養分の呟き
気が付くと見知らぬ景色の中にいた。
ここはどこだろう、と周囲を見渡す──視線を巡らすことは可能な、木々と下草、梢の隙間から空が見えた。
自分以外の生き物の呼吸音は聞こえない。遠くから、虫か鳥の鳴き声らしき響きが、微かにある。
静寂と言っていい森の中、怪しげな気配や危機感はない、ようだった。
己に注意を向けてみる。
見たことのない衣服は粗い造りで、履き物は──木底に留められた布が足の甲を覆っている形だ。袋状になっている布に足を入れ、外側からぐるぐると紐で縛り密着させている。固結びされ解けないようになっていることから、外履きと推し測れた。
ズボンと裾の長いシャツ、チュニックはおそらく同素材。金具のあるベルトでなく、紐で腰回りに合わせている。下着、パンツというかトランクスは──穿いている感覚がない。チュニックの下も、素肌のようだ。
なんというか、スカスカして未だかつてなく心もとない。
当たり前のように、靴下もなかった。
両手を開いて、見下ろす。
見慣れない肌の色は、記憶にある自分のそれより濃い。大きさも違う。たくさんの傷痕、凸凹の溝がある知らない爪の形、関節が目立つ──節くれ立った、指。
触れて確かめれば、その皮膚は堅い。出血のない細かい切り傷は新しく、爪や指先は汚れが沈着していた。
指を順番に折り、曲げ、開く。繰り返すと、徐々に馴染んでくる、気がする。
顔に触れてみた。
ざら、とあまり衛生的でない荒れた肌と知れた。髭は生えていない。揉み上げは長く、如何にも適当に切られた髪は不揃いな長さで、少しだけ癖があった。
襟足は短い。
それからようやく、背負っていたものを下ろした。
籐より太く、竹でない編みかごは、蔦製だろうか。中には乾燥した落ち枝葉が入っている。
「……あー」
これが今の自分の仕事、なのだろう。
思わず出た小声は、男性にしては高い。手や全身の大きさと合わせると、変声期前の少年、なのだろう。
チェンジリング、なのだろうか。
最近観ていたアニメを思い出して、首をかしげる。
魔物だか魔法だかの力で、人種が変わる現象。
いや待て、アニメってなんだ。TVやネットで放送されている番組、ってテレビってなんだ。仕事休みにまとめて観て、って仕事? なんの?
「……え、あれ、ちょ……」
記憶がブレて遠退きそうになる。知識が、揺らぐ。自我が、端からドロリと溶ける。
「待て待てちょい待って、タイムタイム」
霧散蒸散していくあれこれを、繋ぎ止めようと頭を抱える。色んな細かなことが、埃のようにふわふわと舞って彼方に散らばって離れていく。待って、いかないで、それは大事な──。
「……あれ」
気が付くとおれは、薪森の中でしゃがみこんでいた。何故か背負いかごを下ろして。
「んー……?」
ばたばたと手足を動かし、頭に触って怪我や異常がないことを確かめる。かごを見ると、落ち枝はまだ半分も入っていなかった。これはまずい、食事を抜かれてしまう。
慌ててかごを背負い、立ち上がって周囲を見回す。目立つ落ち枝はない。場所を変えなきゃ。
下草を掻き分け、ゆるい斜面を上る。たまに生えている灌木に突っ込んで、邪魔だと腕で払う。折れた小枝を拾い、かごに放り込む。
生木は折檻対象じゃなかったか、と一瞬躊躇したが、こんな小枝なら貯木小屋ですぐ乾くだろう、と忘れることにした。
「遅いぞ」
管理役に苦言を呈されつつ、彼の前にある確認箱へ背負いかごをひっくり返す。ざっと手で広げ、落ち枝葉と小枝以外の異物を収穫していないことを証明すると、かごを回収され箱を運搬する流れだ。
柄のない木箱は、持ち運びにくい。
貯木小屋のはしごを上り、投入口で箱を傾けると中から羽虫が飛び出した。顔に当たって気持ち悪い。
はしごを下り、置き場に積み上げられた箱山で手ぶらになってから、はじめて顔を払える。
そのまま配膳場へ行くと、かちかちのパンの端が入ったスープ皿を渡された。匙はない。そんな上等なもの、おれたち下働きには渡されない。
パンの端を匙の代わりにして、ほとんど具がないスープを掻き込む。皿の表面を拭う頃には、パンもそれなりに柔らかくなっているから、口に放り込んだ。
大事に咀嚼しながら、考える。
薪森の中で目覚めてから増えていた「知識」は有益で残酷で、九歳になるおれにはいささか手に余った。
ここではない何処かで成人した人間のそれは、にわかには信じがたいものばかりだ。
ひどく清潔で、合理的で、義務と権利と倫理が確立していて、法律と規則と自由がある社会だ。原理が分からない便利なものに囲まれていて、教育が施され、身分差や貧困や寒さや飢餓はゼロではなかったが縁遠いものだった。
とにかく言葉が多彩で、市井の一庶民でありながらとんでもなく賢い。豊富な語彙と様々な分野の学問、娯楽と宗教、哲学や経済観念。迂闊に口を開けば、喋り方だけで珍しがられ、忌避か排斥は間違いないだろう。
下働き、と呼ばれているおれは、その知識に照らし合わせると「生存権が最低限保証されている」奴隷といったところだ。
口減らしのために水呑百姓の両親に売られ、農奴を抱える地主の下で飼われている、といった感じ。
奴隷階級の者が薪森への立ち入りが許されている、ということはつまり、厳格な森林管理がされていないということだ。無許可で木を伐って首を斬られ晒されるような、中世ヨーロッパとは異なる社会体制なのだろう。
と言っても、辺境故に緩いだけで「昔のヨーロッパにタイムスリップした」のか、「開拓初期のアメリカ辺り」なのか、「創作における異世界」なのかも、判然としない。
自分以外の人間──奴隷管理役や配膳場の下働き、他の奴隷たちの顔立ちから、東アジアやアフリカではない、と想定はできるが。
中央アジアと西アジアの人種区別もできない「目」では、地域特定は無理だろう。そもそもここが「地球」であるかも、判断できないのだから。
藁叩きと藁編み、家畜小屋掃除といったいつものルーティンをこなしながら、観察と推測を繰り返した。そう言えばおれって完全に児童労働だよなあ、ここでは当たり前だし、別にいいけど。
仕事ごとに使用を許可される道具は、すべて木製だ。反乱や下剋上防止のためだろうが、規格もクソもなく使い勝手は最低。傷みや腐食ですぐダメになる。
しかし木製道具を使うということは、木材の定期補充が必要になる。何処かで木を伐り、貯木小屋のように乾燥させる置き場があり、加工する人間と道具があるはずだ。
改めて、毎日お世話になっている貯木小屋と下働き小屋を観察する。
超絶適当なログハウス以下の木造物置と、石積壁に枝梁屋根で雨漏り当たり前の小屋だ。布団なんて上等なものはなく、藁のむしろ一枚寝具。枕すらない。
ざらついた一張羅はろくに洗濯できる機会もなく、たまに管理役命令で灰をまぶし洗わされるが──指や手のひらの皮がボロボロになるので、奴隷仲間はみんな嫌がる。
嗅覚疲労がなければ、発狂してるだろうなあ。
と、いうわけで。
おれの頭に宿った「知識」と照らし合わせて、改善すべき優先順位を決めた。
衣食住、は最低限保証されているが、圧倒的に「食」だ。成長に必要なカロリーが悲しいほど足りない。
そして配給以外で補うとなると、薪森と排水川がポイントになる。
更にそれには、道具がいる。
安全性の担保もいる。この環境で腹でも下そうものなら、取り返しがつかない。
なのでおれは、先ず薪森で石を集めて隠すことにした。他の児童奴隷も立ち入り、落ち枝葉を集める場だ。目立てば荒らされ、似たようなことを考える奴には奪われ、知恵がある奴なら管理役に報告されかねない。
後々の実験を考えて、大きめのものを優先した。小石は投擲練習に使い、すべらかなものは布木靴の中に隠す。靴を縛る細紐の結び方を変え、すぐに解けるようにした。
アウトドア「知識」がもっとあれば、と思ったが、無い物ねだりをしてもしょうがない。
集めた石を打ち付け、硬度と強度と特徴を覚える。砥石、という「知識」に基づいて擦り合わせてみたり、黒曜石、とやらがないことにがっかりしたり。
どうにか石刃、と呼べるものができたので、今度は蔦や枯れそうな下枝を伐る。大音を立てて訝しまれては元も子もないので、少しずつ。
伐った下枝は灌木の下に押し込み、ある程度乾いてから回収するようにする。これで森の中での「実験時間」が倍増した。
クマやイノシシに遭遇すれば強制終了なので、獣の気配を探りながらだが。
蔦は万能だった。
森の中で見付けた池塘に朝イチで浸け、昼に引き上げて隠し、を繰り返して表皮を腐らせ、石刃で裂いて編んで乾かす。
割れ目を入れた枝と石刃を蔦縄で縛り、小斧と短槍モドキを作れた。
編みまくり繋げ倒して、どうにか手提げかごができた。
平編みにすれば、布状のものもできるだろうが、流石に時間が足りない。
おれは枝集めに時間がかかる、出来損ない呼ばわりされるようになっていた。立ち入りを禁じられ、別の場所の仕事を増やされても困るので、あまり薪森には長居しないように──したかったんだが、うーん。
ついつい色んなことに没頭してしまうんだよなあ。
あと一つ、と思うタイミングで切り上げるように心掛けたら、まあまあ遅い奴、くらいになったので良しとしよう。
ノネズミの巣穴を見付けたので、毎日一種類ずつ謎の植物を与えてみた。草の実、木の実、手提げかごで池塘を掬って獲れたカワエビっぽいもの、倒木の中にいた幼虫。
要は毒見役だ。
真っ赤で小粒な木の実を与えた翌日、数匹倒れていたので有毒かと思っていたら、酔っぱらっていただけだった。人騒がせな。
枝打ちをした断面に、泥を擦り付けて目立たなくさせる。本当は灰や樹脂の方がいいんだろうけど、手に入らないから勘弁して欲しい。おれはまだ、自力で火熾しもできないんだ。
代わりに虫除けの香草を噛み潰して、上塗りしてみる。おれの肌はかぶれなかったから、多分効き目はある、はず。
幾つか凹凸をつけた靴の木底で、足を滑らすことが減った、気がする。
ノネズミの骨を磨いて作った原始的な針──糸通しの穴がどうやっても作れなかったので、鉤針が限界だった──と蔦の繊維で、密かにできた内ポケットは、とても便利だ。
降雪や、氷点下の気温にならないこの地は、かなり生きやすい気候だと思う。雨は年間通して少ない割に、井戸水の地下水や森の池塘があるので、遠くないところに高山帯があるのかもしれない。
食える実を摘み、虫を払って口に入れる。
食える香草をちぎって、噛みしだく。
十歳になったから、と回される仕事が増えた。カブ畑を一区画、排水川の底浚い。
川泥や家畜の糞は畑に鋤き込むので、一応肥料の概念はあるようだ。野積された糞と敷き藁は端から切り崩していて、恐らく冬場に湯気が立っているのを見たから、どうやら発酵分解はされているっぽい。おれの借り畑の隅で、切り返しやあれこれ足してみよう。
どうやら魔法や奇跡は、見渡す範囲にはないようだった。あればどれだけ、おれの生き方は変わっただろう。
だが、あったとして──おれがそれを行使できたとしても、果たしてこの世界で、生き延びることはできただろうか。
カブは畑の一畝だけ連作せず、森や川岸で見付けたあれこれを植えて様子を見よう。カラスノエンドウっぽいやつが、「知識」の通りだといいんだが。
ところでおれの名前は、エンという。
大して珍しいものでもないが、「知識」によるとここではない何処かでは、知己や由来や豊かな地や円いもの、淵や辺境を意味する響きであるらしい。
いい名前なんだ、と誇れるようになったのが、おれにとっての「チート」だと思う。
閲覧下さりありがとうございました。
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