雪桜〈2017年3月〉
もう春が訪れかけているというのに、その雪は止むことを知らなかった。
吹き抜けであるエントランスの窓からは、花を咲かせている庭の桜の樹が白い雪に覆われているという、実に寒そうな景色が見えていた。
「引っ越してきたばかりなのに、ずいぶんな仕打ちだな。いや、花見と雪見ができるというのは、むしろ幸先が良いと考えるべきか?」
階段の踊り場に立って、賢助が言った。
「……」
かたわらの賢治が、何か思うところがあり気な顔で二階の廊下へと向かう。
「ん? 部屋に戻るのか」
「出かけてくる。ちょっと五色高まで」
賢治がそう言うと、賢助はやや驚いた顔で「こんな日にか?」と訊く。
「こんな日だからこそ、だよ。学校が始まれば、雨だろうと雪だろうと行かなきゃいけないんだから」
「そうか……気をつけてな」
賢治は四月から、五行町にある五色学園高校に通うことになっている。天気の悪い日に登校するのはどのようなものか、実際に行ってみて確かめたいという賢治の言い分は理に適っている。だが、目的はそれだけじゃなかった。
――三月の雪降る街を見てみたい。
そんな童心が、重たい彼の足を突き動かした。
ローファーだけは通学用のを履いていくが、さすがに制服は着ていかない。コートを羽織り、バックパックを背負って、玄関へと赴いた。
ひゅう――
玄関の扉をあけると、早春とは思えない湿った寒風が賢治を見舞った。
青梅邸の広い庭には、いくつもの樹や生垣が植えられている。庭師を雇ってはいないので、植木屋に時おり切ってもらうのである。
(間近で見ると、さらに冷たそうだな……。でもすごく綺麗だ)
七分咲きの桜に、雪が積もっている。氷をまとった薄桃色の花弁は、喩えようのない美麗さを誇っていて、賢治の心を甚く惹きつけた。
しかし、であった。
(……もう行こう)
目に映る景色が、美しければ美しいほど虚しさも同時に湧き上がってきた。
いくら美しいものを見ても、その経験を分かち合える人間はほとんどいない。今も、そして今までも。友人となると、皆無に等しかった。
ロートアイアンの門を開き、敷地の外へと出る。
とぼとぼとした足取りで高級住宅街である巽町を歩く。平日昼間の住宅街、それもこの天気と来れば、人通りはほとんどない。
太七川を渡ると市の中心部である五行町であり、商業施設が多くなってくる。一際目立つ市役所庁舎を通り過ぎると、いよいよ目指す五色高校が見えてきた。屋上に展望台がある極めて珍しい外観のため、とても目立つ。
(着いちゃった……)
目的地に到着した。家からの距離は二キロ。徒歩で二十四分かかったのは、この気候のせいだろう。門の向こうの桜並木は、青梅邸と同じように雪が被っていた。校庭は白く染まり、部活をしている生徒の姿は全くなかった。寒々とした光景を見ていたら、身体の芯まで冷えてきそうだった。
「帰るか……」
白い息を吐きだし、踵を返して帰路に着こうとした――その時だった。
「おおおぉぅ! すごい、すごいぞこれは! 桜と雪のコラボなのだ!!!」
静寂を打ち破る喜色に満ちた声とともに、小さな黒い影が脇を通り過ぎた。
一体何なんだと、撥に打たれたように鼓動する心臓を抑えながら振り向く。
すると、長い黒髪の女の子が五色校の敷地内へ入っていくのが見えた。元気に溢れた声は、彼女によるものだった。
「¡Guay! こりゃあ、すごいね」
「ちょっと、勝手に入っちゃダメだよ。先生に怒られるよ」
女の子を追いかけるように、赤毛の少年と栗色の髪の少女が駆けていく。
賢治のなかに、彼らがうらやましく思う気持ちが湧きたつ。
どんな景色であったとしても、経験を分かち合う仲間がいるというのは、どれだけ空っぽの胸を満たしてくれることか。
虚しさと寂しさが、賢治の心身の奥まで侵していく。だが、寒気に耐えて家に着くころには……三人の姿かたちは、もう思い出せなくなりつつあった。




