。
今の僕には、彼女に優しくする余裕がなかった。
「少し、ニヤの様子を見てくる」
そう告げて部屋を出る。
矢野さんに八つ当たりだけは、したくなかった。
ノックしても返事はない。
そっとドアを開けると、
宿題をしているはずのニヤは、
シーツを頭まで被って眠っていた。
僕は電気を消し、
矢野さんを車で家まで送った。
「突然行って、ごめんね」
弱々しく謝る彼女に、
僕は笑顔を向けられず、
窓の外へ視線を逃がした。
「……ごめん」
それだけ言ってから、
「ニヤの前には、もう現れないでほしい」
と、告げた。
彼女がどんな顔をしていたのか、
僕は見ていない。
ただ、「わかった」と言って、
車を降りていった。
それから僕は、海沿いをひたすら走った。
スピードを上げれば、何かが晴れる気がした。
けれど、心は沈む一方だった。
月が高く昇る頃、
ようやく家に戻った。
ニヤのお気に入りの窓際に座り、
キッチンに置かれたワインを開ける。
十三夜の月が、
泣いているみたいに銀色に光っていた。
僕は両親を捨てた。
そして――父は死んだ。
まるで、なんて曖昧な言い方はできない。
父が死んだのは、僕のせいだ。
僕が絵を描いたことで歯車は狂い、
僕が家を出たことで、完全に壊れた。
悲しいのか。
虚しいのか。
自分でも掴めない感情に支配され、
ただ月を眺めていた。
「……れい」
呼ばれた気がして振り返ると、
キッチンのカウンターにニヤが立っていた。
「どうしたの?」
尋ねると、彼女は驚いて身を跳ねさせる。
僕がいるとは思っていなかったのだろう。
下着姿のニヤを膝に乗せ、
ブランケットで包む。
伝わる体温。
早い鼓動。
そのすべてが、
僕の心を静かにしていった。
二人で月を眺めながら、
ブレスレットのことを謝った。
どうしても、ニヤにあげたかった。
そう伝えると、
ニヤは不安そうに「玲が選んだのか」と尋ねた。
僕が選んだと答え、
彼女を抱き寄せ、そのまま部屋へ連れて行った。
やがてニヤは落ち着き、
穏やかな寝息を立て始める。
その寝顔を見ていると、
僕の陳腐な欲望は、どこかへ消え去った。
ただ、ニヤの体を抱きしめながら、
何日ぶりかの穏やかな眠りに落ちた。
――そして月曜。
美術館での講習会の合間、
森川さんと話しながら、
僕は自分の罪をはっきり言葉にした。
両親を捨てたこと。
罪悪感を埋めるためにニヤを拾ったこと。
それが、間違いだったと。
ニヤは、物でも猫でもない。
僕は、自分の弱さのために彼女を傷つけた。
だから、もう逃げない。
ちゃんと見よう。
向き合おう。
この腕の中が彼女の居場所であるなら、
それほど嬉しいことはない。
けれど、もしこの先、
ニヤと道を違えることになったとしても――
彼女の幸せのために、
出来ることをしよう。
たとえ、すべてを失うことになっても。
それを、
父の死の際に、
僕は誓ったのだった。




