中
「しんみりさせちゃってすみません」
「いえいえ。地元愛の深い方なんだなと思いました」
眉を下げた女性が白い肌を少し朱に染めて頬を緩める。沈黙の後にハッとして女性は慌ただしくマニキュアが塗られた手をぶんぶんと顔の前で振り謝罪を始めた。別に悪いことをしたのではないから気にしないでほしい。雨宿りの暇つぶしには最適な物語だったと思う。
スマートフォンで天気を確認しようとすれば女性が「素敵な町ですから……貴方にも本当はそう思ってほしいんですがどうです?」と恋をしているかのようにポツリと漏らしたので手を止める。地元愛を否定する気はないが珍しいのではないだろうか。僕と同じくらいの歳でここまで住んでいる町に入れ込むなんて。
「この町が好きなんですね」
「普通だと思いますけど?」
「さっきも言いましたが僕は地元が嫌でこっちの大学を受験したので」
緑溢れる我が故郷の全てが嫌いではない。それでも流行りの漫画が発売日から二三日後に本屋の店頭に僅か一冊のみ並び、争奪戦になる世界から飛び出したかった。僕が怪訝な顔を作れば何が可笑しいのかまた笑みを深める。今日初めて見る人間味に溢れる顔に僕は自然と安堵の息を吐いていた。
──ふと心地良い安心が生まれた自分自身に疑問を覚える。
何故。何に安心した?
「話を聞いてくれてありがとうございます。けれど実はこの町はもう大丈夫なんです」
「えっ」
口をついて出た言葉に左手で口元を押さえる。失礼なリアクションを取ってしまったが妙じゃないか。
「あの……失礼ですが何か人口の流出を止めて増加させる取り組みでも?」
女性は緩やかに首を横に振る。相変わらずにこにこと笑みを崩さなかった。
「自治体は何もしてくれませんよ。けれど私達はこの町を生かす方法を見つけました」
ざわりと不快な生温かい空気が僕の全身を撫でていった。思わず放り出した靴と靴下の位置を確認する。もやもやとした疑念に近い何かがそっと僕の中で形作られようとしていた。
「町の生命線とは、きちんとその場所に誰かがいることなのです。家は誰かが住まなければすぐに駄目になってしまうと言うでしょう? それは町も同じなのです。つまり、席に空白を作らずに住みついてもらうこと」
「席?」
女性の話を耳に入れながら僕は脳の別の場所で自分の感情の整理を始めていた。
まず、何故女性が人間味溢れる笑顔を向けて安心したか。たしかに作り物のようという表現が似合うほど顔が整っていて、そして血が通っているのか不安になる程肌が青白い。赤の爪と黒髪と服のコントラストもゲームのポスターに書いてある美少女のような作り物の雰囲気を醸し出していた。だからといって笑顔に安心する程だろうか。言ってしまえばただの外見だ。それより今の印象は圧倒的に地元愛の強い同年代の人間である。ちなみにこの短時間で一目惚れをしたなんてこともない。
それでも外見が気になるのだ。思い返せばもやもやした疑問をずっと出会った時から抱えている。相手の外見に失礼極まりないが違和感に近い不安を覚え続けながら僕は会話をしていたのをようやく認識する。首筋を冷たい汗が伝っていった。
「映画館を想像してください。完璧な状態とは何も最高の映画が上映されているだけではないのです。満席。お客さんが全ての席を埋め尽くして固唾を飲んでスクリーンに食い入っている。それこそが映画館の存在意義! そうでなければただの大きなスクリーンがある部屋に過ぎない」
「つまり町も映画館も人があるべき場所にいてこそということですか。町の場合は人々が住んで生活を営むこと、映画館の場合は観客がいること」
ちらりともう一度靴と靴下を一瞥する。ああ、逃げ出したいのだとようやく自分の疑問から繋がる感情を掴んでしまった。疑問や疑念ではなく恐怖だ。その理由が目の前にいる。
何か妙なのだ。目の前の女性は。だがその理由がわからない。
「概ね正解です。家も町も映画館も誰かがいて始めて存在意義が成立する。席は埋めなければならない」
太腿の上のまだ湿っているリュックサックが石を抱えているようにずっしりと身体を固定しているようだった。用事を思い出したと言って逃げるか? ダダダと弾丸のような雨音は未だに頭上で鳴り響いているのに? 自問自答をしながら会話を続けた。
「その席を埋めるための秘策があるってことですね」
きょろきょろと周囲を見渡す。あっと声を上げそうになった。胸の奥が痛み身体が震えそうになる。平静を装おうと両脚に力を込めればざらりとしたコンクリートが素足に伝わった。
「ええ。理屈は単純だったのです。空き家の軒下に鼠が住みつくように、いなくなった席には別の存在が住む……というよりその場所に吸い寄せられるのが世の理だと私は気づきました」
「でも、その。老若男女問わず人がいなくなっていると」
「ええ。でも吸い寄せられるのです」
「家賃が安いから住みやすいとか?」
女性が髪をかき上げ唇で弧を描く。
──僕はようやくそこで違和感の正体に気づいた。
「どうしたんですか」
右手のスマートフォンを覗き込む振りをする。黒い画面に引きつった笑みを浮かべる僕の顔が写っていた。
「あの。すみません。友人からメッセージが届いて。飲み会の誘いが来たんです。まだ雨ですしお話を聞きたいですが、行かなきゃいけなくなりました」
「まだこんなに雨音が激しいのに? 服だってやっと乾いてきたのに」
「止みそうにありませんし諦めてもう一度濡れます」
「話は終わっていません。それに先程より強まった豪雨の中を」
「音だけじゃないですか!」
しまった、と立ち上がった時には遅かった。作るのには時間がかかるが壊れるのは一瞬で、僕は恐怖を表面化してしまった。
女性は瞠目し口元を両手で押さえたまま身体を強張らせている。その大きな瞳に僕の恐怖を堪える顔がまじまじと映りこんでいた。
お互いに押し黙り、ドドドと激しい音が未だ頭上からする。青臭い匂いはもうせず、ただ鼻の奥に痛みが走る。唇の端を噛み視線だけは逸らさぬようにしながらもう一歩後退する。
視界の端に雨脚が弱まり霧雨と化した道路が映りこんでいた。
では頭上の、銃弾に近い大きな音は?
「気づかなければ良かったのに」
心地良いはずの声に怨嗟の色が籠る。僕はスマートフォンをポケットに捻じ込みリュックサックを抱きかかえたまま再び一歩後退りをした。
「最近は便利で雨雲レーダーなんか見られたら一発でバレてしまいますから」
ああ、やはり。僕は先程スマートフォンを取り出そうとした瞬間、女性がまるで都合が悪いように口を挟んできたことを思い返す。ということは。
「話の続きをしましょう。それに何故気づいたかも知りたいです」
「断ります」
靴なんか知るか。僕は怪我を覚悟し裸足で霧雨の中に飛び出そうとして──そして目の前の光景にたたらを踏んだ。
「どうしました? 座ったらどうですか」
「何なんですか。これ……」
「空席には吸い寄せられると言ったでしょう」
「冗談じゃない!」
悲鳴の代わりに怒号を女性に浴びせた。僕の声で『それら』が一瞬立ち止まりそして緩慢な動きでこの東屋を目指し始める。せり上がっていく悲鳴を堪え僕は浅くなっていく呼吸を整えようと肺に酸素を送り込めば雑巾のような匂いに噎せた。
靄がかった大量の黒い影の塊だった。ある者は人間のような形をしている。またある者は背丈が三メートル程もあり手が異常に長い。背に蜻蛉のような羽が生えた猪が空を飛んでいる。遠くの一軒家の屋根の上に無数の触手のようなものを生やしたでこぼこした靄が飛び跳ねていた。空き家と思われる窓から、マンションのベランダからスポンジのような穴ぼこだらけの影が顔を覗かせていた。
大きさも形も千差万別な黒い影が町中を歩き、ここを目指していた。そして僕が叫ぶまでは雨の中で好き勝手動き回っていた。まるで『それら』が生活しているように。
あれに捕まったらどうなるのだろう。ここを出て走って何処まで逃げればいいのか。ゾッとする結末ばかりが妄想され足を止めてしまう。心も身体もすっかり委縮してしまっていた。
「『町』という『席』が生きるためにはそこで暮らすものが必要です。空席を減らさなければならない」
勝ち誇った、満足気な声がヘッドホンで聴く音楽のようにはっきりと響く。おそらく最初に声をかけられた時もこうやって話しかけてきたのだろう。
僕の中の本能が警鐘を鳴らし始めたのはここからだったのだ。イヤホンをつけ動画を見ているのにも関わらず鮮明に聞こえるのはまずおかしい。現れた時から女性は矛盾だらけの存在だった。
「時間稼ぎのつもりですか」
「もう稼ぐ必要はありません。だって貴方」
女性がすっと右手人差し指で僕の身体と座っていた木製の椅子を順番に指差す。振り返り、今度こそ上擦った情けない悲鳴を喉から捻り出した。
僕の身体の、特に椅子に密着していた臀部付近から太腿の裏にかけてが黒く影のように染まり、椅子の足から黒い糸のようなものが出てそこで一体化していた。
「もうここから出られないんですもの」
咄嗟に糸を切ろうと左手で払えば触れた小指の先端が黒く染まり、じんわりと墨汁を水に一滴垂らすように根本へと進む。胃から熱いものがせり上がってくる。感覚は残っているのに見た目だけが黒い影だった。
口が裂けるのではないかと危惧してしまう程に女性は口角を上げる。おそらくこの黒い影は時間と共に身体を侵食してくるのだ。女性の長話もあの時僕がスマートフォンを見ないように止めたのも時間稼ぎだ。僕の身体に黒い影が定着するまでの。
舌打ちが漏れる僕を見て女性が手を伸ばす。上体をのけ反らせると赤いマニキュアが宙を切った。
乾いた、手だった。
「なんだ、残念」
くそ! 僕は心の中で悪態をついた。一番の解答がずっと目の前にあったのに僕は愚かにもへらへらと笑いながらずっと女性に弄ばれていたのだ。
雨宿りにと隣に座った女性はどこも雨に晒されてなかった。細い腕も赤い爪も、乾いていた。丈の長い服も髪も水気を含まずふわりと靡き、座していた椅子の周囲のコンクリートは変色していない。彼女は、雨宿りに来たはずなのに全く雨に濡れてないのだ。
僕が目を離せなかった理由はその矛盾だ。本能が鳴らし続けた警鐘に気づかずに自分の故郷の話までしてしまっていた。頬に熱が集まる。恐怖と怒りが混ざって羞恥と後悔となり目に膜を作った。胃の痛みに反して何処か冷静な思考が自らの愚かさを責め立てている。何が三種の神器だ。あれだって女性が僕と同じ年齢ではない矛盾じゃないか──。
膜が張った瞳で歪んだ女性を睨みつける。おそらく彼女もこの黒い影なのだろう。そして触れれば僕の身体は侵食される。仮に東屋から逃げる手段を見つけたとしても外にうようよといる影達に捕まればどうなるかの解答が出てしまっていた。頭の中でガンガンとドラムを叩かれているようだ。眩暈がする。僕は、あれらになるのか。あの化け物の中のどれかに。
「なら待つとしましょうか」
一瞬ムッとした顔をしてそれでも声色は随分と楽しそうだ。そしてそれが最後通牒だった。
「ひっ」
瞬間、ごちゃ混ぜの思考が恐怖一色となる。膝から崩れ落ちると胃から上がってきたものを押し留めるため右手で口元を覆った。女性の、服の黒が影となり、顔の肌が溶けていく。白い肌が蝋のように垂れ影へと吸い込まれ、眼球と赤い唇だけが浮いていた。腕や足も同じだ。肌が溶け影となり、赤い爪も靄の中へ融けてしまった。ぎょろりと眼球が僕の視線に応える。残った唇が開いた奥はやはり黒だった。
影の化け物だ。そこには『人間』は存在しない。見上げた先に東屋へ集結しようとしている物と同じ黒が口角を上げていた。クスクスと鈴を転がしたような女性の声が漏れてくるのが返ってグロテスクであった。
「うおおお!」
一か八か! 僕はクラウチングスタートを切るような姿勢を取り、落としたリュックサックのショルダーストラップを掴み突進するように女性だった影へ薙ぎ払おうとした。しかしリュックサックは女性だった影をすり抜け座っていた椅子を掠り、小さな木片が宙を舞う。僕が勢い余りたたらを踏めば太腿に鋭い痛みが走り、女性が悲鳴を上げた。
「危ないじゃない!」
唇の下の影の奥からきらりと何かが光ったのを確認し僕は咄嗟にしゃがみ込む。鋭い風を切る音が右耳を刺激し恐る恐る目を開ければ真っ赤な爪が一メートル近く伸び、僕の頬数センチメートルの位置で止まっていた。
「抵抗をやめたらどうなんですか。もうすぐなのに」
爪がそっと僕の右頬に触れ、途端右の視界が靄がかった。「お似合いですよ、鏡見ます?」と女性が嘲笑う。ドン、ドン、ドン! とリズムを変えて『天井にずっといた化け物』がいよいよ雨音を奏でる必要が無くなり喜びを表現する。視界の膜が決壊し左頬に生温かい水が伝い、右頬は乾いたままだった。
僕は、人じゃなくなる。緊張の糸が切れ、コンクリートに尻餅をついた状態で僕はすっかり呆然として本来なら女性の足がある黒を視界にただ留めていた。二つの丸い眼球が覗き込んできても身体も感情も動かない。あのリュックサックでの抵抗が僕の最後の生への足掻きだったのだ。
「空席に『皆』がやって来たのに気づいたのは三十年程前のことでした」
女性であった影の化け物は唄うように語り出す。東屋の外、周囲から這いずるような音が鼓膜を刺激する。見なくても何が起きているかがわかってしまった。
「町という席にとって……私達にとって一番の恐怖は空くことです。住む者は命そのもの。空席は町の命を削り、やがて席すらなくなってしまう。そんな時皆がひっそりと空席に座る……住み始めました」
『皆』が近づいてくる。天井の皆がドラムロールのように小刻みに屋根を震わせた。
「団地の部屋に住む者。子どもの代わりに通学路をひたすら走る者。閉店した喫茶店のカウンターで空のマグカップを見つめる者とそのマグカップの中から顔を出す者。空き家の屋根で一家族分の席を埋めてふんぞり返る者……ああ、可愛いですよ? 尻尾が長いところなんて猫みたい。尻尾に口がついていますが。とにかく私の悩みは皆のお陰で解決し始めました。町が荒れ、空席ができればできる程に皆は座ってくれる! 殆どの人間には見えないようですが、共に席に座り私の町で共存している! まだ足りませんがこれからもずっと人の代わりに皆が席を埋めてくれるでしょう。──だから私も皆の真似事をするようになりました」
「人の代わりなら……」
「何です?」
「人の代わりにお前らが席を埋めるなら僕なんかいらないだろう……どうして僕が」
二つの眼球が上下し、赤い唇が蛇のようにうねった。
「皆が言うんですよ。『たまには人とお喋りして仲間になりたい』って。『もっと共存の道を探りたい』って。……この東屋、五年前までは高齢者の憩いの場だったんです。けど空席になってしまっていてどうしようか迷っていたところにちょうど貴方が来てくれた。私達の条件を全て満たす貴方が。大丈夫、怖くないですよ。皆良い子ですから……私を捨てる人間より余程」
あやすように右頬を爪で撫で──右頬を貫通し爪が体内を出入りしていた。何が仲間になりたいだ、何が共存だ! 無理やり化け物にするを体よく言い換えただけだろう! 右頬の中にあったはずの奥歯を噛みしめようと顎に力を込めるも感覚が失われていた。ああ、本当に僕は。これで──視界が回り目を閉じそうになる。このまま気を失った方がいっそのこと……。
目まぐるしく涙を流し続ける左瞼に走馬灯が過ぎる。緑ばかりで不便な実家。口煩くも優しい父と、お節介だけど誰よりも一人暮らしを応援してくれた母。俺も上京すると勉強に勤しむ弟。砂埃が舞う小学校の校庭と、三十歳になったら開けようと約束したタイムカプセル。引っ越しの際わざわざ駅まで見送りに来てくれた友人達。
涙が熱い。どうしてこんなことに。
高層ビルに委縮しながらの通学路。サークルの新人歓迎会に初恋。結局、彼女にはフラれてしまったけれど慰めだとカラオケボックスで徹夜してくれた友人に僕は何か返せただろうか。そうだ。ノートを写させてやったんだっけ。それで今度のテストも一緒に対策しようと。あの教授、テスト意地悪だからなぁ。そもそもあいつがチケットを渡さなければ……というのは逆恨みか。
片方になった口の端から苦笑が漏れる。優しい思い出の次は、直近の恐怖だった。
雨宿りに寄った東屋で化け物とした談笑。イヤホンをしているのにはっきりと聞こえた声、雨に全く濡れていない身体。違和感だらけなのに気づかなかった不甲斐ない自分、脳内の警鐘を無視続けた結果だった。生存本能を蔑ろにした末路だった。女性の溶ける顔、振り回したリュックサック。女性の怒りと人ならざる爪。震える身体に涙がもう一滴コンクリートへと沈んだ時だった。
心の奥で何か違和感が叫ぶ。嫌だ、死にたくない──!
涙を湛えた左目でしっかりと化け物を見据える。死にたくない! こんな化け物になりたくない!
ずり、ずりとにじり寄ってくる音も天井のドラムロールも意に介さず、停止していた思考を必死で回転させる。
死にたくない。僕がいた安全な世界に帰るんだ。緑しかない故郷で家族にも友人にも会いたい。大学生活を謳歌したい。僕が作ってきた人生を終わらせたくない。
今度こそ。壊れるのが一瞬であってもまだチャンスはあるはずだ。僕の中の生存本能が告げる違和感を掴もうと足掻いている。女性もとい化け物は僕の心境の変化には気づいていないようで滔々と空席が埋まる喜びを語っていた。席。席だ。何故僕がこんな町の席を埋めるための犠牲にならなくてはならないのだ!
「そろそろ時間ね」
化け物がキスをするような距離で唇を開き、東屋の四方が黒い影の群れで閉ざされる。ハッとして身体を見渡せば染まってないのは右手と視界を保っている左目くらいのようだった。所々感覚がないがまだ身体は『人間として』動く。これが本当に最後の賭けだった。
「素敵な席でしょう」
ドッと黒い影達が沸き立つ。蛙の輪唱のようにケラケラとけたたましく響き渡る。雨はもう役割を果たしたのか止んでいた。
「その席に座ってこの町で生きましょう。次は隣の、私が座っていた席に相応しい人間を待って」
「うわあああ!」
獣の咆哮が僕の喉から絞り出され、化け物の眼球が動く。辛うじて残る右手でもう一度リュックサックのショルダーストラップを握り──思い切り座っていた椅子へと叩きつけた。
壊れかけの木製の椅子が嫌な音を立てて砕けていく。教科書が三冊、ハードカバーの本が一冊、五百ミリリットルペットボトル収納されたリュックサックは凶器そのもので、足を一本粉々にした。
「やめろ!」
化け物が吠え、その赤い爪が右手の甲に突き刺さる。無くなった歯を食いしばる動作をしながら僕はまたリュックサックの鉄槌を振り下ろした。
「やめろと言っている!」
周囲の黒い影達が僕に手を伸ばす。腰に手を回され僕と影の境界がなくなる。それでも躊躇わずもう一度振り下ろせば、椅子の足が全て粉砕された。
瞬間、猛烈な光が椅子だった木片の山から迸る。呻きながら思わず目を閉じれば脳を直接揺さぶる程の音量で周囲から濁った悲鳴が立て続けに反響した。
「畜生……!」
悔しげな化け物の声が耳元ではっきりと聞こえたと同時に僕の意識は途絶えた。