「第三十八話」未練
「……ッ!?」
突然の襲撃者に驚き、咄嗟に私から離れるクロ。その判断は正しく、迅速だった。
しかし、僅かに一歩遅い。上空から落ち来たる彼の一撃は重く鋭く、足元の氷塊ごと……いいや、私を覆いつつあった氷ごと抉り吹き飛ばしてしまったのだ。足場の殆どを吹き飛ばされ、クロは大きく後ろへ飛ばざるを得なかった。
「……」
着地した彼を中心に、氷が抉れひび割れている。それは彼の膂力や、放たれた拳の威力を物語っていた。破壊された氷の残骸が、流氷として海を漂っている。
氷の礫が吹きすさぶその中で、私は彼に抱きかかえられていた。
「何だ、テメェ……!」
割り込まれたことにより、クロの怒りは頂点に達していた。雪のように白い肌が、興奮で赤く染まりつつある。私を抱きかかえているこの人に対して、とんでもない殺意と敵意を向けながら。
「……」
しかし、答えない。
代わりに彼は立ち上がる。ゆっくりと、しかし一瞬の隙も見せない威圧感を以て。
「……エルマ」
「ごめん、遅くなって」
そんな彼は、物凄く怒っていた。クロに対して、私を殺そうとした紛れもない存在に対して……人間だとは思えないような、化けの皮を破って出てきた獣、いいやバケモノのような形相をしていた。──だけど。
「今、助ける」
地獄の業火のような怒り、その火種の中心となっているのは……自らへの怒りのようにも思える。事実彼は、自らの唇から血が出るほどに、己に感じる何かを噛み締めていた。
ただの殺しではなくて、救うための殺し。
個人的な憎悪ではなく、自分以外の誰かを傷つけられたことによる、誰かのために在る怒りだった。
「……うん……!」
それが嬉しくて、嬉しくてしょうがなくて、私は凍える手足なんかよりもずっと……ずっと、胸のあたりと目元が熱くてしょうがなかった。
(ごめんなさい、クロ)
ありがとう、って。そんな風に言うことは、できないけど。
(私にはまだ、未練って呼べるものがある。──だから)
「……エルマ」
もう、私は動けないけれど。
託すことは、任せることはできる。
「あの子を、止めて……!」
「分かった!」
即答だった。
だからこそ、嬉しかった。
詮索も理由も聞かず、ただ私のワガママを黙って聞いてくれる。なんともまぁエルマらしいというか、そんな彼のどうしようもないぐらいに広い優しさに頼っている私自身に、今一度嫌気が差した。──でも、それ以上に。
(あったかい……)
今はただ、この力強い腕の中で微睡んでいたかった。




