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三章.祈りを持った足音

 ざわざわと、何かが動いている。

 無数の、小さな生き物が、空間いっぱいに蠢いている――そんな気配に目が覚めた。


 瞬間、目の前に広がる異様な光景に息を呑んだ。


 黒い粒のような無数の身体が、触角を揺らしながらひしめき合っている。天井も、地面も、壁さえも、それらの存在でびっしりと覆われていた。


 何だ……これは……。


 自分の体にも、他の個体と同じように細い脚が生えていることに気づく。身体は軽く、異様なほど小さい。


 驚きが遅れて押し寄せた。

 ここにいる全てが、自分と同じ「何か」であり、全員が、目的を持ったようにせわしなく動いている。


 だが――誰も、こちらを気に留めることはなかった。


 一匹のアリが触角を近づけてきた。ぴたりと擦り合わせるような動きを見せたが、それだけで何事もなかったかのように去っていく。


 それっきり、どの個体も振り返らず、何の感情も感じさせず、ただただ淡々と、それぞれの仕事に戻っていった。


 膨大な数の命が動いているはずなのに、不思議なほどに「生命感」がなかった。

 整いすぎている。無駄がなさすぎる。そのことが、妙に不気味だった。


 ――まるで、生き物じゃないみたいだ。


_______________________________________________


 しばらくのあいだ、動けなかった。

 まるで巨大な機械の内部に迷い込んだような、そんな錯覚に陥っていた。自分の目に映るすべてが、同じ姿のものたちで埋め尽くされている。だというのに、その一匹たりとも、僕には目もくれない。押し流されそうな数の中にあって、僕は孤立していた。


 ただ呆然と、目の前を通り過ぎるアリたちを見つめていた。すぐ隣を通った者が、触角を一度擦り合わせてきたが、それきり何も起こらないまま、またすぐに別の方向へと消えていった。

 生きているのに、まるで感情がない。会話もない。悲鳴もない。ただひたすら、無言で、正確に、次から次へと歩き続けていく。


 けれど、ふとした瞬間だった。

 誰かが何かを運んでいた。土の塊のようなもの。別の誰かは、その通路を清掃していた。さらに別の誰かは、奥から新たな個体を導いていた。

 無秩序にしか見えなかった動きに、一本の糸が通る。散らばった点が、ゆっくりと線になる。


 ――違う、これは、ちゃんと意味がある。


 気付いた瞬間、世界が反転した。混沌に見えた群れが、ひとつの意志をもって動いているように見えた。

 なんという連携。なんという秩序。誰も命令していないのに、それぞれが今すべきことを知っている。

 その精緻さに、僕は息を飲んだ。


 群れが、一匹一匹の力で成り立っている。

 一匹一匹が、全体のために役割を果たしている。

 これはもう、生きるための合理性を超えて、美しさだと思った。


 僕は、もともとひとりだった。鳥だったときも、モグラだったときも。


 おそらく、人だったときも。


 だが今、ここには確かに「社会」がある。自分が見失っていたものが、目の前にあった。


 どうして、彼らはここまで統率を取れるのだろう。どうして、ここまで一体になれるのだろう。

 知りたい、と思った。知るためには、内側に入るしかない。

 僕は、動き始めた。まだぎこちない足取りで、そっと一匹のアリの後ろについた。


 今度は、見逃さなかった。彼女――いや、彼なのかもしれないが、その個体は確かに、僕を一瞥した。

 触角が、ふたたび僕に触れた。

 今度は、ただの接触ではなかった。そこに、何かしらの意味があるように感じた。


 群れに、溶け込んでいく。

 それが怖いことではなく、むしろ心地よいことのように思えた。


 流れに身を任せるように歩く。

 前へ、前へ。誰かの背中を追い、誰かに続きながら、ただ足を運ぶ。

 不思議なことに、動き続けているうちに意識がぼやけてきた。あまりに整った流れのなかにいると、考えるという行為さえ、やがてどこかへ溶けていく。

 だんだん、意識が希薄になって、現実と夢の境が希薄になっていき、

 

 ――ガヤガヤというざわめきが、耳の奥に染みこんできた。


 振動のはずのそれが、いつのまにか“音”になっていた。

 空気が湿っていて、ちょっと焦げたような匂いが鼻先をくすぐる。カップが置かれる音、誰かの笑い声、椅子を引く木の音。

 気づけば僕は、あのカフェのなかにいた。


 ああ、ここ、知ってる場所だ。

 白い壁と、すこし軋む木の床と、窓際に置かれた小さな鉢植え。

 入り口の横には黒板のメニュー。確か、カフェラテが売りだったはずだ。


 目の前の席に、誰かが座っていた。

 男だった。話し相手であることはわかるのに、顔だけが、どうしても思い出せない。輪郭が滲んで、表情が曖昧なままだ。


 でも、声は聞こえる。

 「そっちの小説、読みやすくなってたよ」

 「比喩、前より自然だった。やっぱり、いろいろ考えてんだな」

 そんな言葉に、僕はたぶん、うれしくて仕方なかったんだと思う。


 「うん、ありがとう。まだ全然だけど、ちょっとずつでも、書きたいものに近づけたらいいなって思ってる」


 たしかに、そう言った気がする。

 そのとき、僕たちは笑っていた。

 周囲のざわめきが遠くなって、そこだけが少し、明るかった。


 あの時間が、確かに存在していた。

 誰かと語り合って、笑い合って、あたたかなものを共有していた。

 ――僕は、一人じゃなかったんだ。


 その実感が、胸の奥でやわらかく広がる。

 もしかしたら、思い出したかったのは、言葉よりも、そのぬくもりだったのかもしれない。


 

 しかし、そんな優しくて柔らかい記憶は、目の前の現実に引き戻されてしまった。



 最初に感じたのは、湿った空気のざわめきだった。

 地面の匂いが変わる。風が止まり、世界が息をひそめたような静けさが訪れる。


 その瞬間、影が落ちた。

 ぬらり、と音を立てて、巨大な舌が地面をなでる。

 一匹。仲間が一匹、跡形もなく消えた。吸い込まれるように、ただ消えた。


 僕の足がすくむ。思考が追いつかない。

 地響きのように草が揺れ、視界の端で何かがぬめった皮膚をうねらせる。

 カエルだ。丸く光る両目、盛り上がった背中。僕たちの何十倍もある化け物。


 逃げろ――頭のどこかが叫ぶ。けれど、体が言うことをきかない。

 ぬるい汗のような液体が地面に滴り、仲間が二匹、三匹と吸い込まれる。


 だが、信じられない光景が続く。

 誰かが、敵の足元へ駆け出した。叫ぶように、何かを伝えるように。

 その背を追って、さらに何匹も――まるで訓練された兵隊のように、迷いなく突き進んでいく。


 顎で足に食らいつき、関節の隙間に潜り込み、動きを止めようとする。

 敵の皮膚に歯が立たないのかもしれない。けれど彼らは構わず、己を投げ出していく。


 それはただの戦いではなかった。“祈り”のようにさえ見えた。


 僕は鳥だったとき、ただ逃げて、ただ捕まって、ただ落ちて死んだ。

 モグラだったとき、何も知らずに、誰にも知られず、暗闇で息を引き取った。

 でも今、ここにいる仲間たちは違う。自分の死を、誰かのために使っている。


 自分の存在が誰かに続く。それを信じて動いている。


 ――こんな生き方があるのか、と胸が熱くなる。


 息が荒い。心が騒ぐ。恐怖と、なにか分からない感情で、目の奥がじんわりする。


 僕は、ひとりじゃない。

 この無数の命のなかに、僕も確かにいる。繋がっている。

 もし、僕の死が、この命の一つにでも意味を持つのなら。


 それは、ただの終わりじゃない。

 それは、生の続きだ。


 

 もう、怖くなかった。

 あの巨躯の元へ、まっすぐに。

 

 なんでもよかった。噛み付いても、噛み付けなくても、自分の命を他社のために使う。ただそれだけに心を囚われていたようだった。


 影がまた落ちた。仲間の叫びも、足音も、もう遠い。

 ぬるりと音がして、世界がゆっくりと反転する。

 視界が傾き、空がぐにゃりと歪んだ。


 飛び散る土。跳ねた肢体。

 ふいに浮いた。何も掴めない。何も感じない。


 でも、体のどこかが、確かに知っている。

 これが最後だと。


 熱が失われていくなかで、不思議なほど穏やかだった。

 痛みも、後悔も、なかった。ただ――ひとつだけ、心に浮かぶ。


 誰かのために生きる命が、こんなにも強く、美しいものだと知った。

 それは、自分がずっと知らなかった世界だった。


 僕は、かつて人間だった。

 その命を、一度は投げ出した。

 でも、もう一度知りたいと思った。

 あの世界を。あの人たちを。

 今なら、もう少し違う目で見られるかもしれない。

 この命を通して、もう一度――人間というものに、触れてみたい。


 そんなふうに、願っていた。


 


 土の匂いが遠のいていく。

 黒く、深く、静かな夜に沈みながらも、その奥に、あたたかさがあった。


 


 ……かすかな光が、頬を撫でた。


 暗闇の底、どこかで誰かの声がする。

 耳元で、なにかが鳴いている。

 甘いにおい。柔らかい音。ぬくもりの中で、眠るように漂って――


 ――わん。


 


 音を立てて、世界が変わった。



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