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クラウド・ワン  作者: Syun
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4 VS《にせものとほんもの》

「一つ言っておこう、神無久朗。人の為にやる善、これを偽善というのだよ。偽物なのだよ」

「なるほど。でも、自分のためにやる善は独善って言いますよね。独善家ってどう聞いてもいい響きに聞こえませんけど」

「え、えーと…………」

「……………………ふ。言うようになったな、カンちゃん」

「……………………誰かさんの偽善のおかげで」

「ふふふふふふ」

「ハハハハハハ」

「あ、あう……………………」

 まるで喧嘩するような俺たちの隣で、永久が泣きそうになっていた。実際はごくごくいつも通りの昼食の光景なのに。

「うわーカンちゃん、イジメカッコワルイ。もっと永久ポンには優しくしなきゃダメだぜー」

 いつも通り煽ってくるけど、俺にだって限界はあるんだ。いろんな意味と理由で。

「あー、そろそろボケとツッコミに続く第三のスルー役っていう新しいキャラを確立できそうだ。いいなこれ。俺にとてもよく合っているんじゃないだろうか。そうだよ怒りは破滅に続く最悪の道だよ聞け今こそ怒りを捨てる時だ民衆よそして自然と一体化し次のステージに進むのだ」

「ちょ、ま! そ、それは没個性すぎる! というよりそのキャラはただの空気だよカンちゃん! テイウカナニイッテンノ!?」

「――――――――」

「す、すでにキャラが定着しかかっている!? 罪かっ!? これが私の罪なのかっ!?」

「――――――――――――――――」

「あ、え? お、おい。か、カンちゃん? 何か言ってくれないと不安になるよ? しかも顔が一行AAの顔文字みたいになってるし!」

「――――――――――――――――――――――――――――――――」

「あの。茶化してすいませんでした。私が悪かったです。反省するので許してください」

「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」

「謝っても効果無し!?」

「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」

「カンちゃーんっ! お願いだから戻ってきてー!」

「――――え?」

 身体を揺らされて現実に引き戻される。

 あれ、俺今なにを考えてたんだっけ。

「よ、よかった。カンちゃんがステルスにならずに済んだ」

「はい? ステルスってなんですか?」

「お、おう。本人に自覚がないなんて私はなんという罪なことを。猛省しなければ。あとこのルートは間違いかっ」

 頭を抱えている先輩に軽く引く。よもやこの人に反省という行為があったとは。

 まさか、明日は槍か。

「カンちゃんが失礼なこと考えてるのは置いといて、んー。でも、なんとなくカンちゃんのことがわかった気はするなあ。改めてここ数日見てて」

「はあ。なにがですか?」

「カンちゃんはさあ、終わってるんだよね」


「――――――――――――――――――――――――――――――――誰がオワってんだこのクソチビ年増」


「う、うわあ! 言葉間違えた! カンちゃんの失言も謝らなくていいから、立ち上がって逆光で拳鳴らすのヤメテー! さっき言ってたこととちがーう!」

 這ったまま先輩が逃げ出す。

 さらに永久も口をあわあわさせて涙目になっている。

 仕方ない。弾劾裁判の機会は次にしよう。

「……………………で。誰がなんですか」

「いや、こう。そのさ。なんていうのかなー。んー。上手い表現が見つからないなー」

「…………………………………………やっぱオワってんじゃねえかよ」

「ち、ちがーう! カンちゃんが考えている意味とはきっと果てしなくちがーう!」

 めんどくさい。この人は俺を情緒不安定にする天才なのか?

「え、えーと、その、そう。そうだ。カンちゃんは別の世界の人なんだよ」

 さらに、迷宮に落とし込む天才でもあるらしい。

「Are you OK?」

「はい? なんで英語になったのかわからないけど、私はいつでも元気りんりんだよ」

「Hum......」

「なんか鼻で笑われた!?」

 別の世界の人なのはきっと先輩の方だろう。いろんな意味で。

「先輩の比喩は高度すぎてわかりません。もっとかみ砕いてください」

「だからさー、カンちゃんの幸せってナニよって話。青い鳥みたいな抽象的なものでなくて」

「俺の幸せ? そうですねー。庭付き一戸建てで平穏な生活ですかねー」

「それ本気で言ってる?」

「ま、半分は冗談ですけど。幸せってなんだっけー、と」


「あーもう! カンちゃんはそうやって世界に自分を置いてないんだよっ!」


「「……………………」」

 永久と二人、急に怒鳴った先輩を見る。こっちの無言の空気で先輩は、「あ、しまった」とか呟きながら口に手を当てた。

 でも、少し考える様子を見せてからイラッとした口調で続けた。

「あーもういいや。とにかく、カンちゃんは一人で完結してる。自分のことなんてないものみたいに思ってる」

「なんか哲学的なんですけど。コギト問題?」

「違う。自分の幸福を捨てて他人に切り分けてるってコト。カンちゃん、自分の幸せについて本気で考えたことあるの?」

「そりゃあ人並みには。適当な大学行って、適当な会社に入って、普通に暮らせればいいです」

「ああそう。じゃあ、私とか永久ポンを助けたら自分自身が破滅するようなときが来たら、カンちゃんどうする?」

「考えるまでもない。二人を助けて破滅はギリギリまで軽減します」

「ほら、ダメだ」

 はあ? なんの話だこれ? 俺の答えに何か問題があるのか?

 いや、選択肢にない答えを返してるのはわかってるけどさ。人間、あきらめちゃダメだろ。

「だーかーらー。カンちゃんは優先順位がおかしいんだよっ! というかむしろ、自分から不幸になろうとしてないかなっ!?」

「してませんって。そんなわけないでしょう」

「ほら、迷いも考えもしない。そういうところが終わってるって言ったんだよ。自分のことなんか二の次三の次で、それで幸せになんてなれるもんかっ!」

「……………………そうなんですかね?」

 埒があかないというのはこういうことなのだろうか。たぶん、お互いに感じてることだとは思うんだけど。

 息を荒げていた先輩は、一度溜息を吐いて俯いた。

「…………時々ね、怖いんだよカンちゃん。いつかカンちゃんは自分自身を使い潰しちゃうんじゃないかなって。人間、少しくらい傲慢になったっていいと思うんだよ。いいとこ取りしたっていいと思うんだ」

「使い潰すって」

「人間の時間は有限だよ? 自分のことでさえほんとは精一杯なのに、他人のことばっかり考えてたら自分のことはどうすんの?」

「別に他人のことばっかり考えてる覚えはありませんが」

「くうううう、うきゃー! 打っても響かねー! 終わってる! 死んでる! このヒト人間じゃねー!」

 ……………………なんで先輩はこんなに情緒不安定になってるんだろうか? 意味が分からない。

「ああダメだ。私にはカンちゃんは救えない」

 勝手に意気消沈して、とぼとぼと先輩は屋上から去っていく。

 声がかけられないまま、後ろ姿がドアの向こうに消えた。

 うーむ、ちょっと適当に相手をしすぎたか。普段しない話だったからなあ。

「俺の幸せ…………うーむ」

 別に今のままで充分だと思うけどな。普通に高校生やって、普通に毎日が過ぎていって、世はすべてことも無しで。

 いや、ちょっと今は普通の状態じゃないか。でもまあ、美味い食事にありつけてるかららプラスかな。

「……………………」

 視線を感じて首を動かすと、永久と目があった。

 その永久の目も、先輩と同じでどこか不安そうに揺れている。

「どうした?」

「いえ、その」

 永久はその目をさまよわせて、少しだけ上目遣いになって、

「久朗様には、夢はありますか?」

 なんてことを聞いてきた。

「夢?」

「はい」

「夢って、寝てるときに見るヤツじゃなくて願望の方の?」

「はい」

「んー」

 夢か。

 それって、先輩の言ってた未来想像図と同じ話じゃないか? だって、普通は幸福な未来ってヤツが夢なわけだし。

 夢……ね。なんだろうな?

 正義の味方ではないってことは確かだ。だって、人間誰でも自分自身の正義の味方だから、わざわざなるって宣言しなくちゃいけないものでもない。

 この方向からじゃなくて、もっと近いところから考えてみるか。

「とりあえず大学には行くだろ。んで、卒業したら就職して、社会人だな。っと、これだと先輩への答えと変わらないか」

 少なくとも、就職先見つける段階になるまでに氷河期が終わってるといいけど。今の社会状態じゃ無理かもしれないな。下手したら絶対零度になるかも。

「それは夢ではないと思うのですが…………」

「そうかな? 平々凡々、波風の立たない微速前進な人生。それって夢にならないのか?」

「そう言われるとすごくいい夢のような気がしますけど……………………」

 なんだろう、永久も煮え切らないな。

 いや、俺もわかってるんだよ。こう、夢というより「野望」みたいなものが先輩や永久の求めてる答えだって。

 でも、それで破滅している人間や、誰かを破滅させている人間を俺は多く見てきた。だからたぶん、人間は最低限の幸せで満足しておけばそれでいいんじゃないかと思うんだけど、それって間違ってるのかな?

「…………俺は今のままでいいよ」

 見上げた空を雲が流れていく。それは一見すると平和な光景だ。

 でも――――この空の下では誰かが不幸になっていて、そういう人を助けるために誰かが走り回っている。その裏で誰かがそれを嘲笑っている。それでこの世界が終わるとしても、俺はたぶん変わらない。変わりたくはない。変わっちゃいけない。それがどんなに難しいことでも。

「わ、わたしは――――――――」

 永久がなにかを言いかけて、やめる。その続きはきっと永久自身の願望なんだと思う。

 高望みすることが悪いと思ってるわけじゃない。ただ、高望みを続けることが悪いことなんじゃないだろうか。尊い願いが引くべき一線を越えて醜い欲望になったときに、人は破滅の坂を転がり始めるのかもしれない。

「難しいな、人の幸せって」

「はい…………本当にそう思います」

 永久の消えるようなその言葉が少しだけ心に残った。



 それから二日、先輩は俺たちの前に現れなかった。

 何度かメールを送ったらたった一回だけ、

『カンちゃんのバーカ。ストッパー。フラグバニッシャー。妖怪フラグ砕き』

 とだけ返信が返ってきたので、ブチ切れテンションがまだ続いているんだろう。

 それ以来、割と静かな日常を送っていた。判で押したわけではないけれど、それなりに穏やかな日常を。

「さてと。帰ろうか永久」

「申し訳ありません久朗様、先にお戻りください。わたしは買い物に行ってから戻ります」

「荷物持ちくらいしようか?」

「いえ、お手を煩わせるわけにはいきませんから。どうか家でおくつろぎください」

「……………………はい」

 言われるまま、俺は一人家に戻ってきていた。

 ああ、俺楽してる。こんな生活が永久が来てからずっと続いてるな――――そう思った瞬間、だらだらと背中や額を嫌な汗が流れていった。

 まずい。ヒジョーにまずい。

 このままではただれた、じゃない、だらけた生活に流され、腑抜けにさらなる拍車がかかる。ペースも狂ってるし、そもそも俺、最近なにもしてない。

 NPLの活動が出来ないことは別にいい。前に先輩にも言ったとおりもうちょっと動くペースを落とした方がいいとは言われていたし、その点は現状……たぶん問題ない。

 現在の問題は、「人間としての基本的な生活を永久に依存してるんじゃないか?」ってことだ。主従が逆なだけでペットと変わらない気がするぞ。

 …………ということをソファーに転がりながら考えている時点でアウトじゃないだろうか。でも動く必要性を感じない。気力も微妙。

 こらアカンわー。せめてなんかせんとアカンわー。気合い入れなアカンわー。

「ところが、なにかしようにも永久がやってくれるわけで」

 本当にどうしようかな。少なくとも、精神的にこれを受け入れだしたりそもそも疑問にすら思わなくなったら本気でマズいってのはわかる。そう、人として。

 と、がたがたとテーブルの上でスマートフォンが震えた。拾い上げてロックを解除する。

 メールだ。送信者はNPL資料課。件名は「調査報告」。

 やっと来たのか。結局、自力で思い出すのは無理だっ、


『高天原永久さんについての記事を検索できたので子細を送付します。けど、今後は個人的事情でこういう調査を依頼しないように! 公私混同ダメ! ゼッタイ!』


 バレてーら。さすがは調査組織。内偵もバッチリですか。気づかなかった。

 それでも調べてくれたのはありがたい。正座して見させていただくことにしよう。

 添付されていたのは、小さな新聞記事が一つ。地方紙の、それもホントに写真すらないちっちゃい記事だ。

 見出しは「山中で遭難の子供発見」。日付は十一年前の三月になってる。二ケタ年も前か。

 保護された子供の名前は高天原永久。年齢は五歳。村内の高天原神社の三女で、山菜を取りに行ったところで連日の雨によってぬかるんでいた地面で脚を滑らせて滑落したらしい。

「…………そういえば、そんなこともあった」

 あれは確か、小学校に入る少し前。俺の入学祝いだと言って家族揃って出かけた時のことだ。

 行き先は、父さんが秘湯だとか言っていた温泉旅館。そこで女の子がいなくなったって話を聞いたんだ。人のいい父さんや母さんも含めた大人たちがかけずり回っているのを見て――――子供心に何か手伝えないかと思って、おやつとか水筒を持って俺も探しに出た。「俺ならどこに行くかな?」と思って入った山の中で女の子を見つけた。

 今思えばとんでもない幼稚園児だったけど…………そうか、あのときのあの子が永久だったのか。

 名前を言われても思い出せないはずだよ。そもそもあの山の中で会ったとき、あの子はなにも言わなかったんだから。

 現在の知識で推測するに、極度の恐怖と軽度の栄養失調から一時的な失声症に陥っていたんだろう。仕方ない。

 とにかく、こっちが何を聞いてもおびえた表情で首を振るだけで答えてくれなかったし、名前も俺は言ったけど、向こうは最後まで教えてくれなかったからな。

「……………………はあ」

 スマートフォンを投げ出して、思わず溜息を吐いてしまった。そのままもう一度ソファーに横になる。

 冗談みたいな話だ。本当に「つるのおんがえし」だったとはね。

「……………………恩返し、か」

 律儀だな――――なんて感想は出てこない。

 むしろ、なにも言えない。

 こういうのは精神医学ではよく議題になる話だ。疾病者が施術者に好感情を抱き、それが結果的に恋愛感情に昇華されるという状態。

 これを専門用語で「ナイチンゲール症候群」という。別に治療したわけじゃないけど、NPLでもよくあることとして報告されているらしいし、どうせなら「ホームズ症候群」とでも名付けるか?

「……………………なに考えてんだか」

 深呼吸を一つ。それでもなぜか気が晴れない。

 とにかく、永久の感情は一時的な気の迷いが増幅されたものだ。十年も会えなかったってこともそれを加速させてるんだろう。

「ははは」

 なんかな。白けたとか醒めたとかじゃないんだけど、急に冷静になっちゃったな。

 己を省み、他者を見よ。その二つは見えてしまった。それもかなりの部分が第三者的な情報で。

 つまり、俺にとってはそれくらいの出来事だったってことなのかもしれないわけで。

「ただいま戻りました」

「……………………おかえり」

 帰ってきた永久に返せたのはそれだけ。体中の力が抜けて動く気になれない。

「久朗様? なにかありましたか?」

 永久は俺の様子がおかしいのに気を留めたらしく、ある程度距離を開けたところに正座した。

 甲斐甲斐しいっていうんだろうな、こういうの。普通ならプラスの方向に心が動くのかもしれない。

 でも、冷静になるとキツい。ほとんど無条件で慕われてるってことなんだから。

 永久の心が重いわけじゃないんだ。

 ただ、俺自身の立場が重苦しいだけで。

「……………………」

 放り出していたスマートフォンを無言で拾い上げる。画面は暗転しているが、操作すればまた新聞記事が映し出される。

「不義理だとは思ったけど、調べて思い出した」

 なんとか身を起こしてスマートフォンを手渡す。

 手の中に収まったそれを見て、永久はなんとも言えない表情をした。

「お互い大きくなったな」

「……………………はい」

 画面に映ったものが確かな思い出であるように、永久はスマートフォンを両手で包み込む。

「不義理をしたのはわたしです。あのとき助けていただいたのに、わたしは久朗様に何もしませんでした。それどころか拒絶するような態度までとってしまいました」

「仕方ないさ。子供が一日雨に打たれてたんだから、それで正常な思考力がある方がおかしい」

 むしろ死んでなかったのが不思議なくらいだ。そんなときに誰か現れたら、俺だって何か得体の知れないものに見えるだろうし、

「それに…………………………………………変な親近感が沸いても仕方ない」

 その言葉を口にするのには、ものすごい気力が必要だった。

 たぶん、俺自身が望んでいたんだろうな。もっと綺麗な物語を。運命の出会いみたいなそんな話を。

 知ってるはずなのに。

 知っていたはずなのに。


 ナイチンゲール。


 ストックホルム。


 リマ。


 吊り橋を初めとして、異常な状態の方がありえないくらい強い感情を生み出しやすいってことくらい。

 人間は、簡単に勘違いして誰かに心酔までするようになるってことも。

「…………知っています」

 消えそうな声で永久が答えた。

 俯いた彼女の表情は、今は見えない。

「ナイチンゲール症候群のことはちい姉様に聞きました。わたしの感情は錯覚だと、そう言われました」

 前髪の内側辺りから、ぽたりと制服のスカートに水滴が落ちた。

「そんな感情は偽物だ。本当の恋なんかじゃないと言われました」

 水滴は一つから二つ、三つ、四つと増えていく。

 落ちる度にスカートの色を変えていく。

「わたしが久朗様のことを想うのはただの思い過ごしだと、そう言われました」

 永久?

 泣いてる、のか?

「でも、いくら否定してもあなたのために生きたいと思ってしまうんです。久朗様に捨てられるのなら生きている意味がないと、そう思ってしまうんです。この想いは偽物でしょうか?」

 ごめんなさい、と初めてこの家に来た日、永久は声を張り上げて一生懸命謝っていた。けれどアレは、半分くらいは自分に向けていたものだったのだろう。

 今の永久の言葉は――――静かな叫びはすべて俺に向いている。俺の言葉を待っている。

 待ちながら、少しずつ自分の身を切りつけている。砕けそうな心をつなぎ止めている。

 もしかしたら、彼女はここに来るまでにもずっと答えを求めていたのかもしれない。

 俺に会えばわかると。いつか答えを教えてくれると。

「……………………」

 でも、俺になにを返せって言うんだろう。

 そうじゃないと言えばいいのか? それとも、そうだと?

「教えてください、久朗様」

『――――、――――――――!』

 一瞬、目の前の少女とあの日震えていた少女が重なった。

 手を伸ばさなければいけない。そう思って手を動かし――――動かそうとしただけで、今度は手は動かない。

 傷つけた俺にそれをする権利はない。そしてなにより、彼女に不幸しか与えないだろう今の俺がそれをしていいはずがない。

 あの頃とは何もかもが違う。変わってしまった。

「…………すみません。ご迷惑をおかけしました」

 悪いのはすべて俺のはずなのに、永久は笑って頭を下げた。立ち上がってよろよろと部屋を出て行く。

 しばらくして、ぱたん、と小さな音を立てて玄関のドアが閉まった。

 これで俺の周りは静かになった。

 明日からは誰かの不幸なんて考えずに生きていけるだろう。去年と同じような一年がまた繰り返すだけ。仕事も再開できる。

「ッ」

 問題がなくなったはずなのに、髪の毛が抜けそうになるくらい強く掴んでいた。

(なんだ? なんでこんなに胸が痛い? 俺は間違った答えを出したか?)

 いや、これでいいんだ。これからずっと俺といれば、永久はもっと傷つくかもしれない。それどころか傷つくことさえできなくなるかもしれないんだ。

 俺の出した答えは――――この答えが間違ってるはずがない。

「答えを出したんだ、俺は。最良の答えを。そうだろ、神無久朗」

 自分に言い聞かせるように言って――――――――自分を他人事のように見て、気付いた。

 電源の切れたテレビに映る自分の顔には、能面のようになにもない。その中の真っ黒な瞳が俺自身を冷ややかに見ている。

 ――――答えを出しただって?

 ――――答えたか、おまえ?

 ――――そもそもおまえ、永久と同じくらい悩んだか?

 ――――答えを出せるほど考えたか?

 ――――高天原永久の十一年分の想いにちゃんと答えたのか?

 そう、軽蔑するような目で見てくる。

「――――――――答えたさ」

 俺は国際調査連盟の捜査員だ。正義の味方だ。

 だからたぶん――――ろくな生き方も死に方もできない。

 正しいことをやったら恨みを買わないってわけじゃない。なにをやろうが人間は恨みを買う。要は、それがどれだけ大きな波紋を起こすかだ。それがどれだけそいつにとって都合が悪かったかだ。そういう類の波紋を起こせば必ず揺り戻しが来る。

 俺は今までその波紋を起こしすぎた。責任を押しつけるわけじゃないけど、要子先輩の持ってくる案件がデカいものばっかりだったから。だから連盟からも少し休んだ方がいいと言われているんだ。組織の秘密を護るためではなく、個人を特定させないために。

「違う。そうじゃない」

 思い切り首を振る。

 そんな建前はどうでもいいんだよ! いったい誰に言い訳してるんだ!

「…………単純なんだ、ほんとは」

 怖いんだ、俺は。俺に関わったことで、誰かが物言わぬ躯になってしまうのが。物言わぬ躯になった俺を見せるのが。

 後悔したくない。

 後悔させたくない。

 ――――誰が?

 ――――誰に?

 それは…………俺が俺にだ。守りきれなかった間抜けだって、そう思いたくないだけなんだ。大事なものを失うのが怖くて仕方ないだけなんだ。

「ッ」

 拳を握りしめ、唇を噛む。

 馬鹿だ俺は。

 大馬鹿だ俺は。

 そう気づくと、鏡合わせの自分の言い分が変わる。

 ――――せめて、永久の気持ちに向き合ってやれよ。全部話してやれ。

 ――――あの子は思いを全部ぶつけてくれたんだから。

 ――――礼を持って礼に報いよ。ああいや、関係ねえよそんなの。返した礼が同じ量かどうかもわからないしな。

 ――――ただな。女の子泣かせて放り出すなんてのは人間のやることじゃねえだろ?

 永久の置いていったスマートフォンを拾い上げて部屋を飛び出す。今になって思えば、俺はあの子が携帯を持っているのかどうかすら知らない。

 いや、知ろうとしなかった。聞こうともしなかった。永久が俺に自力で思い出して、その上で受け入れてくれることを望んでいると思い込んで。

 でももうその段階は終わった。どうにもならない。だから今の問題を考えないといけない。

 俺は余計なことをグダグダ取り込んで考えるタチだ。突っ走りながらなら余計なものはそぎ落とせる。

 高天原永久。彼女のことを俺はどう思っているのか。

 さあ、神無久朗。今こそあの命題だろ。くだらない階段なんて駆け下りて、地べたを這いずれ。おまえの立ってるのはニセモノの高みだ。そんなところから見えるものがホンモノの世界のはずがない。


「目を逸らさず、真実を追え――――――――!」


 おまえにとっての真実ってなんだよ? 永久はおまえのなんなんだ?

 クラスメイトか? 居候か? ただの女の子か? ジャマな存在か? それとも降って湧いた便利な使用人さんか?

 違う。どれも違う。永久は俺にとって、

「大切だ」

 それ以外の言葉で表せない。大切以上の言葉なんて。

 …………いや、表せる。

 なんで、ナイチンゲール症候群って言葉が浮かんだときに嫌な気分になったのか。

 なんで、自分の現状と照らし合わせても側にいてくれることを望んだのか。

 それはきっと、俺が永久を。

「――――好きだからだ」

 好意に合理的な説明なんて付けられない。付ける必要なんてないんだ。

 永久も俺も、たった一つだけのことが心の中にあった。「側にいて欲しい」って、ただそれだけが。

 そもそも、簡単な話だったんだ。

 大切なものを失うのが怖いのなら、失うのが怖いものは大切だってことなんだから。

「そうだ。俺は今のままでよかった。でも、それは永久のいる今だ」

 いなくなって欲しくない。だから追いかけないといけない。

 まだ遅くないって、そう信じて。

「遅くないよな、永久。いや、たとえ遅くても――――」

 エントランスに飛び出したところで辺りを見回す。

 永久の姿はない。どこかへ行ってしまったのか?

 ハ、そのくらい平気だ。俺はNPLの捜査員なんだぞ?人探しも能力の内だ。

「最初は俺がおまえ、二度目はおまえが俺。永久――――次は俺がおまえを見つける番だ」

 深呼吸して、思考を推理に割く。

 今の永久は心が不安定なはずだ。だとすれば少しでも落ち着く場所へ行くか、習慣化された行動を無意識にとるはず。永久はこっちに来て日が浅いし、駅からマンションへの道は迷っていて心許ないはず。

 その推理に基づけば、俺に思いつくのは一カ所しかない。

「学校だ」

 地を蹴り、走る。通学路を、今まで出したことのない全速力で。

 毎朝永久と見ていた光景が後ろへ流れていく。すれ違う人が驚いたように振り返る。

 今はいい。今は目に留めなくていい。明日からもっと大事な光景をいくらでも見られる。目に留めなくちゃいけないのはたった一つだけ。大切な女の子の姿だけ。

「永久!」

 見つけた。通学路の途中にある小さな神社。そこの賽銭箱の前で、膝を抱えて座り込んでいる。

「――――永久」

 声が聞こえていないのか、永久はこっちを見てくれない。

 ああ、それでもいいさ。永久はずっと俺を振り向かせようとしてくれてた。だったら今度はこっちの番だ。

「永久」

「……わたしは、久朗様のそばにいてはいけないんです」

「ッ」

 腸が煮えたぎる。

 奥底から煮えくり返る。

 永久が大切だ? 誰かとか自分がどうだ?

 そんな後ろ向きな建前で線を引いた俺は、何様なんだよ。大切なのは、可愛いのは、守りたいのは――――全部自分だけじゃねえか。自分の望みしか気にしてねえじゃねえか。永久のことなんて考えてねえじゃねえか。天秤に載るのは永久か他人かなんて、傲慢の極みだ。

 そうか。

 永久が俺を好きって感情はナイチンゲール症候群の産物なのかもしれないけど。

 俺が永久をどう思うかは、ああだこうだ言われたり俺自身がブツクサ言うことじゃないのか。

「……なんだ、そうだったのか」

 第一、そんなものどうでもいいじゃないか。

 ナイチンゲール症候群? それがどうしたよ。

 精神医学的に異常な状態? それがなんだよ。

 じゃあ、そういうの抜きでどうやって誰かを好きになるってんだ。

 打算や裏打ちだけで人を好きになってどうするんだ。権謀術数だけで自分を好きにならせてどうするんだ。

 そんなの、恋愛って言うわけないだろ。それこそ中身のないまがい物だ。

「永久。俺は弱いし自分勝手なガキだ。でも今日からそんなガキはやめるよ。物わかりのいいように見える中身のない大人ぶるのもやめる」

 伏せた顔を無理やり起こさせる。

 虚ろで生気のない瞳をした彼女の手を強く握る。

「帰ろう、永久」

「……………………」

 ぽろり、と。

 永久の目からまた涙がこぼれた。



 玄関に入った瞬間、膝から力が抜けて倒れた。手を繋いだままだった永久をかばってそのまま廊下に転がる。

 制服で少しだけ遮られた体温を胸の中に抱くと、自然と身体が震えてきた。

 これじゃあ、あの時と逆だ。俺が全身ずぶ濡れで怯えた目をしてるみたいだ。

「…………怖いんだ」

 永久の背中を抱く。人形みたいになってしまった永久に話していると涙が出てくる。

「俺は人に言えないことをやってる。恨みもたぶん山ほど買ってる。不条理なんじゃない。なにが正しいかなんて俺が決めたって誰かが否定しちまう。だから俺はいつか後ろから襲われて死ぬかもしれない。闇の奥に引きずり込まれるかもしれない」

 胸が苦しい。息が詰まる。

 それでも、話さなくちゃいけない。心を見せてくれた永久に俺も心を見せたいから。悩んで悩んで悩み続けて、それでも俺の所に来てくれた永久に近づきたいから。

 いまさらかもしれない。身勝手かもしれない。それでも話そう。話してから、それから考えよう。永久の幸せを。

「俺はそういう生き方をしてるから仕方ない。望んだんだから。でも、俺が死ぬ前に大事な人が殺されるかもしれない。俺が死んでから大事な人が殺されるかもしれない。自分勝手だって言われても、傷つかなくていい誰かを傷つけるのは嫌なんだ。俺のせいで誰かが不幸になるのは嫌だ。でも……それでも……永久がいなくなるのはもっと嫌だった。矛盾してるけど、永久に側にいてほしい」

 涙が止まらない。

 胸の痛みが治まらない。

 いつもなら平然と話せることが、こんなにも自分を切り裂く。

 それはきっと、本当は目を逸らしていたからだ。

 斜に構えて、背を向けて、かっこつけて――――本当は現実に向き合う面をできる限り減らしていたから。

 それで向き合っていると思いこんでしまったから。

「…………知っていました」

 そっと背中に手が回された。

「好きな人のことですから、どんなことでも知りたかったです。どこで暮らしているのか。どんな学校に通っているのか。好きな食べ物はなにか。好きな本はなにか。それに――――なにをしているのか」

 きゅ、と弱いながらも腕に力が込められた。

「あのときの男の子が正義の味方――――いいえ、困った人の味方を続けているのを知って、わたしはそれを助けられるようになりたいと思いました」

 静かに、永久は俺の背中から胸へとその手の位置を変えた。優しい力で押し戻されて、お互いの顔が見えるくらいの距離が開く。

「わたしは死にません。あなたが後ろから襲われるというのなら誰も近づけさせはしません。暗闇に引きずり込まれるというのなら必ず光の元に連れ戻して見せます。わたしは久朗様を護ります。だって、久朗様はわたしのことを護ってくれますから。それで問題ありませんよね?」

 寝転がったまま、永久は自分のおでこを俺のおでこにくっつけた。目の前には優しくも強い微笑みがある。

 今更になって気づかされた。俺はこの子を見くびってたんだ。

 この子は、怯えて震えていたあのときの女の子だ。今でも不安を抱え続けている。俺への想いが偽物なんじゃないか。それで嫌われるんじゃないかって。

 だけど、その分昔よりずっと強くなった。消えない不安と正面から向かい合って、まっすぐ前を向いて戦えるくらい。ずっと逃げ続けていた俺なんかとは比べものにならないほど強い。

 余計なものを気にしていたのは俺だけだった。なにもかもに背中を向けていたんだ、俺は。

「……………………永久。俺は永久が好きだ」

「……………………はい。わたしも久朗様が大好きです。昔も、今も、これから先もずっと」

 心地よい温度の大事な人を抱きしめる。心臓の音だけが静かに聞こえる。

「やっと久朗様に近づけた」

「俺も永久に近づけた」

 お互いの背に手を回したまま、俺たちは眠りに落ちていった。

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