「第十話」蹂躙の果てに
考える前に体を動かす。先程まで自分が居た場所が、剛腕によって砕かれ抉られる。
間違いなく人間の力では無かった。その姿も、雰囲気も……全てにおいて。
だが、にわかには信じられなかった。
先程まで人間だった男が、いきなり全身毛まみれの人狼に姿を変貌させたなど。
「俺と、同じ……!?」
『おいおい、失礼なことを言ってくれるじゃないか』
狼のような顔であってもしっかりと笑っていて、人間の言葉を発している。自分の目を疑ってしまうが、これは現実であり紛れもない危機だ。──狩る側と狩られる側。その立場が、逆転していた。
『美しいだろう?』
勝ち誇るように、狩人は自分の異形と成り果てた身体を晒す。
『これこそが我が殉教、我が神への忠誠の証! 貴様のように得体の知れない力などではない……我が命を焚べて燃えるこの炎は、私もろとも貴様の全てを焼き尽くす!』
狂気、いいや狂喜だった。報復に駆り立てられたその目に、恐怖や倫理は残っていない……ただ、俺を殺すためだけに息をしているような、そんな存在からの攻撃が来る。──回避。それが上手くいったとしても死の淵を感じるのは、俺自身が怯えている何よりもの証拠だった。
しかし俺は確認しなければならない。警戒を怠らず、尋ねる。
「命を焚べるってのは……お前、死ぬのか?」
狩人は笑う。獲物を見定めた笑顔で、それを肯定した。
『ああ、だが構わない。今の私は、貴様を殺せればそれで良いのだッ!』
剥き出しにした爪が襲いかかる。回避、再び恐怖が脳裏をよぎる。怖い、近づいただけで足がすくむ……だけど。
「……安心しろよ、お前が死ぬ前に俺がぶっ殺してやる。それと──」
それでも、俺は前に一歩踏み出す。
恐怖よりも、恐れよりも、それ以上に俺は怒りに突き動かされていたから。
「死ぬなら、一人で勝手に死ね!!!」
『……!!』
振るった刃は、そのまま狩人の脇腹に一矢を報いる。ただで殺されてたまるかという思いを胸に、決死に抵抗を続ける。動転した狩人の隙を逃さず、的確に肉を削いでいく……だが、それでも。
『図に、乗るなぁっ!』
再び地面がえぐれる。とても攻撃を受けながらの一撃とは思えないそれを見て、俺は再び腹に恐怖を感じた。──それすらも、怒りに変える。腹の底に沈んだそれは熱となり、更に俺を前に踏み出させてくれる。
だが、俺は気づかなかった。
自分が追い詰められていたという、事実に。
「……っ!?」
吹き飛ばされ、受け身を取った時に気づいた。
背後が崖だということを、逃げ道が無いということを。
『もう、逃げられないぞ』
舌舐めずりをしながら、狩人は迫る。俺は後退りをしようとするが、そもそも下がれる道が無いという事実を再認識する。──そして、俺は確信した。
「……ああ、そうだな」
『死ねぇ!!!!』
迫る人狼。勝利を確信した奴に対しての俺の選択は、攻撃でも防御でもない……そう、それは自分から飛び降りるという選択肢だった。
『なっ!?』
間抜けな声を出す人狼。勢い余ってそのまま落ちていくそいつを、俺は崖下に偶然あった洞窟の中に身を潜めながら見つめていた。
『ひっ、ひぃい!!』
爪が岩肌に突き刺さる。命にしがみつこうと足掻くその様を、俺は満足気に見下ろしていた。
そう、俺は確かに確信したのだ。
「もう逃げられねぇな」
勝利を。
完膚なきまでの、蹂躙の果てにある勝利を。