二章.孤独の底へ
真っ暗だった。目を開けているのかさえ分からない。全身が重く、何か柔らかい土に埋もれているような感覚があった。動こうとすると、腕……ではなく、短い前肢がわずかに蠢いた。
呼吸が苦しい。湿った空気が肺に入り込み、のどにまとわりつく。自分の体が何者なのかもわからないまま、必死に酸素を求めて前へ前へと這い出そうとする。
ようやく少し前へ出ると、鼻先に冷たい空気が触れた。土の匂いと共に、ほのかに草の香りが混じる。そこでようやく自分が地中にいるのだと理解した。
暗闇の中で、もぞもぞと体を動かしながら、奇妙な違和感に気づく。腕も足も、もはや人間のそれではない。毛むくじゃらの体、丸まった背中、小さな目。記憶の中にある自分とは違う。
(また、転生したのか)
かすかに残っていた前の記憶――空。翼。風を切る感覚。そして……鋭い爪が首筋に食い込む感覚。
その瞬間だった。体が硬直し、土の中にいるにも関わらず、空を舞う猛禽の影が瞼の裏に浮かんだ。あの鋭い眼。掴まれた肉が裂ける音。落ちていく空。風を切る音と、自分の叫び。
喉が熱くなる。声をあげようにも声帯が震えず、代わりに口から湿った土が漏れた。
どこかで、地響きのような振動があった。小さな生き物にとっては、些細な揺れさえ死を予感させるものだ。獣か、あるいは何か巨大なものが近くを通ったのか。
恐怖が、理性を押し流した。生きなければならない。誰かが来る。殺される。踏み潰される。食われる。
その衝動だけが全身を支配した。四肢を動かし、ひたすら掘った。爪が土を裂き、湿ったトンネルを這うようにして前進していく。どこまでも、どこまでも。死の手が追ってくる前に、もっと奥へ。
どれだけ掘ったのだろうか。やがて振動は遠ざかり、土の中に響く音も静まり返った。ようやく自分の呼吸の音と心臓の鼓動だけが、世界のすべてになった。
土の壁に顔を押しつけながら、しばしの安堵を感じた。生きている。ただそれだけが、今の自分にとっての勝利だった。
だが、静けさが訪れると、記憶の残骸が静かに浮かび上がってくる。
(あのとき……落ちたのは、自分の意思だったのか)
鳥だったとき、確かに最後に思い出したのは、自分が人間だったころの記憶だった。高層ビルの屋上。柵の外。足元に広がる街の光。飛び下りる直前の、あの孤独な決意。
なぜ飛んだのか。なぜ、あんなにも悲しかったのか。誰かを恨んでいたのか。それとも、自分を憎んでいたのか。
考えようとした瞬間、再び別の記憶が襲ってきた。
猛禽の爪。突き刺さる痛み。地面に叩きつけられ、意識が遠のく瞬間。体がぶるりと震えた。考えている暇なんて無い。早く、早く行動しないと、死に繋がることを知っている。
逃げなきゃ――。
ただその思いだけが、全身を突き動かしていた。どこかに敵がいる。姿は見えない。気配もない。ただ「来るかもしれない」という妄想が、現実のように濃く迫ってくる。
振動がした気がする。音がした気がする。
身体はすぐに反応し、後先を考えずに土を掘る。掘って、進んで、隠れて、また掘る。息を詰め、鼓動を抑え、音を殺す。それでも胸は暴れるように上下し、恐怖が喉に張り付いて離れない。
何かに追われているような感覚が、ずっと背後にまとわりついていた。
自分を食べようとしているもの、自分を殺す存在――それが確かにいる気がした。いや、いた。あのとき、鳥の体で空を裂かれた、鋭い爪の感触と風を切る音。忘れられるはずがない。
だから掘る。必死で掘る。恐怖から逃げるように、無心で、無様に、掘り進んだ。
腹が減れば、根や虫をむさぼった。味など感じない。ただの燃料。口に詰め込み、嚙み潰し、飲み込む。満たされることのない空腹感は、まるで生きている証を問い詰めるように付きまとっていた。
少しでも止まれば、死が忍び寄ってくる気がした。
休むことができなかった。眠ることができなかった。次に目を開けた時、自分の体が無惨に裂かれているかもしれない、という悪夢が現実のように頭から離れなかった。
土の中は安全なはずなのに、どこもかしこも敵意に満ちているように思えた。小さな虫の動きにも過敏に反応し、息を潜め、体を固める。
世界があまりにも狭すぎた。
狭いからこそ、どこにでも危機が潜んでいる気がした。
誰とも会わず、声も交わさず、ひとりで、ただ、怯えていた。
だが、ある時、不意に心に穴が開いたような感覚に襲われた。何かが足りない。食べても、眠っても、何も満たされない。
それは空腹でも疲労でもない。もっと漠然としていて、もっと根深い。
静かな地中の奥で、ふと、何かを思い出した。
小さな部屋。カーテンの閉まった窓。誰もいない空間。泣いている子供の声。嗚咽が喉の奥で詰まり、声にならないまま、部屋の隅で膝を抱えていた――あれは、自分?
震えが止まらなくなる。恐怖とは違う。だが、もっと嫌なもの。もっと、逃げられないもの。
孤独。
それが、自分を蝕んでいたのだと、ようやく理解した。
このまま、また死ぬのか。しかも、一人で?
暗い土の中で、一体どれほどの命が死んでいったのか。誰にも知られず、記憶も残さず、ただ消えていった小さな命。そのひとつに、自分もなるのか。
怖い。怖い怖い怖い。
もう二度と、ひとりで死にたくない。
そう思った瞬間、衝動的に掘り進めていた。どこに向かっているのかも分からず、無我夢中で爪を動かす。身体が悲鳴を上げても止まらない。
何かに縋りたかった。何かに触れたかった。誰かに、気づいてほしかった。
暗闇の中に、もうひとつの記憶が沈んでいた。
土を掻きむしりながら、叫んだ。心の声を、誰も聞いてくれない。ただ、逃げたくて、外に出たくて、何かに縋りたくて――前足を、狂ったように動かした。
掘り進む。もっと、もっと先へ。ここではないどこかへ。
孤独から逃げたくて、ただそれだけで、土の壁を突き破ったその瞬間――
ごぼっ、と音がして、突然の冷たさが足元をすくった。
水だ。
次の瞬間、天井が崩れ、濁流がなだれ込んでくる。逃げる間もなく、体が浮き上がる。目も開けられない。息ができない。狭いトンネルに押し込まれたまま、水が喉を塞ぎ、肺を冷たく満たしていく。
苦しい。助けて。誰か。
(ああ……また、僕は……)
どこで間違えた? どうして、こんな死に方しかできない? 誰かにすがりたかっただけなのに。怖かっただけなのに。
冷たさの中で、孤独がさらに深く突き刺さる。
(誰か、僕を……見つけて……)
そんな願いが、水の中に溶けて消えた。
そして、意識は、音もなく沈んでいった。