進 展 (1)
「あのままじゃ悪霊になるかもしれない」
「なんのためにあんたが傍にいるのよ」
慌ててシロが前足で示す方角に目を向けて、信号機の上に座っている先輩を発見した。
信号のライトが、ぶらぶらと揺らしている足に透けて見えている。
俯いているけど、特に黒いもやもやは見えない。
「挨拶してくるわ」
ぴょんとジャンプしながら転移して、先輩のすぐ横に移動した。
恐怖心はなくても、高いところにいると何かに掴まりたくなるので、信号機が取り付けられている電信柱にしがみついた。
「いや……ひとり……もう……ひとり……さびし……」
ああ……確かに病みかけている。
最近は私やアッシュが一緒にいたから、ひさしぶりにシロだけしかいなくて寂しかったのかな。
いまだにアッシュの傍には近寄らないけど、挨拶すれば会釈を返すくらいには慣れていたのよね。
「先輩、おはようございます」
「……あ」
顔をあげた時は無表情だった先輩が、私に気付いて、ぎこちないけど微笑んでくれたのが最高に可愛かった。生身の男だったら恋に落ちてるね。
「……梨沙」
「何してるんですか?」
「帰って……きた」
「当たり前でしょう。朝になったら戻るって言ったじゃないですか」
「……うん」
「日が昇ってから少し時間が経っちゃったから、心配になっちゃったんですかね」
「帰って……嬉しい」
うわ。尊い。
なにこの可愛い生き物。
いや、生きてはいないけど。
「家に帰ったんです。家族にちゃんと別れを言いたくて」
「……家?」
「はい。実家が隣駅にあるんです。先輩の家はこの近くですよね。行ってみます?」
「……」
「家族に」
「いい」
先輩が、こんなに強い声を出すのは初めてだ。
私が目を見開いて黙ったら、先輩のほうが驚いた顔で手で口を覆った。
「……ごめん」
「私こそ、余計なことを言ってすみません」
「……いいの……」
家族と仲が悪かった感じではないのよ。寂しそうだし。
でも家族のことはデリケートな問題だから、触れない方がいいのかもしれない。
「夕べは変わりなかったですか?」
「……うん」
「また少し場所を変えましょうか」
「あっち……煙突ある」
煙突?
風呂屋の屋根に上るのかな。
燦々と日が当たっている風呂屋の屋根に並んで座っている幽霊って……。
もう少しそれらしくしろと文句を言われそうな気がする。
「ダメ?」
「行きましょう! 屋根の上の寝転がってみたいと思っていました!」
先輩が可愛いからよし。
幽霊だから日焼けしないし、シミも心配ないし、何も問題ないわ。
「……こっち」
「はーい」
いつの間にか先輩との間に、友情みたいな繋がりが出来たような気はする。
独りぼっちの幽霊同士、一緒にいる相手が他にいないって言われればそれまでだけどさ、生きている時に出会っていても、仲良くなれたと思うのよ。
たぶん今より明るくてはきはきしていただろうけど、根本は変わっていないと思うんだ。
魂って、その人の一番の本質の部分なんだから。
「いつまで続ける気だ」
そうして先輩とふたりで犯人を捜す日々が、もう一か月近く続いた。
今日も先輩は信号機の上からぼんやりと地上を見下ろしている。
もうすぐ日の沈む時間で、信号が通行人のまばらな道路に長い影を落としていても、先輩の影はもちろんない。
それを見ているのかどうかはわからないけど、夕日が眩しいせいか輪郭がはっきりしないのとうつろな表情のせいで、とても危うい感じがする。
「期限は決めていないわ」
一週間ごとくらいに場所を少し変えて、今は繁華街の駅とは反対側にいる。事務所のビルと飲み屋のはいった雑居ビルが混ざっているあたりだ。
駅前に近い方に比べて人通りは少ないかな。
背広姿の会社員より私服姿の人が多いし、近くに住んでいるのか、徒歩でやってきて店の横の路地に消えていく人も見かける。
私は先輩のいる信号機の真横にある古い雑居ビルの、錆びついた非常階段にいた。
高所恐怖症だったから、階段の隙間から下が見える階段は大嫌いだったけど、今はもう関係ないからね。
最近はいつもの服に紺色のコートを羽織っているのよ。季節感は大事。
「自分のことを決められなくて、彼女のせいにしているんじゃないだろうな」
「嫌なことを言うわね」
「他人のことばかり考えて、自分のことは話題にしない。もう家族とも会って心残りはないだろう」
「あるわよ。先輩が心配よ」
「……彼女はもう、犯人を覚えていないかもしれない。そもそも、ちゃんと犯人を捜しているかも怪しい。おまえと会話していない時は、ぼんやりしてしまっているじゃないか」
「……」
踊り場と踊り場の中間くらいに腰を降ろしている私の横で、アッシュは立ったまま壁に寄りかかっている。
上から降ってくる言葉は容赦なくて、私はずっと先輩に視線を向けたままだ。
「このままだと、もうすぐ彼女は消える」
「……だったら、消えるまで見届けるわ」
「なんでそんなわざわざ傷つくようなことをする必要があるんだ」
「彼女が気になるの。好きなの。友達なの」
半ば意地になって言い募りながらアッシュを見上げた。
「他にもまだ理由がいるの?」
「……彼女がこのまま何も出来ずに消えた時、おまえは悪霊になるかもしれない」
「そしたら私を地獄に連れていけばいいんじゃないの?」
「ふざけるなよ」
膝に手をついて身を屈め、アッシュは私の顔を覗き込んだ。
「おまえそれで家族に顔向け出来るのか」
「……ごめん。嫌な言い方をした」
アッシュの瞳が赤味を増していた。
今のは私が悪い。彼は心配してくれているのに。
「でも、今はまだ彼女をひとりに出来ないよ」
「シロがいる」
「あなたに迷惑をかけているのは悪いと思っている。私が成仏しないと、あなたの仕事は終わらないもんね。でも……」
「ちっ。勝手にしろ」
言い捨てると同時にアッシュは消えてしまった。
舌打ちしましたよ、あの死神。
いくらなんでもひどくない?
「おまえ、ひでえな」
いつから聞いていたのか上の階段からシロが顔を覗かせ、私の傍に音もなく飛び降りた。
「私がひどいの?」
「おまえの言い方だと、仕事だからあいつが心配しているみたいじゃないか」
「違うの?」
「まあ……それもあるんだろうけどさ」
ぺろぺろと毛繕いをしながら答えるせいで、言葉が聞き取りづらい。
死神の姿に戻っても、猫の時のくせで手を舐めちゃったりしないのかな。
「普段はひとりの相手に、こんなに時間を割いたりはしないんだ。死神は忙しいんだぞ?」
「でしょうね」
「おまえは死んでから徳を積むなんて変人だから、よく注意しているように言われているんだろう。それにおもしろいしな」
「あなただって、先輩の傍にずっといるじゃない」
「ずっとはいない。他にも仕事をしている。ただ、気になるじゃないか。死に方が気の毒だ」
死神がそんなことを言うのは意外だわ。
死は全ての人に平等だとでも言うかと思っていた。
「一緒にいる時間が長くなれば情も湧く。おまえみたいな幽霊は珍しいから、印象に残ると思うよ。それが悪霊になったり消えたりしたら、死神だって傷つくし後悔するさ」
「だから悪霊にならないわよ。アッシュのご尊顔を拝めれば大丈夫」
「いつもそばにいるとは限らないだろう。他の仕事もあるんだから」
だから成仏しろって?
心残りありまくりで無理よ。
先輩のことも気になるし、アッシュとももう少し一緒にいたい。
彼にとっては迷惑だとわかっているのよ。向こうは仕事なんだから。
でも今まで出会った中で、一番素敵な人なんだもん。
だけど傍にいたいなんて言ったら、それこそ迷惑でしょ。
幽霊は恋愛感情なんて持たないはずなんだから、これは推しへの萌えなのよ。
「シロは先輩の心配をしなさいよ。もうすぐ消えそうだってアッシュが言っていたわよ」
「そんなの最初から覚悟が出来ている」
「ふーん。そん……」
不意に強い霊力を感じ私がはっと顔をあげるのと、シロが毛を逆立てて背を丸めたのが同時だった。
「なに?」
「幸奈!」
急いで踊場まで階段を駆け下り、手摺を掴んで身を乗り出す。
信号機の上に立ちあがった先輩から、黒い靄が立ち上っていた。