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一章.はじまりの空

 風が、頬を撫でた。


 ひゅう、と細く鳴る音が耳の奥をくすぐる。身体が宙を舞うたび、空気が肌を滑り抜けていく。羽を広げ、ただ風に乗っている――そんな感覚だった。


 ……羽?


 まばたきひとつ。目に飛び込んできたのは、広すぎるほどの空。


 淡い青がどこまでも続き、頭上には白い雲が漂っている。手を伸ばせば届きそうで、でも遠い。下を見やると、深緑の山々が波のように連なり、その谷間を川が細く走っていた。


 どういうことだ。僕は、空を――飛んでいる?


 羽ばたくたびに身体が押し上げられる。風を切って進む。確かに、自分の意思でこの空を滑っているとわかるのに、それがなぜなのかまでは分からなかった。


 混乱している。けれど、恐怖はない。不思議と心が静かだった。


 地上は遠いのに、怖くない。小さな身体は驚くほど軽く、風とひとつになるような感覚だけが、そこにあった。


 耳に届くのは、風と羽音だけ。誰にも追われず、誰にも見られていない。ただ、ただ――自由だった。


 名も知らず、理由も分からないまま、空に溶け込むように僕は飛んでいた。


 


 風が羽の間を抜けていく。


 しんとした静けさの中で、空はただ広く、優しかった。遠くの山も、金色に染まった川も、ゆっくりと流れていくように見えた。


 何にも縛られない。何にも怯えなくていい。


 自由って、こんな感じなんだな――


 ふと、そう思った。


 その瞬間、翼が小さく震える。風の流れが変わったのか、あるいは疲れが出たのか。わかるわけもなく、高度がわずかに落ちた。


 前方に、大きな木が立っている。高く、枝ぶりが広い。


 視界の隅で、ある一点に心が吸い寄せられた。枝先に、小さな巣が見える。


「あれは…家?」


 小枝を何重にも束ねた、小ぶりのお椀のような形をしたその巣は、この小さな体で作り上げるにはどれだけの時間がかかったのだろうかと思わせるほど安定し、しっかりと枝先に固定されていた。


 体が自然と動いていた。羽ばたきを調整し、滑り込むように枝へ近づく。


 ふわり。


 枝がわずかに軋み、葉がそよぐ。その音は、どこか眠りを誘う子守唄に似ていた。


 足元には、小枝と枯葉で編まれた巣。初めて見るはずなのに、なぜだろう――ここが、自分の帰る場所だと、そう思えた。


 けれど、巣は空っぽだった。


 さっきまで胸を満たしていた解放感が、すっと消えていく。


 風だけが巣の中を通り抜け、乾いた音を残した。さっきまであんなに近くにあった空が、今ははるか遠くへ行ってしまった気がした。



 しばらく空を眺めていると、ふと、気付いた。


 ――いったい僕は、誰なんだ。


 名前が出てこない。顔も、過ごしていた場所も、まるで靄の中。記憶という記憶が、手のひらからすり抜けていく。


 ただひとつ、胸の奥に残っているものがある。


 死んだはずだ。


 何故かは分からない。どうやって死んだのかも覚えていない。

 でも、すべてを終わらせたはずだった。手放した。もう戻らないと、思っていた。


 けれど、こうして生きている。


 その事実だけが、やけに鮮明だった。


 涙が、頬をつたう。


 理由は分からない。ただ、胸の奥が寒くて、世界が遠くて、心が空っぽで。


 枝をなでる風が、また葉を揺らした。


 その音は、どこか寂しげで、誰かの声のようにも聞こえた。



――――――――――――――――――――――――――



 涙のあとに残ったのは、静けさだった。


 風が枝を揺らす音だけが、胸の内でぽつんと響いている。もう涙は止まっていた。ただ、体の奥にぽっかりと空いた隙間が、冷たく重たかった。


 ……いや、違う。これは――。


 「……お腹、空いた……」


 思わず、そんな言葉が漏れた。


 声になったのか、ただ心で呟いたのかは分からない。でも確かに、胃の辺りがきゅう、と鳴った気がした。


 それは人間だったときに感じていたものと、どこか違っていた。もっと直接的で、もっと鋭くて、もっと――原始的だった。空っぽの腹を抱え、枝の上で身じろぎもせずにいると、ふと視界の端に動くものが見えた。


 緑色の、うねうねしたもの。


 すぐそばの葉の上を、太った芋虫が這っていた。


 じっと見つめた。腹が、ぐぅと鳴る。けれど――。


 「……こんなもん、食べられるかよ……」


 無意識に顔をしかめていた。


 柔らかそうで、ぐにぐにと動いていて、いかにも“虫”だ。見ているだけで胃が逆流しそうになる。


 何かの冗談みたいだった。こんなものを食べなきゃ生きられないなんて。冗談じゃない。僕は人間だったんだ。食堂で、カフェで、ちゃんとしたものを食べてきた。


 そう思いながら、目をそらす。


 でも、腹は正直だった。時間が経つにつれ、空腹はどんどん鋭さを増していく。頭がぼうっとして、羽が重くなる。指先が痺れたように力が入らなくなる。


 ……無理かもしれない。


 このまま、餓えて死ぬのかもしれない。


 葉の先を見た。さっきの芋虫は、まだそこにいた。のろのろと、のんびり這っている。


 喉が、からっぽだった。


 僕は目を閉じて、羽ばたかずに首を伸ばした。そして、目を開けた瞬間、一気にその虫に食らいついた。


 ぬるりとした感触が口の中に広がった。反射的に噛もうとするが――歯が、ない。


 「……ッ」


 それだけで吐きそうになる。けれど吐けば、もう二度とこの味に向き合えない気がした。


 舌を使って、喉の奥へ押し込む。動きはぎこちなくて、どうしていいか分からなかった。口の中で転がして、なんとか呑み込む。


 ごくり。


 喉を通った。


 それだけで、体が震えた。


 信じられなかった。こんなものを食べたなんて。でも――腹の奥に何かが届いていく感覚があった。さっきまで冷えていた身体の中に、ほんのわずかだけど熱が灯った。


 生きている。まだ、生きている。


 そんな当たり前のことが、どこか遠い世界のようだった。



――――――――――――――――――――――――――



 腹が、少しだけ満たされていた。


 風に吹かれながら、巣の端にじっと立っていた。空は相変わらず静かで、雲の向こうから夕陽の光が木々の隙間に射しこんでいる。

 さっき食べた芋虫の感触が、まだ口の奥に残っていた。


 あんなものを食べた。それが“生きる”ってことだった。


 噛めもしない、味わえもしない。ただ、喉に押し込むようにして――それでも、生きるためにはそれしかなかった。

 そうしなければ、死んでいた。


 ……あのとき、自分は確かに生きようとしていた。


 自分の命のために、別の命を奪った。残酷だったかもしれない。でも、それが生きるってことなら、仕方ないと――そう、思っていた。


 ――音がした。


 かさり、と。


 背後の枝が、わずかに揺れた。


 風じゃない。風の音とは、違う。


 瞬間的に、脳が危険を察知した。振り返る間もなく、背中に影が落ちた。


 ドン、と重い何かが体にのしかかる。鋭い爪が羽の根元を挟み、肉を裂く。

 痛い。焼けるような熱さが背中を走り、口から叫びが漏れた。


 体が空中に引き上げられる。羽ばたこうとしても、爪が深く食い込んで、思うように動かせない。

 羽音は乱れ、風の感触もどこか遠い。


 視界の隅に、鋭い目と鉤爪、そして湾曲したくちばし――。猛禽類。

 理解した瞬間、血が凍りついた。


 生きたい。助かりたい。空へ戻りたい。

 空はあんなにも美しかったのに。風はやさしかったのに。


 嫌だ。死にたくない。


 翼をばたつかせる。必死に暴れる。でも、力が足りない。

 鋭いくちばしが首筋へと迫る。


 やめて、やめて、やめて――!


 心が叫んでいるのに、喉からはか細い鳴き声しか出なかった。


 今ならまだ逃げられる。そう思いたかった。けれど、体はどんどん冷えていく。

 羽が破れ、視界が揺らぐ。周囲の木々が逆さまになり、空が遠ざかっていく。


 くちばしが、首の根元に突き刺さった。


 呼吸が止まる。視界の隅が黒く染まっていく。体が、何かを諦め始めていた。


 それでも、心だけは叫び続けた。


 生きたい――!


 まだ、終わりたくない。あの空に、もう一度、戻りたい。


 でも、空はもう見えなかった。


 風の音もしない。聞こえるのは、自分の命が削られていく音だけ。


 痛みはやがて、静かになった。











――――――――――――――――――――――――――


 頭の中が、ぐるぐる、ぐるぐると。

 走馬灯というやつなんだろうか。記憶が浮かんでは、消えていく。

 飛んだ記憶、食べた記憶、襲われた記憶。


 そして、一つだけ、自分が人だったころの記憶。


 あの日。

 左手に原稿を、右手には万年筆を携えていた。


 ただ、悲しくて、寂しくて。

 何かに絶望して、全てを諦めていた。


 止めどなく溢れ出た涙は止まる様子をいっこうに見せない。

 

 そのまま、夕焼け溶けるように落ちていく。

 

 茜色に染まった夕陽に僕が死んだ日。


 思い出したのは、ただ、そんな記憶だった。


――――――――――――――――――――――――――









 すべてが終わったのだと、体が告げていた。


 風も、光も、音も――何もなかった。

 自分という存在が、この世界からそっと切り離されていく感覚だけがあった。


 これが“死”なのだと、静かに思った。


 ――それなのに。


 どれだけ時間が経ったのだろう。

 ふいに鼻先を、湿った土の匂いがかすめた。


 頬に押しつけられる重さ。全身を包むような圧迫感。

 息苦しさと共に、指先が柔らかな地面を感じ取る。


 目を開けようとしても、何も見えない。

 けれど、それは暗闇のせいではなかった。そもそも、目がほとんど機能していない。


 ――土の中だ。気づいたときには、もうそこにいた。


 死んだはずの自分が、再び生きている。


 それは、とても静かな目覚めだった。


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