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神喰いのフェンリル  作者: キリン
【序章】狐狼の遠吠え
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「前編」最後の晩餐

 冷え込んだ山の中、木の裏に身を潜めながら、俺は少し先にいる獲物を見据える。

 頭よりも大きく立派な角を持った鹿が、ぼんやりと遠くを見ていた。


「……兄ちゃん」

「まだだ」


 身を潜めながら銃を構える弟を、俺は小声で静止する。こちらに気づいてはいないものの、僅かではあるが警戒されてしまっているのが分かる。この状態で撃っても、弟の腕では頭が狙えない。──折角見つけた獲物だ。絶対に、逃がすわけにはいかない。


「緊張してるか?」

「当たり前だろ、初めてなんだから」


 そこから、俺と弟は一言も発さず、物音一つ立てなかった。

 待つ。

 待つ。

 ──油断。


「……今だ!」

「っ!」


 森に轟く乾いた銃声。銃弾は見事に鹿に命中、そのまま鹿は倒れる……かと思いきや、すんでのところで踏みとどまる。そのまま走り去っていく背中が赤く滲んでいるのを見て、弟が「あっ」と情けない声を出していた。


「逃がすか!」

「ちょっ、兄ちゃん!?」


 弟の静止を振り払い、俺は走り出す。木々を避けたり飛び越えたり、絶対に逃がすまいという執着を以て猛追した。──転倒。体勢を崩した四足歩行の乱れを、俺は決して見逃さなかった。


「だァァァっ!」


 飛びかかる、地面を蹴って。上から覆い被さるように鹿に飛びつき、そのまま羽交い締めにする。暴れ続ける蹄を顔面に何度も受けながらも、俺は鹿の首に齧り付いた。そのまま顎に力を込めると、硬いものが潰れるような感触が歯から頬に伝わり、そのまま鹿はぐったりと動かなくなった。


「兄ちゃん!」


 肩で息をしながら、弟が走ってきた。俺は鹿から離れ、口の中の血を吐き捨てた。


「ごめん、俺が外したから……」

「大丈夫だ、気にすんな。ほら、怪我一つ無いだろ?」


 むしろ、初めての狩りでよくここまでできたものだ。独学とはいえ、俺が初めて獲物に銃弾を命中させたのは半年ほど経った頃だった。


「……やっぱり、狩りは兄ちゃん一人のほうがいいよ」

「おいおい、いきなりなんだよ」

「兄ちゃんなら、一人でも鹿や猪……なんなら熊だって倒しちゃうだろ? 俺がいても、足手まといにしかならない。だから……」


 その表情には様々な想いがあった。自分がしくじったこと、それの尻拭いを兄である俺にさせてしまったこと。──自分なんかがいなくても。いや、むしろいないほうが円滑に進む事実への葛藤。


 俺には、その気持ちが痛いほど分かる。

 だが、カイの狩人としての実力はもう十分だ。もう俺がいなくても、一人でやっていけるだろう。そう思うから、ずっと黙っていた決意を口にする。


「兄ちゃんな、街に働きに出ようと思うんだ」

「……は?」

「魔物っていう化け物を倒す仕事があってな、聖騎士団? ってやつ。倒せば倒すだけ金が手に入るらしいし、熊でも倒せる俺にはうってつけだろ?」


 唐突な俺の言葉に、カイは狼狽え、語気が荒くなる。


「ついこの前まで、死にたくないって嫌がってたじゃないか! そんな、なんで急に……そんなこと、今まで一言も……!」

「母ちゃんが病気だってこと、お前も気づいてるだろ?」


 カイの肩がぴくりと揺れる。思い当たる節があるらしい。

 そう、本人は隠しているつもりなのだろうが、俺達の母親は重い病気に侵されていたのだ。


「医者に見せるにも、薬を買うのにも金がかかる。母ちゃんの容態も悪くなる一方で時間も無い。稼ぐためには、こうするしかないんだ」


 だから。そう言って俺は、握りしめた拳をカイの胸にそっと当てる。


「その間、お前が俺の代わりになるんだ」


 カイの目のふちには涙が溜まっていて、それが今にもこぼれ出しそうで、それでも歯を食いしばって……何かをぐっと堪えた後に、笑った。


「俺、頑張る。頑張るから、絶対に生きて帰ってきてよ」

「当たり前だバカ。お前こそ、俺が戻ってくる頃には、もうちょい銃の腕をマシにしとけ」


 俺は今一度決意を固めた。これはもう俺だけの誓いではなく、男同士の固い再会の約束だった。


「よし、そうと決まれば飯だ! 俺はこいつを血抜きしたらすぐに行くから、先に帰って飯の支度をしといてくれ。母ちゃんの容態も気になるしな」

「分かった!」


 そう言って、カイはその場から走り去っていった。俺はその後ろ姿が見えなくなるまで手を振り、見えなくなったところで、目の前の鹿と向き合った。


 小ぶりのナイフを抜き、それを鹿の胸辺りに差し込む。するとまだ暖かく赤い血が、ナイフを伝って滴り、地面に吸い込まれていく。それをぼんやりと、俺は見つめていた。


「……死にたかねぇよな」


 自然とそんな台詞を吐く頃には、鹿から滴る血は枯れ果てていた。血溜まりは作られること無く、血は地面に全て吸いつくされている。一滴残らず、大地の肥やしになったのだ。

 俺は血に塗れた鹿に手を合わせ、じっくりと祈ってから鹿を担いだ。重く、まだ微かなぬくもりを秘めた毛皮からは、命を奪ったという実感と責任を感じざるを得ない。──それと一緒に、久しぶりのご馳走に胸が踊るのも事実だった。


「ありがとうございました」


 血が染み込んだ土に頭を下げてから、俺は家路を辿り始める。

 とにかく鹿を傷つけないように慎重に、しかし急ぎ足で。


 どうやってこのご馳走を食べようか? 冬といえばやはり鍋、いやいやせっかく新鮮なんだから生で……何より、喜んでくれるであろう弟と母の顔を想像すればするほど、俺は今の自分が最高に贅沢で、幸せな時間を過ごしているんだなと思った。──森を抜けると家が見えてきて、そこには弟が立っていた。


「ただい──」

「にい、ちゃん」


 弟の声。それを聞いて俺は、首が締められたような息苦しさを感じた。

 悪寒が背筋から全身に伝わっていく。それは俺の脳裏に最悪をよぎらせた、そんな筈がないと、あってたまるかと叫びたくなるような……悪夢のような、予感を。


「──にげて」


 血反吐を吐き散らし、地面に倒れ込むカイの身体。胸から地面に叩きつけられ、ぐったりとしたまま動かない。


「……カイ?」


 呼んでも、返事はない。呼吸による身体の上下も無い。


「カイ、おい」


 広がっていく血溜まりが足元を染めるまで、俺は何が起きたのかを理解できなかった。


「あぁ、あ。あああぁぁぁぁああぁぁあああ!!!!」


 抱えていた獲物を放り出し、俺は狂ったように血溜まりの中へ飛び込んだ。その中に沈む弟の体をゆっくりと起こし、一心不乱に揺さぶる。


「おい! 何があった、何があったんだよ!」


 答えはない。温もりももうほとんど無い。

 開きっぱなしの瞳孔が、既に動いていなかった。


「……ぁ」


 自分の手が、赤黒く染まっている。手の上にはベチャベチャとした肉片やよく分からない何かが乗っていて、それらから発せられる臭いが、鼻腔の奥を突き刺す。途端に喉の奥が爆発するような痛みに襲われ、すぐさま口元を抑えて右に倒れ込んだ。


「おえっ……あっ、ああああっっ……」


 吐いていた。自分は吐いていたのだ。

 あまりにもぐちゃぐちゃになっていた弟に耐えられず、気持ち悪くて吐いた。とにかく吐いて吐いて吐きまくって、その途中で叫んだ。自分のゲロに溺れそうになったが、そんなことを考えるだけの余裕なんて無い。叫びながら吐いて、吐きながら嘆いた。


「おや、まだ生き残りがいましたか」

「……!」


 口から吐瀉物を垂らしながら、俺はそちらを向く。

 そこには、白装束に身を包んだ髭面の男がいた。


「私はアードンと申します。いやはや、この『フェンの森』に人が住んでいた事自体驚きです。二匹では足りないと喚いていたので丁度いい。ああ、これも我が神のお導き……感謝を」

「……お前が殺したのか」

「殺すなんてそんなとんでもない! これは無益な殺生などではありません。彼らの魂は、楽園へと導かれたのです!」


 そう言うと、髭面の男アードンは俺の家を指差した。メキメキと音を立て、家の中から何かが出てくる……獣とも人間とも言えない水晶のような身体を持ったそれは、俺の母ちゃんだった何かをゆっくりと咀嚼していた。──アーマーオーガ。身体の表面に超硬質な殻を持つ、この『フェンの森』にいるはずがない魔物。


「母ちゃん……!」

「食事ですよ、食事。我が神から賜りしそれは、常に血肉と魂を欲しています。なので定期的にこうやって、あなた方のような迷える子羊を導いているのです」 

「……導く?」


 朗らかに、優しい笑みを浮かべてきた。それはまるで憐憫を垂れるように……自分がさも、善人であると主張するかのように。


「これはあなた方にとっても、とても誇らしく喜ばしいことなのです。さぁ……死して我が使い魔の血肉と成り給え!」

『────!!!』


 男がそう言うと、呼応するかのようにオーガが咆哮する。大口を開けたまま迫ってくる巨体を前に、俺は動けなかった。


 死ぬ。

 これから俺は、あれに食われて死ぬんだ。──母ちゃんや、カイのように。


 奪われて死ぬ。

 何も悪いことなんてしてないのに、理不尽に貪られる。


 いや、俺も同じだった。

 あそこに横たわっている鹿は、俺が首の骨を噛み砕いて殺したんだ。

 きっと死にたくなかっただろう、まだまだ生きたかっただろう。母ちゃんやカイ、俺と同じ……死にたくないと思って、生きたいと願いながら死んだのだろう。


 不意に、鹿から受けた蹄の痛みを思い出す。

 決死の一撃、奪われたくないと……最後まで足掻き続けた者の一撃。


 ……ああ。

 そうだった。


『────!!!』

「がぁぁああぁぁぁあああ!!!!!」


 巨体が、俺の肩に齧りつく。骨がひしゃげ、肉が潰れて血が吹き出し……想像を絶する痛みが、脳を焼くような恐怖が全身を伝う。


「食われるぐらいなら……」


 見据えたのはオーガの首。俺を貪るのに夢中で、ガラ空きの急所。


「食ってやるッ!!!!!」

「な、何ぃ!!?」


 顎を開き、そのまま齧りつく。バキバキと音を立てながら、俺はオーガの首を噛み砕いていく。亀裂が入っていき、中身の肉がひしゃげて血が吹き出す。オーガは苦鳴を上げながら、俺を離して放り投げる。


(────ぁ)


 朦朧とする意識の中、俺は体中の痛みに悶えていた。

 このまま追撃されようがされまいが、俺は死ぬだろう。無論、後悔はない。弟と母を喰い殺したあのオーガに、少しでも同じ痛みを与えられたのなら。


(……あれ)


 しかし、俺の身体は動いていた。

 痛みはある。しかし、それ以外にも熱さがあった……痛む部位を中心に広がる熱さは、そのまま傷ついた俺の身体に広がっていく。熱さが消える頃には、食い潰された体が元に戻っていた。


 いや。

 そんなことより。


「腹減った」


 口の中に残るその味を、体が求めている。復讐とか、怒りとか……そういうの全部どうでも良くなってきて、俺はただ、俺を食おうとしてるバケモノの方へと走っていった。


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