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空猫と画家


鬼灯ほおずき


学名:Physalis alkekengi var. franchetii

花期:夏



十八の誕生日の日、僕は両親を捨てた。

蒸し暑い八月の夕暮れだった。


ふだん家にいることのない両親を、半ば脅すようにして引き留め、学校を辞めること、そして家を出ることを告げた。


少しも期待していなかったと言えば嘘になる。

僕の決別宣言で、懐かしい、かつての家族が戻るのではないか――そんな愚かな望みが、確かに胸の片隅にあった。


だがそれ以上に、諦念と焦燥が僕の内側を満たしていた。


案の定、父と母は罵り合いを始めた。

僕は手許にあった作品のすべてを二人に渡し、そのまま家を出た。


壊れていたのは両親だけではなかったのかもしれない。

壊れゆく家庭を見ながら、それでも絵を描きつづけた僕も、どこか歪んでいたのだろう……。


――そして、また八月が巡ってきた。


夕暮れどき、窓から容赦ない西日が差し込むリビングで、僕はワインを傾ける。

安物の白は少しぬるみ、喉にざらりと刺さったが、気に留めず飲み下した。


眩しかったのだろう。

僕の膝で眠っていた黒猫が、整った眉をひそめた。


重い瞼を持ち上げた愛猫――ニヤは、どこか空虚な目で僕を睨み、首に腕を回すと、頬をぺろりと舐めてくる。


「酒くせー」


整った顔立ちに似つかわしくない荒い口調でそう言って、僕を見たのは一瞬だった。

すぐにその視線は、僕の背後へと滑っていく。


「今回の絵は、ずいぶん気に入っているんだね。でも、あれはあげられないよ」


つきり、と胸の奥が疼いた。

それを隠すように穏やかに告げると、ニヤは柳眉を寄せて、


「わかってるよ」


短く吐き捨て、僕を睨みつけた。


鋭い視線を受けながら、それでも――ほんのわずかでも意識がこちらへ戻ったことが嬉しくて、僕は思わず笑ってしまった。

その表情に、ニヤは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、やがて窓の外へ視線を逃がして立ち上がる。


離れていった温もりの穴を埋めるように、僕はさらにぬるくなったワインを口へ運んだ。


「あちい」


ニヤは乱暴にカーテンを引き、光を切り落とした。

冷房を強め、部屋の温度を一気に下げる。

それから僕には目もくれず、キッチンの奥へ消えていった。


そんな背を見送り、僕は小さく息を吐き、設定温度をわずかに戻す。


彼女――ニヤと出会ったのは、今から一年ほど前のことになる。

両親を捨てた僕が、両親に捨てられたニヤを「黒猫」と呼び、飼いはじめた。


我ながら、いびつだと思う。


失った何かを埋めるみたいに、たまたま近寄ってきた痩せた少女に餌をやった。

下心などなかった。たぶん、本当に寂しかった――それだけだ。


若き天才画家、印象派の新星。

人はそう言って僕を持ち上げるが、自分の心ひとつ自由にできない情けない男だと、僕は知っている。


必要とされているのは、金になる絵を吐き出す装置であって、僕という人間ではない。


だからだろうか。

自分の庇護のもとでしか生きられないものが欲しかった。


キッチンから戻ったニヤは、当然のように僕の膝に陣取る。

昼のドリアは少し口をつけたきりで残してあった。好物ほど、彼女は少しずつ食べる。


艶のある黒髪を梳きながら、僕は出会った日のことを思い出していた。

そして、ニヤをあっさりと僕に押しつけてよこした女のことを。


あれは十月に入って間もない頃。

肌寒いが、空だけはよく晴れていた。


売り物の絵を描くことに疲れると、僕はあてもなく出かけることがあった。

一週間ほど宿を取り、ひたすら空の絵を描きつづける。


誰にも見せない。誰にも売らない。

僕だけの絵であり、僕が描きたい絵だ。


海の近くに宿を取って、僕は抜けるような青を画用紙へ写し取っていた。


日暮れまで描き、ふと振り返ると、みすぼらしい服を着た薄汚れた少年が、僕の絵をじっと見ていた。


無造作に切られた短髪。

大きく、わずかに吊り上がった眼。


その真っ黒な瞳に映る空に、僕は不意に足を取られた。

気がつけば声をかけていた。


「この辺りの子かい?」


少年は無言で首を横に振る。


「家族とか……誰かと一緒に来たの?」


旅行者には見えなかった。けれど一応、そう尋ねた。

少年はやはり、黙って首を振った。


「行くところがないなら、僕と一緒においで」


差し出した手に、少年は少しだけ目を見張った。

僕の顔と手を交互に見つめ、しばらく迷った末――おずおずと、その手を取った。


ひどく細く、小さな手だった。


宿へ戻ると、宿の者に連れが増えたと伝え、僕は自分の部屋がある離れへ向かった。


部屋そのものにこだわりがあるわけではない。

できる限り人と関わりたくない僕は、なるべく他の客から遠い部屋を選ぶようにしていた。


風呂付きの二階建ての客室は、一人には広すぎた。

だが食事や布団の支度の間、逃げ込める別室があるのは僕にとって救いだった。


ひとまず湯に入るよう促し、タオルと着替えを渡す。


安楽椅子に腰を沈め、本をめくっていた僕のもとに少年が戻ってきたのは、だいぶ時間が経ってからだった。

浴衣の合わせがわからないのか、胸元がだらしなく開いていた。


そのとき初めて、拾ったのが少年ではなく少女だったと知った。


内心の動揺を押し込み、何でもないふりをして浴衣を整えてやる。

それから少女――ニヤに、いろいろと質問した。


最初は警戒していたニヤも、食事を口に運ぶ頃には少し落ち着いたのか、問いにぽつりぽつりと答えはじめた。


名前は「神山ニヤ」。十二歳。


「猫みたいな名だね」


思わず言うと、ニヤは「隣で飼ってる猫から、名前をもらった」と、冗談とも本気ともつかない顔で言った。


驚いたことに、ニヤの住む街は、僕のマンションからそれほど離れていなかった。

車で数時間のこの海辺の町まで、彼女は一人で歩いて来たらしい。


母親と二人暮らし。

父親の所在は不明。


「学校は?」


そう問えば、ふだんからあまり行っていない様子だった。


家庭の事情の気配に、それ以上踏み込めなくなってしまった僕は、

明日、家まで送り届けると約束し――逃げるように、早めに床に就いたのだった。

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