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幸せのために出来ること

誰かに抱きしめられるって、

こんなにも、あたたかいんだって――知らなかった。


その温もりの中で、ようやく気づいた。

「母親」と呼ばれていた、あの人との暮らしが、

どれほど冷たいものだったのかを。


あの人は、ニヤを殴らなかった。

怒鳴ることも、叱ることも、

笑いかけることもなかった。


ただ、無関心だった。


それがいちばん、きつかった。


いっそ殴ってくれればよかった。

いっそ怒鳴ってくれればよかった。


そこに感情があるなら、

嫌われていると、はっきりわかるなら、

こんなふうに、胸の奥が凍ることもなかったのに。


いま、ニヤはあたたかい腕の中にいる。

息の音がして、体温があって、

確かに「ここにいる」と教えてくれる。


――もう、戻れない。


この温もりを知ってしまったら、

二度と、冷たい場所には戻れない。


そう思いながら、

ニヤは玲に抱かれて、眠った。


***



昼休み。

ニヤは自分の机に突っ伏して、手首のオパールを眺めていた。


「綺麗だから、ニヤにあげたかった」


玲がそう言ったそれは、本当に空みたいだった。

見ていると心が落ち着く。

――なのに同時に、あの女の姿が思い出されて、胸の奥がざわつく。


奇妙な感覚に囚われたまま、ニヤは昨日のことをぼんやり反芻していた。


玲は、肌着姿のニヤを抱きしめて、一緒に眠ってくれた。

心地いい眠りだった。

けれどニヤは、もっと先まで覚悟していたから、拍子抜けした。


玲の鼓動はいつも穏やかだ。

それに対してニヤの鼓動は、いつだって壊れそうなほど早い。

昨日だって、そうだった。


自分だけが無意味に意識しているみたいで悔しい。

それ以上に、心細い。


玲にとって、ニヤなど何でもない存在なのだと告げられているようで。


……もし「好きな女の子」と一緒にベッドに入って、それだけで終わる男がどれくらいいる?

経験なんてないから、実際はわからない。

けれど、想像は難しくなかった。


玲にとって自分は、何なのだろう。


押さえ込んでも押さえ込んでも、疑問は首をもたげる。

考えても考えても、答えは出ない。


――大切な人。


あれほどなりたかったはずなのに、今は曖昧で、残酷な言葉に思えた。



「何、一人で唸ってんだよ、神山」


不意にかけられた声に顔を上げると、

クラスメートの岩城和豊いわき・かずとよが怪訝な顔で見下ろしていた。


「考えごと中。邪魔すんな」


岩城は、ニヤがこの学校に転校してすぐ仲良くなったやつだ。

口は悪いが、さっぱりしていて面倒見がいい。

不慣れだった頃から、何かと気にかけてくれた。


今では、こんな憎まれ口を叩いても気にしない。

自他ともに認める親友――そう言える。


「用がないなら、さっさと席戻れよ」


「用があるから話しかけてんだろ。

……てか、お前、またそれ持ってきてんの? いつか生活指導に没収されんぞ」


岩城が顎で指したのは、ニヤのブルーオパールのブレスレットだった。


何が気に入らないのか、岩城はこれを見るとすぐ不機嫌そうな顔をする。


「うっせ。わざわざそれ言いに来たのかよ?」


「ちげーよ。これ、お前にやろうと思って」


差し出されたのは、一枚の紙切れ。


「……秋の特別展示?」


美術館の入場券だった。


「お前、たまにそういう本、真剣な顔で見てんだろ?」


「……ああ、まあ」


岩城の言う「そういう本」が、玲の画集だとすぐわかった。

暇な時間に眺めることはあったが、気にしていたのは意外だった。


(別に絵が好きで見てるわけじゃねーけど)


心の中で呟きながら、ニヤは黙った。


「だからさ。一緒に行かねーか?」


「は?」


「俺も絵、好きだし。良かったら、その展示」


「岩城、絵好きだったっけ?

……まあ、別にいいけど。いつ行くの」


「今度の日曜」


「日曜……」


その日は、玲が近くのイベント仕事で家を空けると言っていた。

家にいても仕方ない。

ニヤは頷いた。


「よっしゃ!」


岩城は大げさにガッツポーズをして、

待ち合わせの時間と場所だけ告げ、さっさと自分の席へ戻っていった。


「……絵なんか好きだったっけ、あいつ」


ニヤは小さく独り言ちた。



日曜、昼前。

普段ならスーツ姿のビジネスマンばかりの駅前広場も、

カップルや家族連れで賑わっていた。


ニヤが着いたのは、約束の時間を一時間ほど過ぎた頃だった。


ニヤは朝に弱い。

玲が呆れ返るほどに。

どうしてこんなに起きられないのか、自分でもわからない。


今日も玲に怒られ、一度は布団から出た。

だが玲が出かけた後、ソファでまた眠り込み、

気づけば約束の時間を回っていた。


岩城に「遅れてる」とメールを打ち、

シャワーを浴びて、家を出たのが二十分ほど前。

十時の待ち合わせから三十分以上過ぎている。

さすがとしか言いようがない。


「おはよ」


花時計の脇で待つ岩城を見つけて挨拶すると、


「さ、行こうぜ」


岩城は挨拶する暇もなく歩き出した。


「お前さ、遅れて来てごめんとか、待たせて悪かったとかないのかよ」


並んで歩きながら岩城がため息混じりに言う。


「ない。言っても遅れた事実は変わらない。

岩城の時間も戻らない。

わざわざ強調するのが、いちばんヤだ」


岩城はもう一度、大げさにため息をついた。


「まあ、いいけどよ……それにしても」


ニヤの服装を眺める。


「せっかくのデートなのに、その格好はなくね?」


「うっせぇ。ニヤがなんで岩城のためにフリフリキラキラしなきゃいけねーんだよ」


「フリフリじゃなくていいけどよ……

しかも、その格好にそのブレスレットはねーだろ。似合わねー」


またか。

ニヤは不機嫌を顔に出して無視した。


確かに今の格好には合わないかもしれない。

でもニヤにとって、似合う似合わないはどうでもいい。

これは、ただの飾りじゃない。


岩城もそれ以上は言わなかった。


とりとめのない会話をしながら、美術館に着いたのは十二時前。

近くのファーストフードで適当に腹を満たし、館内へ入る。


特別展示のせいか、意外なほど混んでいた。


比較的人の少ない絵から、岩城と並んで順番に見ていく。

芸術に優劣などつけられるのかどうかはわからない。

ニヤに良し悪しなど判断できるはずもない。


それでも――どの絵も、玲の作品に比べると何かが足りない気がした。

華やかさや色使いじゃない。

もっと奥の、触れたときの温度の違いみたいなもの。


「ふぅ」


息を吐いて横を見ると、

展示場の中ほどに、一際人の集まるスペースがあった。

他より広い。

どうやら、目玉の作品が置かれているらしい。


人だかりの前に立った瞬間、ニヤは目を見開いた。


鮮やかな色彩。

斬新な構図。

圧倒的な存在感。


絵の下に癖のある字で「rei.」とサインがある。

間違いなく、玲の絵だった。


他の絵を見たあとだからこそわかる。

玲はやっぱり天才だ。


多くの人が食い入るように見つめている。

ニヤも、その例外ではなかった。


玲の絵は綺麗で、儚くて、どこか悲しげで、

なのに胸のあたりが妙にあたたかくなる。


「rei。お前の好きな画家だろ?」


岩城が言う。


「岩城もこいつの絵、好きなの?」


ニヤが訊ねると、岩城は照れたように頬を掻いた。


「好きっていうか……

神山がこの人の画集見てただろ? だから俺も買ったんだけどさ。

好き嫌いっていうより……すげー、と思った」


その言葉が、妙に嬉しかった。

ニヤは岩城を見て、ふっと笑った。


「神山?」


「……やっぱ玲はすげーよな。

ニヤは大好きだよ」


心底嬉しそうに絵を見つめるニヤを、

岩城はしばらく不思議そうに眺めていた。



どれくらいそうしていただろう。

不意に岩城が「そういえば」と何かを思い出し、

ニヤの手を引いて美術館の奥へ引っ張っていく。


「何なんだよ、岩城!」


「いいから、こっちこいって!」


やってきたのは画集やポストカードの売り場。

その一角に特設の受付が作られていた。


「世界の名画についてかなんかで、reiの講習会があるんだってさ」


――近場の仕事、って言ってた。

まさか、自分が来た美術館で仕事してるなんて。


思いもよらぬ事実に、ニヤはひとつ思いつく。

玲の前に突然現れたら。

驚くだろうか。喜ぶだろうか。


玲の顔を思い浮かべながら、

ニヤは薄暗い裏廊下へ足を踏み入れた。


備品が雑然と置かれた、館のプライベートゾーン。

関係者以外立入禁止の場所。


長い廊下を抜け、扉を開けると、来賓用通路らしい静かな空間に出た。


そこで――聞こえた。


「そう、それは大変だったわね」


森川の声。


「で、結局お母様は?」


「来ませんでしたよ。母は父を嫌っていましたから」


玲の声が続く。

いつもより低く、少し掠れている。

脅かすつもりで固めていた身体が、嘘みたいに固まった。


その声が、ひどく傷ついていたから。


「親戚の方は随分と母のことを言っていました。

旦那の葬儀にも来ない軽薄な女、と……」


玲の声は淡々としているのに、苦い。


「おかしな話ですね。原因は僕にあるのに」


「玲君……まだそのこと。

玲君が罪悪感を感じることじゃないのよ?

ニヤちゃんのことだって……」


「分かっています」


玲の声が、少しだけ揺れる。


「僕は両親を捨てた。

そして両親に捨てられたニヤを拾った。

それで僕の罪が、いくらかでも消える……

そんな気がして」


唐突に出された自分の名。

驚く間もなく、玲の言葉は続く。


「ニヤをあんな形で引き取ったのは、間違いだったと……

今では思っています」


――目の前が真っ暗になった。



どうやってそこまで戻ったのか、覚えていない。

気がつけばニヤは、美術館を囲う公園のベンチに座っていた。


玲の言葉が頭の中で何度も木霊する。

眩暈がして、吐き気がした。


「……神山?」


岩城が缶ジュースを差し出し、心配そうに覗き込む。

けれど返事をする気力がなかった。


母親に捨てられたときですら、何とも思わなかった。

なのに――他人のはずの玲に突き放されて、こんなに傷ついている。


「おかしな話だ」


まともに動かない頭で、まるで第三者みたいに思う。



玲の言葉で、今までちぐはぐだった玲の行動が全部繋がった。


玲は、親を捨てた罪悪感を埋めるために、

親に見放された自分を拾った。

だから優しかったのだ。


そう考えれば、全部、合点がいく。


綺麗な矢野と付き合わない理由。

決して連れて行かない旅。

ニヤに対して、どこか興味が薄いみたいな仕草。

それらは全部、ニヤのわがままに付き合っていただけ。


突然会いに行って、玲が喜ぶ?


迷惑がるに決まってるのに。

ほんの十分前の自分の浮かれた行動が、

愚かで、恥ずかしくて、たまらなかった。


何を恋人気分で――。


玲の絵を見る大勢の人。

夏休みに玲が車から降りてきたとき、友人たちが向けた羨望の眼差し。

整った笑顔。


次々に思い出して、ようやく気づく。


玲が自分など好きになるはずがない。



涙をこらえることができなくなった。

できることなら今すぐ、玲の前から――この世界から消えてしまいたい。


それでも、会いたかった。


会って抱きしめられたら、

全部がなかったことになる気がした。


真実を知って、玲を困らせていると知りながら、

まだそんなことを望んでいる自分が、腹立たしく、哀れだった。



「神山」


岩城に名を呼ばれた瞬間、

ニヤの身体はあたたかい腕に包まれた。


欲しいものとは違う。

けれど、確かな温もりだった。


「……ひっ、く……いわきぃ……」


もうだめだった。

何を話したか覚えていない。

言葉にならない音を並べて、ただ泣いた。

玲とは違う温もりの中で。


岩城は、ニヤが泣きやむまで背中を撫で続けた。

自宅まで送ったあと、ぽつりと言った。


「……今まで、ずっと好きだった」


ニヤはその場で答えられず、

「後日返事をする」とだけ告げて、家に逃げ込んだ。



自分の部屋ではなく、玲の部屋へ向かう。

ベッドに潜り込む。


――罪悪感を埋めるために、自分を引き取った。


それを聞いたとき、怒りがなかったわけじゃない。

けれど今は、玲の幸せのために何ができるか――そればかり考えていた。


どんな形であれ、玲はあの冷たい場所から、

ニヤをあたたかい場所へ引き上げてくれた。


何不自由ない暮らし。

恋人ごっこみたいな甘い時間。

それを与えてくれた彼を、恨む権利など、自分にはない。


もし玲が、自分を引き取ったことを後悔しているのなら――


元に戻さなければいけない。


ニヤはそう決めて、ただ眠った。

玲の匂いがわずかに残るシーツにくるまれながら。


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