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最初は、おこぼれにあずかれるかもしれない、
そういう打算から『狂人』に近づいた。
鈴木は、女が好きだ。
それはほとんど、性欲の対象、という意味に於いてだったが、
とにかく、女が好きだった。
朝、ベッドで目を覚ました時と、夜、ベッドの中で眠りに落ちるまでは、
いつも、どうしようもない情欲にかられる。
枕を顔に見立てキスをし、ベッドを体だと思い、腰を押しつけている。
「チューしたい」
「セックスしたい」
そう小さく声を出しながら、ベッドで身悶えるのが、
朝と夜のまどろんでいる間の日課だった。
だが、鈴木は、女子と面と向かって話せない。
自分のことなど、誰も見ていない。
俺を、好きになる人はいない。
そう自分に、強く言い聞かせているので、面と向かって話せない。
それは、見せかけの謙虚さであり、本当に自信が無いのとは違った。
むしろ、プライドは高い。
自分が傷つかないために、自分を守るために、そう言い聞かせている。
心の奥では、モテるはずだと思っていた。
鈴木は、まさしく、過剰な自意識を抱えていた。
卒業した後の、未来の自分に、禁じている事がある。
学生時代、付き合いたかったなあ、などと絶対に思うな。
高校の時、もっと青春したかったなあ、などと決して口に出すな。
お前は、声をかけることさえ、出来ない人間だったんだからな。
いいか、絶対無理だったんだから、それだけは忘れるな。
それを、心に、刻みこませていた。
鈴木が、そこまでこじらせるきっかけになった出来事があった。
プライドを傷つけられ、殻に閉じこもる原因となった出来事があった。
それは、高校1年の時だ。
中学の時に、精通を経験し、性欲を持て余しはじめた、鈴木が、
高校に入学し、まだそれほど経っていない頃のことだった。
中学時代、人と話さず本ばかり読んでいた鈴木は、
高校に入ったら変わろうと思っていた。
いわゆる、高校デビューを、目論んでいた。
仲良くなるために、まず、クラス全員の名前を覚えた。
さらに、誕生日まで覚えた。
また、誰かが間違えたら、無理矢理ツッコんだりして、
積極的に、人と絡んだ。
顔を赤くしながら、一軍とおぼしきグループに、
なんとか、溶け込もうとしていた。
その甲斐あってか、ある女子と、ラインを交換する事ができた。
連絡する用事がなかった鈴木は、一計を案じた。
男友達と間違えたふりをして、ラインを送るのだ。
別に、その女子が特別好きだったわけではない。
見た目も、好みではない。
誰でもいいから、女子とラインをしてみたかった。
そして、その女子と一番仲が良さそうだった、
可愛い子と近づきたいという計算もあった。
作戦は上手くいき、ラインのやり取りは続いた。
ラインの中だけで、だったが、仲良くなった。
好みではなかったその女子が、鈴木は少し、好きになっていた。
そんな時、一軍の男友達から、
その女子が、陰で悪口を言っていると聞いた。
ラインがめっちゃきて、ウザいんだけど。マジ、キモい。
そう言っていると、聞いた。
鈴木は、頭が真っ白になった。
その友達が、嘘をついているのではないかと疑った。
嘘だと、思いたかった。
しかし、そんな人間ではなかったし、
なにより、嘘をつくメリットが、その友達にはない。
その友達は、もっと可愛い人と、付き合っているのだ。
恥ずかしさは、すぐに怒りに変わった。
別にお前が好きなわけじゃねえ。
お前が仲良さそうにしている、もっと可愛い女子と繋がりたかっただけだ。
勘違いすんな、ブス。
好きになっていた自分を騙しながら、そう思った。
もちろん、自分の浅はかな考えのせいで、自分が撒いた種のせいで、
こんなことになった事は、わかっている。
自業自得だ。
だが、そんな自責の念なんかよりも、鈴木が強く思ったのは、
その女子に対する、深い憤りだった。
嗤いものにされた。
八つ裂きに、したい。
首を、捻じ切ってやりたい。
だが、復讐はしなかった。できなかった、と言っていい。
そんな度胸は、鈴木にはなかった。
直接言う勇気も、陰口を叩き返す根性もない。
誰かに相談するのも、恥ずかしくて出来なかった。
悩んでいるのを、知られたくなかった。
だから、気持ちを押し込めた。
吐き出す場所を失った思いは、その形を、必ず歪ませる。
特定の女子に対するものであった怒りは、
全ての女子に対する殺意へと、変わった。
死ねばいい。
女なんて、みんな、死ねばいい。
それでも、鈴木は、どうしようもないほど、セックスがしたかった。
女子に対する憎悪は、より深く、性欲と結びつき、
傷つけられた自尊心は、より醜く、肥大していった。
鈴木は、女子に近づきたいと、死ぬほど願っていたが、
それは叶わない事だと、それは夢物語だと、思い込むようにした。
だから、女子を死ぬほど恨んでいた。憎んでいた。
鈴木は、女子に対して、妄念とも言える、屈折した思いを抱いていたが、
その気持ちに蓋をし、傷は塞がった事にして、時を過ごしていた。
そして、高校3年になった。
初めて、『狂人』と、同じクラスになった。
有名だったから、話した事はなかったが、名前は知っている。
超がつくほどの、イケメン。
大学生もいるバンドの、ボーカルをやっていて、歌がとびきり上手い。
バレンタインでは、チョコが下駄箱から溢れている。
そして、奇行が多い。
授業中に、ふらっといなくなる。
なんでもないときに、涙を流す。
友達と話している最中に、急に怒りだし、机を投げる。
全校集会で、突然笑い出す。
そのくせ、頭はよく、テストは常に上位だった。
ついたあだ名が、『麗しの狂人』。
『狂人』の周りには、常に女子がいた。
見ないようにしても、同じクラスであれば、嫌でも目に入る。
清楚系、ギャル系、可愛い系。
色んなジャンルの美人が、いつも集まって来ていた。
そして、楽しそうに話をしている。
もしかしたら。
鈴木に、ある考えが浮かんだ。
『狂人』と仲良くなれば、ヤレるんじゃないか。
腰巾着のようにおべっかを使えば、おこぼれにあずかれるんじゃないか。
無理だ。また失敗するぞ。
そう思っても、
一度浮かんだその考えは、鈴木の頭から、こびりついて離れない。
ヤレるかもしれない。そう思ったら、
鈴木のものは、哀しいほど、怒張していた。
とりあえず、登校したら、挨拶をするようにした。
最初は、無視された。
机に突っ伏したままだ。
腹が立ったが、挨拶を続けた。
何日目かで、机から顔を上げるようになった。
それから、口を動かすようになり、
ついに、声が返ってくるようになった。
そこから会話をするようになるまで、そんなに時間はかからなかった。
鈴木だけでなく、他の男子とも話しているのを、見かけるようにもなった。
ある日のことだ。
休み時間に、男4人で大富豪をしていた。
女性の好みについての話になった。
「なにカップが好きなの?」
友達の1人が、『狂人』に尋ねた。
「うーん、あんまり大きいと、肩が凝りそうだからなあ」
そう言いながら、『狂人』は、自分の胸に手を当てた。
「いや、自分がどうなりたいかっていう話じゃないんだけど…
えっと、鈴木は?」
「童貞だから、わからん」
底が抜けたように、『狂人』が笑い出した。
それは、心がざわめくような笑い方で、少し怖かった。
手で机を叩きながら、笑い続けている。
鈴木は、少しイラッとして、皮肉混じりに聞いた。
「『狂人』さんは、どうなんですか?ご経験はお有りですか?」
「いらない」
『狂人』が、急に真顔になって、言った。
場が凍る。
「そんな探るような言葉はいらない。聞きたいならちゃんと聞けよ」
鈴木は、何も言えなくなった。
「わかった?」
小さく頷いた。
「わかったのか?」
「わかったよ」
はっきりと、声に出して答えた。
もう、さっきの質問が、できる雰囲気ではなかった。
休み時間の後の授業中、疑問と怒りが渦を巻いた。
なんであんなことで、切れんだよ。
他にも、あんな感じで話してるやつはいるのに。
なんで俺だけ。
それから何日か経った後、『狂人』から、バンドのチケットを貰った。
あまり気乗りはしなかった。
数日前に、理不尽に切れられたから、ということだけではなく、
鈴木は、音楽について、冷めたところがあるからだ。
学生が作るやつなんて、どうせ、色恋についての歌だろう。
世の中に、腐るほど流れている音楽も、
いい曲だと思って歌詞を聞くと、大概、恋愛のことを歌っている。
鈴木は、恋愛を歌った歌が、嫌いだ。
学生生活を描いたドラマも、嫌いだ。
学生時代の色恋沙汰など、
自分にとって、フィクション以外の何物でもない。
御伽噺でしかない。
だが、せっかく貰ったので、重い腰を上げ、行くことにした。
目当ての場所は、駅のすぐ近くにあった。
狭い階段を降りて、地下に行き、ドアを開ける。
そこは、小さいライブハウスだった。
すでに観客がたくさんいて、そのほとんどが女子だ。
鈴木は、後ろの方に陣取った。
演奏が始まった。
前奏が流れる。
なぜだか、熱くなった。
『狂人』が歌い出す。
鳥肌がたった。
上手い、などという、ものではない。
終わった後、しばらく呆然としていた。
まず、曲に痺れた。
血が沸き立つのに、切なさが残る。
歌詞も、衝撃だった。
生きることの哀しみ、苦しみ、辛さ。
人間の根源的な悩みが、歌われていた。
心が、震えた。
後で、曲も歌詞も、『狂人』が作ったと聞いて、
見る目が、変わった。
尊敬の念を抱くようになった。
鈴木は、音源をもらって、何度も聴いた。
もっと、『狂人』のことを知りたいと思った。
そして観察し、わかったことがある。
『狂人』は、時折、恐ろしいほど冷たい目で、女子を見ている。
周りの女子と、親しげに話しながらも、瞳の奥は、笑っていない。
生きることに膿んでいる。そういう風にさえ、見えることがあった。
もう一つ、わかったことがある。
『狂人』に集まる女子は、ヤツのことしか見ていない。
しかも、みんながみんな、自分が好かれていると思っている。
それなのに、『狂人』は、誰のことも見ていない。
その様子は、滑稽だった。
鈴木は、その様子を嗤いながらも、
なぜ、その目を少しでも自分に向けてくれないのか、と思った。
同じ男ではないか。
その嫉妬は、女子に対する憤りを、しっかりと思い出させた。
だが、鈴木は、『狂人』から離れることはしなかった。
『狂人』に、もっと興味が湧いたからだ。
ある日、『狂人』が、体育祭の騎馬戦に参加すると言い出した。
その頃には、鈴木は、クラスの連中から、
女子がやると喧嘩になるからということもあり、
『狂人』の面倒を見る人として、認識されていた。
なんで言い出したかは、聞かなかった。
聞いても、理解できないからだ。
ただ、言い出したら、聞かないことは知っている。
鈴木は、考えた。
考えに、考えた。
どうでもいいことほど、真剣に考えないと、怒ってくるからだ。
思いついたことを、iPadに書き、放課後『狂人』に説明した。
自分では、面白い策だと思ったが、自信はなかった。
だから、最後に付け加えた。
「…で以上だ。
でも、お前がこれをしたくないなら、別にいいけど」
殴られた。
メガネが飛んだ。
上から言葉が降ってくる。
「おべっか使うなって言っただろ!」
いってぇ。
なんだよ。こんだけやってんのに。
誰のためだと思ってんだ。
頭に血が上る。
鈴木は、自分がキレていることを自覚した。
だが、もうどうでもいい。
もうなんか、ぜんぶ、めんどくせえ。
鈴木は、立ち上がり、一歩一歩、近寄った。
拳を、顔面に叩きつける。
『狂人』が、床に転がった。
馬乗りになり、無言で、殴り続ける。
鈴木は、気の済むまで殴った後、ゆっくり立ち上がり、一瞥した。
そして、中指を立て、吐き捨てるように言った。
「死ね」
鈴木は、落ちたメガネを拾い、かけた。
『狂人』が、うずくまったまま、笑い出した。
「あはははは」
その場で、ぐるぐる回りながら、笑い転げている。
本当に、面白そうに笑っていた。
不思議と怖さは感じない。
わかった。
こいつは、ただの馬鹿だ。
『狂人』が、笑っている。
いや、白井が、笑っている。
綺麗な顔だ。
そりゃ、モテるはずだと、わけもなく思った。
それからは、白井が、白井に見えるようになった。
なにを考えているか、相変わらずわからない。
わからないまま、受け入れることが出来るようになった。
しょうがねえなあ。
頭をかきながら、それでも笑いながら。
一度、白井の抱えている闇の、深淵を覗いたことがある。
綺麗な顔の裏にあるものを、垣間見たことがある。
騎馬戦の打ち合わせをするため、白井の家に行った時の事だ。
まず、行ってもいいか聞いたら、白井は珍しく逡巡した。
少し経ってから、いいよと言ったのだ。
いつも返事に迷いがないから、鈴木は、変だなと思った。
貧乏だから呼びたくないのかな、などと思いながら、
鈴木は、教えてもらった住所に向かった。
大きい屋敷が、そこにはあった。
鈴木は、門に設置してある、チャイムを押した。
応答した女性に、名前を告げる。
門が開いた。
庭は広く、玄関まで少し歩いた。
絵に描いたような、立派な家だ。
玄関から、女性が出てきた。
鈴木は、一瞬で目を奪われた。
声が出ない。
妖艶とは、こういう人のことを言うのだろう。
鈴木は、ぼんやりとそう思った。
白井の部屋に入った。
綺麗に片付いていて、余計なものが何もない。
「お姉ちゃんいるんだ」
何の気なしに、鈴木は言った。
「…ママ」
白井が、暗い声で言った。
その声音に驚いて、すぐに白井を見た。
能面のような表情だ。瞳には、何も映っていない。
さっきの女性が、お盆の上に菓子を載せ、部屋にきた。
そのお盆を白井が受け取るとき、白井の手を、女性の手が包んだ。
女性は、息子をじっと見ている。
鈴木は、見てはいけないものを見た気がして、すぐに目を逸らした。
形容しがたい、妙な生々しさが、鈴木の心に残った。
空気が重かった。
鈴木は、長い間、一言も発する事ができなかった。
咳払いして、カバンからiPadを取り出し、用意してきた事だけ話した。
夜になったので、鈴木は帰ることにした。
玄関を出て、門に向かう。
鈴木は振り返り、会釈をした。
女は、息子の横に並んで立ち、その肩に手を置いている。
背後にある大きな家が、牢のように、月明かりで暗く浮かび上がっていた。
騎馬戦に向けて、鈴木は、一つ一つ、仕掛けを詰めていった。
女子と話すのは、問題なかった。
白井に群がる女子は、女であって、女ではない。
そう思っているわけではなかった。
もう、そうとしか、思えないのだ。
だから、どんな事でも言うことができた。
最近、気づいたら、にやけている。
本番が、楽しみで仕方がなかった。