「第三十三話」逃避
(ティル視点です)
潮風が髪を揺らし、頬を撫で去っていく。浴びれば浴びるほど肌がべとついていくこの感覚を、何も考えずに受け続けている。
何をしているのだろう、と。自分でも思う。
今自分がやっているのは逃避であり、延命であり、臆病だった。遅かれ早かれどうせ王都に行けば、自分が何なのかが彼に晒されてしまうのは避けられない。分かっているはずだったのに……ここに来て私は、彼の傍にいることを恐れてしまっている。
「あの小僧のところに戻らなくて良いのか?」
水を差す様に、一人の騎士が来る。
使い古した鎧、乱暴に束ねられた白髪。──王国騎士ジグド。『竜殺し』の名を冠する、対空・対巨大魔物戦においての基本戦術を作り上げた、騎士団の要。生ける伝説。
「別に、今戻ろうと思っていたところです」
「ワシには、戻りたくないように見えるがな」
睨みつけるように、私は横目でジグドを捉えた。それでも彼は怯まないし、恐れない。並大抵の騎士であれば尻餅をつくか逃げるかのどちらかなのに、この男は真正面から私を見ている。──昔からそうだった。私より弱いくせに、私の考えをピタリと当ててくる。
「何が言いたいんですか?」
再度睨みつける。今度は、少しだけ敵意を添えて。
それでも、彼は言うべきことを言ってくる。
「そろそろ向き合ったらどうだ、と言っているんだ」
ふざけんな、ぶっ殺すぞ。
簡単に言うな、それで私が「はいわかりました」って動くとでも思っているのか? いつまでも師匠面をするな、今の私なら丸腰でもお前を殴り殺せるんだ。
そんな安直な考えで、私がこれまでどれだけ裏切られたと思っているんだ? 人間から向けられる軽蔑の目を、露骨に示される悪意を、お前は知らないからそんなことが言えるんだ。
「お前が今回の作戦に参加するのは構わない。寧ろありがたい……だがな、私情に気を取られて剣を鈍らせることは許さん。お前は魔人である前に、多くの人々を救うと誓った聖騎士なのだ」
正論、ああ正論だ。
ああ分かっているさそんなこと。そんなこと、忘れられないあの日からずっと分かっていた。
「最後に一つ、助言をしてやる」
間合いの中に踏み込んでくる。そこに恐れも、警戒もない……ただあの頃と同じ、人の心に土足で踏み込んでくるだけだった。
「言葉にしなくては、想いは伝わらん」
そう言って、ジグドは踵を返した。去っていく背中を睨みつけながら、私は拳を握りしめた。意識して抑えなければ、今すぐにでも八つ当たりをしてしまいそうだった。
「……分かってる、けど」
ああ怖い。殺されるよりも、殺すよりも。
「嫌われたく、ない……!」
一人になりたくない。
彼に、あいつらと同じような目で見られたくない。
震えながら、蹲ったまま、私はいずれ来る「もしも」に怯えていた。




