「後編」最後の晩餐
食いたい、噛みたい。
啜りたい、舐めたい。
舌の上で、あいつを転がして。
ゆっくりと、咀嚼したい。
溢れ出る食欲。捕食者である俺を、激昂した獲物が迎え撃つ。
『────!!!!!』
横殴りの一撃。圧倒的な質量と重さを以て放たれるそれは、直撃すれば一瞬でひき肉になるであろう威力を秘めている。しかし恐怖よりも怒りよりも、俺は目の前の異形が美味しそうに見えて仕方なかった。──遅い。大ぶりの一撃を右に避け、そのままオーガの右肩に飛び乗る。
「いただきまぁすっ」
先程噛み千切った部分に齧りつく。オーガの悲鳴にも似た咆哮……それさえも俺にとっては、味を引き立たせるスパイスに過ぎない。
「うぁああうめぇ! なぁぁんだこれ、こんなのハジメテだぁ!」
欲望のままに食い千切り、飲み込み……体全体が熱くなっていって、また俺は噛み千切る。
『───…………!!!』
「ま、魔物を食っているだと……!? ええい、引き剥がせ!」
青ざめた髭面の声と共に、俺は振り払われる。今度はきちんと着地して、それから口の中に残った肉片を飲み込む。口の周りにべっとりとついた血を舐め取っても、まだまだ足りない。──後退りをするオーガを、俺は再び見据える。
「……活きが良いねぇ。でもぉ? そろそろ、シメよう」
自然と、右腕に体中の熱が収束する。それは違和感に変わり、皮膚を突き破り音を立てながら現れ……右手首から翼のように、血を滴らせた長い結晶の刃が形作られていった。──丁度いい、これで食べやすくできる。
「まさか、それは……オーガの力!?」
「──ッハァ!!!」
「っ、殺せぇ!」
怯えるオーガ、青ざめた髭面。間抜けで、滑稽なそれらは……口の中に残る血を味わい深いものとした。寄越せ、もっと食わせろ。
悔し紛れの反撃を避け、右腕を振るう。
ずばん。
『──、──』
「あ、あああ……!」
袈裟斬り。俺の着地と同時に、真っ二つになった獲物の上半身が落ちる。それに続いて下半身が膝から崩れ落ち、周囲に血の雨を降らせた。
「はは、はははははは!!!」
「ひっ、ひぇええ……いぁあああぁあああああ!!!」
叫びながら逃げ出す髭面。血の雨に打たれながら、口を開けてそれを舐め取り飲み込みながら……俺はただただ食による愉悦に浸っていた。甘い、しょっぱい、苦い、香ばしい、しつこくなくあっさりすぎず……最高の、味だった。
雨が止み、俺は血溜まりの中にいた。──まだ、腹が減っている。
飢えが、渇きが、頭が割れるほどの痛みが一気になだれ込む。
藻掻くように、俺はオーガの死体に飛びついた。
「あぐっ、ああ、うう……ああああああぁぁぁああああああ!!!!」
硬い外殻を噛み砕き、その奥にある肉に齧りつく。いいやそれだけでは足りない! 殻も、骨も。頭も目も脳みそも心臓も全部全部足りない足りない足りない食いたい食いたい食い足りないんだ!
啜りながら、飲み込む。どれだけ食っても腹は満たされず、ただただ次の味を渇望している。体中が熱くなっていく。骨が骨ではなく、肉が肉ではなく、血が血ではなく……今まで俺の身体を造っていた何かが、全く別のものに変わっていく。──怖い。その時初めて、俺は食欲以外の感情を抱いた。
食べるのをやめないといけない。そう思っても、俺は食べるのをやめられなかった。自分の体が自分のものではないのでは? そもそも自分の家族の仇を美味いと、狂ったように食い続けている俺は……本当に人間なのか?
半端な理性が、暴食による狂気の中で喚いている。それがおかしいと分かっていても、俺自身では止めることができない。涎を垂らし肉を鷲掴みにして、ただただ咀嚼して飲み込んでいく。
このまま自分は、食い続けるのだろうか。
もしもこの魔物を全て食い終わったら、次は何を食べる? ──次の獲物を探す。
「うぅ、うぁ、ああああぅぅっくっ……!」
飲み込みながら、喉に肉を詰まらせながら叫んだ。駄目だ、このままでは俺は獣になってしまう。誰か、誰か……母ちゃん、カイ。たすけて……ああ、そうだった。
みんな、こいつにくいころされたんだ。
「……ぁ」
ああ、ぜんぶなくなっちゃった。
おいしかったな、もっとたべたいな。
どこかに、いないかな。
「……いた」
あいつのたべのこし。だめだよ、のこさずたべなきゃ。
おいしそうだな、いいにおいだな。ちょっとちいさいけどまあいいか、さっきよりもおいしそう! ちかづいて、つかんで。まずはなめて……ああ、やっぱりおいしい!
「あは、あは。いただきま──」
「負けないで!」
──はがいじめ。
なんだよ、じゃましないでよ。
「ぁぁぁ、ああああああああ!!!!!」
「大丈夫、あなたはまだ誰も食べてない……食べさせないっ!」
うるさい、はなせ。
すごいちからだ、なぐってもけってもはなしてくれない。
「っ……深呼吸! 吸って、吐いて。吸って、吐くの!」
すって。
はく。
すって、すって。
……また、吐く。
「……ぁ」
霞んだような思考が、晴れていく。
自分が今まで何をしていたのか、そもそも何がどうなっているのか……それら全てが、頭の中になだれ込んでくる。それは猛烈な頭痛を伴い、俺は動けなかった。
「はぁ、はぁ……俺は、何を」
気づく。俺は、羽交い締めにされていた。
誰にやられている? 首だけを後ろに向けると、そこには美しい女性がいた。
照り輝く金髪、一点の汚れもない白い肌。青い瞳は淡く、しかしその奥には深い青が隠れこんでいる。──きれい、と。素直に俺はそう思った。
「……えっと」
「よかった」
拘束が緩んだかと思いきや、今度は優しく……しかし、強く抱きしめられた。人肌の温もり、女性特有の甘い香り。それらは、俺の心臓の鼓動を高鳴らせていく。
「まだ、生きている人がいて」
嗚咽を漏らしながら、俺の背中に顔を擦り寄せてくる。縋るような、甘えるような……なぜそんなことをしているのか、されているのかは分からない。それでもたった一つだけ、分かることがあった。
「ありがとう、助かってくれて。人間のままでいてくれて」
この人は心の底から、俺の無事を喜んでくれている。
会ったばかり。しかもあんな醜い姿を晒し、呻き散らし……殺した魔物の死体だけでは飽き足らず、危うく自分の弟の死体までも食おうとしていた、俺なんかを。とても人間とは思えないであろう俺を、人間として助けてくれた。
「……う、ぁ」
嬉しさが、感情の蓋を開けた。突然訪れた家族の死、奪われた未来、おかしくなってしまった自分自身。一気に押し寄せてきたそれらは、俺から常識を奪い去っていくのではないか……事実、俺は人間から獣になってしまうところだった。そう思うと、恐怖で涙が止まらなかった。
「こんな体になって、カイも母ちゃんも殺されて……これからどうやって生きろってんだよ……!」
拭っても拭っても、未来が見えない。
過程はどうあれ、俺は人間ではない何かになってしまった。魔物も人間も見境なく食おうとする、家族の死体にでさえ涎を垂らすような……魔物と同等、いいやそれ以上のバケモノに。
「……あなた、名前は?」
俺を抱きしめている女性が唐突に尋ねてきた。
「エルマ」
「エルマ。うん、いい名前だね」
そう言うと、女性はようやく俺から離れた。そのままその場で立ち上がった彼女は、太陽の光を背に俺を見てきた。
「私はティル。エルマ、あなたには今……二つの選択肢があるの」
ティルと名乗る女性はしゃがみ込んだ。俺の目線に合わせてくれたのだろうか? 向けられたその真剣な眼差しに、俺は自分自身の立場の危うさを再認識する。
「一つは、その力を隠しながら人として生きる道。もう一つは──」
ティルは、力の入らない俺の手を掴んだ。
血に塗れた汚らわしい手を、なんの躊躇も、嫌がる素振りも見せずに。
「私と一緒に、聖騎士として魔物を倒す道」
唐突に示された二つの道。それは、俺が失ってしまった日常とは程遠いものだった。
人間として生きる。ああ、そうしたい。俺は生まれた時から今の今まで、人間なんだ……そうであるはずなんだ。俺が勝手にそう願っているだけかもしれないが、そうであってほしい。
「……俺は」
死ぬのは怖い。あんなバケモノにも、バケモノみたいなイカれた人間にも、俺は二度と会いたくないし殺されたくもない。──だけど。
「あいつらを、殺したい」
「それは、復讐?」
復讐。
ああ、そうかもしれない。
理不尽に家族を殺され、それが許せなくて生じる、黒くて拭いきれない感情……確かに俺は、そう呼ばれる何かに囚われつつあるのだろう。それがこの胸に燻り続ける限り、俺は幸せにはなれない。
だから。
「そういうんじゃないんだ。多分これは自分のためっつーか、ケジメをつけたいってことなんだと思う。……変か?」
「……ううん、全然」
ティルは俺の手を、更に強く暖かく握った。
「前向きで、凄くいいと思う」
安心するような、包み込むような笑顔。
「一緒に、頑張ろうね」
それはまるで、地獄に舞い降りた天使だった。
血溜まりの中、醜い何かに成りかけていた俺にチャンスを与えてくれた……白くて、美しい。己の手が血染めになることをも厭わない、そんな人。
俺は今日、全てを失った。
家族も、暮らしも、自らの人としての立場さえも。
(それでも、まだ生きてる)
残された俺にできることは、たった一つ。
死ぬ気で、生きることだ。
(食い尽くしてやる。俺の幸せを邪魔する、全部を)
今日、俺は人間ではなくなった。
家族を殺され、魔物を食ったことで。
まぁなんとも……最悪で、有り得なくて。
残酷なほどうってつけな、最後の晩餐だった。
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