1 Little Unreason《ちょっとした不条理》
一年の計は元旦にあるという。では、一日の計はどこにあるのだろう?
俺は昨日の世界を知ることだと思う。新聞を読んでもいいし、ニュースを見てもいいし、ラジオを聴いてもいい。とにかく、「世界が自分と繋がっていること」と「自分が世界の中にいること」を再確認するってことだ。
人間は、自分の周りだけ見て生きていくことができる。でも、それじゃあちょっと虚しい。自分が生きている理由ってのを見つけるためには、もっと広い視野を持たなくちゃいけない。
だってな。バタフライエフェクトとまではいかなくても、なにか波紋みたいな物がないと俺がここにいる意味って特にないってことじゃん。だから増えてるんだよ、引きこもり。たぶん。
「汚職に、着服に、殺人かぁ。なんつー物騒な世の中なんだろうなぁ…………」
…………でもまあ、なんていえばいいのか。ニュースを見て世界を近づけようとしても、手の届かないところばっかりになってそうな気がするよな。見えないところを見せるのが報道の務めではあるんだけど、何かこう乖離感を感じるというか。世界どころか隣の県ですら遠くなったってたまに思うことがあるし。
それより何より重大な問題は、そんなことを高校生の俺――――神無久朗が思ってもどうにもならないってことだと思う。それこそが世界との乖離感そのものだとしても。
「さて、今日も元気に学校いくか」
新聞をテーブルの上に放り投げて、鞄を掴む。ドアを開けると、春の陽気が流れ込んできた。
「……………………いい天気だ」
エレベーターで一階へ下りると、正面玄関にある桜が満開になっていた。
ああ、今年も入学式シーズンだな。無事本年度が始まるわけだ。
そのまま二分ほど桜を堪能して、改めて学校へ向かう。
本日は始業式。その日に桜が満開なんて、何かいいことがありそうな気がする。
例えば、通学路で巫女さんを見かけるとか。
え? 巫女さん?
大通りの向こうを思わず二度見する。といっても、決して巫女さんフェチなわけじゃない。街中で巫女服を見るのが珍しいだけだ。ただ巫女服を見たいなら、それこそ歩いて数分神社へ行けば好きなだけ見られる。あまり見すぎると、公権力が飛んでくるご時世だけど。
巫女さんは、地図と辺りを見比べながらちょっとだけ困った表情になっている。その背中には、カラフルなカモだかヒヨコだかの鳥があしらわれた朱色の風呂敷を背負っている。トートバッグなんかを持っている方がどう見てもおかしいのだが、風呂敷がどうにも田舎を連想させてしまう。白衣と緋袴もれっきとした和服だから、正しい組み合わせなんだろうけど。
助けてあげた方がいいのだろうか、と一瞬迷った。一瞬迷って、彼女の方に歩き出そうとしたとき、
「おーっす、カンちゃん。オラァ!」
「いってぇっ!」
ばちーん、と背中を叩かれた。巫女さんとは逆方向に振り返ると、少々、というよりかなり小柄な女の子がいる。
「なにすんですか、先輩」
「せっかくの新学期だよ? 盛大に景気よく行かないと」
佐伯要子。カナメコなんて珍しい読み方をする名前を持つその人は、俺より頭二つ分くらい身長が低くいれっきとした先輩だ。IT関係に強くて、自分のことを「ヒキコモリの逆だから、ヒキデかな?」なんて語るようなちょっと頭のネジの外れた人でもあるけれど。
っと。先輩よりも巫女さんはどうなった?
そう思って頭を一八〇度逆に向けると、もうその姿はなくなっていた。
「カーンちゃん、どうしたの?」
「いえ、道に迷ってそうな巫女さんがいたんですけどね」
「――――ほほう。巫女さんとな」
キュピーンという音が聞こえた気がして、先輩の方に振り向く。
先輩は、愛用のスマートフォンを取り出してものすごいスピードで操り出す。すごいな。指が見えない。
ひょっとするとこの辺の神社でも探してくれるのかと思ったのだが、
「『巫女服』、『販売』、っと。おっ、検索結果一万オーバー。朗報だよカンちゃん。巫女服、フツーに売ってる」
「…………一瞬でも期待した俺がバカでした」
そう、佐伯要子はこういう人だ。それ以上の説明が不要になるくらいに。
「え? なに? ナニを期待したの? もしかして、『や、やめてください神主様!』みたいなの?」
「謝れ。今すぐ全国の社と氏神さまと神主さんと巫女さんに謝れ」
「うーん、でもいいよね巫女さん。こう、汚れてない感じが何とも」
ニコニコ笑いながら、先輩はオレの言葉をスルーした。
ていうか、あんたホントに今日から高三の女子ですか。中身オッサンじゃねーか。
「ね、ね。カンちゃんがやって欲しいなら速攻ポチるよこの巫女服」
「いいです。遠慮します」
「あ、もうポチっちゃった。明日には届くかな」
「人の話聞けよ!」
ツッコミは届かない。ボケがはるか彼方すぎる。
アア、セカイッテトオイネ。
「いいじゃんいいじゃーん。たまにはカンちゃんから私に還元してよー」
「っ――――それとこれとは話が別ですよ。それに、還元ってなんですか。俺にも先輩にもリターンはないでしょう」
くそっ、ボケに混じってこういう危ないセリフを言うから恐ろしい。
「いいえ、同じです。さらに一挙両得なんだな、これが。残念ながら私は、見返りを考えないほど安い女じゃないのだで」
「だで、って……………………見返りに加えてキックバックまで得てるくせに」
「……………………それは、私のリスクに対するリターンなのだ」
こっちの皮肉にやっぱり小声で返しながら、先輩はにやにやとイヤーな笑い方をする。
ほんとイヤだな。物は言い様なのか、こっちへの負担を減らそうとしているのか、裏のないただの皮肉なのか、その辺りがよくわからない。
「で、具体的にはなにをしろと?」
「言わなくてもわかるくせにー。つんつん」
「嫌だ。一生わかりたくない。わかってはいけない気しかしない」
「大丈夫…………神主見習いの久朗さんも、すぐに好きになるから。うふ」
「ぐおお、鳥肌が! なぜか鳥肌が!」
「ふふ、大人の魅力にやられちゃった…………?」
「はっはっは。オトナ? 誰が?」
「みなさーん! カンナクロウくんは幼女萌えでーす! この人この人ー!」
「とんでもないデタラメを叫ぶんじゃねえー!」
そんな漫才じみたやりとりで朝の通学時間は過ぎていく。
この時の俺の頭からは、風呂敷包みを背負っていた巫女さんのことなんか完全に消えていた。
そのまま消えていた方がよかったようにも思うし、消えなかった方がよかったようにも思う。消えなければ少なくともなにかを思い出せたかもしれないけど、なにも思い出せないのなら消えていても同じことだからな。
ただ、一つだけ確実に言えることがある。
……………………あのとき声をかけておけば、そのあとの悲喜劇のいくつかは起こりえなかっただろう。
/
始業式とホームルームで本日の放課は終了。昼前には学校から解放された。
街に繰り出そうという新しい級友の誘いを断って、家への道をゆっくりと歩く。理由は、昨日徹夜したから。あとは、どうせ街に行けば同じように半限を遊び倒そうとしている先輩に会うだろうと思ったから。付き合い悪い奴に見えただろうな。
エントランスの桜から降ってきた花びらを眺めながら、エレベーターに乗り込む。自分の階で下り、あくびをしながら部屋に近づき、
「――――――――」
一時停止。息を止め、足音を消してドアに張り付き、しゃがみ、ゆっくりと郵便受けを押し開ける。
部屋の中の空気が違う。微かだが、言葉にできない違和感がある。中の音を探りながら、時間をかけて郵便受けを閉じる。
一ミリ刻みで動く。鍵を差し込み、回す。ロックボルトが音を立てないよう、慎重に。
オーケイ、開いた。続けてドアノブを回し、一センチほどドアを開く。隙間から中を確認。ワイヤートラップの類無し。ドアバーも掛かっていない。
半身分ドアを開いて、隙間から滑り込む。音を立てないように閉めて、気配を伺う。
リビング、キッチンには人の気配無し。ベッドルームのドアは閉じられたまま。窃盗に入ったなら、気配確認や逃走ルート確保にそこは開けておくだろう。
と。ざぱ、と何か水の流れるような音が聞こえた。その方向にあるのは洗面所とバスルーム。
「……………………は?」
え? 風呂? まさか、今の世の中に水泥棒なんてのがいるのか?
いや、いるのかもしれないな。江戸時代から水の奪い合いはあったというし、盗む価値のない物じゃあない。世の中には配線に細工して隣の家から電気を盗む輩がいるらしいが、それに比べたら水を盗むのはかなり楽だろう。いや、うん、ありえないくらい嵩張ることを除けば。
音を立てないよう、傘立てから傘を一本抜く。意識的に足音を消して、脱衣所へ近づく。
スライドドアを五ミリほど開いて中を覗いても誰もいない。ということはやっぱり風呂場の中か。ここまでくると、ドアを開けることで射し込んだ光で気付かれかねない。
右手に傘を構え、ドアの隙間を一センチまで広げて、左手の指を三本立てる。自分のためのカウントダウンだ。
三、――――右足の親指をドアの隙間に突っ込む
二、――――薬指を折り、息を止める。
一、――――中指を折り、軸足である左足に力を込める。
ゼロ――――バン! と思いきりスライドドアを蹴り開く。その勢いのまま、左手を突き出して風呂場のドアに突っ込む。
マイナスゼロコンマ五。――――ガタンッ! と盛大な音を立てて、脱衣所と風呂場を隔てるドアが開いた。
「動………………っ!?」
「――――――――」
動くな、とは言えなかった。侵入者と二人、顔を見合わせて固まる。
そこにいたのは水泥棒――――ではなく。予想だにしない、薄手の着物を着た女の子だった。白い布地が水で濡れて、ぴったりと肌に張り付いている。ついでと言っていいのかはわからないが、肌色が透けて見えている。
手には水の入った桧の桶。そんなものこの家になかったから、自分で持ち込んだのだろう。そして、今まさにそれを浴びようとしていたところだったらしく、ちょろちょろと頭に水がかかっている。
水の流れる先には、艶めいた黒髪。それは腰元までの長さなのだが、濡れているせいか一本一本がくっついたりばらけたりしながら着物に張り付いている。額に張り付く前髪の隙間からは、驚いたのかまん丸に見開かれた黒い目が覗いている。
さて、問題です。
わざわざ着物を着て水浴びをするために人の家に忍び込む人間がいるでしょうか?
答えは簡単です。
そんな人いるわけねーし、銭湯に行く代わりに人の家に忍び込むような奇特な女の子がいるものか。
そもそもどこかで見たことあるんだよな、こういう儀式。えーと。なんて言うんだっけ、これ。水垢離? でもこれって、風呂場でやるようなことだっけ?
一瞬意識が飛んでいた間に、そんなことを考えた。だがしかし、すぐに意識は現実に引き戻される。
ぶわっ、と女の子の顔が赤く染まったからだ。
「ごめ――――」
「申し訳ございませんっ!」
謝ろうとしたら先に謝られた。それも、深々とした土下座で。
…………いや、そのリアクションおかしくね?
「お見苦しいところをお見せして申し訳ございませんここに至るまでに道に迷ってしまい汗をかいてしまったのでお目にかかる前に身を清めなければならないと勝手に湯浴み場をお借りしてしまいました上こうして見苦しい姿をお見せしてしまうことになり本当に申し訳ございませんでした!」
そんなことを一息に言われた。よく舌とセリフ噛まなかったな。
女の子は、「申し訳ありません申し訳ありません」と頭をものすごい勢いで上げ下げしている。それがちょっとだけかわいそうになったので、
「――――――――」
がらり、と。ドアをスライドさせて、現実から逃避することにした。そのままばさっと傘を開いてみたりする。
「…………ホレイショー。この世の中にはおまえの思い及ばないことなどいくらでもあるぞ」
最近読んだ漫画に書いてあったハムレットの一節を思い出し、後ろ歩きでゆっくりと脱衣所を出た。
「誠に申し訳ありませんでした!」
体を拭いて着替えたらしい少女は、リビングの俺を見るなり再び土下座した。いや、最敬礼という意味ではこれ以上ない作法なんだけど、それより何より驚くことがあった。
白衣と、緋袴。脇に置かれた包みは朱色の地に鮮やかな鳥があしらわれた風呂敷。膝を付き合わせて正座をした相手は、どこからどう見ても朝見かけた巫女さんだった。
ていうか、脱衣所においてあったその一式見て気付けよって話だよな。
「久朗様のお父様から鍵を戴いていたとはいえ、不躾に上がり込むべきではありませんでした! どうかお許しください!」
ん? なんだって?
「それ以前に、ご実家に伺うにあたって久朗様にお伺いを立てるべきでした! すべてわたしの落ち度です!」
いや、待て待て待って。ウェイト。ウェイトアミニット。
久朗様? のお父様から? 鍵を戴いていた?
実家に、伺った?
「……………………ちょっとすいませんね」
すすー、とスマホを取り出して短縮ダイヤルを押す。
数回のコールの後、通話が繋がった。
『お、久しぶりだな久朗。どうした?』
「……………………説明して貰おうか」
かろうじて、それだけ絞り出した。さすがに父親に向かって暴言を吐きたくはない。
『ん? 何を怒ってるのかはわからんが、永久ちゃんがそっちに着いたってことか?』
トワ? それがこの子の名前か?
「ああ。で、なんでこうなってるのか説明してくれないか?」
『説明も何も、本人から聞けばいいだけのことだろ? いや、今時いないぞー、息子のお嫁さんになりたいなんて言ってくる女の子は。そんなドラマみたいな話があるんだな、この世の中にも』
なに…………?
誰……の? なん……だって?
『とにかく、そういう話はまず当人同士でするべきだ。ま、無碍に断るような話じゃないと思うし、おまえもそうはしないだろ』
それじゃあな色男、との言葉のあとにブッツンと音を立てて通話は切れた。
「……おい」
ふ、ざ、け、る、な、よ!
なんで! 俺の周りの奴らは! 人の話を聞かない!?
「――――――――っ」
がっくりと項垂れる。
いや、項垂れるしかない。土下座とはいかないまでも、両膝と両手が床に着いた状態でトワという名前らしい女の子と向き合う。
ああこれ、別の角度から見たら変な光景なんだろうな……………………そっちから見たいよ、俺も。
「…………それで、だ」
ギチギチと音を立てながらも、なんとか頭を上げた。
固まった身体をほぐすようにしながら床に正座し直す。
「ええ、と。トワさんっていうのか、君」
「はい」
肯定してゆっくりと頭を上げた彼女は――――なぜか悲しそうな顔をしていた。
「覚えていらっしゃいませんか?」
「え?」
覚えているかどうか?
つまりそれは、「以前にも会ったことがある」ってことなんだろうな。
トワ。申し訳ないけど、そんな名前の子は記憶を探っても出てこない。
「ごめん。わからない」
「そう……ですか」
一瞬泣きそうな顔をした彼女は、それでも唇を引き結んで顔を上げた。
「高天原永久と申します」
タカノアマツハラ? そんな珍しい名字、一度聞いたら忘れるはずがない。
だとすれば、可能性は一つ。彼女の想い人が俺じゃないってことだ。
「いいえ、間違えてなどいません」
それでも、まるで俺の心を読んだかのように彼女は俺の考えを否定した。
「神無久朗様。わたしが生涯お共すると誓った相手は、間違いなく久郎様です」
生涯お共する、って。犬とか猿とか雉の話じゃないよな。
そうだよな。お嫁さんになりたいって言ってきたって話だったもんな。
…………いや。
…………待て。
オ。
ヨ。
メ。
サ。
ンンンンンンン――――――――!?
それってアレか? 届け書いたり、左手の薬指に指輪はめたり、教会とか神社とか、誓いのアレとかアレするアレか!?
な、なぜ? ホワイ? いったいなにをした、過去の俺よ!?
ま、まさか「おおきくなったらくろうくんのおよめさんになるー」とか、そんな都市伝説的なイベントでもあったのか!? その上でそれを律儀に守ってくれる超常現象的な女の子がいたというのか!?
「おう……………………」
頭痛がする。確か、朝の段階では「今日はいい日になる」と思っていたはずだったのに。
いや、悪い日ではないよ。かわいい女の子が「お嫁さんになりたい」なんて言ってやってくるなんて、おいしいイベントだろうよ。でもそれはこっちの身に覚えがあるか、忘れてるけど実は両想いでしたって場合の話だ。そんな都合のいいお話があるわきゃない。
加えて――――――――清廉潔白で、隠し事が何もない場合の話だ。
「あの、高天原さん」
「どうぞ永久とお呼びください、久朗様」
「あー、と」
「どうかお願いします」
「永久、サン?」
「永久、でお願いします」
深々と、三つ指突きのお辞儀。
くっそ。この子の押しに弱いな、俺。改善すべき点だぞ。
「わかった、永久。未だに思い出せないけど、だからって追い出すようなことはしないから…………ふわ」
無意識にあくびが出る。現実逃避の一番の手段。それはすべて忘れて眠ることである。
「ごめん。だからちょっと寝かせてくれ。昨日徹夜だったんだ」
「徹夜ですか?」
「ああ。ちょっといろいろあって」
徹夜だったのはまぎれもない事実だ。級友の誘いを断ったのも、とにかく睡眠時間を確保したいからで女の子の水垢離を覗くためじゃない。
「で、ではどうぞ、わたしの膝をお使いください」
って…………おい。ここまでイベントが多発するのか。俺の背中にコントローラーがついてて、先輩がそれを操作してるんじゃないだろうな? 思わず確認しちまったぞ。
「大丈夫だ。それに、俺が起きるまで永久が動けないだろ」
「問題ありません。久朗様に尽くすのがわたしの望みですから」
あーもう。変なところで頑固というか、なんというか。
「だから大丈夫だって。俺に構わず好きにしててくれ」
こうなったら逃げの一手だ。さっさとやることをやってしまうに限る。
というわけで、ソファーに身を投げて目を閉じた。
いや、別に早寝は特技じゃな……………………ぐー。
/
父さんがいて、母さんがいて、姉貴がいて、俺がいて、家族四人集まって食卓を囲んでいる。ああ、うん。夢だ。間違いない。
人間は、簡単にありえることを夢に見ることは非常に少ない。だから一発でわかった。
実際、簡単に叶う。俺が実家に戻りさえすれば。
たぶん、「そういうことをしたい」、「帰りたい」っていう無意識の願望が夢に現れてるんだろう。だって俺は、父さんも母さんも姉貴も好きだから。
でも、だからこそ俺はあそこには戻れない。いくら寂しくても、戻るわけにはいかない。俺はそういうことをしてるんだから。
今会ってもきっと、胸を張ってみんなの顔を見ることができないと思う。それが、正しいとか間違っているとかに関わらず。
「――――――――う、っ」
夢の中への執着を振り切って意識を覚醒させる。原因になることをしたからか、それとも身構えもせずに父さんと話したからか。理由はわからない。
こういうことを振り切れないから弱いのか、依存しないから強いのか。どっちともつかないな、俺は。
「おはようございます、久朗様」
……………………?
今、何か聞こえたか?
ゆっくりと首を動かして、部屋中を見回す。
「……………………はい?」
フローリングに、巫女さんが正座していた。
え? 巫女さん?
巫女さん。風呂敷。黒髪。濡れた黒髪。水垢離。
ああ、思い出した。高天原永久さんだ。
そうだ。見まごうことなく彼女だ。
「……おはよう」
眉間を押さえながら起きあがる。
そうか、これは夢じゃないんだな。
「どうぞ」
頭を抱えてる間にキッチンに行ったらしい。音もなく差し出された水を受け取って、呷る。うーむ、良妻賢母の鑑みたいな子だ。
「今何時だ?」
「午後六時を回ったところです」
ちょっと薄暗いなと思ったけど、そうか。六時間近く落ちてたのか。
そういえば、朝から何も食べてないな。
「永久、お腹空いてないか? なんだったら食事にでも」
「はい。勝手かと思いましたが、夕食をご用意させていただきました」
え? 食事を用意?
気がつけば、部屋の中に微かだが調味料の香りが漂っている。
味噌。醤油。酒。それに野菜や魚も。そうか、実家の夢を見たのはこれも要因か。
「わかった。もらうよ」
なんか、ペースが狂う。お世話されるのとか、あんまり慣れてない。実家にいたときに尻を蹴飛ばされてたからだろうな。
音を立てずに歩く永久の後ろをとぼとぼと歩く。そのまま、大して使ったこともないテーブルチェアに腰を下ろした。
目の前に次々と皿が並べられていく。鯛の煮付け。カボチャの煮物。きゅうりとわかめの酢の物。なめこの味噌汁。最後に五目ご飯。って、やりすぎじゃねーのかこれ。
それ以前に、冷蔵庫の中にこんなに食材はなかった。ということは買いに出たんだろうけど、外出にも帰宅にも気付かないほどのんきに寝てたのか、俺は。
表情を動かさないままそんなことを考えていると、箸と湯飲みが置かれて食事の準備が整った。
「…………いただきます」
「は、はい」
期待するような不安なような目の永久をとりあえず意識から外して、箸を持つ。茶碗を手に取り、五目ご飯をひとつまみ。口に運ぶ。
ぱく。ぽろっ。
口に入れた瞬間、思わず箸を落としてしまった。寝ていた頭が完全に目を覚ます。
「お、お口に合いませんでしたか!? 申し訳ありません! 作り直します!」
「…………いや、旨いよ。作り直す必要なんて、全然無い」
むしろ、旨すぎると言っていい。こっちが申し訳ないくらいだ。
香りだけである程度わかっていたことだが、口に入れるとその何倍も調和がとれた調味料と食材の風味が鼻の辺りまで抜け、雷に打たれたような衝撃をもたらしたのだ。
正直、そこらの店で食べる物より旨い。定食屋からちょっとした料亭までいろいろと食べ歩くハメになった俺にも、薄すぎず濃すぎずのこの味付けは一番舌に馴染む。ご飯の炊き上がりも絶妙だ。本当に、うちの炊飯器でこんなものができたのか?
「すごいな、永久」
「い、いいえ。わたしなんてまだまだです。姉様ならもっとずっとうまくできますから」
マジか。それもそれで恐ろしい。これよりすごいお姉さんの手並みとは一体。うちの姉様なんて、炊飯器のスイッチ入れるのが精一杯なのに。
「で、ですが、わたしのお料理がお口に合ったのならこれ以上の幸せはありませんっ。ありがとうございますっ」
永久はものすごい瞬発力を発揮して、ずさっ、と床に三つ指を突く。
食べてもらって、か? それならそれ以上に、「作ってもらってありがとう」だろう。
「あのさ、永久。そうやって頭を下げるの、やめよう」
「え?」
驚いた顔をしながら、永久は頭を上げた。口の中の五目ご飯を飲み込んで、俺も彼女の前に正座する。
「永久はさ。こうやって誰かのためにがんばれて、すごいことをやってるじゃないか。だから謙遜する必要もないし、もっと自信を持っていいよ」
手を伸ばして、頭を撫でる。さらさらの髪が指の間からこぼれて気持ちいい。
「――――――――ぁ」
頬を染めて、上目遣いにこっちを見上げる永久。
なんだろう。昔、こんなことがあったような気がする。
こうして、泣いている女の子の頭を撫でたことがあったような。
その子が泣きやむまで、ずっと。
「久朗、様」
うーん、ダメだ。既視感以上のことは思い出せない。そもそも俺、女の子とそんな接点ないし。
「くろうさま…………」
「は?」
気付いたら永久がとろとろのふにゃふにゃになっていた。
「うわ、すまん永久!」
「い、いいえ。うれしかったです。ありがとうございます」
ほんわかした笑顔でそう言われると悪い気はしないっていうか、むしろこっちも嬉しくなる。
それ以上に、向けられた気持ちに心拍数が跳ね上がって、やばい。
心臓が。炸裂する。
「そうだ、食事! 食事の続きしような! せっかくのごちそうだし、冷めるともったいない」
「…………はい」
心ここにあらずといった表情で、永久はふらふらと歩いて席に収まった。箸を持とうとして、俺の手に何も持たれていないのを見て、手を機敏に動かす。
なにか。変な予感が。する。
「え、えと、久朗様。あーん」
やっぱりですか。
…………死ぬ。このイベント連続は死ぬ。
こいつが先輩の言ってた恥死量か。
「…………久朗様」
だー、だからそんな寂しそうな目でこっちを見るなっ! 断りきれないだろ! しょんぼりするなよ!
「あーん…………」
観念して口をあける。放り込まれるどころか舌に乗せられるようにした鯛の煮つけを、もぐもぐと咀嚼する。
「ウマイヨ」
嘘だ。
この状況で味なんてわかるものか。恥ずかしさと罪悪感で胃が痛いだけだ。
味を知るにはたった一つ。さっさと箸を手に取れ、神無久朗。一刻も早く自力で飯を食うんだ。
ぱしっ。がっ。ぽいっ。もぐもぐ。
うん。これならちゃんと味はわかる。ちょっと温度は下がってるけど、実に旨い。味の強いご飯や煮付けに対して、カボチャはちょっと醤油を薄めにして、酢の物も酢が軽く飛ばしてある辺り、実にバランスが取れている。
「ご飯のあとはお風呂にどうぞ。お湯は沸かしてありますから」
ぶ、ごふっ――――――――!
食べた物を片っ端から噴きそうになった。
なんだこれ。完封コールドゲームか。
「…………ありがとうございます」
思わず敬語になる。
何かおかしな力が働いているとしか思えないこの状況は、誰でも疑問を抱くだろう。
/
体温よりちょっと高めの湯船に沈む。首まで浸かって、いっそのこと頭まで潜る。
そういえば、お湯張ったのなんて久しぶりだ。夕飯のことといい、それだけ生活が雑になってたってことなのかな。
水の浮力は偉大で、体中の緊張がほぐれていく。ともすればまた寝そうになり、
「――――――――!?」
からから、と脱衣所のスライドドアが開く音がして、思わず湯船の中で跳ね上がった。
また。
非常に。
嫌な。
予感が。
するんですけど。
「…………あ、あの、久朗様。お背中をお流しします」
ぎゃああああああやめろおおおおおおおおお!!! そこまで望んでねえええええええ!!!
いったいどんな速度でイベント消化してるんだ! まだ始まってもいないのに!
「だ、だだだ大丈夫だそこまでやってもらわなくてもいいですって!」
キョドってしまう。俺だって健全な高校生なんだよ聖人君子じゃないんだ耐えられることと耐えられないことくらいあるこれは無理だ!
お、オフロで女の子と二人きりとか! 相手が先輩でも無理です!
「で、ですが、久朗様のお世話をする以上それは避けては通れない道だと姉様が!」
安心した。テンパってるのは永久も同じみたいだ。
って、マジでどんな人なんだよ永久の姉様。
「と、とにかく、お互いそれはハードルが高いだろ。無理しなくていいし、その」
その、なんだ。どうやって言いくるめればいいんだ。
いやまあ、半日前にここで水垢離を見たとかいう話はできないよな。
「た、確かにハードルは高いです。でも、姉様の言うとおりいつかは通る道です。それを明日や明後日に延ばすのは問題がありますっ!」
そ、そこは「明日やれることは明日やる」論法で行ってほしかったなー、僕は。
「と、ともかく今日はパス! 精神的に無理!」
「…………は、はい」
磨りガラス越しにも、しゅんとした気配が伝わってくる。
なにこれ? 俺が悪いの?
からからと再び脱衣所のドアが開いて閉じる音を確認して、湯船から飛び出す。
「うがああああああ!」
とあくまで小声で叫び、頭を痛めつけるように洗う。頭から湯を被って泡を流して、スポンジで身体をガシガシこする。現実から逃げてるだけで、決して他意はない。
胃に穴が開いて髪の毛抜けないかな、これ。いろんな理由と原因で。
/
フラフラになりながら風呂から出て、次を永久が使って、あとはやることもないから寝るだけ――――となったところで本日最後の関門だ。
布団とベッドを横に、俺たちはまた膝を付き合わせている。正座で。
いやこう、なにか一緒の布団に入る前の儀式とかそんな色気のある話じゃなくて、
「だから、俺が布団で寝るから永久はベッドを使ってくれって」
「できません。この家の家主は久朗様です。わたしが布団で寝るのが道理です」
「道理を言うなら、お客のそれも女の子を床で寝かせるのこそ道理に反するだろ」
「いいえ。久朗様に思い出していただけるまで、わたしはこの家に間借りしているのと変わりありません。ですから、わたしが布団で寝ます」
そんな、どっちがどっちで寝るかというお話だ。ってか、それは甲斐甲斐しい通り越して頑固って言うんだぞ永久。
これ、どっちかが折れるまで平行線だな。って、え、なんか永久、恥ずかしそうにしてない?
「それでは、その。久朗様がお嫌でなければ――――」
ということで、答えは出た。うん。折衷案というのは、まさにこういうもののことを言うんだろうな。
しかし、俺は言いたい。声を大にして言いたい。これは絶対、俺の望む結果じゃないですぞ。
どうしてこうなった。
なにがいけなかった。
俺は永久にベッドを使ってもらって、布団で寝るはずだったんだよ。だって、それがお客様に対するマナーだろうに。郷に入ったら郷に従えとも言うし、永久だってわかってくれると思ったんだ。夜中にこっそり抜け出す算段だってついてたんだ。
なのに、気がついたら二人でベッドを使っていた。二段ベッドとかキングサイズとかそんなもんじゃなくて、もっとおそろしいシングルサイズのベッドなんだぜ。さらに相手の着物は超うっすいの。汗かいたら全部透けそうなの。汗かかなくてもボディラインが全部まるわかりなの。しかも壁に付けられたベッドの壁際に追い込まれてるの。落ちるといけないって話だけどどう考えても逃げ場がない方に追い込まれたの。掛け布団も一つなの。いつの間にか一緒の布団に入る前の儀式になってんじゃねーか!
『カンちゃん裏山屋上なにそのエロゲもげ滅べ』
まずい。要子先輩の声で幻聴まで聞こえてきた。
いやいや。俺まだ十八禁ゲームプレイできる年齢じゃないんだよ。補導されるんだよ。先輩も補導される年齢と少女誘拐とか報道されそうな外見だけど。俺はまだ清い身でいたいです。
くそっ。その先輩とこういう状況なら、俺をベッドから蹴落とすための罠だと割り切れるのに。永久は絶対そんなことしないだろうなあ…………はっはっは。
かくなる上は、早々に眠っている永久にこのままベッドを使わせて、俺は当初の予定通りリビングに退避する。そう、これは作戦上不可欠な戦略的撤退。断じて敵前逃亡ではない。いやむしろ銃殺してくれ! 誰か! 衛生兵!
ずりずりと。違和感を抱かせないように、起こさないように、永久から離れていく。で、あとは足の方に滑っていけばベッドから下りられる――――というところで、
「……………………ないで」
きゅ、と袖を掴まれた。
きゅ、というか、結構がっちり。
「……………………いかないで、くろうくん」
泣きそうな顔と声でそんなことを言う彼女を放り出して、どこかへ行くことができるだろうか。
少なくとも、俺はこの子の眠りくらい、守、れ、
(るわけねーだろ! ガキじゃねーんだいろんな意味で!)
身悶えそうになるところをなんとか押しとどめる。ここで起こしては元も子もない。たとえトイレの中だって着いてきそうだ。
「…………く、っ」
仕方なく、元の位置に戻る。俺弱っ!
身動きがとれない。しかも、掴まれているのは右手で左袖。向かい合ったときにちょうど上になる部分であり、身体の向きを変えると手を下に巻き込むか抱きつかれることになるから寝返りも打てず高天原永久さんの着ている着物の胸元の合わせが割れて何か谷間のような物が見えていたりして――――そろそろ鼻血噴くか悶え死にそうなんですけど!
「……………………くろうくん」
故意なのか? まさか寝てるように見えて起きてるのか!? だから十八禁展開は無理だぞ! 倫理的にも!
つーか思い出せるわけねーだろ! ここ数年に会ったとかならまだしも、それで思い出せないなら二桁単位で前だろ! こんだけ成長してたら面影なんてねーわ!
(……………………でも)
でも、だ。
確かに俺は思い出せない。それでも、この子はずっと俺のことを覚えていて、たった一人で俺の所へ来てくれている。しかも、お嫁さんになりたいとか臆面もなく言って、それらしいことを全部してくれている。そのくらいのことを俺はしたんだろう。
(どうして思い出せないんだろう?)
申し訳ない以上にもどかしい。記憶喪失になった覚えはない。小学校に通っていたころのことなら、それなりに思い出せる。じゃあ、出会ったのはそれより前なんだろうか。
タカノアマツハラ。トワ。黒い髪の少女。巫女服。くろうくん。
拾えるだけのキーワードを拾いながら。俺の意識は、少しずつ、深く、沈んで、いっ、た――――――――
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「…………………………………………沈むか」
そうならよかったんだけどな……………………残念でした!
どう考えたって、この状況で寝られるわけないだろ。昼寝だってしてるんだし。
意識が沈むのと鼻血が出て失血死するのと頭に血が上って爆発するのと朝が来るの、どれが早いかなあははー。