浮気夫と即離婚したら、男達が私を溺愛奪い合い
ボルニア王国北端、クローディア領。ここは冬が長く、領主も気が長い……と言いたいところだけど、どうやら私だけは例外らしい。
私はクラリス・クローディア。北の辺境を治める女領主であり、先代が引退してからは政も軍もすべて私の采配で動いている。ちなみに、見た目はそこそこ可憐な感じに育った自覚はある。胸元に薄いシルクを一枚羽織っただけで男たちが目を逸らすくらいには。
そんな私が十年前、わざわざ庶子の貴族家から婿養子を迎えてやったのだ。アラン・フェルディス。気弱で地味な、けれど誠実さだけは取り柄の男だった。
だった。過去形である。
「……ただいま」
半年ぶりに戻ってきた夫の横には、見慣れない女がピッタリとくっついていた。見た目は……薄茶の髪にくすんだ目。妙に無防備な笑顔。どう見ても「おうち間違えてません?」な顔してる。
「あなた……これは、どういうことかしら?」
「えっと、その……紹介するよ、ミレイナ。困ってるところを見かけてさ。しばらく家に置いてあげてもいいかなって……」
「わぁっ、奥様!?初めまして!ミレイナと申します!あの、決してご迷惑はかけませんので、どうか!」
馬鹿か?
どうして女を連れて帰ってくる男って、全員『かわいそうな彼女を助けただけ』みたいな顔できるの?その涙袋、明らかに「うるうる演出用」って顔してるけど?
「なるほど、理解したわ」
私はにっこりと微笑んで、手元の銀の呼び鈴を鳴らした。すると控えていた執事がすっと現れ、差し出してきたのは、一枚の紙。
「これにサインして。今すぐ」
「な、なんだいこれは……」
「離婚届よ。ああ、心配しないで、私の分はもう書いてあるから。あとは、あなたのサインだけ」
ミレイナがわざとらしく「ひどいです奥様!」と叫ぶのを、完全に無視する。
「ミレイナは悪くない!ただ俺が――」
「……そうね、彼女は悪くないのかもね。でも、家に連れ込んだのは誰かしら?」
「そ、それは……」
「しかも、私に何の相談もなく、既成事実を作ろうとして帰ってくるその神経。まさか、嫉妬して泣き崩れてくれるとでも?」
「ち、違うんだ……!」
「もう一度だけ聞くわ。離婚届にサインする?それとも、地下牢で三日三晩、冷たい壁と語り合う?」
私はにっこりと笑って、剣の柄に手をかけた。これは脅しではない。過去に一度、税を誤魔化した役人も同じ目に遭わせている。
アランの顔がみるみるうちに青ざめていく。横でミレイナが「助けてアラン様ぁ~!」と演技じみた声を上げたが、アランはそれにすら動じる余裕もない。
「……サイン、するよ」
「そう。それじゃあ、荷物まとめて。ああ、それとゴミは持って帰ってね」
「ゴミって、まさか私のこと!?」
「ええ、他に誰がいるのかしら?」
そう言い放つ私の声は、我ながら冷静すぎて怖かった。怖い女って思われてもいい。だって、私には、私を愛してくれる人が他にもたくさんいるんだから。
アランとミレイナが追い出されたあと、私は一息ついた。
「執事、手紙の山は?」
「すでに届いております、クラリス様。全て、元ご縁のあった方々からのお誘いでございます」
「……ふふ。じゃあ、順番にお会いしましょうか」
私だけを愛すると誓ってくれた彼らの中で、誰が一番、私の理想に近いのか――それを見極めるのは、これからの楽しみにしておくわ。
アランが屋敷を出ていった翌朝、私はいつも通り領主としての仕事に取りかかっていた。離婚したからといって仕事が減るわけでもなく、むしろすっきりした頭で書類に向かえる分、効率が上がった気がする。
「クラリス様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう。セシル、今日のハーブはなにかしら?」
「ジャスミンとペパーミントでございます。鎮静と集中、両方狙ってみました」
「……有能ね」
メイド長のセシルは、私のことを誰よりも理解している。もしかすると前夫より、いや、間違いなく前夫よりずっと。
私は香り高いお茶を一口すすると、昨日の顛末を思い返す。
アランの顔、見た? あの、どうして?って顔。
知らんがな。
ミレイナがゴミ扱いされたときの顔もなかなか芸術的だった。今頃、実家で兄にどやされてるはずだ。アランの兄はまともな人間だったから、まだ救いがあるだろう。あの兄が幼少のアランをうっかり落としただけで、きっと頭だけ床にぶつけたんだわ。あれは事故だもの。うん、事故。
「それにしても……」
私は窓の外に目をやる。
今、婚姻を申し込んでくる男は十指に余る。かつての求婚者たち。婚約破棄された女に群がる男たち、という構図はなかなか滑稽だが……彼らには理由があった。
十年前、彼らは私を見ていた。
ただの美貌じゃない。家柄でもない。
“自分だけを愛してくれる女”としての私に、恋をしてくれた人たち。
「ふふ。捨てた男がいるのなら、拾う男がいるのも当然よね」
もちろん、全員が誠実なわけではないだろう。中には権力目当て、金目当て、あるいはただの昔の未練――いろんな欲望を抱えている男もいるに違いない。
でも、それを見極めるのも女の仕事だ。
「失礼します、クラリス様。セオドア様がお見えです」
「通して」
セオドア・エルハルト。近隣の大領地の次期当主にして、私が結婚前に断った男の一人。
といっても、断ったのは向こうの父親が猛反対したから。女領主なんて問題外、という理由で。本人は気にしてなかったけど、家のために身を引いた……はずだった。
「お久しぶりです、クラリス殿」
「……まさかこのタイミングで現れるとはね。なにか用?」
「あなたが離婚したと聞いて。もしかして、と思ってね。俺のこと、まだ見込みあるかなって」
この男、相変わらずストレートすぎる。
背は高く、声は低く、眼差しはまっすぐで誠実。よく言えば騎士然としていて、悪く言えば、いやらしい駆け引きとか一切できない。
「あなたが離婚を知って、どれくらいで来たの?」
「三時間半」
「私、昨日の夕方に離婚したんだけど?」
「すぐ馬で飛ばした。速馬ならこの距離が限界」
「……真面目か」
真面目だった。真剣すぎるくらい。
これが策略家だったら鼻で笑っただろうけど、彼は十年前と変わらず、ただの馬鹿正直だった。
「俺はずっとあんたを愛してたよ。諦めてたけど、心だけは変えなかった」
「……ふーん」
私はお茶をもう一口飲み、セオドアを見つめる。
十年という歳月の中で、私の横にいたのはアランだった。でも、彼が私の隣にいた“理由”は、あのプロポーズ一言に尽きる。
『クラリス様だけを愛して、一生大事にします』
その言葉があったからこそ、私は彼を選んだのだ。
そして今、目の前の男が言った。
『俺のこと、まだ見込みあるかなって』
捨てたと思っていた希望を、再び差し出してくれた。
「セオドア。あなたの馬、今どこに?」
「玄関先に繋いでる。なにか?」
「今日一日、ここに泊まっていきなさい。ちゃんと部屋、用意してあげるわ」
「……本当に?」
「ええ。恋は、追いかけてくれる人に譲るつもりだったのよ。十年前からね」
セオドアの表情がぱっと明るくなる。
ああ、これは、私の中にあった傷に、ようやく新しい芽が生まれた音だった。
アランは過去。
これからは――
この誠実な男と、新しい恋を始めてみようかしら。
セオドアが屋敷に泊まって三日目。いやはや、誠実というのは、時に疲れるものだと私は知った。
「クラリス殿、今朝の焼き菓子も絶品でした。厨房の者にも感謝を伝えておきます」
「……それ、昨日も言ってたわね」
「いや、昨日のはバターの香りが強めだったけど、今日はほんのりラベンダーが香っていた。別物だよ」
この人、観察力が凄まじい。しかも礼儀正しさの化身かってくらい、いちいち丁寧。たまにこっちが気後れしそうになる。
「あと、昨日の食後のハーブティー、少しだけカモミールが強すぎたように思う。寝つきが良すぎて朝寝坊しそうになったよ。ふふっ」
「……あら、それはそれは、大変でしたわね」
でも、ふふっ、じゃないのよ。完全に余計な感想だし。普通に寝てろ。
とはいえ、こうして朝から機嫌よく話しかけてくる男の存在は、どこか安心する。アランと違って、私の顔色を伺うのではなく、まっすぐな眼差しで話しかけてくるのだから。
恋の予感……とまではいかないけれど、なんだか悪くない気がしていた。
だが、そんな私のほころびかけた心に、再び土足で踏み込んできた存在があった。
「奥様ぁあああ!!たいへんですっっ!」
メイドのエリカが、顔面蒼白で廊下を駆けてくる。普段は一番の冷静組なのに、この取り乱しようはただごとではない。
「どうしたの?」
「アラン様が……門の前で、野宿しておられます!」
「………………は?」
セオドアがカップを傾けたまま、見事なまでに固まった。
野宿?
「しかも、例の彼女とご一緒に……」
「………………っは?」
笑うしかなかった。いや、笑えない。いや、いや、なんで?
前夫とその不倫相手が、我が屋敷の門前で、堂々と露天生活してるというの?
「すぐ見に行くわ」
私はマントを羽織り、正面玄関をくぐった。セオドアは心配そうについてきたけど、まあ止める権利はないわよね。
そして、見た。
「おっ、クラリス!久しぶりだねぇ!朝ごはん、なにかない?」
アランが、地面に敷いたボロ布の上で、にこにこと笑っていた。
その横では、ミレイナが「背中が冷えて死ぬかと思いました~」とか言いながら、ちまちまと火をおこしている。
なんなの、この図?
「……何してるの?」
「いやあ、実家追い出されちゃってさ。で、行くあてもないし、なら元の家の前に住んじゃおうって!」
「元の……」
元の家って、今は私一人の所有なのだけど。
「だからね、別に邪魔するつもりはないんだ。ただ、あわよくば、君が俺を可哀想に思って戻してくれたり……とか?」
「……」
何故かミレイナが自信満々に頷いていた。「わたし達、戻ってきましたっ!」じゃない。
「そもそも……なぜミレイナもいるの?」
「だって、私たち、愛し合ってるもの!でしょ?アラン様!」
「……まあ、うん」
「はっきり言え」
睨むと、アランはビクついた。まあ当然。
「で、なんで門の前に住もうと思ったの?」
「だってクラリス、冷たく追い出したとはいえ、ほんとは俺のことまだ……」
「ないわ」
「即答!?」
「愛も未練も、ゼロ。むしろマイナス。あと、それ私有地なので、さっさと出て行ってくれる?」
「えー……でもミレイナが……」
「ゴミを連れてきたのはあなたでしょ?処分も責任持ってお願い」
さすがに言い過ぎかな、と思ったけれど、隣でセオドアが堪えきれずに笑いそうになっているので、まあいいか。
「じゃあ、こうしよう。お昼までに荷物まとめて。次に見たら、兵が出るからね」
私は踵を返し、門を閉じた。
その瞬間、「ひどい~!」と泣き叫ぶミレイナの声が聞こえたけれど、気にする必要はない。
だって私は、もう過去の男に振り回される女じゃない。
「クラリス殿……」
「なに?」
「……やっぱり、好きだ」
「唐突ね」
「いや、昨日も思ってた。でも今日、確信した」
「ふふ……じゃあ、私も確信させてちょうだい。あなたが私を、どこまでも愛してくれる男だってことを」
私たちは、門の奥へと戻っていった。そこで待つのは、未来の恋と、少しだけ忙しい日常と――
……あの門前のゴミが、風で飛ばされていないことを祈って。
アランとミレイナを門前から追い払ってからというもの、屋敷の周囲は実に平和だった。空気は澄み、鳥のさえずりも心なしか楽しげ。あれは一種の災厄だったのかもしれない。物理的には軽いのに、精神的重量が異常だったのよ、あのふたり。
そして災厄が去ったと同時に、私は妙な手紙の山に囲まれることになった。
「今日だけで二十三通目でございます」
セシルが、表情を変えぬまま机の上に重ねたそれは、どれもこれも香水臭かった。いや、字の汚さや差出人の名前を見るに、香水に金をかけすぎて筆耕を雇えなかったパターンが多そうだけど。
「この差出人……フリード・ランバルト男爵?」
「かつて、クラリス様に十七回求婚された方ですね。ちなみに十八回目が今です」
「記録更新じゃない」
「無事、国内歴代二位となりました。あと三回で首位です」
「その記録、塗り替えてどうするのよ……」
別に私は求婚数で競ってるわけじゃない。
ただ、そういう“過去のご縁”がなぜか続々と復活してきているのだ。
「はあ……」
私は手紙の山に肘をつき、大きくため息をついた。隣で控えていたセオドアが、やや居心地悪そうに口を開く。
「……俺は、焦るべきか?」
「焦らなくてもいいけど、安心はしないで」
「う……努力します」
この正直さよ。
ここ最近、セオドアは屋敷の空き部屋をひとつ借りて、半同棲のような生活をしていた。というのも、彼の父がこの婚姻に前向きになったからだ。理由は簡単。
“私が離婚したから”
相変わらず素直な家だなとは思ったけれど、それでセオドアを追い返す理由もない。
「一応聞くけど、私と結婚したいっていう気持ち、変わってない?」
「当然だ」
「浮気しないって誓える?」
「今ここで誓っていいか?」
「……どうぞ?」
すると彼は、まっすぐ私の方に歩いてきて、跪いた。いやいや、なにこの騎士仕草? 芝居がかりすぎてて鳥肌立つわ。
でも……嫌いじゃない。
「クラリス・クローディア殿。私はあなたに誓います。あなた以外の誰にも、決して心を動かさないと。たとえどんな美しい女が現れようと、私の目にはあなたしか映りません。あなたにだけ剣を捧げ、心を尽くし、死ぬまでそばにいます」
……やられた。
ああ、やられた。完全にやられた。
この男、こんな大真面目に、よくもまあ中二病めいた言葉を並べられるものだと思うけれど、それを真顔で、しかも一切の迷いもなく言うんだから、困る。
「ふふ。じゃあ、私も応えなくちゃね」
私は椅子を立ち、セオドアの頬にそっと触れた。
「あなたのこと、嫌いじゃない。というか、割と好き。というか、かなり好き。というか……」
「というか?」
「……言わせないでよ、もう」
彼は少し照れたように笑って、でもすぐにその表情を真剣なものに変えた。
「だったら、俺を試してほしい」
「試す?」
「他の男達が、君をどれだけ狙っているかは知ってる。でも、俺はそれを気にしない。君が俺を選んでくれるなら、それだけでいい。君の前に並ぶ奴らと正々堂々競って、勝ち抜いて、最終的に俺が隣にいられたら、それでいい」
「……セオドア」
こいつ、ほんとに誠実すぎて困る。
だけど、私が求めていたのは、たった一人を、どこまでも真っすぐに愛してくれる人。
今、目の前の男は、それに一番近いところにいるのだと確信できた。
「じゃあ、一つだけ条件を出してあげる」
「なんでも言ってくれ」
「三日以内に、私に惚れ直させて」
「……惚れてるけど?」
「ううん。惚れ“直させて”。今の私じゃなくて、もっと新しい私を。再び見つけて、再び恋して。私も、あなたに惚れ直すから」
セオドアの瞳が、まっすぐ私を射抜いた。
ああ、これはまた恋が始まる合図だ。
三日後、朝。
「決闘ですって?」
「はい。お庭に五名様お揃いでございます」
セシルの報告はいつも冷静だけれど、今朝に限っては、やけに言葉の温度が低かった。どうやら来訪者がよほどアホなことをしでかしたらしい。
「……全員、元求婚者?」
「はい。全員、婚約破棄以前にお断りしている方々です」
「その全員が、いま庭に並んでるのね?」
「並んでおります。しかも、クラリス様のために勝者を決める決闘を行うと――」
「馬鹿なのかしら」
「はい」
即答したセシルに、私は思わず笑いそうになった。
そして私は、執務着から動きやすい騎士服に着替え、外へ出た。さすがにドレスで馬鹿たちの相手をする気にはなれない。
すると、いた。
庭の芝生の上で、全員鎧姿の中年と青年と美男が、己の剣を磨きながらこちらに気づくのを待っている。
「お、おお、クラリス殿! どうか、見ていてくだされ!」
「我こそが、真にふさわしい男であると!」
「わたくしなどは、十年前から変わらぬ愛を……!」
はいはい、わかったわかった。うるさい。
その横には、やや引き気味の顔でセオドアが立っていた。
「……止めようとしたんだけどな」
「まあ、こんな見世物みたいなこと、自分で恥晒してるようなものでしょ。勝手にやらせときなさい」
「いや、問題がひとつ」
「なに?」
「……俺も混ぜられた」
「は?」
「『恋の対決に、現恋人が出ないのはフェアじゃない!』って言い出したのがいて。俺だけ棄権するのも何か違う気がして……」
「出たの?」
「今から出る」
「馬鹿じゃないの!?」
叫んでから、私は思った。
この人、ほんと馬鹿真面目なんだった。
そのまま、庭では謎の武闘大会が始まった。剣の試合。もちろん、流血沙汰にならぬよう試合形式で、一本勝負。審判は騎士団長。何この地獄。
「第一試合、フリード・ランバルト男爵 対 セオドア・エルハルト様!」
「……いきなりか」
セオドアが剣を構える。男爵の方はすでに鼻息荒く、自信満々で槍をくるくる回している。いや、ここ庭よ? 芝生削れないで?
開始の合図が鳴るやいなや。
――ガッ!
――バシュ!
――ドゴッ!
「ぐえっ!」
男爵、二秒で沈む。
「……試合終了、勝者セオドア様!」
騎士団長の声が乾いている。
それから続く試合、試合、試合。
全員倒され、セオドアはやや肩で息をしながら私の前に戻ってきた。
「……惚れ直してもらえた?」
はあ、と私はため息。
「もう、ばか」
それだけ言って、私は彼の手を引いて屋敷に戻った。廊下を歩きながら、私は口を開く。
「恋の決闘とか、ほんと嫌い。誰かを蹴落として得られる愛なんて、私の理想じゃないわ」
「……ごめん」
「でも、私が頼んだ条件は果たしたわね。三日で私に惚れ直させて。ちゃんと、あなたはやってくれた」
「じゃあ……俺と」
「まだ言わないで」
手を止めて、彼の顔を見上げる。
「そのセリフ、きちんとプロポーズする時まで取っておいて」
彼は少し目を丸くしたあと、照れくさそうに頷いた。
「わかった。じゃあ、その時が来たら、ちゃんと言わせてもらう」
「楽しみにしてる」
その瞬間、私の胸が熱くなった。
ようやく、心から“信じられる”誰かに出会えたのだと、確信したのだから。
その日の夕方、私はひとりで書斎にいた。窓からは柔らかい夕陽が射し込み、机の上に置いた古い婚約指輪がきらりと光っていた。捨てるには少々値が張るが、残しておく意味もない。思い出にすがるような女にはなりたくないから。
ノックの音がする。
「どうぞ」
扉を開けたのはセオドアだった。いつもより少しだけきちんとした身なりで、手には小さな箱を持っていた。ああ、もうその箱の中身はわかっている。でも、私は何も言わずに待った。
「クラリス。俺は、この数日間、君に何度も惚れ直した。そして、これからもきっと、何百回でも惚れ直すと思う」
「……うん」
「だから、俺と結婚してくれ」
差し出された小箱の中には、私の指のサイズにぴったりの、でも主張しすぎない銀の指輪。装飾はなく、ただそこに「C」と「S」、ふたりのイニシャルだけが刻まれていた。
「あなた、準備いいわね」
「ずっと練習してた」
「一人で?」
「馬に聞かせながら」
「馬、どういう顔してた?」
「いつもと変わらなかった」
「それ、正解だったのかしら」
くすりと笑ってしまった。でも、もう気持ちは決まっていた。
「はい。喜んで」
私は答えながら指輪を手に取ると、自分の薬指にはめた。それは、驚くほどぴったりで、まるで最初からそこにあるべきものだったように感じた。
「……似合ってる」
「ありがとう。あなたも、私に似合ってるわよ」
「え?」
「私という存在に、あなたはよく似合うってこと。自覚して」
「……努力します」
本当に素直で、実直で、嘘がつけない人。
私はようやく、そんな男に出会えたのだ。
それから数日後、ささやかながら、結婚式を挙げた。
場所は屋敷の庭。以前、馬鹿な決闘大会が開かれたあの場所だ。
今回は、静かで、温かい式だった。
参列者は最小限。家臣と友人、それと騎士団の面々。
花嫁の私より、花婿のセオドアが緊張しているのが、少しだけ面白かった。
「緊張してる?」
「ちょっと」
「じゃあ、もっと緊張させてあげるわ」
「えっ」
「誓いのキス、式の前にしておく?」
小さな声でそう囁いたら、彼は真っ赤になった。騎士のくせに、どうしてこんなに初心者なのよ。……でも、それがいいのよね。
式のあと、私はセシルに「ようやくまともな旦那様ですね」と祝福された。彼女が言うと重みが違う。
それから、前夫のアランはというと。
「クラリス様、最新の報告です。前旦那様、魔獣退治に志願したものの、最初の任務で脱走して現在行方不明。噂では、どこかの田舎町で花屋に転職したとか」
「……花は似合わないのにね」
「同感です」
もうどうでもいい。
そしてミレイナはというと、別の貴族の家に拾われ、今度は家令の息子に媚を売っているらしい。人生って、変わらない人は本当に変わらないものなのね。
「クラリス、君の幸せを俺が一生守るから」
夜、ベッドの中でそう言った彼の腕の中は、信じられないほど温かかった。
「それは私のセリフ。私だけを愛してくれる人と、生きていくって決めたの。だから、あなたがそれを守ってくれるなら、私もあなたを守るわ」
「誓うよ。これからもずっと」
そして私は、もう二度と過去を振り返ることはなかった。
なぜなら今、私の隣には――
たった一人を、心の底から愛してくれる男がいるのだから。