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第23話:聖女の巡礼

王都大聖堂の、最も清浄な一室。

そこは、祈りの場であるはずなのに、今は、ただ濃密な絶望だけが満ちていた。

ベッドの上で、勇者カイルが、断続的に身をよじらせている。意識はない。だが、その魂に刻み込まれた古代の呪いは、眠りの中にさえ、決して逃れられぬ地獄の苦しみを与え続けていた。その胸に浮かぶ、禍々しい黒い紋様は、高位の聖職者たちの必死の祈祷をもってしても、薄まるどころか、むしろ嘲笑うかのように、その闇を深くしていた。


「……これ以上は、我らの聖なる力が、逆に彼の生命力を削ぐことになりかねん」


白髪の大司教が、疲労と、無力感に満ちた声で、ついに治療の中断を告げた。

その言葉は、最後の希望が断ち切られたことを意味した。


聖女リナリアは、カイルの、苦痛に歪む寝顔を見つめていた。

彼女の頭の中で、大司教の言葉が、何度も、何度も、反響していた。


『……古の伝承に、一つだけ……。このような、神代の呪いを解くことができるのは、それと同等か、それ以上の、神聖な力だけじゃ、と……』

『……伝説の、聖者の……』


聖者。

その言葉が、彼女の心の中で、一人の青年の顔と、結びつく。

ここ最近、世間を賑わせている、あの噂。

どんな病も癒すという、奇跡の湯。

そして、その地に住まうという、『聖者アラン』。


(まさか……。でも、もし……。もし、本当に……)


愛する人が、目の前で、魂ごと腐り落ちていこうとしている。

その苦しみから、彼を救える可能性が、たとえ万に一つでもあるのなら。

プライドなど、過去の過ちなど、もはや、何の価値があるというのか。


リナリアは、静かに立ち上がった。その瞳には、涙はなかった。

ただ、凍てつくような、しかし、決して折れることのない、鋼の決意が宿っていた。



大聖堂の、冷たい石造りの待合室。

戦士ゴードンは、壁に背を預け、自らの、包帯が巻かれた拳を、ただ、じっと見つめていた。彼の誇りであった、岩をも砕くはずの剛腕は、魔将マーラコルの前では、赤子のそれのように、無力だった。


魔法使いのセラは、窓の外を、虚ろな目で見つめていた。彼女の自尊心であった、王立魔術学院首席という肩書は、古代の呪いの前では、何の慰めにもならなかった。

二人は、もはや、口を利く気力さえ、失っていた。

敗北は、彼らから、全てを奪い去ったのだ。


そこへ、リナリアが、静かな足取りで入ってきた。

「……ゴードンさん。セラさん」


その、凛とした声に、二人は、はっと顔を上げた。

「大司教様から、お話がありました。カイル様の呪いは、現代の聖魔法では、決して癒すことができない、と」


その言葉は、死刑宣告と同じだった。

ゴードンの顔が、絶望に歪む。セラは、顔を覆い、嗚咽を漏らした。


だが、リナリアは、続けた。

その声は、震えていなかった。


「ですが……最後の希望が、一つだけ、あります」

彼女は、深く、息を吸い込んだ。

「……噂を、聞いているでしょう。西の辺境、ルナ村の……『聖者アラン』様と、その方が与えてくださったという、『癒やしの湯』の噂を」


その名が出た瞬間、部屋の空気が、さらに、数度、冷え込んだ。

最初に、激しく反発したのは、セラだった。


「……正気ですの、リナリア!?」

彼女は、椅子から立ち上がる。その顔は、怒りと、屈辱に、真っ赤に染まっていた。

「今更、あの男のところへ行けと!? 私たちが、役立たずだと罵り、追い出した、あの男の前に、ひざまずいて、助けを乞えと、言うのですか!?」

「……」

「そんなこと……! そんな屈辱を味わうくらいなら、わたくしは……! わたくしは、死んだ方が、マシですわ!」


プライド。それが、今の彼女を支える、唯一の、そして、最後の支柱だった。


ゴードンも、苦々しい顔で、吐き捨てた。

「……冗談じゃねえ。あいつが、聖者? ありえねえだろ。だが……。もし、そうだとしても……今更、どんな顔して、会いに行けってんだよ……」


二人の拒絶は、当然だった。

それは、リナリア自身が、先ほどまで、心の内で戦っていた、葛藤そのものだったからだ。

だが、今の彼女は、もう、迷わない。


「――死んだ方が、マシ?」


リナリアの、静かな、しかし、氷のように冷たい声が、セラの言葉を遮った。

「あなたが、死にたいと、言うのですか、セラ? では、カイル様は? カイル様は、どうなるのですか?」

「そ、それは……」

「私たちの、その、くだらない、何の役にも立たないプライドのために、カイル様を、あの地獄の苦しみの中で、見殺しにしろと、言うのですか!?」


リナリアの瞳から、ついに、大粒の涙が、一筋、流れ落ちた。

だが、それは、いつものような、弱さの涙ではなかった。

怒りと、悲しみと、そして、どうしようもない、自己嫌悪に満ちた、涙だった。


「……カイル様を、あんな目に遭わせたのは、誰ですか?」


彼女は、自分自身に、そして、仲間たちに、問いかけた。


「私たちです……! 私たちが、アランさんの、本当の価値に気づけず、驕り高ぶり、彼を追い出した。私たちが、弱かったから。私たちが、愚かだったから……! その結果が、これなんです! カイル様は、私たちの過ちの、その全ての代償を、たった一人で、その身に、受けておられるんですよ!」


その言葉は、鋭い刃となって、ゴードンとセラの、心の最も柔らかな部分を、容赦なく、抉った。


そうだ。

その通りだ。

目を背け続けてきた、真実。

自分たちは、敗けたのだ。魔将マーラコルにではない。自分たちの、傲慢さに。自分たちの、弱さに。


リナリアは、涙を拭うと、二人の目を、まっすぐに見据えた。

「私たちには、選ぶ道が、二つだけ、あります」

「……」

「ここで、私たちの、もう砕け散ってしまったプライドの欠片を、大事に抱きしめながら、リーダーが、苦しみながら死んでいくのを、ただ、黙って見ている道」

「……」

「それともう一つは。その、くだらないプライドを、全て、ドブに捨てて。自分たちが、間違っていたと認めて。あの人の前に、這いつくばってでも、行って。そして、彼の慈悲に、すがる道です」


「……どちらを、選びますか?」


その、聖女の問いに、もはや、誰も、答えることはできなかった。

セラの膝が、がくり、と折れた。彼女は、その場に崩れ落ちると、子供のように、声を上げて、泣きじゃくった。

ゴードンは、「うおおおおおっ!」と、獣のような雄叫びを上げると、大聖堂の、硬い石の壁を、血が滲むのも構わずに、何度も、何度も、殴りつけた。


それは、彼らの、完全な敗北の瞬間だった。

そして、同時に、再生への、か細い、第一歩でもあった。



翌日の、灰色の夜明け。

王都の、裏門から、一台の、質素な幌馬車が、静かに出発した。

かつて、民衆の歓声を浴びて、華々しく凱旋した、あの頃の面影は、どこにもない。

誰にも、見送られることなく。ただ、静かに、王都を去っていく。


幌馬車の、荷台。

そこに敷かれた、粗末な藁の上で、勇者カイルが、苦悶の息を漏らしている。

その隣で、聖女リナリアが、彼の汗を拭い、ただ、ひたすらに、祈りを捧げている。


御者台には、ゴードンが、無言で手綱を握る。

そして、彼の隣で、セラが、虚ろな目で、遠ざかっていく王都の景色を、見つめていた。


彼らの旅が、始まった。

それは、もはや、冒険などではない。

犯した罪を償うための、あまりにも長く、そして、過酷な、巡礼の旅。


リナリアは、カイルの手を、固く、握りしめた。

彼女の心の中には、今、ただ一人の青年のことしかなかった。


(アランさん……)


彼は、今、どうしているだろう。

私たちのことを、覚えているだろうか。

それとも、もう、忘れてしまっただろうか。


私たちの、この、身勝手な願いを。

彼は、笑うだろうか。

それとも、蔑むだろうか。

あるいは。

あるいは、あの噂に聞く『聖者』は、こんな、愚かな私たちにさえも、慈悲を、与えてくれるのだろうか。


答えは、西の果てにある。

幌馬車は、彼らの、最後の、そして、あまりにも、か細い希望が待つ、辺境のルナ村へと向かって、ゆっくりと、しかし、確実に、その車輪を進めていくのだった。

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