表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

 ジジジと蝉の鳴く声が響く。ハッと目を開けば日光に視界を焼かれ慌てて閉じることとなった。ここは?

 恐る恐る目を開き周囲を見渡せば古びた美術館の出入り口の前に突っ立っていた。慌てて全身を手のひらで触りながらガラス戸に映る姿を確認する。影など何もない代わり映えのない男が映っていた。身体のどこも濡れてはいない。黒のTシャツが日光を吸収しリュックサックの負荷がかかる肩を焼き始めていた。

ふと視線を落とせばジーンズのポケットから白い紙切れが見えそっと取り出す。くしゃくしゃになった入館済みを示す目の前の美術館のチケットであった。僕はようやくたった今、美術館から出てきたことを確信し安堵の息を吐く。深呼吸をして首を緩く振るう。あれは何だったのだろうか。白昼夢。あるいは熱中症の幻覚か。いずれにせよ考えたくはない。再び美術館に背を向けスマートフォンで天気予報を見れば雨雲など一つもない日本地図が表示された。やはり夢だったのだ、と一歩足を駅へと進める。帰らなくては。夢であってももうこの町にはいたくない。

「雨なんか降るはずがないんだ」

 あの時──夢か幻だろうがそれでも命の危険に晒された僕は必死で思考を巡らせ、一つの結論に辿り着いた。あの化け物達が僕を同属にするにはどんな条件があるのか。空席を埋めるために僕を仲間にしようとするなら。化け物こと女性は確かに東屋の席を埋めたいと言い、そして僕の身体を椅子に繋げた。おそらく影に触れさせるだけでは効力はなく、空席に時間をかけ縛りつけるのが条件なのだろう。空席と時間。これらが揃って始めて人間は影の化け物となるのだ。死と隣り合わせとなり動転した思考の中でまず女性の反応から時間は打開できないと悟った。そうすれば残ったのは空席の方で、女性の反応が行動を決定づけた。

 やけになりリュックサックで殴りかかった時、椅子の破片が飛び散るのを見て彼女は突然激昂した。あれは自身を傷つけられそうになったからではない。椅子が、『空席』が破壊される可能性を危惧したのだ。自分に向けられた暴力ではなく椅子で激昂するなんて妙だと僕の生存本能はこの矛盾を感知していた。

 空席を埋めるための一種の儀式であれば、席自体を失くしてしまえばいい。僕が出した結論はそれで物理的に壊れそうな木製のベンチを破壊した。どうやら正解でその結果こんな場所で棒立ちで生還を果たしている。まあ、全部夢か幻だろうけども。

 僕は青空を見上げ身体を伸ばす。一刻も早くこの町とはおさらばしてしまいたいし、胸がつっかえるような不快感だけが残っている。それでも、夢か幻から生還した今は少しだけ高揚していた。傷一つ無い手の甲を見て苦笑する。傷が無いのが何よりの夢か幻だった証拠で手首をくるくると回し舗装された白い石畳を歩き出した。

 眩し過ぎる日差しも恨めしい程の青空も喧しい蝉の鳴き声も全て今なら許せそうな気がした。芝生の中に真っ直ぐ通った道を軽やかに進んでいく。

 一歩。もう一歩。傷一つない手の甲を振りながら、僕は歩く。そうやって美術館の門扉を潜ろうとしたら、コツンと軽い物が舗装された石畳にぶつかった音が背後からした。何か落としたかとしゃがみ込みそれに視線をやって──僕は尻餅をつき這いながら体勢を立て直して駆け出すこととなった。

リュックサックに付着していたのだろう。古びた小さな木片が転がっていた。

 一転してぐんぐんと足を縺れさせながらアスファルトを蹴っていく。行きに目印だった何かの教室だったはずの塗装が剥がれ読めない看板を掲げた一軒家の角を曲がる。上がってくる息を整えることもせずに僕はまだスピードを上げようと足を動かし続けた。

「嘘だろ……」

 殆ど息遣いだけの言葉が熱風に攫われていく。行きと同様に誰ともすれ違わなかった。リュックサックの金具が擦れる音が不快で眉根を寄せた。突然ゆっくりと日が陰っていく。下り坂に差し掛かり転ばぬように、それでもスピードを落としたくなくて歩幅を大きくとり太腿に力を入れる。視線を上げればじわりと灰色の雲が青空を覆い始めていた。坂を下った先にはあの団地が、東屋があったはずだ。行きは右側にあったということは帰りは左側。僕は視線をできるだけ右に寄せて一気に駆け抜けようと肺に酸素を送り込んだ。

 東屋の横を通り過ぎる。屋根の下、暗闇の中で、椅子が一脚壊れていた。

 呼吸が浅くなる。リュックサックに背中を掴まれている感じだ。「ハア」と断続的に大きく息遣いが漏れた。見たくなかった。けれど見てしまった。夢か幻ではない、あれは現実だった。上昇する体温に反して背筋が凍りついたように寒い。両の眼から涙が後方に飛び散っていく。足を止めたら死ぬと本気でそう思った。

「死んでたまるか」

 少ない酸素を吐き出して僕は呟く。がらがらとした呼吸音の方が大きかったがそれでも言葉にせずにはいられなかった。熱風が口内に入り込む。首筋を伝う汗がTシャツの首元を濡らした。

「死んで、たまるか」

 砂埃を被った割れたスナックの看板を見送る。打ちっぱなしコンクリートが露出した花屋、店内の様子が全く窺えない喫茶店の前を抜けた。あの化け物が言い放った喫茶店の中の様子が脳内に想起され僕は抵抗するようにもう一度叫んだ。誰もいない、本当は皆がいる町に僕だけの声が響く。

 商店街未満の店の集合体の残骸の先に踏み切りと馴染みあるコンビニが見えれば一層視界が滲んでいく。リュックサックのサイドポケットのファスナーを開けICカードを取り出した。踏切の警報音がする。もうすぐ電車が来るのだ。最後の一踏ん張りと僕は歯を食いしばり激しく脈動する心臓と戦いながら足をひたすら前に出した。

 そうして。

 背後で電車のドアが閉まった途端、遂に震える足を支えられずしゃがみ込む。肺が痛く心臓の鼓動音が聴覚を支配している。ドア横の座席の仕切りに手をかけ倒れ込むようにうつ伏せになれば、斜め前に座していた男性が顔を顰め隣の車両のドアを開けた。マナー違反だろうが許してほしい。彼がいなくなったことでこの車両には僕一人だけとなった。昼間の各駅停車とはいえ乗客の少なさに化け物の言葉が脳裏を掠める。空席、人が避ける場所。大きく息を吸いリュックサックを投げ捨て、正しい姿勢で座席に腰を下ろした時だった。

「ひっ」

 思わず両手で口を押さえ息を呑む。男性が向かった車両に影がいた。八本生えた腕をにょろにょろと動かして文庫本に集中する男性の前の席で窓に張りついている。視線を逸らしうっかりと正面の窓を眺めれば心臓が跳ねあがった。多くの影がそこにいる。遠くの高層マンションのベランダに、大手チェーン店であるレストランの屋根の上に。川の上を滑空している者も存在した。

「あ、ああ……」

 影達が一斉に動きを止め暗闇から眼球を浮かび上がらせ僕を見つめた。耳元で「おいで」とはっきりとした言葉が無数に囁かれ、活動を再開した。

 僕は何が起こったか完全に理解してしまっていた。肩の力が抜け座席から滑り落ちそうになり、女性の美しい声が再生される。「席は埋めなくてはならない」と。人間が長い時間をかけて作り、暮らし、そうして一瞬で捨て去ってしまった『席』はそこに再び座る者を待ち続けるのだろう。それは過疎化した町だけではなく何処でも起こり得る事象なのだ。電車の席でもレストランでもアパートの一室でも……もしかしたら県や国なんて大がかりな席もあるのかもしれない。作るのには時間がかかる。かかるからこそ一瞬で壊れた場所に暗く重い情念のような淀んだ何かが溜まり、そして引き寄せられる。引き寄せられた者は群れをなし更にその淀みを侵食させ仲間を増やそうとする。捨てられた寂しさか、生きるためか。

 何故なら席の命は、そこに命が在ることだから。空席を無くすために席は容赦しないのだ。

 目を合わせたくない。スニーカーの間を凝視し僕は頭を抱えた。何故突然影が見えるようになったのか。一度あんな経験をした後遺症なのだろうか正確なことは不明だった。だが一つだけ確信じみた恐怖を抱いている。

 席とは何らかの意味を誰かが与え、捨てられ後続に恵まれなかった場所だ。つまり何処にでも席は存在し、今後も増え、そして今回の僕のような手段で埋められる可能性があるのだ。

 規則的な電車の揺れと不協和音を描きながら僕の身体が震える。安全が欲しくて住む場所を選んだ。寂れていて不便なのは困るが、大都会の荒波にも飲まれたくない。そんな理由で選んだあの一室は果たして本当に安全なのだろうか。僕という存在が住んでいるから今はまだ問題が無い? ではいつか大学を卒業し引っ越すことになったら。マンションの一室という席は、○○市は僕を離してくれるだろうか。違う、それだけではない。故郷の緑も実家すらも満たされていない空席があるかもしれない。そして空席を埋めるためにあの影達が住みついて密やかに人間を狙っているのかもしれない。その中でも僕はおそらく今回の件で影に見つかりやすくなっているのだ。一度影になりかけた身であるため同属だと認識されているのかもしれないし、迷惑極まりないが『気づいてくれた者』を歓迎しようとしているのかもしれない。影達は群れる。群れて同じになろうとする。だから囁き手招きをしてきた。危険に自ら首を常につっこんでいる状態と同等の人生だ。席の大きさが今回の椅子のように小さければ壊せばいいが、それが建物、市町村、あるいは国といったものだったら壊して回避するのは不可能だ。だからこれからは影達を見続けては、目を逸らさなければならない。日常のあらゆる空席と影に怯えなければ。つまり。

 僕にとって安全な場所はもうこの世界にはないのだ。

 タタン、タタンと電車が規則的に揺れる。カーブに入るアナウンスが流れ身体が大きめに揺さぶられた。

 作るのには時間がかかるが壊れるのは一瞬だ。そんな言葉が頭に過ぎった。

 世間からすればまだ短いに分類されるのだろう。それでも二十年積み上げてきた僕の人生は今日の悪夢という刹那で崩壊した。何の罪もなくただ立ち寄った雨宿りで、うっかり人ならざる化け物達に気に入られてしまったために。

「どうしよう」

 唇が震え、消え入りそうな声が漏れた。影を見つけては、見ない振りをして気づかれる前に逃げ回る。それが妥当な生き残りのための戦略だろうか。果たして可能なのか。人付き合いの中で「あっちに影の化け物がいて取り込まれそうなので誘いを辞退する」なんてことを繰り返してはそれこそ僕の交友関係が空席となる。現実的ではなかった。

「それじゃあ」

 いっそのこと最低限の交友関係と移動で済む人生を選択するのは。まだ就職や将来について不鮮明なビジョンしか持っていないが安全を得るために選ぶことも考えた方がいいだろう。影が住まない会社に自宅、必要最低限の交流でそれで……。

「ふざけるなよ!」

 今日は泣いてばかりだ。僕は乱暴に滲んだ目元を手で拭い顔を上げる。絶望で沈み続けた感情の先に燃えるような憤りがあった。

 一体どうして影に怯えて人生を諦めなければならないのか!

 生き残ってやる。僕は正面の窓に焦点を合わせ一人ゆっくりと頷く。作るのには時間がかかるが壊れるのは一瞬であるなら、また時間をかけて作ればいい。化け物だらけの世界で生き抜いてやる。対策を積み重ね、いつかは影の方から逃げるようにしてやろう。平穏をいつかは取り戻すと心に誓う。そもそも絶対の安全など化け物に限らず存在しないのだ。人よりリスクが高いなら人以上に正しく対策し生きるだけだ。血が全身を巡り、脳が動く。心臓が規則的に鼓動を伝えた。電車の窓に黒い影が突如張りつき耳元で「おいで」と声がする。「行くものか」とごちれば、影は激しく窓を叩く。

 もっと対策が必要だ。まずは何をすればいい?

 深呼吸をして未来を夢想する。僕が何処かで平穏に生きる未来だ。絶対の安全が無いからこそ僕は戦う。対策をして相手を滅ぼせなくとも克服してやる。影なんかになってやるものか。

 電車は一直線に次の駅へと向かう。もうすぐ乗り換えだと立ち上がりリュックサックを背負った。心の中で恐怖と怒りが戦っている。どちらも否定せずに前を見据えれば既に影は去って行っていた。おそらく自らの席に戻ったのだろう。

 ──次は〇〇。〇〇です。

 アナウンスが僕の降りる駅を指し示した。まずはできるだけ影と遭遇しないようにする。多少日常生活に支障は出るだろう、慣れるまでは恐怖の連続だろうが諦めはしない。いつか絶対僕は影に勝利する。

 開く両開きの扉を潜り駅のホームへと一歩を繰り出す。空いた背後の車両に、恐怖を覚えることはなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ