三章.祈りを持った足音
ざわざわと、何かが動いている。
無数の、小さな生き物が、空間いっぱいに蠢いている――そんな気配に目が覚めた。
瞬間、目の前に広がる異様な光景に息を呑んだ。
黒い粒のような無数の身体が、触角を揺らしながらひしめき合っている。天井も、地面も、壁さえも、それらの存在でびっしりと覆われていた。
何だ……これは……。
自分の体にも、他の個体と同じように細い脚が生えていることに気づく。身体は軽く、異様なほど小さい。
驚きが遅れて押し寄せた。
ここにいる全てが、自分と同じ「何か」であり、全員が、目的を持ったようにせわしなく動いている。
だが――誰も、こちらを気に留めることはなかった。
一匹のアリが触角を近づけてきた。ぴたりと擦り合わせるような動きを見せたが、それだけで何事もなかったかのように去っていく。
それっきり、どの個体も振り返らず、何の感情も感じさせず、ただただ淡々と、それぞれの仕事に戻っていった。
膨大な数の命が動いているはずなのに、不思議なほどに「生命感」がなかった。
整いすぎている。無駄がなさすぎる。そのことが、妙に不気味だった。
――まるで、生き物じゃないみたいだ。
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しばらくのあいだ、動けなかった。
まるで巨大な機械の内部に迷い込んだような、そんな錯覚に陥っていた。自分の目に映るすべてが、同じ姿のものたちで埋め尽くされている。だというのに、その一匹たりとも、僕には目もくれない。押し流されそうな数の中にあって、僕は孤立していた。
ただ呆然と、目の前を通り過ぎるアリたちを見つめていた。すぐ隣を通った者が、触角を一度擦り合わせてきたが、それきり何も起こらないまま、またすぐに別の方向へと消えていった。
生きているのに、まるで感情がない。会話もない。悲鳴もない。ただひたすら、無言で、正確に、次から次へと歩き続けていく。
けれど、ふとした瞬間だった。
誰かが何かを運んでいた。土の塊のようなもの。別の誰かは、その通路を清掃していた。さらに別の誰かは、奥から新たな個体を導いていた。
無秩序にしか見えなかった動きに、一本の糸が通る。散らばった点が、ゆっくりと線になる。
――違う、これは、ちゃんと意味がある。
気付いた瞬間、世界が反転した。混沌に見えた群れが、ひとつの意志をもって動いているように見えた。
なんという連携。なんという秩序。誰も命令していないのに、それぞれが今すべきことを知っている。
その精緻さに、僕は息を飲んだ。
群れが、一匹一匹の力で成り立っている。
一匹一匹が、全体のために役割を果たしている。
これはもう、生きるための合理性を超えて、美しさだと思った。
僕は、もともとひとりだった。鳥だったときも、モグラだったときも。
おそらく、人だったときも。
だが今、ここには確かに「社会」がある。自分が見失っていたものが、目の前にあった。
どうして、彼らはここまで統率を取れるのだろう。どうして、ここまで一体になれるのだろう。
知りたい、と思った。知るためには、内側に入るしかない。
僕は、動き始めた。まだぎこちない足取りで、そっと一匹のアリの後ろについた。
今度は、見逃さなかった。彼女――いや、彼なのかもしれないが、その個体は確かに、僕を一瞥した。
触角が、ふたたび僕に触れた。
今度は、ただの接触ではなかった。そこに、何かしらの意味があるように感じた。
群れに、溶け込んでいく。
それが怖いことではなく、むしろ心地よいことのように思えた。
流れに身を任せるように歩く。
前へ、前へ。誰かの背中を追い、誰かに続きながら、ただ足を運ぶ。
不思議なことに、動き続けているうちに意識がぼやけてきた。あまりに整った流れのなかにいると、考えるという行為さえ、やがてどこかへ溶けていく。
だんだん、意識が希薄になって、現実と夢の境が希薄になっていき、
――ガヤガヤというざわめきが、耳の奥に染みこんできた。
振動のはずのそれが、いつのまにか“音”になっていた。
空気が湿っていて、ちょっと焦げたような匂いが鼻先をくすぐる。カップが置かれる音、誰かの笑い声、椅子を引く木の音。
気づけば僕は、あのカフェのなかにいた。
ああ、ここ、知ってる場所だ。
白い壁と、すこし軋む木の床と、窓際に置かれた小さな鉢植え。
入り口の横には黒板のメニュー。確か、カフェラテが売りだったはずだ。
目の前の席に、誰かが座っていた。
男だった。話し相手であることはわかるのに、顔だけが、どうしても思い出せない。輪郭が滲んで、表情が曖昧なままだ。
でも、声は聞こえる。
「そっちの小説、読みやすくなってたよ」
「比喩、前より自然だった。やっぱり、いろいろ考えてんだな」
そんな言葉に、僕はたぶん、うれしくて仕方なかったんだと思う。
「うん、ありがとう。まだ全然だけど、ちょっとずつでも、書きたいものに近づけたらいいなって思ってる」
たしかに、そう言った気がする。
そのとき、僕たちは笑っていた。
周囲のざわめきが遠くなって、そこだけが少し、明るかった。
あの時間が、確かに存在していた。
誰かと語り合って、笑い合って、あたたかなものを共有していた。
――僕は、一人じゃなかったんだ。
その実感が、胸の奥でやわらかく広がる。
もしかしたら、思い出したかったのは、言葉よりも、そのぬくもりだったのかもしれない。
しかし、そんな優しくて柔らかい記憶は、目の前の現実に引き戻されてしまった。
最初に感じたのは、湿った空気のざわめきだった。
地面の匂いが変わる。風が止まり、世界が息をひそめたような静けさが訪れる。
その瞬間、影が落ちた。
ぬらり、と音を立てて、巨大な舌が地面をなでる。
一匹。仲間が一匹、跡形もなく消えた。吸い込まれるように、ただ消えた。
僕の足がすくむ。思考が追いつかない。
地響きのように草が揺れ、視界の端で何かがぬめった皮膚をうねらせる。
カエルだ。丸く光る両目、盛り上がった背中。僕たちの何十倍もある化け物。
逃げろ――頭のどこかが叫ぶ。けれど、体が言うことをきかない。
ぬるい汗のような液体が地面に滴り、仲間が二匹、三匹と吸い込まれる。
だが、信じられない光景が続く。
誰かが、敵の足元へ駆け出した。叫ぶように、何かを伝えるように。
その背を追って、さらに何匹も――まるで訓練された兵隊のように、迷いなく突き進んでいく。
顎で足に食らいつき、関節の隙間に潜り込み、動きを止めようとする。
敵の皮膚に歯が立たないのかもしれない。けれど彼らは構わず、己を投げ出していく。
それはただの戦いではなかった。“祈り”のようにさえ見えた。
僕は鳥だったとき、ただ逃げて、ただ捕まって、ただ落ちて死んだ。
モグラだったとき、何も知らずに、誰にも知られず、暗闇で息を引き取った。
でも今、ここにいる仲間たちは違う。自分の死を、誰かのために使っている。
自分の存在が誰かに続く。それを信じて動いている。
――こんな生き方があるのか、と胸が熱くなる。
息が荒い。心が騒ぐ。恐怖と、なにか分からない感情で、目の奥がじんわりする。
僕は、ひとりじゃない。
この無数の命のなかに、僕も確かにいる。繋がっている。
もし、僕の死が、この命の一つにでも意味を持つのなら。
それは、ただの終わりじゃない。
それは、生の続きだ。
もう、怖くなかった。
あの巨躯の元へ、まっすぐに。
なんでもよかった。噛み付いても、噛み付けなくても、自分の命を他社のために使う。ただそれだけに心を囚われていたようだった。
影がまた落ちた。仲間の叫びも、足音も、もう遠い。
ぬるりと音がして、世界がゆっくりと反転する。
視界が傾き、空がぐにゃりと歪んだ。
飛び散る土。跳ねた肢体。
ふいに浮いた。何も掴めない。何も感じない。
でも、体のどこかが、確かに知っている。
これが最後だと。
熱が失われていくなかで、不思議なほど穏やかだった。
痛みも、後悔も、なかった。ただ――ひとつだけ、心に浮かぶ。
誰かのために生きる命が、こんなにも強く、美しいものだと知った。
それは、自分がずっと知らなかった世界だった。
僕は、かつて人間だった。
その命を、一度は投げ出した。
でも、もう一度知りたいと思った。
あの世界を。あの人たちを。
今なら、もう少し違う目で見られるかもしれない。
この命を通して、もう一度――人間というものに、触れてみたい。
そんなふうに、願っていた。
土の匂いが遠のいていく。
黒く、深く、静かな夜に沈みながらも、その奥に、あたたかさがあった。
……かすかな光が、頬を撫でた。
暗闇の底、どこかで誰かの声がする。
耳元で、なにかが鳴いている。
甘いにおい。柔らかい音。ぬくもりの中で、眠るように漂って――
――わん。
音を立てて、世界が変わった。